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蘭方 らんぽう 医学 いがく (らんぽういがく)とは、主 おも に長崎 ながさき 出島 でじま のオランダ商館 しょうかん 医 い (医師 いし )などを介 かい して、江戸 えど 時代 じだい の日本 にっぽん に伝 つた えられた医学 いがく 。紅毛 こうもう 流 りゅう 医学 いがく (こうもうりゅういがく)や紅毛 こうもう 流 りゅう 外科 げか と呼 よ ばれる場合 ばあい もある。
1641年 ねん に誕生 たんじょう した出島 でじま オランダ商館 しょうかん には、歴代 れきだい 合 あ わせて63名 めい の医師 いし が駐在 ちゅうざい した。彼 かれ らは、商館 しょうかん 長 ちょう 以下 いか 、商館 しょうかん 員 いん の診察 しんさつ や治療 ちりょう に当 あ たった他 ほか 、長崎 ながさき 奉行 ぶぎょう の許可 きょか を得 え て、限定 げんてい 的 てき ながら日本人 にっぽんじん 患者 かんじゃ の診断 しんだん を行 おこな ったり、日本人 にっぽんじん 医師 いし との医学 いがく 的 てき 交流 こうりゅう を行 おこな ったりしていた。
外科 げか 的 てき 疾患 しっかん に対 たい する漢方 かんぽう 医学 いがく の治療 ちりょう 法 ほう と比較 ひかく して、蘭方 らんぽう 医学 いがく のそれの方 ほう が優 すぐ れていると評価 ひょうか されていた。当初 とうしょ は骨折 こっせつ や傷 きず の手当 てあ てを中心 ちゅうしん とした治療 ちりょう が多 おお かったが、17世紀 せいき 中頃 なかごろ から体液 たいえき 病理 びょうり 学 がく や数々 かずかず の薬方 やくほう が紹介 しょうかい され、写本 しゃほん 及 およ び版本 はんぽん として広 ひろ く普及 ふきゅう していた。
代表 だいひょう 的 てき な西洋 せいよう 人 じん 医師 いし としては「カスパル流 りゅう 外科 げか 」の元祖 がんそ カスパル・シャムベルゲル (Caspar Schamberger、1623-1704年 ねん )、ヘルマヌス・カツ (Herman Katz) 、ダニエル・ブッシュ (Daniel Busch)、エンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer、1651-1716)、カール・ペーテル・ツュンベリー (Carl Peter Thunberg、1743-1828)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz von Siebold、1796-1866)や幕末 ばくまつ 期 き に日本 にっぽん での種痘 しゅとう 成功 せいこう に一役 ひとやく 買 か ったオットー・モーニッケ (Otto Mohnike、1814-1887)が挙 あ げられる。
オランダ商館 しょうかん 医 い と日本人 にっぽんじん 医師 いし との交流 こうりゅう の場 ば は、出島 でじま 、もしくは商館 しょうかん 長 ちょう に随行 ずいこう して江戸 えど を訪 おとず れた際 さい の蘭 らん 人 じん 宿舎 しゅくしゃ (長崎屋 ながさきや )に限定 げんてい されたが、それでも彼 かれ らの医学 いがく 的 てき 知識 ちしき は、オランダ語 ご の解剖 かいぼう 学 がく や外科 げか 学 がく の書物 しょもつ とともに、日本 にっぽん の医学 いがく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
まず、オランダ商館 しょうかん 医 い と日本人 にっぽんじん 医師 いし との交流 こうりゅう の仲介 ちゅうかい にあたった、オランダ通詞 つうじ を祖 そ とするオランダ流 りゅう 外科 げか が成立 せいりつ した。西 にし 玄 げん 甫 はじめ (1636-1684)を祖 そ とする西 にし 流 りゅう 、楢 なら 林 りん 鎮山 を祖 そ とする「楢 なら 林 りん 流 りゅう 外科 げか 」と吉雄 よしお 耕 こう 牛 うし を祖 そ とする「吉雄 よしお 流 りゅう 外科 げか 」がそれにあたる。また、前述 ぜんじゅつ の「カスパル流 りゅう 外科 げか 」を実際 じっさい に流派 りゅうは として確立 かくりつ したとされる猪股 いのまた 伝兵衛 でんべえ もカスパルの通詞 つうじ であった。続 つづ いて、杉田 すぎた 玄白 げんぱく らによる『解体 かいたい 新書 しんしょ 』の翻訳 ほんやく を機 き に、蘭方 らんぽう 医学 いがく への関心 かんしん が急速 きゅうそく に高 たか まった。また、宇田川 うだがわ 玄随 げんずい がヨハネス・ダ・ゴルテル の医学 いがく 書 しょ を訳 やく した『内科 ないか 選 せん 要 よう 』(『西 にし 説 せつ 内科 ないか 撰 せん 要 よう 』)の刊行 かんこう も、従来 じゅうらい 外科 げか のみに留 とど まっていた蘭方 らんぽう 医学 いがく への関心 かんしん を、内科 ないか などの他 た 分野 ぶんや にも拡大 かくだい させたという点 てん で『解体 かいたい 新書 しんしょ 』に匹敵 ひってき する影響 えいきょう を与 あた えた。かくして蘭方 らんぽう 医学 いがく は一大 いちだい 流派 りゅうは となるが、日本 にっぽん の医学 いがく 界 かい 全般 ぜんぱん を見 み れば、まだまだ漢方 かんぽう 医学 いがく の方 ほう が圧倒的 あっとうてき であった。江戸 えど 市 し 中 ちゅう では、漢方 かんぽう 医 い が2万 まん 人 にん いた中 なか 、蘭方 らんぽう 医 い は4分 ぶん の1の5千 せん 人 にん である[1] 。また、外科 げか 手術 しゅじゅつ をはじめとする臨床 りんしょう 医学 いがく に関 かん する知識 ちしき の教育 きょういく は、シーボルトの来日 らいにち によって初 はじ めて行 おこな われている。
開国 かいこく 後 ご の安政 あんせい 4年 ねん (1857年 ねん )、江戸 えど 幕府 ばくふ は長崎 ながさき 海軍 かいぐん 伝習 でんしゅう 所 しょ の医学 いがく 教師 きょうし としてヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト を招聘 しょうへい した。これ以降 いこう 、日本 にっぽん でも自然 しぜん 科学 かがく を土台 どだい にする体系 たいけい 的 てき な近代 きんだい 医学 いがく 教育 きょういく が行 おこな われ、4年 ねん 後 ご には蘭方 らんぽう 専 せん 門 もん の医療 いりょう 機関 きかん である長崎 ながさき 養生 ようじょう 所 しょ 創設 そうせつ に至 いた る。こうして、蘭方 らんぽう 医学 いがく は近代 きんだい 日本 にっぽん における西洋 せいよう 医学 いがく 導入 どうにゅう の先鞭 せんべん を果 は たすこととなった。