蘭方らんぽう医学いがく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
蘭方らんぽうから転送てんそう

蘭方らんぽう医学いがく(らんぽういがく)とは、おも長崎ながさき出島でじまオランダ商館しょうかん医師いし)などをかいして、江戸えど時代じだい日本にっぽんつたえられた医学いがく紅毛こうもうりゅう医学いがく(こうもうりゅういがく)や紅毛こうもうりゅう外科げかばれる場合ばあいもある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1641ねん誕生たんじょうした出島でじまオランダ商館しょうかんには、歴代れきだいわせて63めい医師いし駐在ちゅうざいした。かれらは、商館しょうかんちょう以下いか商館しょうかんいん診察しんさつ治療ちりょうたったほか長崎ながさき奉行ぶぎょう許可きょかて、限定げんていてきながら日本人にっぽんじん患者かんじゃ診断しんだんおこなったり、日本人にっぽんじん医師いしとの医学いがくてき交流こうりゅうおこなったりしていた。

外科げかてき疾患しっかんたいする漢方かんぽう医学いがく治療ちりょうほう比較ひかくして、蘭方らんぽう医学いがくのそれのほうすぐれていると評価ひょうかされていた。当初とうしょ骨折こっせつきず手当てあてを中心ちゅうしんとした治療ちりょうおおかったが、17世紀せいき中頃なかごろから体液たいえき病理びょうりがく数々かずかず薬方やくほう紹介しょうかいされ、写本しゃほんおよ版本はんぽんとしてひろ普及ふきゅうしていた。

代表だいひょうてき西洋せいようじん医師いしとしては「カスパルりゅう外科げか」の元祖がんそカスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger、1623-1704ねん)、ヘルマヌス・カツ (Herman Katz) 、ダニエル・ブッシュ(Daniel Busch)、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer、1651-1716)、カール・ペーテル・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg、1743-1828)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz von Siebold、1796-1866)や幕末ばくまつ日本にっぽんでの種痘しゅとう成功せいこう一役ひとやくったオットー・モーニッケ (Otto Mohnike、1814-1887)がげられる。

オランダ商館しょうかん日本人にっぽんじん医師いしとの交流こうりゅうは、出島でじま、もしくは商館しょうかんちょう随行ずいこうして江戸えどおとずれたさいらんじん宿舎しゅくしゃ長崎屋ながさきや)に限定げんていされたが、それでもかれらの医学いがくてき知識ちしきは、オランダ解剖かいぼうがく外科げかがく書物しょもつとともに、日本にっぽん医学いがくおおきな影響えいきょうあたえた。

まず、オランダ商館しょうかん日本人にっぽんじん医師いしとの交流こうりゅう仲介ちゅうかいにあたった、オランダ通詞つうじとするオランダりゅう外科げか成立せいりつした。西にしげんはじめ(1636-1684)をとする西にしりゅうならりん鎮山とする「ならりんりゅう外科げか」と吉雄よしおこううしとする「吉雄よしおりゅう外科げか」がそれにあたる。また、前述ぜんじゅつの「カスパルりゅう外科げか」を実際じっさい流派りゅうはとして確立かくりつしたとされる猪股いのまた伝兵衛でんべえもカスパルの通詞つうじであった。つづいて、杉田すぎた玄白げんぱくらによる『解体かいたい新書しんしょ』の翻訳ほんやくに、蘭方らんぽう医学いがくへの関心かんしん急速きゅうそくたかまった。また、宇田川うだがわ玄随げんずいヨハネス・ダ・ゴルテル医学いがくしょやくした『内科ないかせんよう』(『西にしせつ内科ないかせんよう』)の刊行かんこうも、従来じゅうらい外科げかのみにとどまっていた蘭方らんぽう医学いがくへの関心かんしんを、内科ないかなどの分野ぶんやにも拡大かくだいさせたというてんで『解体かいたい新書しんしょ』に匹敵ひってきする影響えいきょうあたえた。かくして蘭方らんぽう医学いがく一大いちだい流派りゅうはとなるが、日本にっぽん医学いがくかい全般ぜんぱんれば、まだまだ漢方かんぽう医学いがくほう圧倒的あっとうてきであった。江戸えどちゅうでは、漢方かんぽうが2まんにんいたなか蘭方らんぽうは4ぶんの1の5せんにんである[1]。また、外科げか手術しゅじゅつをはじめとする臨床りんしょう医学いがくかんする知識ちしき教育きょういくは、シーボルトの来日らいにちによってはじめておこなわれている。

開国かいこく安政あんせい4ねん1857ねん)、江戸えど幕府ばくふ長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ医学いがく教師きょうしとしてヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト招聘しょうへいした。これ以降いこう日本にっぽんでも自然しぜん科学かがく土台どだいにする体系たいけいてき近代きんだい医学いがく教育きょういくおこなわれ、4ねんには蘭方らんぽうせんもん医療いりょう機関きかんである長崎ながさき養生ようじょうしょ創設そうせついたる。こうして、蘭方らんぽう医学いがく近代きんだい日本にっぽんにおける西洋せいよう医学いがく導入どうにゅう先鞭せんべんたすこととなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 水戸みとはかる江戸えどだい誤解ごかいいろどりしゃ 2016ねん p.109.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大島おおしまらん三郎さぶろう「オランダ医学いがく」/「オランダりゅう外科げか」(『国史こくしだい辞典じてん 2』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1980ねんISBN 978-4-642-00502-9
  • 酒井さかいシヅ蘭方らんぽう」(『科学かがく技術ぎじゅつ事典じてん』(弘文こうぶんどう、1983ねんISBN 978-4-335-75003-8
  • 大島おおしまらん三郎さぶろう蘭方らんぽう」(にちらん学会がっかい へん洋学ようがく事典じてん』(雄松おまつどう出版しゅっぱん、1984ねんISBN 978-4-841-90002-6
  • ヴォルフガング・ミヒェル 「カスパル・シャムベルゲルとカスパルりゅう外科げか(I)(II)」(『日本にっぽん史学しがく雑誌ざっしだい42かんだい3ごうおよだい4ごう、1996ねん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]