楊載 (もと)

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(よう さい、1271ねん - 1323ねん)は、中国ちゅうごくもとだい詩人しじん学者がくしゃなかひろしおそれしゅう掲傒斯范梈とともにもとよん大家たいかばれることがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

先祖せんぞけんしゅう浦城うらしろけん出身しゅっしんちちの楊潜はみなみそうしょせい科挙かきょ受験じゅけん候補こうほせい)だった。おさないときに両親りょうしんうしなって杭州こうしゅううつり、勉学べんがくはげみ、博覧はくらん文章ぶんしょうつくれば意気いき横溢おういつというほどになる。40さいまで官途かんとこうとしなかったが、戸部とべの賈国えいがたびたび推薦すいせんし、科挙かきょずに翰林かんりん国史こくしいん編修へんしゅうかんとなり『たけはじめ実録じつろく』の編纂へんさんにたずさわる。のべゆう2ねん1315ねん)、じんむね科挙かきょ復活ふっかつしたとき進士しんしとなり、うけたまわつとむろうにょうしゅうどう浮梁しゅうごと任命にんめいされ、ついで儒林ろうやすしこくそうかん推官となる。やがてまもなくぼっする。

どう時期じき翰林かんりんにいたちょうはじめが楊載の文章ぶんしょうおもんじたことから、もと朝廷ちょうていをはじめとして世人せじん影響えいきょうあたえるようになる。楊載の詩文しぶんは「気力きりょく気骨きこつ」をおもとし、テーマはひろり、かんじたことを直截ちょくせつ表現ひょうげんするのが特徴とくちょうである。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 法家ほうかすう
  • 『楊仲ひろししゅう
  • 唐音とういんせん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]