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楠瀬くすのせつねいのしし

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楠瀬くすのせつねいのしし
くすのせ つねい
生年月日せいねんがっぴ 1899ねん2がつ10日とおか
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 広島ひろしまけん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1988ねん6月18にち
出身しゅっしんこう 旧制きゅうせい東京とうきょう商科しょうか大学だいがく一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん
ぜんしょく 近畿きんき地方ちほう総監そうかんふく総監そうかん
所属しょぞく政党せいとう 自由党じゆうとう
称号しょうごう せいよん
くんとう瑞宝章ずいほうしょう

当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1945ねん10月27にち - 1947ねん3月14にち

広島県の旗 公選こうせん初代しょだい広島ひろしま県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1947ねん4がつ16にち - 1950ねん11月29にち

選挙せんきょ 広島ひろしま地方区ちほうく
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1950ねん - 1953ねん
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楠瀬くすのせ つねいのしし(くすのせ つねい、1899ねん2がつ10日とおか - 1988ねん6月18にち)は、日本にっぽん政治せいじ広島ひろしま県知事けんちじ官選かんせんだい39だい公選こうせん初代しょだい)。参議院さんぎいん議員ぎいん(1)。

来歴らいれき

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1899ねん広島ひろしまけんまれる。1923ねん東京とうきょう商科しょうか大学だいがく一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん卒業そつぎょう商工しょうこうしょう課長かちょう燃料ねんりょうきょく長官ちょうかん中国ちゅうごく地方ちほう行政ぎょうせい事務じむきょく長官ちょうかんなどを歴任れきにんする。

1945ねんに39だい官選かんせん広島ひろしま県知事けんちじとなり、戦災せんさい都市とし復興ふっこう協議きょうぎかい設置せっち原爆げんばく投下とうかすたれていた広島ひろしままち復興ふっこうつとめた。官選かんせん知事ちじ1947ねん3がつまでつとめたのち同年どうねん4がつ5にちはじめて執行しっこうされた広島ひろしま県知事けんちじ選挙せんきょ出馬しゅつばし、中井なかい正一しょういちらをやぶ当選とうせん初代しょだい公選こうせん初代しょだい広島ひろしま県知事けんちじ就任しゅうにんした。 同年どうねん12がつには昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご巡幸じゅんこうがあり、随行ずいこうやくつとめた[1]

1950ねん欠員けついんしょうじた参議院さんぎいん広島ひろしま地方区ちほうく出馬しゅつばするため、任期にんき途中とちゅう知事ちじ辞職じしょく補欠ほけつ選挙せんきょ自由党じゆうとうから出馬しゅつば当選とうせんした。しかし、1953ねんだい3かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょにおいて落選らくせんし、政界せいかい引退いんたいした。

1970ねんはる叙勲じょくんくんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうくんさんとうからの昇叙しょうじょ[2][3]

1988ねん6月18にち心不全しんふぜんのため死去しきょ、89さい死没しぼつをもってしたがえよんからせいよんじょされる[4]

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はら武史たけし昭和しょうわ天皇てんのう御召おめし列車れっしゃぜん記録きろく新潮社しんちょうしゃ、2016ねん9がつ30にち、100ぺーじISBN 978-4-10-320523-4 
  2. ^ "楠瀬くすのせ つねいのしし". しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ. コトバンクより2022ねん12月27にち閲覧えつらん
  3. ^ 官報かんぽう号外ごうがいだい61ごう2ぺーじ 昭和しょうわ45ねん4がつ30にちごう
  4. ^ 官報かんぽうだい18419ごう10-11ぺーじ 昭和しょうわ63ねん7がつ16にちごう
公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
広島県の旗広島ひろしま県知事けんちじ
公選こうせん初代しょだい:1947ねん - 1950ねん
次代じだい
大原おおはら博夫ひろお
官職かんしょく
先代せんだい
児玉こだまきゅういち
広島県の旗広島ひろしま県知事けんちじ
官選かんせんだい39だい:1945ねん - 1947ねん
次代じだい
たけわか一郎いちろう