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横須賀よこすかせん電車でんしゃ爆破ばくは事件じけん

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横須賀よこすかせん電車でんしゃ爆破ばくは事件じけん
場所ばしょ 日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん鎌倉かまくら
きた鎌倉かまくらえき大船おおふなえきあいだ
日付ひづけ 1968ねん6がつ16にち (1968-06-16) (JST)
標的ひょうてき 横須賀よこすかせん電車でんしゃ
武器ぶき ばくだん
死亡しぼうしゃ 1人ひとり
負傷ふしょうしゃ 14にん
犯人はんにん 当時とうじ25さいおとこ
動機どうき 恋愛れんあいトラブルのもつれ
対処たいしょ 死刑しけい執行しっこうみ)
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最高裁判所さいこうさいばんしょ判例はんれい
事件じけんめい ふねしゃ覆没ふくぼつ致死ちしとう被告ひこく事件じけん
事件じけん番号ばんごう 昭和しょうわ45(あ)1919
1971ねん4がつ22にち
判例はんれいしゅう けいしゅう だい25かん3ごう530ぺーじ
裁判さいばん要旨ようし
  1. 刑法けいほういちろくじょういちこうにいう汽車きしゃまたは電車でんしゃの「破壊はかい」とは、汽車きしゃまたは電車でんしゃ実質じっしつがいしてその交通こうつう機関きかんとしての機能きのう全部ぜんぶまたは一部いちぶうしなわせる程度ていど損壊そんかいをいう。
  2. 爆発ばくはつぶつ爆発ばくはつにより、横須賀よこすかせん電車でんしゃごう車両しゃりょう屋根やね天井てんじょうられた鉄板てっぱんおよび合金ごうきんばんよんまい座席ざせきなな網棚あみだなまどガラスよんまいのほか、車体しゃたい付属ふぞくひんはちてん損壊そんかいされ、爆発ばくはつぶつ破片はへんとう床上ゆかうえいつぱいに散乱さんらんして、乗客じょうきゃくせて安全あんぜん運転うんてんつづけることができないような状態じょうたいになつたときは、刑法けいほういちろくじょういちこうにいう電車でんしゃの「破壊はかい」にあたる。
だいいちしょう法廷ほうてい
裁判さいばんちょう 藤林ふじばやし益三ますぞう
陪席ばいせき裁判官さいばんかん 岩田いわたまこと 大隅おおすみ健一郎けんいちろう 下田しもだ武三たけぞう
意見いけん
多数たすう意見いけん 全員ぜんいん一致いっち
意見いけん なし
反対はんたい意見いけん なし
参照さんしょう法条ほうじょう
刑法けいほう126じょう1こう
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横須賀よこすかせん電車でんしゃ爆破ばくは事件じけん(よこすかせんでんしゃばくはじけん)は、1968ねん昭和しょうわ43ねん)に日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう現在げんざい東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう(JR東日本ひがしにっぽん)エリア)横須賀よこすかせん発生はっせいしたばくだん事件じけん

警察庁けいさつちょう広域こういき重要じゅうよう指定してい事件じけん107ごう

事件じけん概要がいよう[編集へんしゅう]

1968ねん昭和しょうわ43ねん6月16にち15ごろ横須賀よこすかせん横須賀よこすかはつ東京とうきょうのぼ列車れっしゃ113けい電車でんしゃ)が、 きた鎌倉かまくらえき - 大船おおふなえきあいだ走行そうこうちゅう大船おおふなえき手前てまえかったところで、まえから6りょう網棚あみだなかれていた荷物にもつ突然とつぜん爆発ばくはつした。この爆発ばくはつ男性だんせい1にん(32さい)が死亡しぼうし、14めい重軽傷じゅうけいしょうしゃ惨事さんじとなった。

当日とうじつ日曜日にちようびであり、行楽こうらくかえりの乗客じょうきゃくおおかった。

なお、当時とうじ1967ねん6月18にち山陽さんよう電鉄でんてつ爆破ばくは事件じけんなどの列車れっしゃたいするばくだん事件じけん続発ぞくはつしており、世間せけん騒然そうぜんとしていた。当日とうじつ山陽さんよう電鉄でんてつ爆破ばくは事件じけんおなじくちちでもあった。

警察庁けいさつちょう広域こういき重要じゅうよう指定してい事件じけんとしては、単一たんいつ事件じけん広域こういき指定していされた唯一ゆいいつ事例じれいである。

犯人はんにん[編集へんしゅう]

犯人はんにんは、山形やまがたけん出身しゅっしん当時とうじ25さいおとこのちじゅん多摩たま良樹よしき(すみたま・よしき)というペンネームで、歌人かじんとして活動かつどうしている(以後いごじゅん多摩たま記述きじゅつ)。

爆発ばくはつぶつ使用しようされた火薬かやくりょうよう散弾さんだん発射はっしゃやくとして市販しはんされていた無煙むえん火薬かやく判明はんめい起爆きばくよう乾電池かんでんちホルダーが、おも受験じゅけん勉強べんきょうよう販売はんばいされていたクラウンしゃせいテープレコーダーのものであり、遺留いりゅうひん検査けんさマークから1000だい以下いかしか出荷しゅっかされていないことが判明はんめい。さらに爆発ばくはつぶつつつんでいた新聞紙しんぶんし毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう多摩たまばんであり、活字かつじ印刷いんさつズレから八王子はちおうじ立川たつかわ日野ひの方面ほうめんくばられるものと判明はんめい[ちゅう 1]。また、爆発ばくはつぶつには名古屋なごや土産みやげである「しゃち最中さいちゅう」のはこ使用しようされていた。

それらの証拠しょうこから、日野ひの在住ざいじゅう猟銃りょうじゅう免許めんきょによって散弾さんだんじゅう所持しょじしており、毎日新聞まいにちしんぶん購読こうどくしていたインテリ大工だいくじゅん多摩たま被疑ひぎしゃとしてかびがった。さらに事件じけん前年ぜんねん隣家りんか夫婦ふうふ新婚しんこん旅行りょこう土産みやげとして名古屋なごやった「しゃち最中さいちゅう」をじゅん多摩たまわたしていたことをめた。

逮捕たいほ動機どうき
1968ねん11月9にちに、警察けいさつじゅん多摩たま良樹よしき職場しょくば出向でむき、任意にんい出頭しゅっとうもとめる。証拠しょうこ提示ていじすると、じゅん多摩たま犯行はんこう自供じきょうしたため、逮捕たいほされた。じゅん多摩たま横須賀よこすかせん電車でんしゃ時限じげん起爆きばく装置そうちばくだん仕掛しかけたことをみとめた。
動機どうきについては、「結婚けっこん約束やくそくしておきながら破局はきょくした、もと恋人こいびとたいする鬱憤うっぷんらすため」であった。横須賀よこすかせん電車でんしゃ爆破ばくはした理由りゆうは、もと恋人こいびと山形やまがたからの上京じょうきょう利用りようしていたためである[ちゅう 2]
自供じきょうからテープレコーダー英会話えいかいわ学習がくしゅうよう購入こうにゅうしていたものとわかった。
なお、犯行はんこうちちにあたるが、じゅん多摩たまちちだい世界せかい大戦たいせんなか1945ねん3がつレイテおき戦死せんししている。
裁判さいばん
じゅん多摩たま草加そうか次郎じろう事件じけん影響えいきょうけたことをうったえ、自分じぶん犯罪はんざいさそったかれへのにくしみをかたり、ひたすら殺意さつい否認ひにんしていた。
  • 草加そうかろうさえ出現しゅつげんしなければ、列車れっしゃ爆破ばくはなんてやらなかった」というのが、じゅん多摩たま主張しゅちょうである。
刑事けいじ裁判さいばん詳細しょうさい経緯けいいは、下記かき#刑事けいじ裁判さいばん参照さんしょう
獄中ごくちゅう生活せいかつ短歌たんか
じゅん多摩たま獄中ごくちゅうキリスト教きりすときょう洗礼せんれいけ、あるキリスト教きりすときょう関連かんれん月刊げっかん短歌たんかをさかんに投稿とうこうしていた。
また、じゅん多摩たまさかんに面会めんかいしていた支援しえんしゃらのなかでも、A牧師ぼくしには絶大ぜつだい信頼しんらいせており、遺骨いこつってほしいと懇願こんがんしていた。
短歌たんかは、おな東京とうきょう拘置こうちしょ死刑しけいしゅうからの影響えいきょうけていた。
じゅん多摩たまは、なん支援しえんしゃに「はや歌集かしゅう出版しゅっぱんしたい」とはなしていた。しかし、その都度つど支援しえんしゃらは「遺族いぞく気持きもちをかんがえてつよう」にった。
しばらくしてじゅん多摩たまは「冤罪えんざいうったえる佐藤さとうさんには、支援しえんしゃ一生懸命いっしょうけんめい奔走ほんそうしてくれるが、冤罪えんざいうたがいが微塵みじんもない自分じぶんにはだれ奔走ほんそうしてくれない」となげき、その以降いこう支援しえんしゃらの面会めんかい拒否きょひした。
死刑しけい執行しっこう
1975ねん12月5にち宮城みやぎ刑務所けいむしょにおいて死刑しけい執行しっこうされた。享年きょうねん32。遺骨いこつは、遺言ゆいごんとおりA牧師ぼくしった。
その、20ねん遺族いぞく遺骨いこつりをもう遺骨いこつ故郷こきょうもどった。ペンネームで歌集かしゅう出版しゅっぱんされたのは、から20ねんだった。

刑事けいじ裁判さいばん[編集へんしゅう]

W(犯行はんこう当時とうじ25さい)は、殺人さつじんざい爆発ばくはつぶつ使用しようざいふねしゃ覆没ふくぼつ致死ちしざい横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょ起訴きそされた。

だいいちしん[編集へんしゅう]

1968ねん12月25にち横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょ(野瀬のせだかせい裁判さいばんちょう)にてはつ公判こうはんおこなわれ、Wは起訴きそじょうみとめた。

1969ねん3がつ3にち、Wの求刑きゅうけい公判こうはんにて検察けんさつがわ死刑しけい求刑きゅうけいした。

1969ねん3がつ20日はつか横浜よこはま地方裁判所ちほうさいばんしょ野瀬のせだかせい裁判さいばんちょう)は、電車でんしゃ破壊はかい致死ちしざい刑法けいほう126じょう3こう)、殺人さつじんざい刑法けいほう199じょう)、殺人さつじん未遂みすいざい刑法けいほう203じょう、199じょう)、傷害しょうがいざい刑法けいほう204じょう)、爆発ばくはつぶつ取締とりしまり罰則ばっそく違反いはんどう罰則ばっそく1じょう)の成立せいりつみとめ、Wに求刑きゅうけいどお死刑しけい判決はんけつをいいわたした(起訴きそされたもののうちふねしゃ覆没ふくぼつ致死ちしざいは、判決はんけつでは、電車でんしゃ破壊はかい致死ちしざいとされた)[2]かく被害ひがいしゃとの関係かんけいでは、被害ひがいしゃ1めいにつき殺人さつじんざい被害ひがいしゃ12めいにつき殺人さつじん未遂みすいざい被害ひがいしゃ2めいにつき傷害しょうがいざい適用てきようされた。Wは殺意さつい存在そんざい否認ひにんしていたが、裁判所さいばんしょは、Wが事前じぜんに3かい爆破ばくは実験じっけんをして、爆発ばくはつぶつ威力いりょく十分じゅうぶんっていたことから、すくなくとも爆発ばくはつぶつちか座席ざせきにいた13めい被害ひがいしゃたいしては未必みひつてき殺意さついがあると認定にんていした[3]

Wは、この判決はんけつ結果けっか不服ふふくとして、東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ控訴こうそした。

控訴こうそしん[編集へんしゅう]

1969ねん12月4にち東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ(樋口ひぐちまさる裁判さいばんちょう)にて控訴こうそしんはつ公判こうはんおこなわれた。この公判こうはんにてWは精神せいしん鑑定かんていおこなわれた。

1970ねん8がつ11にち東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ樋口ひぐちまさる裁判さいばんちょう)は、Wの完全かんぜんてき責任せきにん能力のうりょくみとめて控訴こうそ棄却ききゃくした[4]

Wは、このときもこの判決はんけつ結果けっか不服ふふくとして、最高裁判所さいこうさいばんしょ上告じょうこくした。

上告じょうこくしん[編集へんしゅう]

1971ねん4がつ22にち最高さいこう裁判所さいばんしょ藤林ふじばやし益三ますぞう裁判さいばんちょう)はWの上告じょうこく棄却ききゃくし、Wの死刑しけい確定かくていした[5]最高さいこう裁判所さいばんしょは、刑法けいほう126じょう1こうにいう「破壊はかい」の意義いぎについて、「汽車きしゃまたは電車でんしゃ実質じっしつがいしてその交通こうつう機関きかんとしての機能きのう全部ぜんぶまたは一部いちぶうしなわせる程度ていど損壊そんかいをいう」と判示はんじしたうえで、Wの行為こういは「破壊はかい」にたるとした[6]

その[編集へんしゅう]

  • 事件じけんまえの6がつ5にち警視庁けいしちょう刑事けいじちょうに「今月こんげつ16にち東京とうきょうえきのどこかに手製てせいのダイナマイトをしかける」むね犯行はんこう予告よこくめるものおくり、事件じけん翌日よくじつの6がつ17にちおな刑事けいじ部長ぶちょうに「横須賀よこすかせん大船おおふなえき爆破ばくはしたのは自分じぶんのミス」とする犯行はんこう声明せいめいとどいた。7月5にち警察けいさつはこのおくぬしめたが、ばくだん事件じけんとは無関係むかんけい愉快ゆかいはん判明はんめいしている。
  • 1968ねん12月に発生はっせいしたさんおくえん事件じけん犯人はんにん多摩たま農協のうきょう脅迫きょうはく事件じけんで6がつ25にち多摩たま農協のうきょう脅迫きょうはくする文章ぶんしょうなかで「よこすかせんはひきょうもん」という文言もんごんはいった脅迫きょうはくじょうおくっている。「よこすかせん」とは脅迫きょうはくじょうおくる9にちまえ発生はっせいした「横須賀よこすかせん電車でんしゃ爆破ばくは事件じけん」についてれたとわれている(脅迫きょうはくしょ作成さくせい時点じてんでは犯人はんにん特定とくていされていなかった)。
  • この事件じけんから4ねん1972ねん8がつ奈良ならけん奈良なら近鉄きんてつ奈良ならせんでも電車でんしゃ爆破ばくは事件じけん発生はっせいしている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 加賀かが乙彦おとひこ死刑しけいしゅう記録きろく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ)、1980ねん、194ぺーじ-203ぺーじ
  • じゅん多摩たま良樹よしきいたつみじゅん多摩たま良樹よしき歌集かしゅう短歌新聞社たんかしんぶんしゃ、1995ねんISBN 4-803-90803-6
  • 昭和しょうわぜん記録きろく 1926~1989」 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1989ねんISBN 4620802107
  • 加賀かが乙彦おとひこ 『あるわか死刑しけいしゅう生涯しょうがい筑摩書房ちくましょぼう(ちくまプリマー新書しんしょ)、2019ねんISBN 4480683429

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん取材しゅざいたった伊波いは新之助しんのすけは、自身じしん現場げんばまわりで事故じこ車両しゃりょうまどわくから飯粒めしつぶおもってびろった新聞紙しんぶんし紙片しへんった広告こうこくから、毎日新聞まいにちしんぶんかサンケイ新聞しんぶん多摩たまばんであるというスクープをせたと回想かいそうしている[1]
  2. ^ 犯行はんこう当時とうじもと恋人こいびとはすでにべつ男性だんせい同棲どうせいしていたため、その列車れっしゃ乗用じょうようしていなかった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大船おおぶね横須賀よこすかせん爆破ばくは事件じけん - 取材しゅざいノート(日本にっぽん記者きしゃクラブ、2003ねん12がつ)2020ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1969ねん3がつ20日はつか夕刊ゆうかん10ぺーじ「その瞬間しゅんかん『W』がっくり 死刑しけい判決はんけつ “予想よそうどおり”と傍聴ぼうちょうせき
  3. ^ 『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献ぶんけん番号ばんごう:24005111
  4. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1970ねん8がつ12にち朝刊ちょうかん14ぺーじ「『W』控訴こうそしんでも死刑しけい 横須賀よこすかせん爆破ばくは
  5. ^ 読売新聞よみうりしんぶん1971ねん4がつ22にち夕刊ゆうかん10ぺーじ「『W』の死刑しけい確定かくてい 横須賀よこすかせん爆破ばくは
  6. ^ 判決はんけつぶん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]