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毛利もうり扶揺

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毛利もうり
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん とおる15ねん10月17にち1730ねん11月26にち
死没しぼつ 天明てんめい6ねん7がつ11にち1786ねん8がつ4にち
改名かいめい みなもと十郎じゅうろう幼名ようみょう)、毛利もうりやすしだか山野辺やまのべ義方よしえよし褧、毛利もうり
別名べつめい 通称つうしょう図書としょ
おおやけにしき
ごう:扶揺、つぼ邱、みなみゆたか
戒名かいみょう だいちゅういん殿どのどうはれ日義ひよしだい居士こじ
墓所はかしょ 江戸えどしばちょうおうてらげん品川しながわ小山こやま
主君しゅくん 毛利もうり高丘たかおか徳川とくがわ宗翰むねもと治保はるもり毛利もうりだかしるべ
はん 佐伯さえきはん水戸みとはん佐伯さえきはん
氏族しぞく 毛利もうり山野辺やまのべ毛利もうり
父母ちちはは ちち毛利もうりこうけいはは奥井おくい
養父ようふ山野辺やまのべ義胤よしたね
兄弟きょうだい こうどおりこうのう南部なんぶ信之のぶゆき戸田とだ忠言ちゅうげんしつ大久保おおくぼきょうじゅんしつ
つま 正室せいしつなし
滝川たきがわとし片桐かたぎり貞芳さだよししつせきもりひらた
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毛利もうり 扶揺(もうり ふよう)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき漢学かんがくしゃ(かさぬ)[注釈ちゅうしゃく 1]通称つうしょう図書としょ(ずしょ)。おおやけにしきごうは扶揺、つぼ邱、みなみゆたかべつごうから毛利もうり つぼ(もうり こきゅう)という名前なまえもよくられる。

豊後ぶんご佐伯さえきはんあるじもう利家としいえ藩主はんしゅ一門いちもんで、大名だいみょう藩侯はんこう)の子弟してい公子こうし)のから扶揺公子こうし(ふようこうし)の雅号がごう漢詩かんしじんとして高名こうみょうであった[1][2]毛利もうり旧称きゅうしょうにちなんでもり苗字みょうじもちい、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』ではもり(もり かさぬ)の氏名しめいえる[3]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

とおる15ねん1730ねん)、豊後ぶんご佐伯さえきはん(2まんせき)の藩主はんしゅ毛利もうりこうけいよんおとことして佐伯さえきまれた。はは側室そくしつ奥井おくいで、扶揺を出産しゅっさんしてすぐにくなった。幼名ようみょうみなもと十郎じゅうろう、のちに浪江なみえあらためた[4]

ひろし3ねん1743ねん)、14さいのときにちちうしなった。元服げんぷくしてたいだかあらた[5]成人せいじん佐伯さえきとどまって読書どくしょ武芸ぶげいはげんだ[6]

たかられき6ねん1756ねん)、27さいはじめて江戸えど遊学ゆうがくし、経書けいしょ宇佐美うさみ灊水に、漢学かんがく大内おおうち熊耳ゆうじに、漢詩かんし服部はっとり南郭なんかくまなんだ[6]よく7ねん1757ねん)、のいない水戸みとはん家老がろう山野辺やまのべ義胤よしたねとの養子ようし縁組えんぐみまり、山野辺やまのべ[注釈ちゅうしゃく 2]義方ぎほう(のちに褧)、通称つうしょう図書としょあらためて、江戸詰えどづめの養父ようふのこして水戸みとうつった[7]

水戸みと時代じだい詩作しさくはげんで文人ぶんじん交流こうりゅうふかめ、らくしょ音楽おんがくについてかれた和漢わかん古典こてん)の研究けんきゅう没頭ぼっとうした[6]たかられき10ねん1760ねん)、嫡男ちゃくなんいくすすむ(のちの滝川たきがわとし)がまれた[8]。またこのとしなつにはおい佐伯さえき藩主はんしゅ毛利もうり高丘たかおか[注釈ちゅうしゃく 3]が33さいわかさで死去しきょし、嫡男ちゃくなんこうしるべはわずか6さいであることから、佐伯さえきはん家臣かしんから家督かとく継承けいしょうのぞまれたが固辞こじし、幼君ようくん後見こうけんした[6]

明和めいわ7ねん1770ねん)、41さい部屋住へやずのまま水戸みとはん大寄おおより合格ごうかく任命にんめいされ、蔵米くらまい100にん扶持ふちきゅうせられて藩政はんせい参画さんかくした。ところが、安永やすなが6ねん1777ねん)4がつ大寄おおより合格ごうかく罷免ひめんされて扶持ふちまい没収ぼっしゅうされ、同年どうねん5がつ山野辺やまのべ廃嫡はいちゃくされ離縁りえんされた[7]

家族かぞくれて江戸えどもどった扶揺は毛利もうり復籍ふくせきしてを褧にあらため、白金台しろかねだいにあった毛利もうり下屋敷しもやしき隠棲いんせいして藩主はんしゅだかしるべ厄介やっかいになりながら文人ぶんじんとしての生活せいかつおくった[6]

天明てんめい6ねん1786ねん死去しきょ享年きょうねん57。遺言ゆいごんにより毛利もうり菩提寺ぼだいじではない法華宗ほっけしゅうしばちょうおうてらほうむられた[6][注釈ちゅうしゃく 4]

山野辺やまのべ廃嫡はいちゃく事情じじょう[編集へんしゅう]

扶揺が山野辺やまのべ廃嫡はいちゃくされた経緯けいいについての水戸みとはん史料しりょうは2種類しゅるいられている。

ひとつはあきらこうかん編纂へんさんされたはん公式こうしき藩士はんし系図けいずしゅうである『水府すいふけい』におさめられた山野辺やまのべいえによるもので、「扶揺は性格せいかくが奸曲邪智じゃちであり、侍臣じしん寵愛ちょうあいして忠臣ちゅうしん虐待ぎゃくたいした。このため山野辺やまのべ譜代ふだい家臣かしんから出奔しゅっぽんするもの続出ぞくしゅつし、1めい座敷牢ざしきろう自殺じさつした。このことが藩主はんしゅ徳川とくがわ宗翰むねもと[注釈ちゅうしゃく 5]みみはいり、一家いっかいち大事だいじであるから扶揺を離縁りえんさせるようにという内命ないめいがあったので、江戸詰えどづめの家老がろう水戸みとって旧臣きゅうしん会合かいごうして離縁りえんさせることにめ、江戸えど毛利もうり下屋敷しもやしき蟄居ちっきょさせた」とつたえる[1][7]

もうひとつは水戸みと藩士はんし小宮山こみやま昌秀まさひで廃嫡はいちゃくから40ねん文化ぶんか13ねん1816ねん)にきとめたききで、「扶揺は音楽おんがくこのみ、くした。水戸みとらしているあいだかれ近臣きんしんはいつも音楽おんがく演奏えんそうし、漢詩かんししていた。しかしその性格せいかく放縦ほうしょう検束けんそくがなく(わがままで我慢がまんができず)、何事なにごと我意がいとおしていた。おさな子供こども一人ひとりくなると乳母うばいかりをぶつけ、かみって追放ついほうする私刑しけいしょしてしまうようなことがあった。それで養父ようふ山野辺やまのべ義胤よしたね義絶ぎぜつして実家じっかかえしてしまった」というものである[2][9]

小宮山こみやまのききは養父ようふ義胤よしたね廃嫡はいちゃくめたとするが、山野辺やまのべいえ藩主はんしゅ内命ないめいけて江戸詰えどづめの家老がろう水戸みとにいる旧臣きゅうしん相談そうだんして廃嫡はいちゃくめたとするように、廃嫡はいちゃく実際じっさいには義胤よしたね死去しきょする直前ちょくぜん実行じっこうされている。このような経緯けいいから、家臣かしんあいだでの派閥はばつあらそいから扶揺の家督かとく継承けいしょう阻止そしするために廃嫡はいちゃくされたのではないかというせつもある[1][7][注釈ちゅうしゃく 6]

扶揺本人ほんにん廃嫡はいちゃくされることに不服ふふくであり、友人ゆうじんである水戸みとはん儒者じゅしゃ立原たちはら翠軒すいけんに「自分じぶんなんざいがあったのかわからない。どのようなつみというのかこころみに指摘してきしてほしい」と不平ふへいおくった。翠軒すいけんはこれにたいして「きみつみあるゆえらず。これざい所以ゆえんなり」と返信へんしんしたので、扶揺もはじめて承伏しょうふくしたという逸話いつわられている[9][10]

なお、立原たちはら翠軒すいけんうえのようにたしなめたからとって扶揺と絶交ぜっこうしたわけではなく、扶揺が水戸みとるにたって送別そうべつうたげひらき、扶揺一家いっか江戸えどもどってからも扶揺と息子むすこ滝川たきがわとしとの交流こうりゅう父子ふしがそれぞれ翠軒すいけんよりもさきぼっするまでつづけている[7]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • つぼ邱詩稿こう
  • つぼ邱文稿こう
  • 『扶揺えんひつろく
  • らくりつこう
  • 経済けいざいこう
  • 芸術げいじゅつこう
  • 雑事ざつじこう
  • くるまふくこう
  • 書籍しょせきこう
  • 制度せいどこう
  • にしき帛考』
  • 礼法れいほうこう

扶揺は詩文しぶんながじていたほか、文辞ぶんじがくながれを漢学かんがくしゃとして漢籍かんせきはくさがし、多岐たきにわたる考証こうしょうおこなった。とくに21ねんにわたった水戸みと時代じだいらくしょ研究けんきゅう没頭ぼっとうし、古代こだい音楽おんがく音律おんりつ復元ふくげんや、催馬たのし復興ふっこうたずさわっている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 講談社こうだんしゃ日本人にっぽんじんめいだい辞典じてんとう資料しりょうによってはの「かさぬ」に「聚」(シュウ)のてているが、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の毛利もうり系図けいず儒者じゅしゃ大竹おおたけ東海とうかいせんした「扶揺ふじ公子きみこ碑銘ひめい」で実際じっさいもちいられているは「褧」(ケイ)である。
  2. ^ 「扶揺ふじ公子きみこ碑銘ひめい」はにゅう嗣先を「生瀬なませ」とするが、これは変名へんめいである。
  3. ^ 毛利もうりだかおかは扶揺の長兄ちょうけい毛利もうりだかどおりで、おいっても扶揺よりも2さい年長ねんちょうである。
  4. ^ 佐伯さえきはん毛利もうり菩提寺ぼだいじやしなえけんてら臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじぜんてらである。
  5. ^ 実際じっさいには扶揺が山野辺やまのべ廃嫡はいちゃくされた安永やすなが6ねん(1777ねん)の時点じてん徳川とくがわ宗翰むねもとすでぼっしており、徳川とくがわ治保はるもり藩主はんしゅである。
  6. ^ 立原たちはら翠軒すいけんが扶揺の嫡子ちゃくしよし嬰(滝川たきがわとし雍)におくった送別そうべつおくちょう孺森くんじょ」によると、山野辺やまのべ家臣かしん一部いちぶ嬰に山野辺やまのべのこっていえぐように要請ようせいしたが、よし嬰は「ちちてることはてんりんはんする」と固辞こじしたので実現じつげんしなかった[1][7]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d もり潤三郎じゅんざぶろう瀧川たきがわ南谷なんやつたえいち)」『日本にっぽん日本人にっぽんじんだい381ごう政教せいきょうしゃ、1940ねん2がつ、 130-132ぺーじ
  2. ^ a b 勝間田かつまた三千夫みちお毛利もうりつぼ邱と瀧川たきがわとし雍 1」『佐伯さえき史談しだんだい155ごう佐伯さえき史談しだんかい、1990ねん10がつ、12-23ぺーじ別府大学べっぷだいがく地域ちいき連携れんけいプログラムBUNGO
  3. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか. だい3輯』國民こくみん圖書としょ、1923ねん、426ぺーじ
  4. ^ わき貫一かんいちもり褧のことについて」『佐伯さえき史談しだんだい120ごう佐伯さえき史談しだんかい、1979ねん10がつ、7-8ぺーじ別府大学べっぷだいがく地域ちいき連携れんけいプログラムBUNGO
  5. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか. だい6輯』國民こくみん圖書としょ、1923ねん、827-831ぺーじ
  6. ^ a b c d e f 「扶揺ふじ公子きみこ碑銘ひめい」『たけ東海とうかい先生せんせいぶん稿こうへんまき文化ぶんか2ねん日本にっぽんかんがく画像がぞうデータベース
  7. ^ a b c d e f 岡澤おかざわいねさと ちょ山野邊やまのべ扶搖と周圍しゅうい人々ひとびと助川すけかわ史談しだんかい へん助川すけかわ築城ちくじょういちひゃくねん記念きねん文集ぶんしゅう助川すけかわ史談しだんかい、1936ねん、17-34ぺーじ
  8. ^ もり潤三郎じゅんざぶろう瀧川たきがわ南谷なんやつたえ)」『日本にっぽん日本人にっぽんじんだい382ごう政教せいきょうしゃ、1940ねん3がつ、 57-61ぺーじ
  9. ^ a b 小宮山こみやまかえでのきふところたから日記にっきまき8。
  10. ^ 松村まつむらみさお近世きんせい先哲せんてつくさむらだん 続編ぞくへんまきじょういわおどう、1880ねん、17ぺーじ