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こうただしげん

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こう ただしげん(こう ちゅうげん、Jiāng Zhōngyuán、1812ねん - 1854ねん1がつ14にち)は、きよし官僚かんりょう岷樵湘軍初期しょき指揮しきかん従兄弟いとここう忠義ただよしがいる。湖南こなんしょうしんやすし出身しゅっしん

みちこう17ねん1837ねん)にきょじんとなる。だんねり組織そしきして郷里きょうり民衆みんしゅう軍事ぐんじ教練きょうれんおこない、かみなりさいひろし反乱はんらん鎮圧ちんあつした功績こうせきけん抜擢ばってきされた。

咸豊元年がんねん1851ねん)、太平たいへい天国てんごく金田かねだ蜂起ほうきおこなうと、広西ひろせしょう鎮圧ちんあつかった欽差大臣だいじんサイシャンガさいなおおもね)のぐん義勇軍ぎゆうぐん500めいひきいて参加さんかした。こうただしげんはこれを「すわえいさむ」と名付なづけた。よく2ねん1852ねん)に1000めい増員ぞういんし、ぜんしゅうきたみのころもわたり太平たいへい天国てんごくぐんやぶり、みなみおう馮雲やま戦死せんしさせた。そのまま太平たいへい天国てんごくぐん追撃ついげきして、ちょうすな防衛ぼうえい支援しえんした。咸豊3ねん1853ねん)に湖北こほく按察使任命にんめいみずうみこう総督そうとくちょうあきらもとからは軍事ぐんじをことごとくまかされていたが、その評判ひょうばん咸豊みかどこえ、江南こうなんだい営の指揮しきめいじられた。江南こうなんだい営では軍紀ぐんき厳格げんかくにし、信賞必罰しんしょうひつばつむねとした。

太平たいへい天国てんごくぐん西にしただし開始かいししてみなみあきら攻撃こうげきすると、江西えにしめぐなでちょうもとめにおうじて援軍えんぐんおもむき、太平たいへい天国てんごくぐん撃退げきたいした。10月、このこう安徽あんきめぐなで昇進しょうしん。11月に武漢ぶかん到着とうちゃくすると湖北こほくじゅんなでたかし命令めいれいたけあきらすわえいさみ半分はんぶんの1000をのこし、さらろくやすのこりの半分はんぶんの500をのこした。12月に手勢てぜいわずか500でいおりしゅうはいったが、としけた咸豊4ねん(1854ねん)1がつ14にちいおりしゅうえびす以晃ひきいる太平たいへい天国てんごくぐん包囲ほういされ、いおりしゅうえびすもとてき内応ないおうして城門じょうもんひらいおりしゅう陥落かんらくこうただしげんとうすい自殺じさつした。こうただしげんしたしかったこくはん安徽あんき赴任ふにんしていた弟子でし鴻章こうしう推挙すいきょしていたが、こうただしげん自殺じさつかなわずにわった。

死後しごただしれつ諡号しごうおくられた。著作ちょさくに『こうただしれつおおやけのこしゅう』がある。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
先代せんだい
よしみみず
安徽あんきめぐなで
1853ねん - 1854ねん
次代じだい
ぶくずみ