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浪岡なみおかひさし

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浪岡なみおかひさし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん ちょうとおる元年がんねん1487ねん
死没しぼつ 天文てんもん24ねん5月24にち1555ねん6月13にち)?
改名かいめい 朝家ちょうかひさし
別名べつめい あらわひさし浪岡なみおか御所ごしょ
官位かんい したがえよんひだり近衛このえ中将ちゅうじょう
氏族しぞく 浪岡なみおか
父母ちちはは ちち浪岡なみおかあらわ
みつるしん
テンプレートを表示ひょうじ

浪岡なみおか ひさし(なみおか ともなが)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう陸奥みちのくこくぞく浪岡なみおかだい7だい当主とうしゅ

生涯しょうがい

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浪岡なみおかしろ本拠ほんきょとした。鎮守ちんじゅ大将軍だいしょうぐん北畠きたばたけ顕家あきいえ末裔まつえいであるといい、将軍しょうぐん御所ごしょ敬称けいしょうする当時とうじ慣習かんしゅうから、陸奥みちのくこく一帯いったいで「浪岡なみおか御所ごしょ」とばれた。内政ないせい手腕しゅわんすぐれ、朝廷ちょうてい交渉こうしょうするために上洛じょうらくし、任官にんかんけたという。天文てんもん9ねん1540ねん)に朝家ちょうかからひさし改名かいめいしているが、これは伊勢いせ北畠きたばたけからのへんいみなであるとされる[1]

没年ぼつねんについて

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浪岡なみおかかんする没年ぼつねんかんする情報じょうほう安永やすなが4ねん1775ねん)に作成さくせいされたきょういさおてら過去かこちょうほかられないため、史料しりょうせいには疑問ぎもんたれつつも通説つうせつとして、なが死没しぼつねん天文てんもん24ねん5月24にち1555ねん6月13にち)とされてきた[2]

一方いっぽうで、外浜そとはま油川あぶらかわむら現在げんざい青森あおもりけん青森あおもり油川あぶらかわ)の熊野山くまのさんじゅうしょ権現ごんげんしゃむねさつめいには、えいろく2ねん1559ねん)にひさし同社どうしゃ再興さいこうしたとされている[3]。さらに、2011ねん平成へいせい23ねん)『りゃく』と総称そうしょうされる公家くげ名簿めいぼ史料しりょうぐん学会がっかい相次あいついで紹介しょうかいされ、そのなかではえいろく6ねん1563ねん時点じてんひさし存命ぞんめい認識にんしきされている。これらにもとづき、なが没年ぼつねんについては、さい検討けんとう必要ひつようせい指摘してきされている(赤坂あかさか恒明つねあき[4]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『れきめい土代どだい』による。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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