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田中たなかとも次郎じろう

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田中たなかとも次郎じろう
新井あらいとも次郎じろう
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 群馬ぐんまけん利根とねぐん白沢しらさわむら
げん沼田ぬまた
生年月日せいねんがっぴ 1913ねん9月24にち
死没しぼつ 2003ねん3月4にち(89さいぼつ
騎手きしゅ情報じょうほう
所属しょぞく団体だんたい 中山なかやま競馬けいば倶楽部くらぶ
日本にっぽん競馬けいばかい
国営こくえい競馬けいば
日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい
所属しょぞく厩舎きゅうしゃ 秋山あきやま辰治たつじ中山なかやま(1930ねん-1943ねん
田村たむら仁三郎じんざぶろう東京とうきょう(1943ねん-1947ねん
鈴木すずき勝太郎かつたろう東京とうきょう(1947ねん-1955ねん
はつ免許めんきょねん 1935ねん
騎手きしゅ引退いんたい 1955ねん
じゅうしょう勝利しょうり 4しょう
通算つうさん勝利しょうり 785せん93しょう
調教ちょうきょう情報じょうほう
はつ免許めんきょねん 1955ねん
調教ちょうきょう引退いんたい 1992ねん (定年ていねん)
じゅうしょう勝利しょうり 21しょう
G1きゅう勝利しょうり 3しょう
通算つうさん勝利しょうり 6515せん621しょう
経歴けいれき
所属しょぞく 中山なかやま競馬けいばじょう(1955ねん - 1978ねん
美浦みほT.C. (1978ねん-1992ねん)
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田中たなか とも次郎じろう(たなか ともじろう、1913ねん9月24にち - 2003ねん3月4にち)は、日本にっぽん競馬けいば騎手きしゅ調教ちょうきょう旧姓きゅうせい新井あらい(あらい)。

1935ねん騎手きしゅデビュー。1937ねん騎乗きじょうハッピーマイト日本にっぽん競馬けいばかい施行しこうによるだい1かい帝室ていしつしょうてん天皇てんのうしょうあき)に優勝ゆうしょうした。1955ねん調教ちょうきょう転身てんしんして以降いこうは、1985ねん皐月さつきしょう菊花賞きっかしょう、1987ねん天皇てんのうしょうはるなどをせいしたミホシンザンなどをがけた。1984~1988ねん日本にっぽん調教ちょうきょうかいちょう。1989ねんくんとうそうこう旭日きょくじつあきら受章じゅしょう。1992ねん定年ていねん引退いんたい

経歴けいれき

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1913ねん群馬ぐんまけん利根とねぐん白沢しらさわむらげん沼田ぬまた)の農家のうかまれる[1]白沢しらさわ尋常じんじょう小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょうむら馬喰ばくろうすすめで片品かたしなむら千明ちあき牧場ぼくじょう奉公ほうこうはいり、ここで乗馬じょうばほどきをけた[2]

1930ねん中山なかやま競馬けいば倶楽部くらぶ中山なかやま競馬けいばじょう)の秋山あきやま辰治たつじ厩舎きゅうしゃ入門にゅうもん[2]。1935ねん騎手きしゅ免許めんきょ取得しゅとくし、よく1936ねん騎乗きじょうハッピーレースではつ勝利しょうりげた[3]とも次郎じろうどううま馬主ばしゅであったにく問屋とんや米久よねきゅう」のろう婦人ふじんられ、1937ねん秋季しゅうきより、秋山あきやま騎乗きじょうしていたハッピーマイトの騎手きしゅ抜擢ばってきされた[3]どううまとは農林省のうりんしょうしょうてんあきせいして特殊とくしゅ競走きょうそうじゅうしょう競走きょうそうはつ勝利しょうりげると、12月3にちには最高さいこうかく競走きょうそう帝室ていしつしょうてんあき)に優勝ゆうしょうした。帝室ていしつしょうてん従来じゅうらい全国ぜんこく各地かくち独立どくりつ運営うんえいされていた競馬けいば倶楽部くらぶ各々おのおの施行しこうしていたが、当年とうねんよりかく倶楽部くらぶ統合とうごうされた日本にっぽん競馬けいばかいのもとで春秋しゅんじゅう2かいのみの施行しこうわっており、この競走きょうそう新制しんせいだい1かい施行しこうであった。このかいだい世界せかい大戦たいせん戦後せんご競走きょうそうめい天皇てんのうしょう改称かいしょうされて以降いこうがれているため、とも次郎じろうだい1かい天皇てんのうしょう優勝ゆうしょう騎手きしゅとしてきざんでいる。なお、内容ないようは2ちゃくに5馬身ばしん圧勝あっしょうであったが、秋山あきやまからは「このから下手ぺただい馬鹿ばか野郎やろう腑抜ふぬけ。自分じぶんうでったとおもっているのか。だいいち、ゴールまえであんなにうやつがいるか。競馬けいば鼻面はなづらだけてばいいんだ」と、なぐからんばかりのいきおいで叱咤しったされたという[4]

1940ねん呉服ごふく問屋とんやきゅう松戸まつど競馬けいば倶楽部くらぶ役員やくいんつとめていた田中たなかたけしみぎ衛門えもんむすめ鈴子すずこ結婚けっこん[4]。これにともな改姓かいせいした[5]よく1941ねんまつ太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつすると、1944ねんよりとも次郎じろう兵役へいえき台湾たいわんこう雄市ゆういち部隊ぶたい配属はいぞくされ[5]た。終戦しゅうせん、1946ねん1がつ復員ふくいんし、騎手きしゅとして復帰ふっき[5]戦後せんごアラブ強豪きょうごうニューバラッケーとサチミツで、それぞれ読売よみうりカップせいした。1955ねん騎手きしゅ引退いんたいし、調教ちょうきょう転身てんしん騎手きしゅ通算つうさん成績せいせきは785せん93しょう[6]

調教ちょうきょうとしては初年度しょねんどからマサハタがクモハタ記念きねんせいじゅうしょうはつ勝利しょうり以後いごやす専門せんもん[7]」ながら数々かずかずじゅうしょう勝利しょうりがけた。1985ねんにはミホシンザンが皐月さつきしょうせいし、調教ちょうきょうとしてGI競走きょうそうはつ制覇せいは。そのどううま骨折こっせつ東京とうきょうゆう駿しゅん日本にほんダービー)ぼうったが、あき菊花賞きっかしょうせいかんとなる。とも次郎じろう帝室ていしつしょうてんせいしてからはん世紀せいきとなる1987ねんには天皇てんのうしょうはる)にも優勝ゆうしょうした。

1988ねん、24ねんつとめていた調教ちょうきょう会長かいちょうし、よく1989ねんくんとうそうこう旭日きょくじつしょう受章じゅしょう[8]。1992ねん2がつ29にち調教ちょうきょう定年ていねんせいもとづき引退いんたいよく3がつ1にち中山なかやま競馬けいばじょう引退いんたいしきおこなわれた。通算つうさん成績せいせきは6515せん621しょう、うちGI競走きょうそう3しょうふくじゅうしょう21しょう。2003ねん3がつ4にち急性きゅうせい心不全しんふぜんのため89さい死去しきょした[9]じょせいろく[10]

成績せいせき

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騎手きしゅ成績せいせき

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  • 785せん93しょう

おも騎乗きじょう

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帝室ていしつしょうてん優勝ゆうしょう

括弧かっこない田中たなか新井あらい騎乗きじょう優勝ゆうしょう競走きょうそう太字ふとじはちだい競走きょうそう

  • ハッピーマイト(1937ねん農林省のうりんしょうしょうてんあき帝室ていしつしょうてんあき
  • ニューバラッケー(1950ねん読売よみうりだて争奪そうだつアラブ東西とうざい対抗たいこうあき
  • サチミツ(1952ねん読売よみうりカップ・はる

調教ちょうきょう成績せいせき

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  • 6515せん621しょう

おも管理かんり

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括弧かっこない田中たなか管理かんり優勝ゆうしょう競走きょうそう太字ふとじはGI競走きょうそう

出典しゅってん

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  1. ^ 調教ちょうきょうほんIII』、p.91
  2. ^ a b 調教ちょうきょうほんIII』、p.92
  3. ^ a b 調教ちょうきょうほんIII』、pp.93-94
  4. ^ a b 調教ちょうきょうほんIII』、p.97
  5. ^ a b c 調教ちょうきょうほんIII』、pp.98-99
  6. ^ 調教ちょうきょうほんIII』、p.100
  7. ^ 調教ちょうきょうほんIII』、p.102
  8. ^ 調教ちょうきょうほんIII』p.108
  9. ^ 田中たなかとも次郎じろう死去しきょ もと日本にっぽん調教ちょうきょうかい会長かいちょう”. 共同通信きょうどうつうしん (2003ねん3がつ5にち). 2012ねん12月12にち閲覧えつらん
  10. ^ 官報かんぽう平成へいせい15ねん4がつ15にち本紙ほんしだい3586ごう9ページだい2だん

参考さんこう文献ぶんけん

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