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畠山 秋高(はたけやま あきたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。河内国半国及び紀伊国守護。「昭高」として知られているが、確認できる自署は「秋高」のみである。初名は、政頼(まさより)。
天文14年(1545年)、畠山尾州家の惣領名代・畠山政国の子として生まれる[2][3][注釈 1]。
永禄3年(1560年)、兄・高政が当主を務める畠山氏は、三好長慶との戦いで居城の高屋城を奪われ、永禄5年(1562年)に一時取り戻すも、再び敗れて、河内から紀伊に没落していた。
永禄8年(1565年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに永禄の変で殺されると、当時政頼と名乗っていた秋高は兄・高政から家督を譲られた。秋高は義輝の弟の一乗院覚慶を支持し、足利義秋と名乗った覚慶から偏諱を受け、政頼から秋高に名を改めた。覚慶は永禄9年(1566年)2月17日に還俗して足利義秋と名乗り、永禄11年(1568年)4月15日に元服して義昭に改名しているため、この間のこととみられる。また、左衛門督の官途名もこの頃義秋から賜ったと考えられる。
永禄11年(1568年)、足利義昭が織田信長と共に上洛してくると、秋高は河内半国を安堵され、高屋城に復帰した。この時正式に家督を認められ、河内半国と紀伊の守護に補任されたものとみられる。河内の残る半国は三好義継に安堵された[注釈 2]。
元亀2年(1571年)5月、秋高や義昭直臣の和田惟政と結んで敵対したとして、松永久通が安見右近を自害させ、右近の居城の交野城を攻めた。これに呼応した三好義継・三好三人衆により、秋高の守る高屋城も攻められた。
元亀3年(1572年)閏1月4日、河内守護代の遊佐信教が秋高を殺害しようとしたとの噂が流れた(『多聞院日記』)。
元亀4年(1573年)、足利義昭と信長の対立が激化すると、同年4月時点で秋高・信教共に義昭方に付いており(『顕如上人御書札案留』)、秋高の内衆の多くも義昭派だった。しかし、秋高は信長の威勢に怯み信長派に鞍替えしたともみられ、同年6月25日、信教により殺害された[注釈 3]。
天正3年(1575年)の高屋城の戦いの後、河内は信長に下った三好康長や若江三人衆に統治され、畠山氏の旧臣の多くも信長に仕えた。畠山氏の家督は兄・畠山政尚の子の畠山貞政に継承され[2][3]、紀伊国有田郡において命脈を保ち[2][3]、江戸時代にも高家として存続した[3]。
- ^ 生年は「両畠山系図」[2]や『高野山過去帳』に享年29とあることによる。
- ^ この時、秋高は河内国の南半国、三好義継は北半国を安堵されたともいわれるが、この後の畠山氏は北河内にも支配地を有しており、河内国が単純に南北で分割されたわけではない。
- ^ 『寛政重修諸家譜』や『寛永諸家系図伝』には、信教の謀反を受け自害したとある。