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ひゃくめい収容しゅうようしょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひゃくめい収容しゅうようしょ
沖縄おきなわけん南城なんじょう
玉城たまきむら べいぐん配給はいきゅう砂糖さとうぶくろ(1945ねん6がつ
南城なんじょう知念ちねん半島はんとう
種類しゅるい民間みんかんじん収容しゅうようしょ
施設しせつ情報じょうほう
管理かんりしゃ沖縄おきなわべいぐん基地きち
歴史れきし
使用しよう期間きかん1945-?

ひゃくめい収容しゅうようしょ(ひゃくなしゅうようしょ)は、沖縄おきなわせん当時とうじ、アメリカぐん知念ちねん半島はんとう設置せっちした民間みんかんじん収容しゅうようしょのひとつ。そのなかにひゃくめい孤児こじいん開設かいせつされた。沖縄おきなわけん島尻しまじりぐん玉城たまきむらひゃくめい現在げんざい南城なんじょう大字だいじ玉城たまきひゃくめい)にあった。

概要がいよう

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べいぐん沖縄おきなわせん民間みんかんじん収容しゅうようするために沖縄おきなわとうすうおおくの収容しゅうようしょ(キャンプ)を設置せっちした。なかでも日本にっぽんぐんとも住民じゅうみん摩文仁まぶにいつめられた南部なんぶ激戦げきせんでは、べいぐんあつめられた民間みんかんじんはいったん知念ちねん半島はんとうひゃくめい収容しゅうようしょなどに収容しゅうようされた。そのままひゃくめい収容しゅうようしょ収容しゅうようされる場合ばあいもあれば、北西ほくせい収容しゅうようしょなどにおくられることもあった。

知念ちねん半島はんとう三村みつむらには、玉城たまきむらひゃくめい仲村渠なかんだかりした茂田もだ収容しゅうようしょ知念ちねんむら志喜屋しきや山里やまざと具志堅ぐしけん知念ちねん久手堅くしゅけん収容しゅうようしょ佐敷さしきむら屋比久やびく伊原いはらしんさと収容しゅうようしょつくられた[1]。まさに「終盤しゅうばん半島はんとう全体ぜんたい収容しゅうようしょとしての役割やくわり」をにな状態じょうたいにあった[2]

沖縄おきなわ収容しゅうようしょ (民間みんかんじん収容しゅうようしょ捕虜ほりょ収容しゅうようしょ)
べいぐん知念ちねん半島はんとうへの衛生えいせいへい増員ぞういん要請ようせいした[3]

知念ちねん地区ちく収容しゅうようしょ

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沖縄おきなわとう南部なんぶ住民じゅうみんや、南部なんぶ避難ひなんしていた住民じゅうみんは、日本にっぽんぐんだい32ぐんくびさとから南部なんぶ撤退てったいしたことにより、さらに膨大ぼうだいかず民間みんかんじんをまきこむ戦闘せんとうとなる。べいぐんは5がつ中旬ちゅうじゅんにはすでくびさと与那原よなばる戦線せんせん崩壊ほうかい予測よそくし、さらに大量たいりょう民間みんかんじん収容しゅうようする必要ひつようがあるとして、知念ちねん半島はんとう占領せんりょう完了かんりょうすると同時どうじすみやかに収容しゅうようしょ設立せつりつする計画けいかくてていた[4]

そのべいぐんは6がつ5にち知念ちねん半島はんとう到達とうたつし、稲嶺いなみね屋比久やびく当山とうやまひゃくめい民間みんかんじん収容しゅうようのためのキャンプ(収容しゅうようしょ)が設営せつえいされ、6月5にちから10日とおかにかけて13,285の民間みんかんじん陸軍りくぐんによって移送いそうされた[5]だい7歩兵ほへい師団しだん散布さんぷした投降とうこうビラのいちれい報告ほうこくしょ記録きろくされている[2]

みなさんがこのまま戦闘せんとう地域ちいきつづけると、生命せいめい危険きけんにさらされつづけます。米国べいこく政府せいふは、佐敷さしきむら屋比久やびくおよ玉城たまきむらひゃくめい民間みんかんじん収容しゅうようしょ設立せつりつしました。戦闘せんとう部隊ぶたいぞくしていないみなさんがちゃんと保護ほごされるように、これらのルールにしたがってください。1. ただちに屋比久やびくまたはひゃくめいのどちらかちかほうかってください。2. 毛布もうふ調理ちょうり器具きぐ持参じさんしてください。ぐんは、自由じゆう使つかえる十分じゅうぶん食料しょくりょうみずおよ医療いりょう用品ようひんっています。3. 夜間やかん移動いどう危険きけんなので、昼間ひるま時間じかんたいにだけ移動いどうしてください。(後略こうりゃく — 7th Infantry Division - G-2 Periodic Reports (Nos. 62 - 92) - Ryukyus (Jun - 1 Jul 1945) [001/005]

べいぐんひゃくめい安全あんぜん地帯ちたいだとびかける一方いっぽう、6がつ20日はつか日本にっぽんへいとも摩文仁まぶに海岸かいがんいつめられていく民間みんかんじん投降とうこうするにもいのちがけの状態じょうたいにおかれていた。

20日はつか海岸かいがん絶壁ぜっぺきげる。上半身じょうはんしんはだかの米兵べいへいのはだがあかえました。かずひゃくメートルさきおかには米兵べいへいれつえるが、タマはない。『戦争せんそうわりました。降服こうふくしなさい。おとこはふんどし1まいおんなのみのままひゃくめい知念ちねんきなさい。安全あんぜん衣食住いしょくじゅうあたえられます』とべいぐん放送ほうそうします。上着うわぎをぬごうとしたおとこ兵隊へいたい日本にっぽんがたなでたたきりました。『きさまはスパイだ』とさけびながらなおもずたずたにきます。もう1人ひとりおとこ上着うわぎをぬいでげた。このおとこもたたきられました。わたし身動みうごきもできず、こえませんでした。 — 榊原さかきばら昭二しょうじ沖縄おきなわはちじゅうよんにちたたかい』新潮社しんちょうしゃばん 1983ねん p. 189.

べいぐん報告ほうこくしょは、南部なんぶ収容しゅうようした民間みんかんじん身体しんたいてき状況じょうきょうがこれまでのどの時点じてんよりも深刻しんこくであるとして、衛生えいせいへいなどの人員じんいん増員ぞういん要請ようせいしたことを記録きろくしている[3]

南部なんぶ収容しゅうようされた民間みんかんじん以前いぜんられたどの状態じょうたいよりも身体しんたいてきにひどく深刻しんこく状態じょうたいにあった。すくなくとも収容しゅうようされた民間みんかんじんの30%がなんらかの医学いがくてき治療ちりょう必要ひつようとし、すうひゃくというストレッチャーが緊急きんきゅう治療ちりょうのためにひゃくめいはこまれた。… 部隊ぶたいは6がつ10日とおかから6がつ30にちまで、部隊ぶたい合計ごうけい28,194にん民間みんかんじんあつめ、事実じじつじょうすべての収容しゅうようしゃ知念ちねん半島はんとう退避たいひさせられた。 — Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945

増大ぞうだいする収容しゅうよう人数にんずうかずべいぐん食糧しょくりょう備蓄びちく圧倒的あっとうてき不足ふそくし、おおくの避難ひなんみん飢餓きがマラリアくるしんだ。調査ちょうさによると、べいぐん読谷よみたんむら出身しゅっしんしゃだけでも知念ちねん半島はんとう周辺しゅうへんで64めいくなっている[6]栄養失調えいようしっちょう餓死がしなどが原因げんいんとみられており、知念ちねん半島はんとう収容しゅうよう施設しせつも、その収容しゅうようしょわらず、ネズミやカエルすらくえさねばきることができないほどであった。沖縄おきなわせんきのびてもつづ相克そうこくふかしんきずは、いつまでも人々ひとびとしんくるしめた[7]

祖母そぼとの再会さいかい比嘉ひかさんらはよろこんだが、祖母そぼあしをけがしていたうえ戦場せんじょう恐怖きょうふ避難ひなんによる疲労ひろう栄養失調えいようしっちょうなどがかさなったためか、意味いみ不明ふめい言動げんどうかえしたという。・・・ 祖母そぼ数日すうじつ、マラリアにかかってくなった。比嘉ひかさんもマラリアにかかったが、親族しんぞくがネズミやカエルなどをつかまえてべさせ、一命いちめいめた。 — 琉球新報りゅうきゅうしんぽう沖縄おきなわせんから73ねんりにした少年しょうねんどこに…」
大浦崎おおうらざき収容しゅうようしょ(1945ねん7がつ8にち


北西ほくせい収容しゅうようしょへの移送いそう

増大ぞうだいする収容しゅうようしゃ苦慮くりょしたべいぐんは、収容しゅうようしゃ次々つぎつぎ北西ほくせい海岸かいがん収容しゅうようしょ移送いそうした。南部なんぶべいぐんあつめられた民間みんかんじんはいったん知念ちねん半島はんとうひゃくめい収容しゅうようしょなどにおくられ、そのままひゃくめい収容しゅうようしょ収容しゅうようされる場合ばあいもあれば、辺野古へのこ大浦崎おおうらざき収容しゅうようしょなど北西ほくせい収容しゅうようしょなどにおくられることもあった。移送いそうさきはさらに粗悪そあく状態じょうたいで、おおくの収容しゅうようしゃくなった。

ろくごろに、みんなはトラックで具志頭ぐしかみ小学校しょうがっこうあつめられました。そこには、なんひゃくにんという大勢おおぜい避難ひなんみんあつまっていました。わたしたちは具志頭ぐしかみ小学校しょうがっこう一泊いっぱくして、そこから富里とみさとうつされて、はくしてから、かされてひゃくめい(収容しゅうようしょ)のはらっぱにつれてかれ、ひゃくめいいちはく、その佐敷さしきむらとみさきという部落ぶらくいちげつあいだぐらいいました。とみさき戦争せんそう痕跡こんせきがなく、いえはたけもそのままでした。罐詰かんづめとカンパンだけの配給はいきゅうで、避難ひなんみん農業のうぎょうをしても、大勢おおぜいでしたから、食糧難しょくりょうなんでした。 それから避難ひなんみん一括いっかつうまたかしみなとからアメリカのふねせられ、国頭くにがみ大浦湾おうらわんおくられたんです。大浦湾おうらわん長崎ながさき (註・現在げんざいのキャンプシュワブ管理かんり区域くいき) ですね、そこから大川おおかわ (久志くしむら) にうつされました。大川おおかわというところは、ものなにもないんですよ。べいぐん配給はいきゅうといったら、あかいザラザラした砂糖さとうだけでした。砂糖さとう飯盒はんごうぶたいちはい一人ひとりぶんでした。砂糖さとうみずだけですから、みんな下痢げりをして、栄養失調えいようしっちょうになって、せこけていましたよ。やまにあるフーチバー (よもぎ) や野草やそうなどをってべていました。あそこはたいへんなところでした。やまがわにテントをってあるんですけど、テントのがわまでカラスがるところなんですよ。年寄としよりや子供こどもたちは、つぎつぎとんでいました。 — 東風平こちんだむら出身しゅっしん女性じょせい証言しょうげん沖縄おきなわけんだい10かん(1974ねん沖縄おきなわけん教育きょういく委員いいんかいへん
べい陸軍りくぐん撮影さつえい百名ひゃくな収容しゅうようしょでアメリカぐん医師いし助手じょしゅつとめる少女しょうじょたち(1945ねん沖縄おきなわ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
べい海軍かいぐん撮影さつえい。コザ孤児こじいんどもたちとともうつっているのは、当時とうじ17さいもとひめゆり学徒隊がくとたい 津波古つはこヒサ。(1945ねん8がつ4にち沖縄おきなわ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう

ひゃくめい孤児こじいん

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あそこでの自分じぶん人生じんせいをコンクリートにかためて、うみてたかった。 — 孤児こじいんでの経験けいけんかんするインタビューで(浅井あさい春夫はるお沖縄おきなわせん孤児こじいん」(2013ねん)より)

沖縄おきなわせんでは、日本にっぽんがわ死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃは188,136にんで、そのうちの沖縄おきなわ出身しゅっしんしゃが122,228にん、そのおおくが民間みんかんじんであった(94,000にん[8]沖縄おきなわせんきのびた住民じゅうみんべいぐん設置せっちした民間みんかんじん収容しゅうようしょ収容しゅうようされ、そこで粗悪そあく収容しゅうようしょ運営うんえい由来ゆらいする餓死がしマラリア収容しゅうようしょでなくなった住民じゅうみんすくなくなかった。おやのいないちいさなどもたちもおおく、べいぐんはこれらの収容しゅうようしょ付随ふずいして孤児こじいんを10カ所かしょから13カ所かしょ設置せっちした[9]

女子じょし学徒がくとたい孤児こじいん

激戦げきせん南部なんぶのこ捕虜ほりょとなったはしご学徒がくとたいひめゆり学徒隊がくとたい女子じょし学徒がくとたいらは、まずひゃくめい収容しゅうようしょおくられたが、そこでも収容しゅうようしょ病院びょういん孤児こじいん勤務きんむすることとなる。ひめゆり学徒隊がくとたい南部なんぶ激戦げきせんで240めいのうち、136めいくなっているが、生存せいぞんしゃ一人ひとりである津波古つはこヒサは、捕虜ほりょとなってひゃくめいおくられ、そこで孤児こじたちの世話せわをすることになった経緯けいい以下いかのようにかたっている[10]

はたらくことになって、わたしはもうはたらかない、はやななければいけない、ってそれだけしかかんがえてなくてあれだったんですけどね。… (アメリカへいが) 2さいか3さいぐらいのまるはだかどもを、わたし学生がくせいがいるところにいて。もう14、5にんぐらいだったんですかね、… 本当ほんとう栄養失調えいようしっちょうかおふくれてるし、それからちょっとの物音ものおとでもがたがたふるえてるし、もうくちひらいていてるはずなのに、もうこえてない。かわいそうに、このどもたちは、おやれてあるいたらけがさせていけないとおもって、あななかれてあったのか、おやがいなくなってどもたちだけになって、かわいそうにって… — もとひめゆり学徒隊がくとたい 津波古つはこヒサ 証言しょうげん(NHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブスより)
1945ねん8がつ4にちべい海軍かいぐん記録きろくは「沖縄おきなわ本島ほんとうコザの医務いむしつ」とあるが、マスで仕切しきった場所ばしょ生活せいかつする孤児こじたちの姿すがた記録きろくされている。

南部なんぶ米兵べいへい保護ほごしたおおくのおやのいないちいさなどもたちは、コザ収容しゅうようしょあつめられ、またその世話せわがかりとして、女子じょし学徒がくとたい少女しょうじょたちも6がつまつごろにコザにおくられた[11]以下いか動員どういんされてナゲーラごう識名しきなごう派遣はけんされたもとはしご学徒がくとたい生存せいぞんしゃ証言しょうげん[12]によると、孤児こじいんちいさなどもたちは、ふくもなくちいさく仕切しきられたマスのなかで寝起ねおきした。それはべい海軍かいぐんが8がつ4にち撮影さつえいした「コザの医務いむしつ」の写真しゃしん一致いっちする。

コザの孤児こじいんです。孤児こじあつまってたから、そこにね、ひめゆりのひと一緒いっしょなんです。ひゃくめい (収容しゅうようしょ) から。ひめゆりのひと一緒いっしょになって、コザの孤児こじいんで。… 着物きもの着替きがえもなくてはだかどもたち。… もう着替きがえもないんですよ。8じょうぐらいの部屋へやよっつに区切くぎってですね、マス状態じょうたいに、そこになんめいかすわけじゃないですか。はだか。このどもたちが1にん、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒いっしょのマスのなかにいる5、6にんどもたちみんなよごれてしまうんです。あさは、このどもたちにびせるのが最初さいしょ仕事しごとです。… あついからどもたちが部屋へやからてきて、夜露よつゆたれるわけなんですよ。たれてくなってるのが、毎日まいにち5、6めいくなっていましたね。着替きがえる着物きものもない、おなかこんなですよ。もう栄養失調えいようしっちょうで。そこからアメリカがですね、べいぐんがミルクのなかにビタミンれて、どもにましたんですけどね。 — もと はしご学徒がくとたい いねぶくマサ 証言しょうげん(NHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブスより)
1949ねん3がつ14にちべい陸軍りくぐん撮影さつえいしたひゃくめい孤児こじいん写真しゃしん
べい陸軍りくぐんカメラマンの撮影さつえい笑顔えがおでこたえるひゃくめい孤児こじいんどもたち(1949ねん3がつ14にち

ひゃくめい孤児こじいん記録きろく

このように、おおくの証言しょうげんかく孤児こじいんでのどもの衰弱すいじゃく相当そうとうすうあったことをつたえているが、収容しゅうようしょとその養老ようろういん孤児こじいん実際じっさい設立せつりつ管理かんりしていたはずのべいぐんには、その記録きろくはほとんどられず、いまも名簿めいぼ業務ぎょうむ日誌にっしなどの所在しょざいあきらかにされていない[13]孤児こじいんでのどもたちの衰弱すいじゃくかんする統計とうけいもなく、浅井あさい春夫はるおは、べいぐん管理かんりのもとで正確せいかく統計とうけい存在そんざいしないこと自体じたいが、「かこみ」であり、施策しさく怠慢たいまんネグレクト)を物語ものがたっていると指摘してきする[9]べいぐん占領せんりょうで、沖縄おきなわ児童じどう福祉ふくしほう制定せいていされるのは本土ほんどに5ねんおくれる1953ねん10がつであり、沖縄おきなわ占領せんりょう政策せいさく優先ゆうせんされるなか、どもの権利けんりおおきく後回あとまわしにされてきた。

また浅井あさいは、べいぐん記録きろく不在ふざいなかべいぐん政府せいふしたで『沖縄おきなわみん政府せいふ要覧ようらん』に記載きさいされたかく孤児こじいんの「収容しゅうよう人数にんずう」のかずと、1945ねん11月21にちから1946ねん4がつ3にちに「うるま新報しんぽう」に掲載けいさいされた孤児こじいんの「よせもとむ」らん名前なまえかずちがいにも言及げんきゅうしている。コザ孤児こじいん新聞しんぶん掲載けいさいされた名前なまえは412めいだが、『要覧ようらん』には81めい記載きさいされている。

ひゃくめい孤児こじいんは1946ねん要覧ようらん』では24にんとされている。うるま新報しんぽうへの掲載けいさい記録きろくかれてはないが、しかし、1946ねんから1949ねんまでぐん政府せいふがあった知念ちねん補給ほきゅう地区ちく将校しょうこうのホームメイドをつとめ、ぐん政府せいふ要人ようじんしたしくせっする機会きかいおおかった上原うえはら栄子えいこは、彼女かのじょ自伝じでん住宅じゅうたく建設けんせつ予定よていからえるひゃくめい孤児こじいん様子ようすしるしている[14]

孤児こじいん見下みおろすそのおかうえからは、戦場せんじょうひろわれたさんひゃくにんほどもいる戦災せんさい孤児こじたちの生活せいかつにとるようにえます。… コンセットとばれるおおきなカマボコがたのトタン屋根やね兵舎へいしゃや、三角さんかく屋根やねならんだ即製そくせい孤児こじいんで、なにらない裸足はだし子供こどもたちが、アメリカ からおくられたお仕着しきせの洋服ようふく帽子ぼうしだけはいち人前にんまえけています。… ふくれたおなかにおへそをし、きらきらとひかに、はならして、… — 上原うえはら栄子えいこつじはな戦後せんごへん(上巻じょうかん)』

収容しゅうよう人数にんずうおおく、コンセットの兵舎へいしゃ収容しゅうようできないため、いまだ三角さんかく屋根やねべいぐん即製そくせいテントを使つかっている孤児こじいん当時とうじ様子ようすがうかがわれる。

屋比久やびくの CIC

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知念ちねん半島はんとう屋比久やびくには日本にっぽんぐん情報じょうほう収集しゅうしゅう翻訳ほんやくするとともに民間みんかんじん尋問じんもんおこな情報じょうほう機関きかんだい310てき情報じょうほうたい分遣ぶんけんたい CIC (310th Counter Intelligence Corps Detachment) が駐屯ちゅうとんし、兵士へいし民間みんかんじんとうきびしい訊問じんもんがおこなわれ、日本人にっぽんじん兵士へいし朝鮮ちょうせんじん軍夫ぐんぷ防衛ぼうえいたい民間みんかんじんとをけ、前者ぜんしゃ屋嘉やか捕虜ほりょ収容しゅうようしょなどにおくられた[15]沖縄おきなわせん作戦さくせん参謀さんぼうである八原やはらはくどおり民間みんかんじんふんして摩文仁まぶにから脱出だっしゅつしたさいべいぐん捕虜ほりょとなり、尋問じんもん高級こうきゅう参謀さんぼうであることが発覚はっかくしたのも、屋比久やびくのCICであった[16]

CICには、さんひゃくめいおとこ収容しゅうようされていた。 年齢ねんれいはまちまちだった。はや検問けんもんをとたのんだが相手あいてにされず焦心しょうしん のうちにさんにちぎた。なながつじゅうろくにちごろと記憶きおくするが、いよいよ審査しんさ順番じゅんばんた。 屋比久やびく検問けんもんしょは、小高こだかおかうえにあった。予想よそうはんして、審査しんさかん全部ぜんぶ 日本人にっぽんじんであった。さんにんずつ横隊おうたいになって、 同時どうじ審査しんさける仕組しくみになっている。 — はちはらひろしどおり沖縄おきなわ決戦けっせん 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ) (Kindle 6825-6829)

知念ちねん

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収容しゅうよう所外しょがいでの行動こうどう範囲はんいきびしく規制きせいされていた。民間みんかんじん収容しゅうようしょは、沖縄おきなわせんのなかで保護ほごした民間みんかんじん管理かんりするための施設しせつであり、沖縄おきなわせんきのびた住民じゅうみん衣食住いしょくじゅう手当てあて提供ていきょうする一方いっぽうで、「基地きち建設けんせつ工事こうじ展開てんかいされる地域ちいきから住民じゅうみん隔離かくりする役割やくわり」をになっており[17]住民じゅうみんかこまれているあいだに、基地きち建設けんせつのための土地とち接収せっしゅう既成きせい事実じじつした。

知念ちねん半島はんとうあつめられた収容しゅうようしゃは、南部なんぶ捕虜ほりょ収容しゅうようする知念ちねん半島はんとう収容しゅうよう施設しせつから、北部ほくぶ収容しゅうようしょ強制きょうせい移動いどうはじまり、7がつ11にちから8がつ18にちまで、6,330にん北西ほくせい地域ちいき収容しゅうようしょおくられた。それでも知念ちねん半島はんとう人口じんこう膨大ぼうだいなもので、そのためべいぐんは9月25にち知念ちねん発足ほっそくさせた。10月に17,914にんだった人口じんこうは、知念ちねん統合とうごう拡大かくだいもあって1946ねん1がつ15にち人口じんこう調査ちょうさでは42,315にんとなった[1]

知念ちねん半島はんとう西側にしがわにはべいぐん基地きち知念ちねん補給ほきゅう地区ちくつくられ、1946ねん10がつから1949ねん12がつまで米国べいこくぐん政府せいふ移転いてんし、それに付随ふずいして4がつ24にち沖縄おきなわみん政府せいふ石川いしかわ東恩納ひがしおんなから佐敷さしきむら新里あらざと南城なんじょう佐敷さしき新里あらざと)のべいぐん基地きち新里にいさと通信つうしんしょ移転いてんしたため、「知念ちねん」はそのあいだべいぐん統治とうち政治せいじ中心ちゅうしんとなった。しかし、1949ねんぐん政府せいふ民政みんせいうつったのち[18]知念ちねんふたた知念ちねんむらへともどる。ペンタゴン・ペーパーズ・スキャンダルで、沖縄おきなわCIA拠点きょてん政治せいじ問題もんだいした知念ちねん補給ほきゅう地区ちくも 1974ねん返還へんかんされた。

知念ちねん半島はんとう周辺しゅうへんべいぐん基地きち 現在げんざい状況じょうきょう
68 知念ちねんだい1サイト 知念ちねんだい1陸軍りくぐん補助ほじょ施設しせつ Bひょう: 陸自りくじ知念ちねんぶんたむろ
69 知念ちねんだい2サイト 知念ちねんだい2陸軍りくぐん補助ほじょ施設しせつ Bひょう: 空自くうじ知念ちねんぶんたむろ基地きち
70 新里にいさと通信つうしんしょ 新里にいさと通信つうしんしょ 1974ねん返還へんかん
71 知念ちねん補給ほきゅう地区ちく(キャンプ知念ちねん 陸軍りくぐん混成こんせいサーヴィスぐん地区ちく 1974ねん返還へんかん

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

  • 浅井あさい春夫はるお沖縄おきなわせん孤児こじいん 戦場せんじょうどもたち』吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2016
  • 鳥山とりやまあつし沖縄おきなわ 基地きち社会しゃかい起源きげん相克そうこく 1945-1956』勁草書房しょぼう 2013ねん
  • 川平かびら成雄しげお沖縄おきなわ 空白くうはくいちねんいちきゅうよんいちきゅうよんろく吉川弘文館よしかわこうぶんかん (2011ねん)
  • 川満かわみつあきら浅井あさい春夫はるお 共編きょうへん戦争せんそう孤児こじたちの戦後せんご1 総論そうろんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2020ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 読谷よみたんむら戦時せんじ記録きろく下巻げかん だいよんしょう べいぐん上陸じょうりく収容しゅうようしょ”. yomitan-sonsi.jp. 2021ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 仲本なかもと和彦かずひこ沖縄おきなわせん研究けんきゅうあらたな視座しざまいぐん作戦さくせん報告ほうこくしょ知念ちねん半島はんとう戦闘せんとう-」(2018ねん)
  3. ^ a b Hodge, John R. (1945-06-01) (英語えいご). XXIV Corps Action Report (PDF). https://apps.dtic.mil/sti/citations/ADA375697. 
  4. ^ Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945, PDF p. 96.
  5. ^ Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945, PDF p. 97.
  6. ^ 具志頭ぐしかみむら空白くうはく沖縄おきなわせん」69ねんなつ戦没せんぼつしゃ足跡あしあとをたどる | 沖縄おきなわタイムス+プラス”. www.okinawatimes.co.jp. 2021ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ 琉球新報りゅうきゅうしんぽう沖縄おきなわせんから73ねんりにした少年しょうねんどこに… 比嘉ひか盛光もりみつさん「いま後悔こうかい存命ぞんめいならあやまりたい」」 2018ねん3がつ21にち 07:00
  8. ^ 沖縄おきなわけん平和へいわ祈念きねん資料しりょうかん | 沖縄おきなわせんQ&A”. www.peace-museum.pref.okinawa.jp. 2021ねん3がつ17にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 浅井あさい春夫はるお沖縄おきなわせん孤児こじいん戦後せんごのなかの児童じどう福祉ふくし空白くうはくめる」(2013)
  10. ^ 津波古つはこ ヒサさん|NHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス”. NHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス. 2021ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ 沖縄おきなわせんわっていない” (jp). オピニオンサイト「iRONNA(いろんな)」. 2021ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  12. ^ いねぶく マサさん|NHK 戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス”. NHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス. 2021ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  13. ^ 沖縄おきなわせんの「孤児こじいん」、民家みんかに50にんまれた:朝日新聞あさひしんぶんデジタル”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. 2021ねん3がつ17にち閲覧えつらん
  14. ^ 上原うえはら栄子えいこつじはな戦後せんごへん(上巻じょうかん)』時事通信社じじつうしんしゃ (1989) p. 272
  15. ^ 保坂ほさか廣志ひろし日本にっぽんぐん暗号あんごう作戦さくせん紫峰しほう出版しゅっぱん (2012) p. 40
  16. ^ 沖縄おきなわ決戦けっせん沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき中公ちゅうこう文庫ぶんこ 1972ねん 位置いち 6825
  17. ^ 鳥山とりやまあつし沖縄おきなわ 基地きち社会しゃかい起源きげん相克そうこく 1945-1956』勁草書房しょぼう 2013ねん 13ぺーじ
  18. ^ 大城おおしろすすむ琉球りゅうきゅう政府せいふ自治じちけん実験じっけんしつ―』おきなわ文庫ぶんこ 1992ねん