いしてん

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いし てん(せき てんりん、1218ねん - 1309ねん)は、モンゴル帝国ていこくつかえた漢人かんど一人ひとりてんみずじゅんしゅうゆたかけん出身しゅっしん

概要がいよう[編集へんしゅう]

いしてん麟は14さいにしてだい2だい皇帝こうていオゴデイ謁見えっけんし、ケシク(宿衛しゅくえいはいった。いしてん麟は学問がくもんこのんだだけでなく、しょ外国がいこくまなんだため、オゴデイのいのちけて耶律すわえざい補佐ほさめいじられた。さらにそのはたらきぶりをみとめられ、マングタイ(こうむだい)というモンゴルめいあたえられ、西方せいほう遠征えんせいにはジャルグチ(だんごとかん)ににんじられている[1]

だい4だい皇帝こうていモンケ治世ちせい1256ねんオゴデイカイドゥした派遣はけんされたいしてん麟はカイドゥによって拘留こうりゅうされてしまった。モンケは即位そくい敵対てきたい派閥はばつであったオゴデイ王族おうぞく功臣こうしんおお処刑しょけいしており、カイドゥはモンケに敵愾心てきがいしんいていたためとみられる。モンケが1260ねん急死きゅうしおとうとクビライ即位そくいして以後いごいしてん麟は拘禁こうきんされつづけ、カイドゥが中央ちゅうおうアジアに独自どくじ勢力せいりょくけんきずはじめたことによってカイドゥとクビライの関係かんけいさら悪化あっかしていった。1276ねんにはカイドゥ討伐とうばつのために派遣はけんされたクビライのよんなん北平きたひらおうノムガン反乱はんらんによってらえられ(シリギのらん)、この叛乱はんらんてカイドゥの中央ちゅうおうアジア支配しはいはよりるぎないものになっていった。

もといしてん麟伝によると、このときいしてん麟がくしてカイドゥを説得せっとくしたためノムガンといしてん麟のりょう解放かいほうされてクビライのしたもどったとされるが[2]、この逸話いつわはいささかうたがわしい[3]。そもそも、より信頼しんらいのおけるペルシア史料しりょうしゅう』は捕虜ほりょとなったノムガンはジョチ・ウルスしたおくられて軟禁なんきんされ、トダ・モンケ即位そくい(1280ねん)にともな外交がいこう方針ほうしん転換てんかんによってノムガンはクビライのしたおくかえされたと明記めいきする[4]。『あつまり』の記述きじゅつもとづけばノムガンの解放かいほういしてん麟が関与かんよした可能かのうせいひくく、おおくの研究けんきゅうしゃいしてん麟の説得せっとくのみによってノムガンが解放かいほうされたとはみなさない[5]一方いっぽう村岡むらおかりんは「ノムガンは1281ねんいたりもと18ねん)にジョチ・ウルスより帰還きかんしたのち1284ねんいたりもと21ねん)にふたたびカイドゥによって捕虜ほりょにされたがこのとき短期間たんきかん解放かいほうされた」とする新説しんせつ提唱ていしょうしており、村岡むらおかりんいしてん麟がノムガンととも帰還きかんしたのはノムガンが2度目どめ捕虜ほりょになったときのことではないかとする[6]

いずれにせよ、28ねんにわたって拘留こうりゅうされたいしてん麟の帰還きかんをクビライはおおいによろこび、あつ賞賜しょうしすると同時どうじ中書ちゅうしょひだりすすむ抜擢ばってきしようとしたが、いしてん麟は長年ながねん拘留こうりゅうによってとし政治せいじ大権たいけんまかせられるちからはないと辞退じたいしたという[7]。その、ノムガンとともに拘留こうりゅうされていたアントンがカイドゥより官爵かんしゃくけていたと讒言ざんげんするものがいたが、いしてん麟が「カイドゥもまたモンゴルの宗室そうしつであり、状況じょうきょうとしてやすわらわ拒絶きょぜつできなかったのです」と擁護ようごしたため、クビライはいかりをおさめたという[8]

またあるとき征服せいふくされた江南こうなんみちかんきゅうみなみそう皇帝こうていのこぞう所蔵しょぞうしていることが問題もんだいになり、道士どうしらを極刑きょっけいすべしとのこえがあがった。しかしこのけんについて意見いけんもとめられたいしてん麟は、西京にしぎょうだい同府どうふ)でいまりょう国主こくしゅ皇后こうごう銅像どうぞうてられているが問題もんだいとされたことはないとべて極刑きょっけいをやめさせた。このころにはすでに70さいえていたため、クビライより直々じきじききむ龍頭りゅうずつえ下賜かしされている[9]

クビライがくなりオルジェイトゥ・カアン(なりむねテムル)即位そくいすると、いしてん麟はさかえろく大夫たいふつかさ地位ちいさづけられた。また、たまいさお殿どのでのうたげまねかれたときには周囲しゅういすすめもあって痛飲つういんし、オルジェイトゥ・カアンのいのちによっていえおくとどけられたという。オルジェイトゥ・カアンがくなりクルク・カアン(たけはじめカイシャン)即位そくいしたときにも健在けんざいで、たいらあきら政事せいじ地位ちいさづけられたが、1309ねん至大しだい2ねん)8がつに92さいにしてくなった[10]息子むすこにはさかえろく大夫たいふ南台みなみだいちゅうすすむとなったいし珪と、刑部おさかべ尚書しょうしょ・荊湖北道ほくどうせん慰使となったいしカイドゥらがいた[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「いしてん麟字てんみずじゅんしゅうじんとしじゅうよんにゅうぶとそういんとめ宿衛しゅくえいてん麟好がく倦、於諸国書こくしょ習。みかど命中めいちゅうしょれい耶律すわえざい釐正庶務しょむせんけんのうためさんてん麟在せんたまものめいこうむだいそうおうただし西域せいいき、以天麟為だんごとかん
  2. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「けんむねろくねんてん麟使うみ拘留こうりゅう久之ひさゆきすんで而辺はたこう皇子おうじきた安王やすおう以往いおうぐうてん麟所。てん麟稍あずか用事ようじしんしょうおや狎、いん以宗おや恩義おんぎ、及臣子しんし逆順ぎゃくじゅん禍福かふくうみ聞之悔悟かいごとげてん麟与きた安王やすおうどう
  3. ^ 村岡むらおか1999,14ぺーじ
  4. ^ 村岡むらおか1999,15ぺーじ
  5. ^ 安部あべ1950,101ぺーじ
  6. ^ 村岡むらおか1999,20ぺーじ
  7. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「てん麟被拘留こうりゅうじゅうはちねんはじめかえだいえつしょう賚甚あつはい中書ちゅうしょひだりすすむけんだんごとかんてん麟辞曰『しんたてまつ使つかいじょう陛下へいかこう赦弗誅、なにふく叨栄ちょうきょうしん才識さいしき浅薄せんばくとしりょくおとろえ憊、あにのうにんせいこわいたずら廟堂びょうどう羞、敢奉みことのり』。みかどよしみ其誠、褒慰良久よしひさしたがえこれ
  8. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「ゆう譖丞しょうやすわらわ嘗受うみ官爵かんしゃくしゃみかどいかてん麟奏曰『うみじつそうちかし偶有ぐうゆうたがえげん仇敵きゅうてきやすわらわ拒絶きょぜつ所以ゆえんしゃく其疑しんしるべ其臣じゅん也』。みかどいか乃解」
  9. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「江南こうなんみちかん、偶蔵そうおものこぞうゆうそうもとあずか道士どうし交悪、はつ其事、はたおけ極刑きょっけいみかど以問てん麟、たい曰『りょう国主こくしゅきさき銅像どうぞうざい西京にしぎょうしゃいまなおゆう未聞みもんゆう禁令きんれい也』。こととげてん麟年ななじゅうあまりみかど以所かね龍頭りゅうずつえたまもの、曰『きょうねんおい出入でいりみやわきつえ可也かなり』。とき権臣けんしん用事ようじきょうほのおかおるあぶひと莫敢ごとてん独言ひとりごと其姦、しょ顧忌、ひとふく其忠じき
  10. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「なりむね即位そくいさかえろく大夫たいふつかさだいうたげだまいさお殿どの、召天麟与えんたまもの以御やくいのち左右さゆうすすむさけ、頗酔、いのち送還そうかんたけはじめ即位そくい進平しんぺいあきら政事せいじ至大しだいねんあきはちがつそつとしきゅうじゅうおく推誠せんりょく保徳やすのり翊戴功臣こうしん開府かいふどうさんたいうえばしらこくついふう冀国こうおくりなちゅうせん
  11. ^ もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝,「珪、るいかんしょさむらい、遷枢密すうみつ副使ふくしふくためさむらいはい河南かなんゆき中書ちゅうしょしょうみぎすすむ、陞栄ろく大夫たいふ南台みなみだいちゅうすすむそつ次子じしふところはつかさねだんごとかんるい遷刑尚書しょうしょ・荊湖北道ほくどうせん慰使。まご哈藍あかかさねだんごとかん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 安部あべ健夫たけお西にしウイグル国史こくし研究けんきゅう』彙文どう書店しょてん、1950ねん
  • 村岡むらおかりん「オルダ・ウルスと大元おおもとウルス」『東洋とうようえん』52/53ごう、1999ねん
  • もとまき153列伝れつでん40せきてん麟伝
  • 新元しんもとまき186列伝れつでん83せきてん麟伝