あお蹄館のたたか

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あお蹄館のたたか
戦争せんそうぶんろくやく
年月日ねんがっぴぶんろく2ねん1がつ26にち1593ねん2がつ27にち
場所ばしょ朝鮮ちょうせんこく京畿けいきどうこうけん
結果けっか日本にっぽんぐん勝利しょうり

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

交戦こうせん勢力せいりょく
あきら
朝鮮ちょうせんこく
豊臣とよとみ政権せいけん
指導しどうしゃ指揮しきかん
如松

せん萬里ばんり 如柏
秋水しゅうすいきょうあきら副将ふくしょう
こう彦伯(朝鮮ちょうせんぐん

先鋒せんぽうたい小早川こばやかわ隆景たかかげ
立花たちばな宗茂むねしげ

本隊ほんたい宇喜多うきた秀家ひでいえ

戦力せんりょく
先鋒せんぽう5,000~20,000[9]

べつどうたい50,000以上いじょう諸説しょせつあり。)

先鋒せんぽうたい3,000(1500)~20,000[10]

本隊ほんたい21,000(だい部分ぶぶん戦闘せんとう参加さんか[10]

損害そんがい
諸説しょせつあり

被害ひがい甚大じんだい[11]

戦死せんし6,000[12]

死傷ししょうしゃ1,500[13]

死傷ししょうしゃ500-600[14] 

すうせんにん[15]  

諸説しょせつあり

戦死せんし120あま[13]

死傷ししょうしゃ500-600[14] 

文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき

あお蹄館のたたか(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきにおける合戦かっせんひとつ。

ぶんろく2ねん1がつ26にち1593ねん2がつ27にち)に朝鮮半島ちょうせんはんとうあお蹄館(ピョクチェグァン(벽제관)、現在げんざい京畿けいきどうこう徳陽とくようあお蹄洞一帯いったい周辺しゅうへんで、平壌ぴょんやん奪還だっかんいきおいにかんじょうげんソウル)めざして南下なんかする如松ひきいるやく5,000のあきらぐんを、小早川こばやかわ隆景たかかげらがひきいるやく40,000の日本にっぽんぜい迎撃げいげきやぶったたたかい。

戦闘せんとうまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

あかり軍勢ぐんぜいによる平壌ぴょんやん陥落かんらく大友おおとも吉統よしむね逃亡とうぼう誤報ごほうによる無断むだん退却たいきゃくとも)などによって一時いちじ混乱こんらん状態じょうたいにあった日本にっぽんぜいだが、朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ各地かくち展開てんかいしていたしょしょうかんじょうあつめて戦力せんりょくなおしをはかった。ぐんにおいて石田いしだ三成みつなり大谷おおやきちまましたちが籠城ろうじょうせん主張しゅちょうするなか小早川こばやかわ隆景たかかげ[16]立花たちばな宗茂むねしげなどが迎撃げいげきせん主張しゅちょう宇喜多うきた秀家ひでいえそう大将たいしょう小早川こばやかわ隆景たかかげ先鋒せんぽう大将たいしょうとし石田いしだ大谷おおやかんじょうのこ兵力へいりょくをほぼ二分にぶんするかたちあお蹄館のたたかいにのぞんだ。

23にち開城かいじょうにて如松がかんじょう攻略こうりゃく作戦さくせん会議かいぎひらき、査大受を偵察ていさつたいとしておくことめる[17]

24にち、査大受ひきいるあかりぐん偵察ていさつたい日本にっぽんぐん偵察ていさつたいおも指揮しきかん加藤かとうひかりやすし前野まえのちょうやすし)に勝利しょうり日本にっぽんぐん偵察ていさつたいは60にんあまりの死者ししゃをだし撤退てったいする[10]朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろくでは日本にっぽんぐん偵察ていさつたい戦死せんしを100~1000とする複数ふくすう記事きじがある [18] [19] [20] [21] [22] [23]やなぎしげるりゅうの懲毖ろくにおいては、あかりぐんった首級しゅきゅうひゃく余人よにん[24]


査大受はこの勝利しょうり開城かいじょう如松に報告ほうこく朝鮮ちょうせんじんによる「日本にっぽんぐん精鋭せいえい平壌ぴょんやん壊滅かいめつかんじょうにはじゃくへいのこるのみ」との報告ほうこくもあったため、25にち如松は5000のへいとも開城かいじょう出発しゅっぱつする[10]

戦闘せんとう経過けいか[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん迎撃げいげき先鋒せんぽう立花たちばな宗茂むねしげ高橋たかはし直次なおじ立花たちばな直次なおじ兄弟きょうだいとし[25]午前ごぜん2ごろさき森下もりしたひとしくも[26]じゅうおもんみゆかりけいへい30めいてきじょう偵察ていさつてきぐん未明みめいうち進軍しんぐんすると予測よそくし、午前ごぜん6ごろあお蹄館南面なんめんの礪石みね北側きたがわしょ布陣ふじんした。先鋒せんぽう500をひきいたじゅうおもんみどう[27]内田うちだみつるつづけ[28]正面しょうめんすくない軍旗ぐんきてることで、査大受ひきいるあかりぐん2000をだまして進軍しんぐんするよう誘致ゆうちし、越川こしかわとうげ南面なんめんにて正面しょうめんおもんみどうらと交戦こうせん開始かいしした。そしてそうしげる直次なおじ本隊ほんたい2000は、先鋒せんぽうおもんみどうらと中陣なかじん700の小野おの鎮幸[29]米多比ねたび鎮久[30]じんがえするさいに、直次なおじ[31]戸次とつぎ鎮林[32]陣頭じんとうてて、左側ひだりがわめんからてき後詰ごづめこう彦伯朝鮮ちょうせんぐんすうせん奇襲きしゅう仕掛しかけて撃退げきたい成功せいこうし、さらそうしげるは800そなえをひきいてあきら朝鮮ちょうせんぐん猛烈もうれつ追撃ついげき戦果せんか拡大かくだいした。ここで日本にっぽんぐんは7せんてきぐん遭遇そうぐうする [33]立花りっかぐん奮戦ふんせんするが、てきぐん次々つぎつぎ新鋭しんえいへいえてくる[33]。 この最中さいちゅうじゅうおもんみどう内田うちだみつるつづけ安田やすだこくままし[34]らは突撃とつげき敢行かんこうやりげてすうじゅう突落つきおと[35]あきら朝鮮ちょうせんぐん中央ちゅうおう突破とっぱして回転かいてん突破とっぱしたが、そのさい中陣なかじん戸次とつぎみつるただし[36]強弓ごうきゅういて20あまりてきへいおと援護えんごしながらも[37]おもんみどう如梅毒矢どくやけて、帰陣きじんからもなく戦死せんし[38][39][40]はた奉行ぶぎょう池辺いけべえいあきら[41]おもんみどう負傷ふしょう先鋒せんぽうたい指揮しきを暫任しちゅうじんわるのを成功せいこうさせたが、追撃ついげきせん戦死せんしした。寡兵かへい立花りっか高橋たかはしぜい奮戦ふんせんしてこれを撃退げきたい越川こしかわとうげ北方ほっぽう右側みぎがわにてへいやすませ、こののち小早川こばやかわ隆景たかかげなど日本にっぽんぐん先鋒せんぽうたい到着とうちゃくすると、疲労ひろうふか立花りっかぜい後方こうほうげて、西方せいほう小丸山こまるやまうつりじんした[42]。この戦端せんたんひらかれた時点じてんでは日本にっぽんぐん本隊ほんたいはまだかんじょうった。

午前ごぜん10ごろこうばらあかりぐんひだりみぎ中央ちゅうおうさんたい陣形じんけいせた。日本にっぽんぐん先鋒せんぽうたいぜんぐんあお蹄館南面なんめんもちきゃくすずり埋伏まいふくさせ、同時どうじさんぽう包囲ほういさく進行しんこう立花りっか高橋たかはし[43]吉川よしかわひろひだりかた小早川こばやかわしげるつつめ毛利もうり元康もとやす筑紫つくしひろもん宇喜多うきた秀家ひでいえみぎかたからまが進軍しんぐんする。午前ごぜん11ごろ正面しょうめん隆景たかかげぐん先陣せんじんたいうちあかりぐん矢面やおもてった粟屋あわやけいゆうたい次々つぎつぎされる新手あらてささえきれずに後退こうたいはじめるとあかりぐんはすかさず追撃ついげきうつる。しかし、戦機せんきってそれまで待機たいきしていたもう一方いっぽう井上いのうえけいさだたいがそのがわまわんで攻撃こうげきし、井上いのうえたいにいる清水しみずけい鉄砲てっぽうたい射撃しゃげきしたことであかりぐんだい混乱こんらんとなった[44][45]。そののがさず立花たちばな宗茂むねしげ部将ぶしょう立花たちばな成家なりいえ[46]鉄砲てっぽうたいひきいてさんかいたせ、高橋たかはしぜいとも多数たすう軍旗ぐんきかかげて太鼓たいこらせ[47]ぜんぐんそろってひだりかたから敵陣てきじん強襲きょうしゅうする[48]小早川こばやかわしげるつつみ毛利もうり元康もとやす[49]筑紫つくしひろもんいきおいみぎかたからがわげき隆景たかかげ本隊ほんたい[50]吉川よしかわひろ[51]安国寺あんこくじ恵瓊えけい[52]宇喜多うきた家臣かしん戸川とがわいたるやす国富くにとみ貞次ていじ[53]花房はなぶさしょく正面しょうめんより進撃しんげきし、あかりぐん前衛ぜんえい撃破げきはしてきたあお蹄館にいた如松本隊ほんたいせまって正午しょうご激戦げきせんとなった、このさい立花りっかぐんには小西こにし行長ゆきながからの使者ししゃ宇佐美うさみみん奮戦ふんせんして兜首かぶとくびふたつをった[54]。また、立花たちばな家臣かしんかねかぶと[55]しょう安東あんどう常久つねひさ[56]いちちして如松自身じしん落馬らくばしたが、如梅けて常久つねひさ戦死せんしした。落馬らくばした如松は小早川こばやかわ部将ぶしょう井上いのうえけいさだ手勢てぜいせまられたが、側近そっきんゆうごえたてとなってこれをたすけ、如梅、如柏らが救出きゅうしゅつした、如松の親衛隊しんえいたいゆうますなど80めいほど戦死せんしした。そこにあかりぐんふくそうへい楊元ぐん火器かき装備そうび部隊ぶたい)をひきいて援軍えんぐんとしてけつけ態勢たいせい回復かいふくして防戦ぼうせんつとめるが、身動みうごきもままならない狭隘きょうあいさんぽうから包囲ほういされるかたちとなって壊走をはじめたのは午後ごご1ごろであった[57]

かくして日本にっぽんぐん本隊ほんたい本格ほんかくてき戦闘せんとう参加さんかたずに正午しょうごごろにはたたかいの大勢おおぜいけっし、隆景たかかげらの日本にっぽんぐん退却たいきゃくするあかりぐんあお蹄館北方ほっぽうとうげめぐみかげみね午後ごご2から4まで追撃ついげき深追ふかおいめたが、そうしげる秀家ひでいえ軍勢ぐんぜいはよりきたとらさとまで追討ついとうし、午後ごご5までにかんじょうげた。あかりぐん開城かいじょうまで撤退てったいした。

なお、立花りっかぐんかねそな先鋒せんぽう隊長たいちょう小野おの成幸しげゆき[58]与力よりきしゅ小串おぐしなりおも[59]小野おの久八郎きゅうはちろう[60]一門いちもん戸次とつぎ鎮林、そして高橋たかはし家中かちゅう今村いまむら喜兵衛きへえ井上いのうえ平次へいじ帆足ほあしひだりひらた梁瀬やなせしんかい戦死せんしし、そうしげるはこの激戦げきせん騎馬きばまで血塗ちまみれとなり、ふたつのかぶとくびくら四方しほうしゅけ、かたないがんでさやもどせなくなったという。また、しゅうつつみ家老がろう横山よこやま景義かげよし部将ぶしょうかつら左衛門さえもん内海うつみおにすすむ伽羅きゃらあいだ弥兵衛やへえ手島てじまおおかみすけ湯浅ゆあさしんみぎ衛門えもん吉田よしだふとし左衛門さえもんなみあいだごう左衛門さえもんなど、こういえ配下はいか綿貫わたぬき藤次郎とうじろう戦死せんしした。

あかりぐん被害ひがい[編集へんしゅう]

このたたかいでは、歩兵ほへい火器かき温存おんぞんしたあきらぐん騎兵きへい中心ちゅうしん編成へんせいとなっていたが、あお蹄館の騎兵きへい機動きどうりょくかすことの出来できない狭隘きょうあい渓谷けいこくであり、かつ前夜ぜんやよりのあめ泥濘でいねいしていた。騎馬きば不適ふてき戦場せんじょうであったこともあり、この一戦いっせんあかりぐんこうむった損害そんがい甚大じんだい[2]戦死せんししゃすう6,000あまりのぼるとされる[61]朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく記事きじでは、日本にっぽんぐん戦死せんし120にんあかりぐん死傷ししょう1,500にんとあり[6]朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろくべつ記事きじでは、日本にっぽんぐんあかりぐん死傷ししょうしゃ双方そうほう500~600にんとある[14]。またべつ記事きじには「てんへい(中国ちゅうごくへい)短劍たんけん騎馬きば, 無火むか, みちけわし泥深どろぶか, 不能ふのうはせ騁, ぞく(日本にっぽんぐん)奮長がたな, 左右さゆう突鬪, ほこさきするど無敵むてき。」という記述きじゅつもある[62]さら朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく記事きじでは、如松の麾下きか親衛隊しんえいたいうちゆうます勇士ゆうし80にんあまりが戦死せんししたことしるされている[63]。またいえひのとぶんます戦死せんしした[64]

如松ぐんのために兵糧ひょうろうとう手配てはいもしていた、朝鮮ちょうせん宰相さいしょうであるやなぎしげるりゅう著述ちょじゅつした懲毖ろくには、「如松提督ていとくひきいていたのはみな北方ほっぽう騎兵きへい火器かきたずただあじわる短剣たんけんっていただけだった。一方いっぽうぞく(日本にっぽんぐん)は歩兵ほへいでその刀剣とうけんはみな3,4しゃくあじ無比むひのものだったから、衝突しょうとつ激闘げきとうしてもその長刀ちょうとうまわしてりつけられるのでひとうまみなたおえてかうものはなかった。提督ていとく後続こうぞくぐんせたが、その到着とうちゃく以前いぜんさきぐんすでやぶ死傷ししょうしゃはなはおおかった。日暮ひぐれに提督ていとくは坡州にもどった。その敗北はいぼくかくしてはいたものの、気力きりょく沮喪そそうすることはなはだしく、よるにはしたしく信頼しんらいしていたいえひのと戦死せんし痛哭つうこくした。」とある。

フロイスちょのフロイス『日本にっぽん』には、沈惟けい交渉こうしょうとき、「日本人にっぽんじん中国人ちゅうごくじんよりも勇敢ゆうかんで、武器ぶき戦術せんじゅつすぐれており、間違まちがいなく中国ちゅうごくぐんおおくのめん日本人にっぽんじん見劣みおとりしている。しかし中国人ちゅうごくじん兵力へいりょくおおい」とべたとしるされている

その影響えいきょう[編集へんしゅう]

このたたかいの敗北はいぼくによって如松は戦意せんい喪失そうしつしてあかりぐんいきおいはそがれ、開城かいじょう、さらに平壌ぴょんやんまでまで撤退てったい[65]武力ぶりょくによる日本にっぽんぐん撃退げきたい方針ほうしんあきらめて講和こうわ交渉こうしょうへと転換てんかんする。その一方いっぽう日本にっぽんぐんも3がつあかりぐんかんじょう近郊きんこう龍山たつやま兵糧ひょうろうくらはらわれ[66]食料しょくりょう調達ちょうたつもっと困難こんなんなときに兵糧ひょうろうめん甚大じんだい損失そんしつしたため長期ちょうきせんむずかしくなり、石田いしだ三成みつなり小西こにし行長ゆきながらはあかりとの講和こうわ交渉こうしょう開始かいしした。

日本にっぽんあきらりょうぐん編成へんせい[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん

参謀さんぼう本部ほんぶへんの「日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく」では、実際じっさい戦闘せんとうおこなった日本にっぽんぐん先鋒せんぽうを2まん戦闘せんとう参加さんかしなかった本隊ほんたいを2まん1せんとしている[10]

ぶんろくやく立花たちばな宗茂むねしげ高橋たかはし直次なおじへいすう(軍役ぐんえきすう)は通説つうせつではさんせんにんほどとされるが、人夫にんぷなどの戦闘せんとういん半数はんすうおよんだとされる[67]。 そして当時とうじ出陣しゅつじんしょ大名だいみょうはほとんど軍役ぐんえきすう未満みまん状態じょうたい出兵しゅっぺいするのが常態じょうたいで(『柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほい)「従軍じゅうぐんしゃとり取次とりつぎろう兵衛ひょうえじょう手記しゅき覚書おぼえがき」の記述きじゅつによると、ぶんろくやく最初さいしょ渡海とかいさい立花たちばな宗茂むねしげひきいる人数にんずうは1500)、立花りっかぐん参戦さんせんへいすうは1500程度ていどだと推測すいそくされる。[68]

そう大将たいしょう-宇喜多うきた秀家ひでいえ先鋒せんぽうたい大将たいしょう-小早川こばやかわ隆景たかかげ

先鋒せんぽうたい

合計ごうけい20,000[10]

本隊ほんたい(だい部分ぶぶん戦闘せんとう参加さんか)

合計ごうけい21,000[10]

かんじょう守備しゅび

あかりぐん

参謀さんぼう本部ほんぶへんの「日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく」では、あかりぐん先鋒せんぽうを2まんとしている[10]

なお、平壌ぴょんやん攻撃こうげきあかりぐんへいすうは43,000あまり、朝鮮ちょうせんぐんへいすうは8,000あまりであった[70]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ あかり/まき20 "如松進攻しんこうおうきょうぐうやまと於碧蹄館,はい績。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき20
  2. ^ a b あかり/まき238 "官軍かんぐん喪失そうしつ甚多。かい天久あめくいれいねあぜちゅうとくたくましやまと嶽山たけやまめんかんすいれん營城ちゅう廣樹ひろきろうほうぜっ官軍かんぐん乃退ちゅう開城かいじょう。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき238
  3. ^ あかり/まき238 "はつ官軍かんぐんとし平壤ぴょんやんほこさきするど甚,ふくといふうみつぎごと。及碧蹄敗衄" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき238
  4. ^ あかり/まき320 "如松すんでしょうけい趨碧蹄館,はい退すさちゅう開城かいじょう。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき320
  5. ^ あかり/まき322 "如松じょうかち趨碧蹄館,はい而退。" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき322
  6. ^ a b 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく 1593ねん2がつ5にち 當日とうじつ南兵みなみへい千戶吳惟珊, 以調兵事へいじ過去かこげん: ‘前月ぜんげつじゅうななにち, 晌午, てんへいため我國わがくに哨兵しょうへい瞞報しょあやま, いいやまとぞくやめ退ずさ, 京畿けいきやめそら」, りょうへい前進ぜんしん, やまとぞく曾已埋伏まいふく, はんちゅう截圍掩, やまと僅一ひゃくじゅうあまり, てんへい死傷ししょういちせんひゃく, 提督ていとく今住いまずみ臨津江邊えべ, あめゆき如彼, じょうしか退すさたむろ開城かいじょう
  7. ^ 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく 1593ねん1がつ "そう經略けいりゃくしんじゅうやすしゅう, 提督ていとく如松しんへい坡州, せん于碧蹄驛, 不利ふり, 退すさじゅう開城かいじょう提督ていとく引大ぐん而南, やなぎしげるりゅう先行せんこう促辦かてそう, さいわいとぼしきょう。 臨津氷解ひょうかい, 乃從上流じょうりゅう薄氷はくひょうじょう, れんかずらさくぬのませ, さくはり以渡ぐん, れつ士民しみんはじめしたがえ山谷やまたにいずる, 竭力搬運, ことみなずい辦。 提督ていとく徐行じょこういたり坡州, もちおもまえ。 査大受與わがしょうだか彦伯, りょうへいすうひゃく, 先行せんこう偵探, いたりきょう城西じょうせい, ぐうぞく於碧蹄驛みなみ礪石峴, ひゃくあまりきゅう提督ていとく聞之大喜だいぎ, どくあずかしんひのと騎兵きへいせんあまりはせ赴之, れい大軍たいぐんつぎはつぞくさきふく大兵だいひょう於峴, ただすうひゃくにんよりどころ峴示じゃく提督ていとくそく麾兵すすむ, ぞく峴而, へい交, 賊兵ぞくへい猝起於後, ゆいじん山上さんじょう, いくまんあまりてんへい短劍たんけん騎馬きば, 無火むか, みちけわし泥深どろぶか, 不能ふのうはせ騁, ぞく奮長がたな, 左右さゆう突鬪, ほこさきするど無敵むてき提督ていとく麾下きかゆうます及勇はちじゅう餘人よにん砍死, 提督ていとく使査大受殿, だつみち而出, 大軍たいぐんつぎいたり, ぞく望見ぼうけんかえはし提督ていとくくれかえ坡州, 召李ゆうますむこおうしんだい, 拊背慟哭どうこく曰: "こう男兒だんじ, ため也。" 提督ていとくほし退すさじゅうひがし坡, やなぎしげるりゅう、兪泓、きむいのちもととう, 叩帳請見曰: "勝負しょうぶ, 兵家へいかつねこと, とうかんぜい更進こうしん, 奈何いかんけいどう?" 提督ていとく曰: "昨日きのうわれぐん不利ふりごと, ただし此地けい泥濘でいねい, 不便ふべんじゅうぐん, 所以ゆえんほしかえひがし坡, きゅうへい更進こうしんみみ。" とげ退陣たいじんひがし坡。 明日あした退すさじゅう開城かいじょうなるりゅうとうりょくそう聽, どくとめ査大受領じゅりょうへいすうひゃく, あずかやなぎしげるりゅうまもる臨津。"
  8. ^ 中国ちゅうごく——あさ鲜·韩国关系 author:杨昭ぜん pp.486
  9. ^ 日本にっぽん戦史せんし 朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん付記ふきNDLJP:936355/130
  10. ^ a b c d e f g h 参謀さんぼう本部ほんぶへん 『日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』NDLJP:936355/130
  11. ^ あかり/まき238 "官軍かんぐん喪失そうしつ甚多" https://zh.m.wikisource.org/wiki/あかり/まき238
  12. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶへん 『日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』NDLJP:936355/132
  13. ^ a b 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく 1593ねん2がつ5にち やまと僅一ひゃくじゅうあまり, てんへい死傷ししょういちせんひゃく
  14. ^ a b c http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12602019_012&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく "じょう曰: "てんへい死者ししゃ, 其數幾何きか?" とくかおる曰: "あずかぞく, 死傷ししょう相當そうとう, いくいたりろくひゃく矣。"
  15. ^ 柳川やないご史料しりょうへん近世きんせい文書ぶんしょ前編ぜんぺん)61 立花りっか文書ぶんしょ よんはちろく 安国寺あんこくじ恵瓊えけい書状しょじょう こうぬし(高橋たかはし主膳しゅぜん正統せいとうぞう)へしげるどうぜん申入もうしいれこう傳達でんたつしょまれこう已上いじょう廿にじゅう六日大明人罷出候処ニ、先手せんて請取うけとりこう手柄てがらすう千人被討取由京都きょうとさんにんしゅ隆景たかかげ注進ちゅうしんじょうにて承知しょうちまこと雖不ちんこう手柄てがらこうわたる以道かくさるでんこうわたる隆景たかかげおおせだんかか手柄てがらこうなお吉事きちじおいうけたまわこう取紛とりまぎれややいちぴつ申入もうしいれこう恐惶きょうこう謹言きんげんがつにち柳川やながわ侍従じじゅうさま じん御中おんちゅう 安國寺あんこくじ恵瓊えけい P.580。
  16. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいろくじゅうろく小早川こばやかわ隆景たかかげ決心けっしん)
  17. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶへん 『日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』NDLJP:936355/129
  18. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wnb_12601001_003 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろくせん修正しゅうせい実録じつろく ”査大受與わがしょうだか彦伯, りょうへいすうひゃく, 先行せんこう偵探, いたりきょう城西じょうせい, ぐうぞく於碧蹄驛みなみ礪石峴, ひゃくあまりきゅう。”
  19. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602005_008 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく ”提督ていとく先遣せんけん査大受ㆍうけたまわくんとう, りょうせいさんせん, 與本よもと國防こくぼう禦使だか彦伯, ぐうぞく於迎あけぼの驛前えきまえだい受與彦伯, たてへいきゅうげき, ろくひゃくきゅう
  20. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602006_006 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく ”ほんつきじゅうななにち, 提督ていとくりょうへい發行はっこう, 聞査ふく揔ㆍこう彦伯, どう往體さがせ, てき逢賊ろくななひゃくめい, よんひゃくきゅう
  21. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602010_010 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく ”あかつき, 査緫へいあずか防禦ぼうぎょ使だか彦伯, はせいたあきらりょうきんしょ, ぞくしつらえふく于山谷間たにま, さきすうひゃく餘人よにん誘引ゆういんそうへい揮軍掩擊, ぞく坡靡散はし, 殆盡, 彦伯ぐん, また射殺しゃさつ
  22. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602010_010 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく ”じゅうろくにち, 査、りょうしょう, 連日れんじつ剿賊, 甚多。”
  23. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602019_012 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく ”正月しょうがつじゅうななにち, うけたまわくん、査大受、ちょう彦忠、やすしとう, りつさんせんあまりへい, 往碧蹄, あずかぞくしょう, 一人ひとりあるろくじゅうきゅう, あるよんじゅうきゅう, 通計つうけいせんきゅう矣。”
  24. ^ 「懲毖ろくやなぎしげるりゅう ほおがねやく 平凡社へいぼんしゃ 東洋文庫とうようぶんこ 1979ねん 186ぺーじ
  25. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいろくじゅうななそうしげる決心けっしん)
  26. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅうきゅう)森下もりしたひとしくも小傳しょうでん P.250~252
  27. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん()じゅうれんひさ小傳しょうでん P.231~233
  28. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(さん)内田うちだみつるぞく小傳しょうでん P.233~234
  29. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(ろく)小野おの鎮幸小傳しょうでん P.237~238
  30. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(なな)米多比ねたび鎮久小傳しょうでん P.238~240
  31. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(いち)高橋たかはしみつるぞう小傳しょうでん P.229~231
  32. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅういち)戸次とつぎ鎮林小傳しょうでん P.244~245
  33. ^ a b 参謀さんぼう本部ほんぶへん日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』[[[国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん#電子でんし図書館としょかん事業じぎょう|NDLJP]]:936355/131]
  34. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん()天野あまの源右衛門げんえもん小傳しょうでん P.235~236
  35. ^ 柳川やながわ史話しわだいかん 人物じんぶつへんはちはち じゅう傳右でんね衛門えもんについて P.181
  36. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(はち)戸次とつぎみつるちょく小傳しょうでん P.240~241
  37. ^ 筑後ちくご将士しょうし軍談ぐんだんまきだいじゅう すべちょく舉勇めい於異國事こくじ P.540~541
  38. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいろくじゅうきゅうじゅう傳右でんね戦死せんし)
  39. ^ (じゅう系図けいず)によれば、死去しきょは2がつ5にち筑後ちくご国史こくし
  40. ^ 朝鮮ちょうせんがわの『せん実録じつろく』では「前進ぜんしんしてもちきゃく峴下に襲撃しゅうげきしてたず。すでにして先鋒せんぽうさんはたやすしとうぐんらいたりてこれを援く」とあり、あかりぐん先鋒せんぽうたいけたとなっています。『毛利もうり』では「十時伝右衛門惟道とてすういさみほまれあるものさきすすせんしに、大勢おおぜいしつつまれてたれ、其外究竟きゅうきょうもの73にんまくらそうべてたれ、手負ておいすうじゅうにん也。てきをもろくひゃくあまりし。しかれば先手せんてりし唐人とうじんども、同勢どうぜいなか引取ひきとりし」としるしている。
  41. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(よん)池邊いけべえいあきら小傳しょうでん P.234~235
  42. ^ 毛利もうり』によると、このとき大谷おおやきちままし黒田くろだ長政ながまさ日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅうなな 黒田くろだ長政ながまさ威風いふう)前線ぜんせんまでやってて、そうしげる奮戦ふんせんたたえ、すみやかにかんじょうげることをつよすすめましたが、ちょうど到着とうちゃくした小早川こばやかわ隆景たかかげ一緒いっしょにこれに反対はんたいし、あかりぐん本隊ほんたいとの決戦けっせんのぞむね表明ひょうめいした、となっています。
  43. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほいきゅういちてきにしてじんす 219~220ぺーじ
  44. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅう 粟屋あわや井上いのうえあおい蹄の戦功せんこう)
  45. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅうさん 清水しみずけいあお蹄の戦功せんこう)
  46. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(きゅう)立花たちばな成家なりいえ小傳しょうでん P.241~242
  47. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほいはちさんほん品柄しながら 215
  48. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅう 立花たちばな宗茂むねしげあお蹄のことこう)
  49. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅう 毛利もうり元康もとやすあお蹄の戦功せんこう)
  50. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅう一小早川隆景碧蹄のことこう)
  51. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅうよん 吉川よしかわひろあお蹄の戦功せんこう)
  52. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅうろく 安国寺あんこくじ恵瓊えけいあお蹄の戦功せんこう)
  53. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいななじゅうはち 戸川とがわいたるあんあおい蹄の戦功せんこうだいななじゅうきゅう 国富こくふげんみぎ剛勇ごうゆう)
  54. ^ 日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく』(でん だいはちじゅう 宇佐美うさみみん戦功せんこう)
  55. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほいろく立花りっかかさけんとはきむかぶと也 177~178
  56. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅう)安東あんどう常久つねひさ小傳しょうでん P.245
  57. ^ あかり/まき238 はたけい趨碧蹄館。距王きょうさんじゅううら,猝遇やまとかこえすうじゅう。如松とく部下ぶか鏖戰。一金甲倭搏如松急,指揮しきゆうごえことすくえころせ。如柏、やすしとう奮前夾擊きょうげき,如梅しゃきんかぶとやまと墜馬,楊元へいまたいたり,斫重圍じゅういいれやまと乃退,官軍かんぐん喪失そうしつ甚多。かい天久あめくいれいねあぜちゅうとくたくましやまと嶽山たけやまめんかんすいれん營城ちゅう廣樹ひろきろうほうぜっ官軍かんぐん乃退ちゅう開城かいじょう
  58. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅうさん)小野おの成幸しげゆき小傳しょうでん P.246~247
  59. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅうよん)小串おぐしなりじゅう小傳しょうでん P.247
  60. ^ 柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅうきゅう人物じんぶつ略傳りゃくでん小傳しょうでん(じゅう)小野おの久八郎きゅうはちろう小傳しょうでん P.248
  61. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶへん 『日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』 偕行社かいこうしゃ大正たいしょう13ねん(1924ねん)
  62. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく "○そう經略けいりゃくしんじゅうやすしゅう, 提督ていとく如松しんへい坡州, せん于碧蹄驛, 不利ふり, 退すさじゅう開城かいじょう提督ていとく引大ぐん而南, やなぎしげるりゅう先行せんこう促辦かてそう, さいわいとぼしきょう。 臨津氷解ひょうかい, 乃從上流じょうりゅう薄氷はくひょうじょう, れんかずらさくぬのませ, さくはり以渡ぐん, れつ士民しみんはじめしたがえ山谷やまたにいずる, 竭力搬運, ことみなずい辦。 提督ていとく徐行じょこういたり坡州, もちおもまえ。 査大受與わがしょうだか彦伯, りょうへいすうひゃく, 先行せんこう偵探, いたりきょう城西じょうせい, ぐうぞく於碧蹄驛みなみ礪石峴, ひゃくあまりきゅう提督ていとく聞之大喜だいぎ, どくあずかしんひのと騎兵きへいせんあまりはせ赴之, れい大軍たいぐんつぎはつぞくさきふく大兵だいひょう於峴, ただすうひゃくにんよりどころ峴示じゃく提督ていとくそく麾兵すすむ, ぞく峴而, へい交, 賊兵ぞくへい猝起於後, ゆいじん山上さんじょう, いくまんあまりてんへい短劍たんけん騎馬きば, 無火むか, みちけわし泥深どろぶか, 不能ふのうはせ騁, ぞく奮長がたな, 左右さゆう突鬪, ほこさきするど無敵むてき提督ていとく麾下きかゆうます及勇はちじゅう餘人よにん砍死, 提督ていとく使査大受殿, だつみち而出, 大軍たいぐんつぎいたり, ぞく望見ぼうけんかえはし提督ていとくくれかえ坡州, 召李ゆうますむこおうしんだい, 拊背慟哭どうこく曰: "こう男兒だんじ, ため也。" 提督ていとくほし退すさじゅうひがし坡, やなぎしげるりゅう、兪泓、きむいのちもととう, 叩帳請見曰: "勝負しょうぶ, 兵家へいかつねこと, とうかんぜい更進こうしん, 奈何いかんけいどう?" 提督ていとく曰: "昨日きのうわれぐん不利ふりごと, ただし此地けい泥濘でいねい, 不便ふべんじゅうぐん, 所以ゆえんほしかえひがし坡, きゅうへい更進こうしんみみ。" とげ退陣たいじんひがし坡。 明日あした退すさじゅう開城かいじょう, なりりゅうとうりょくそう聽, どくとめ査大受領じゅりょうへいすうひゃく, あずかやなぎしげるりゅうまもる臨津。"
  63. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく "提督ていとく麾下きかゆうます及勇はちじゅう餘人よにん砍死,"
  64. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12602019_012&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= "朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく" "而提とく以其手下てしたひのとぶんますまたたたかえほろび, 痛哭つうこく悲傷ひしょう"
  65. ^ 『懲毖ろくやなぎしげるりゅう平凡社へいぼんしゃ 192ぺーじ
  66. ^ The history of Ming chapter 238 聞倭はたたいらしげるよしみよりどころりゅう山倉やまくらせきあわすうじゅうまんみつれいだい受率したがえあいだ焚之。やまととげとぼししょく
  67. ^ 文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき : ひがしアジアをるがせた秀吉ひでよし野望やぼう学研がっけん歴史れきしぐんぞうシリーズ35〉
  68. ^ 中野なかのとう立花たちばな宗茂むねしげ』P.64~66。中野なかのとう穴井あない綾香あやか柳川やながわ歴史れきし4・近世きんせい大名だいみょう立花りっか』P.117~118
  69. ^ このへいすう通説つうせつ軍役ぐんえきすうですが、朝鮮ちょうせん派兵はへいまえ立花りっか石高こくだかまん887せきから換算かんさんすると実際じっさい軍役ぐんえきすうは2500にん。そして当時とうじ出陣しゅつじんしょ大名だいみょうはほとんど軍役ぐんえきすう未満みまん状態じょうたい出兵しゅっぺいするのが常態じょうたいで(『柳川やながわはん叢書そうしょだいいちしゅう 補遺ほい)「従軍じゅうぐんしゃとり取次とりつぎろう兵衛ひょうえじょう手記しゅき覚書おぼえがき」の記述きじゅつによると、ぶんろくやく最初さいしょ渡海とかいさい立花たちばな宗茂むねしげひきいる人数にんずうは1500)、立花りっかぐん参戦さんせんへいすうは3000どころか2500でさえ未満みまんだと推測すいそくされる。中野なかのとう立花たちばな宗茂むねしげ』P.64~66。中野なかのとう穴井あない綾香あやか柳川やながわ歴史れきし4・近世きんせい大名だいみょう立花りっか』P.117~118。
  70. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶへん 『日本にっぽん戦史せんし朝鮮ちょうせんやく本編ほんぺん附記ふき)』