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わたし弾劾だんがいする

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公開こうかいじょう掲載けいさいされたオーロールとびら

わたし弾劾だんがいする』(わたしはだんがいする、フランス語ふらんすご: J'accuse... !, フランス語ふらんすご発音はつおん: [ʒaˈkyz])は、1898ねん1がつ13にち発行はっこう新聞しんぶんオーロール英語えいごばん」に掲載けいさいされた、文豪ぶんごうエミール・ゾラによる公開こうかいじょうである。

この公開こうかいじょうでゾラは、フランス大統領だいとうりょうフェリックス・フォールてて、政府せいふはんユダヤ主義しゅぎや、スパイ容疑ようぎ終身しゅうしん懲役ちょうえきしょせられたフランス陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうアルフレド・ドレフュス不法ふほう投獄とうごく告発こくはつした。ゾラは、裁判さいばんあやまりと重要じゅうよう証拠しょうこ不足ふそく指摘してきした。公開こうかいじょう新聞しんぶん表面ひょうめん印刷いんさつされ、フランス内外ないがい物議ぶつぎをかもした。ゾラは告訴こくそされ、1898ねん2がつ23にち名誉めいよ棄損きそん有罪ゆうざいとなった。投獄とうごくのがれるため、ゾラは英国えいこく避難ひなんし、1899ねん6がつ本国ほんごくもどった。

ドレフュスの無実むじつ表明ひょうめいしたものにはに、ベルナール・ラザールちょ誤審ごしん:ドレフュス事件じけん真実しんじつ』(1896ねん11月)がある。公開こうかいじょう英語えいごけんにおいてもよくられるようになった結果けっか、「J'accuse!」は、憤激ふんげき権力けんりょく何者なにものかにたいする告発こくはつ意味いみする総称そうしょう表現ひょうげんとして社会しゃかい一般いっぱん認識にんしきされるようになった。

アルフレド・ドレフュス

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ポーランドのŻycie。ゾラの公開こうかいじょうとドレフュス事件じけんについて報道ほうどうしている。

アルフレド・ドレフュスは1859ねん、フランス北東ほくとうアルザス地域ちいきけんミュルーズ市街地しがいちの、裕福ゆうふくユダヤじん家庭かていまれた[1]ひろしふつ戦争せんそう結果けっか故郷こきょうドイツ帝国ていこく併合へいごうされるにいたり、1871ねんにこのってパリうつんだ。 1894ねん、フランス参謀さんぼう本部ほんぶ砲兵ほうへいちょうだったドレフュスは、軍事ぐんじ機密きみつ情報じょうほうをドイツ政府せいふ提供ていきょうしていたうたがいをかけられた[1]

ドイツ大使館たいしかん掃除そうじとしてはたらくフランスのスパイ、マリー・バスティアンが調査ちょうさ出発しゅっぱつてんであった。 彼女かのじょはいつも郵便箱ゆうびんばことくずかごをチェックし、あやしい文書ぶんしょひからせていた[2]。 その彼女かのじょが1894ねんに、ドイツ大使館たいしかんうたがわしい文書ぶんしょ詳細しょうさいリストをれ、それを指揮しきかんのユベール=ジョゼフ・アンリにとどた。 かれはフランスぐん参謀さんぼう幕僚ばくりょう諜報ちょうほう所属しょぞくしていた[2]

6つの破片はへんやぶられたリストを、マリー・バスティアンは、ドイツ軍務ぐんむかんマクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペンのくずかごからつけした[2]文書ぶんしょ調査ちょうさされ、おも筆跡ひっせき鑑定かんてい専門せんもんらの証言しょうげんもとづいて、ドレフュスは有罪ゆうざい判決はんけつけた[3]筆跡ひっせき学者がくしゃらは「ドレフュスの筆跡ひっせきとリストの筆跡ひっせき共通きょうつうてんない のは『自己じこ偽造ぎぞう』の証明しょうめいである」と断定だんていし、それを証明しょうめいするため異様いよう詳細しょうさい準備じゅんびした[4]機密きみつ証拠しょうこ提供ていきょうした将校しょうこう同様どうよう断定だんていした[3]

ドレフュスは、非公開ひこうかい軍法ぐんぽう会議かいぎ反逆はんぎゃくざい有罪ゆうざい判決はんけつけたが、このあいだ自分じぶん不利ふり証拠しょうこについて調しらべる権利けんりあたえられることはなかった。 フランス陸軍りくぐん屈辱くつじょくてき式典しきてんおこなってかれ軍籍ぐんせき剥奪はくだつみなみアメリカフランスりょうギアナ沿岸えんがん位置いちする流刑りゅうけいディアブルとう収容しゅうようした[2]

この当時とうじ、フランスでははんユダヤ主義しゅぎがはびこっており、家族かぞく以外いがいでドレフュスを弁護べんごしたのは、ごく一部いちぶ人間にんげんだけだった。 1899ねんにドレフュスは再審さいしんのためフランスに帰国きこくふたた有罪ゆうざい判決はんけつけたものの特赦とくしゃ[2]。 1906ねん、ドレフュスはふたた上訴じょうそ有罪ゆうざい判決はんけつしをる。 1906ねんかれには「ゆえのない苦難くなんえた兵士へいし」としてレジオンドヌール勲章くんしょう授与じゅよされた[3]

エミール・ゾラ

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エミール・ゾラは、1840ねん4がつ2にち、パリにまれた[5]。 ゾラのおも文学ぶんがく作品さくひんぐんルーゴン・マッカール叢書そうしょ』は、ひろしふつ戦争せんそうのちナポレオン3せい統治とうちフランスだい帝政ていせいのパリ社会しゃかいについてえがかれた、ぜん20さく小説しょうせつから記念きねんてきいちぐんである[5]。 ゾラはまた19世紀せいき文学ぶんがくにおける自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがく提唱ていしょうしゃでもあった[5]。 ゾラはフランスだいさん共和きょうわせい強力きょうりょく支持しじしゃでもあり、レジオンドヌール勲章くんしょう授与じゅよされた[5]

1898ねん1がつかれ自分じぶん名声めいせい覚悟かくごで、アルフレド・ドレフュスのためにがった。 ゾラはフランス大統領だいとうりょうフェリックス・フォールけて公開こうかいじょうをしたため、ドレフュスにたい有罪ゆうざい宣告せんこくしたフランス政府せいふはんユダヤ主義しゅぎ非難ひなんした[5]かれねらったのは、政府せいふ自分じぶん名誉めいよ棄損きそん告訴こくそせざるをないよう仕向しむけ、ひろ世論せろんうったえることだった。 告訴こくそおこなわれれば、ドレフュスに有罪ゆうざい判決はんけつくだされるもととなった証拠しょうこがいかに確実かくじつなものか、かれ支持しじしゃ公表こうひょうする機会きかいられるからだった。 公開こうかいじょうは「J’accuse!」(「わたし告発こくはつする」の)とだいされ、ジョルジュ・クレマンソー主幹しゅかんリベラルパリ日刊にっかんオーロールの表面ひょうめん掲載けいさいされた[5]公開こうかいじょうによる名誉めいよ棄損きそんつみでゾラは告訴こくそされ、週間しゅうかん有罪ゆうざい判決はんけつくだされた。 かれ刑務所けいむしょへの収監しゅうかん宣告せんこくされ、レジオンドヌール勲章くんしょう剥奪はくだつされた[5]収監しゅうかんけるため、ゾラはイングランド亡命ぼうめいし、フランス政府せいふ瓦解がかいするまでそこにとどまり、ドレフュスを弁護べんごつづけた[5]大統領だいとうりょうけたこの有名ゆうめい公開こうかいじょうから4ねん、ゾラは煙突えんとつ排気はいき不良ふりょうによる一酸化いっさんか炭素たんそ中毒ちゅうどくのためくなった。 1908ねん6がつ4にち、ゾラの遺体いたいはパリのパンテオン埋葬まいそうされた[5]

議論ぎろん

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エミール・ゾラは「アルフレド・ドレフュススパイ活動かつどうたいする有罪ゆうざい判決はんけつあやまった罪状ざいじょうもとづいており、冤罪えんざいである」と主張しゅちょうした[5]事件じけん全体ぜんたい背後はいごにアルマン・デュ・パティ・ド・クラム少佐しょうさがいると最初さいしょ指摘してきしたのもかれだった。 ゾラはつぎのようにべている。

かれは、リストの文章ぶんしょうをドレフュスに筆記ひっきさせるという計画けいかく提案ていあんした一人ひとりだった。かがみならんだ部屋へやかれ観察かんさつするあんおもいついた一人ひとりだった。そしてかれは、鎧戸よろいどつきの幻灯げんとうはこんでいるのをフェルディナン・フォルツィネッティ少佐しょうさられた一人ひとりだった。それは睡眠すいみんちゅう被告人ひこくにんうえけて突然とつぜん閃光せんこう目覚めざめさせ、ドレフュスにつみ自白じはくさせようとするためのものだった。[6]

つぎにゾラは、裏切うらぎりについて調査ちょうさがきちんとなされていれば、証拠しょうこしなのリストが、ドレフュスの所属しょぞくする砲兵ほうへい将校しょうこうのものではなく歩兵ほへい連隊れんたい将校しょうこうのものであると、あきらかになったはずだと指摘してきした[6]

ゾラはアルフレド・ドレフュスとすべての正義せいぎ強力きょうりょく擁護ようごし、つぎのようにべた。

かく、これらは事実じじつであり、この誤審ごしんがどのようにまれたかを説明せつめいするものであります。ドレフュスの性格せいかくかれとみ動機どうき欠如けつじょあわせ、かれ終始一貫しゅうしいっかん無実むじつ主張しゅちょうしていることから、ドレフュスは、アルマン・デュ・パティ・ド・クラム少佐しょうさ不気味ぶきみ想像そうぞうりょくと、かれ宗教しゅうきょうてき仲間なかま、そして現代げんだい社会しゃかいあくである「きたないユダヤじん」という強迫きょうはく観念かんねん犠牲ぎせいしゃであることはあきらかであります[6]

調査ちょうさすすむとゾラは、フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐しょうさこそ事件じけん真犯人しんはんにんであり、その証拠しょうこもあるが、「参謀さんぼう本部ほんぶそのものが有罪ゆうざいでないかぎり」かれ有罪ゆうざいだとはられておらず、そのため陸軍りくぐんしょうはエステルアジをかばったのだろうと指摘してきした。

公開こうかいじょう最期さいごでゾラは、ジャン=バティスト・ビヨー将軍しょうぐんがドレフュス無実むじつ絶対ぜったいてき証拠しょうこにぎつぶして真実しんじつくつがえしたのだとうったえた[6]かれは、ラウル・ル・モートン・ド・ボワデフル将軍しょうぐんシャルル・アルチュール・ゴーンス将軍しょうぐん2にんの、ドレフュスにたいする宗教しゅうきょうてき偏見へんけんについても指摘してきしている[6]

ゾラは、ベローム、ヴァリナール、クアールの3にん筆跡ひっせき鑑定かんていいえについても、「健康けんこう診断しんだんかれらの視力しりょく判断はんだんりょく重大じゅうだい不備ふびつからないかぎり」欺瞞ぎまんちた虚偽きょぎ報告ほうこく提出ていしゅつしたのだと指摘してきした[6]

ゾラは最後さいごに、だい1かい軍法ぐんぽう会議かいぎ非公開ひこうかい文書ぶんしょもとづいてドレフュスに有罪ゆうざい判決はんけつくだしたもので違法いほうであり、だい2かい軍法ぐんぽう会議かいぎはエステルアジ少佐しょうさ故意こい放免ほうめんした犯罪はんざい行為こういであると告発こくはつした[6]

波及はきゅう

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『レオン・ドグレルを弾劾だんがいする』


脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Alfred Dreyfus Biography (1859–1935). Biography.com (2007). Retrieved 16 February 2008.
  2. ^ a b c d e Burns, M. (1999). France and the Dreyfus Affair: A Documentary History. NY: St. Martin's College Publishing Group.
  3. ^ a b c Rothstein, E. "A Century-Old Court Case That Still Resonates" The New York Times (17 October 2007).
  4. ^ Gopnik, Adam (2009). “Trial of the Century: Revisiting the Dreyfus affair”. The New Yorker (Condé Nast) (28 September): 72–78. http://www.newyorker.com/arts/critics/books/2009/09/28/090928crbo_books_gopnik 29 May 2011閲覧えつらん. 
  5. ^ a b c d e f g h i j Shelokhonov, S. (2008). Biography for Émile Zola at the Internet Movie Database. Retrieved 15 February 2008.
  6. ^ a b c d e f g Zola, E. "J'Accuse". L'Aurore (13 January 1898). Translation by Chameleon Translations. Retrieved 12 February 2008.
  7. ^ Degrelle, Léon (1935) (フランス語ふらんすご). J'accuse M. Segers: j'accuse le ministre Segers d'être un cumulard, un bankster, un pillard d'épargne et un lâche. Léon Degrelle. https://books.google.fr/books/about/J_accuse_M_Segers.html?id=kHpMMgAACAAJ&redir_esc=y 
  8. ^ j'accuse leon degrelle, on joint Inventaire des archives Rex et mouvements wallons de collaboration, par H. Masson, 1981 par Emmanuel D'Hooghvorst, Action nouvelle,: Assez bon Couverture souple (1936) | Librairie Grandchamps / Fafouille” (フランス語ふらんすご). www.abebooks.fr. 2020ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ Alsop, J., & Alsop, S. "We Accuse!" Harper's (October, 1954).
  10. ^ "J'accuse" by Norman Podhoretz in Commentary Magazine, September 1982 edition.
  11. ^ Sid Maher, “Emotional power of misogyny speech was lost on Gillard”, The Australian, オリジナルの2013ねん7がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20130727023157/http://www.theaustralian.com.au/national-affairs/emotional-power-of-misogyny-speech-was-lost-on-gillard/story-fn59niix-1226685257026 5 September 2013閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Wilkes, Donald E., Jr. (11 February 1998). “'J'accuse...!': Émile Zola, Alfred Dreyfus, and the greatest newspaper article in history”. Flagpole Magazine 12: pp. 12. OCLC 30323514. http://www.law.uga.edu/dwilkes_more/his9_jaccuse.html 28 January 2011閲覧えつらん