はたくま

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
はたくま
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
主君しゅくん 天武天皇てんむてんのう
氏族しぞく はたみやつこ
テンプレートを表示ひょうじ

はた くま(はだ の くま)は、飛鳥あすか時代ときよ人物じんぶつせいみやつこ

672ねんみずのえさるらん大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう)につき、やまときょう集結しゅうけつちゅうてきぐん単騎たんきのりこみ虚報きょほうながした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

はた渡来とらいけい氏族しぞくである。みずのえさるとし672ねん)6がつ下旬げじゅん大海人皇子おおあまのおうじ挙兵きょへいすると、大伴おおとも吹負はこれにしたがうことをめ、大和やまとこくすうじゅうにん同志どうしあつめた。このなかはたくまもいたとかんがえられる。しかしやまときょう集結しゅうけつちゅう大友皇子おおとものおうじがわ軍勢ぐんぜいすうせんからまんえたと推測すいそくされ、吹負の人数にんずう太刀打たちうちできるものではなかった。そのぐん留守るす高坂こうさかおう近江おうみからの使者ししゃ穂積ほづみ百足むかでらが編成へんせいしていた。

大伴おおとも吹負は、べつ留守るす坂上さかがみ熊毛くまげ相談そうだんし、いちかんじきやまとかんじき)に「いつわって高市皇子たけちのおうじ名乗なのり、すうじゅうひきいて飛鳥寺あすかでらきたから陣営じんえいのぞむ。そのときおまえたちは内応ないおうせよ」とった。高市皇子たけちのおうじ大海人皇子おおあまのおうじで、このころ実際じっさいには美濃みのこく不破ふわぐん編成へんせいちゅうであった。6月29にち、吹負たちは百済くだらいえ場所ばしょ諸説しょせつあるが不明ふめい)で武装ぶそうして、みなみもんからた。まずはたくまが犢鼻(うしはなかたちふんどし)をつけてうまり、飛鳥寺あすかでら西にしにあった敵陣てきじんせつけて、「高市皇子たけちのおうじ不破ふわからた。軍勢ぐんぜいおおしたがっている」とった。陣営じんえい兵士へいしくまさけこえいてった。ここで大伴おおとも吹負がすうじゅうひきいてけると、熊毛くまげ諸々もろもろじき呼応こおうした。計略けいりゃく完全かんぜん成功せいこうをおさめ、穂積ほづみ百足むかでころされ、高坂こうさかおう大海人皇子おおあまのおうじかたしたがった。

以上いじょうつたえる『日本書紀にほんしょき』はふんどしでうまった理由りゆうかたらない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]