綦公じき

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こうただし(き こうちょく、なま没年ぼつねんしょう)は、モンゴル帝国ていこくつかえた漢人かんど将軍しょうぐん一人ひとり

概要がいよう[編集へんしゅう]

綦公じきえきらくやすひとで、代々だいだい農業のうぎょう生業せいぎょうとしてきた一族いちぞくだしであった[1]いたりもと5ねん1268ねん)、えきすすむのうかんとなり、栽桑・養蚕ようさんのマニュアルを作成さくせいすうねんばい成果せいかうことに成功せいこうしている[1]いたりもと9ねん1272ねん)、沂・莒・にかわひそかやすしうみしゅう都城みやこのじょうしょせんにんじられた。いたりもと10ねん1273ねん)、きむ下賜かしされて日本にっぽん遠征えんせいためこううららせんせん建造けんぞうすることをめいじられた。このころみなみそうがモンゴルぐん侵攻しんこう頑強がんきょうつづけており、綦公じき勇猛ゆうもうさをったクビライは綦公じきを召見し、みなみそう戦線せんせん投入とうにゅうした。綦公じき当初とうしょ青草あおくさなだかったが霖雨にってたま泉山いずみやまうつり、へい3せんひきいてみなみそうぐんやぶ功績こうせきげた。そのじょうじょう包囲ほういせんくわわり、枢密院すうみついんいのちけてせんせんうんせん建造けんぞうになった[2]

じょうじょう陥落かんらくすると鄧州・ひかりとうしゅうしょぐんひきいてみなみそうりょう平定へいてい従事じゅうじした。いたりもと12ねん1275ねんふゆりゅうきょういたると、みなみそうぐんしろたたかいを仕掛しかけてきたが綦公じきはこれを撃退げきたいし、そのいきおいのままたかしきょう投降とうこうんだ。これによってみなみやすよししゅう・贛州なども続々ぞくぞく投降とうこうし、600ヶ所かしょにもおよしろしがらみ平定へいていするにいたった。その、綦公じきだい3のマングタイ(せわしいにしえだい)にめいじてうめせき攻撃こうげきさせ、みずからは広東かんとん地方ちほうはいってつい沿岸えんがんまでいたった。これらの功績こうせきによりたけあつし将軍しょうぐんかんぐんじょうせんにんじられただけでなく、中央ちゅうおう召喚しょうかんされるとあらためてあきらいさむ大将軍だいしょうぐんかんぐんまん地位ちいさづけられた。またこのころはくのべはくこたえ罕・禿かぶろゆるがせ魯らが西にしなつ方面ほうめん叛乱はんらんこしたため、討伐とうばつめいじられている[3]

このころ中央ちゅうおうアジアではシリギのらん勃発ぼっぱつによって戦局せんきょく悪化あっかしており、綦公じきいたりもと17ねん1280ねん正月しょうがつ中央ちゅうおうアジアビシュバリク赴任ふにんするようめいじられた[1][4][5]。しかし、綦公じきはそれからすぐに出発しゅっぱつせず、いたりもと18ねん1281ねん)5がつに輔国じょう将軍しょうぐん元帥げんすいせん慰使に昇格しょうかくとなったうえで、同年どうねん7がつせん慰使のりゅうおんひきいる肅州のかんへいせんにんとともにビシュバリクにはいった[4][6]。なおこのとき、クビライは綦公じき息子むすこ綦泰にまん地位ちい継承けいしょうさせようとしたが、綦公じきは綦泰には郷里きょうり老父ろうふ世話せわをさせたいとねがたため、マングタイがまんしょく継承けいしょうしたとつたえられている。このころ中央ちゅうおうアジアではビシュバリクをふく天山あまやまウイグル王国おうこくりょうだいもとウルスとカイドゥ・ウルスの最前線さいぜんせんとなっており、いたりもと23ねん1286ねん)にもカイドゥぐん大挙たいきょして侵攻しんこうしてきた(カラ・ホジョのたたか)。これにたいし、大元おおもとウルスぐんひきいるバヤンは綦公ただしすすむユワスらをひきいて洪水こうずいやまたたかいでカイドゥぐん撃退げきたいすることに成功せいこうしたが、綦公じきひきいる部隊ぶたい追撃ついげきせんのさちゅう突出とっしゅつしてぎゃく包囲ほういけてしまった[7]包囲ほういされた綦公じきぐん奮戦ふんせんしたものの綦公ちょくだい5の綦瑗が戦死せんしし、ついに綦公ひたとそのつま、そしてマングタイは捕虜ほりょとなってしまった[7][8]

綦公じき末期まっきについては不明ふめいであるが、マングタイのみはのがれかえることに成功せいこうし、てい遠大えんだい将軍しょうぐんちゅうさむらいまもるおやぐんふく指揮しき使地位ちいさづけられ、のちみずうみしゅう砲手ほうしゅぐんたくみまんてんじて衢州の山賊さんぞく討伐とうばつする功績こうせきがあった[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c みや 2018, p. 340.
  2. ^ もとまき165列伝れつでん52綦公直伝じきでん,「綦公じきえきらくやすじんぎょうのういたりもとねんためえきみやこすすむのうかんきゅうねんため沂・莒・にかわひそかやすしうみしゅう都城みやこのじょうしょせんじゅうねん賜金しきんいのちづくりせい日本にっぽんせんせん于高うららときそうした其勇、使つかい召見、俾与乎不れつ拔都とうりょうへい同行どうこう荊南とうしょ招討ごと。抵峽しゅう青草あおくさなだ、霖雨、すすむかえたむろだま泉山いずみやまりつへいさん千攻安進下寨、やぶこれころせそうぐんひゃく餘人よにん牛馬ぎゅうばななひゃくかえいたりじょう枢密院すうみついんいのちとくづくり戦艦せんかんうんぶね
  3. ^ もとまき165列伝れつでん52綦公直伝じきでん,「じょうすんでたてまつむねりょう鄧州・ひかりからしゅうかんぐん、及郢・ふくじゅくけんぐんきゅうせんひゃくにんしたがえしょぐんみなみじゅうねんふゆいたりたかしきょうそうぐん突出とっしゅつ城門じょうもんぎゃくせんおおやけちょくはいつい抵城とげ踰壕拔木、焚其ろう斬首ざんしゅまんきゅうなまとりこななひゃくにんりゅうきょうくだよしみなみやすよし・贛皆もちふう款附、ひら堡柵ろくひゃく餘所よそおおやけちょくまたれいだい三子忙古台攻梅関、やぶ徳山とくやま寨、にゅう広東かんとんいたり南海なんかいみな下之したのみことのり授公ちょくたけあつし将軍しょうぐんかんぐんじょうせん。召入、あきらいさむ大将軍だいしょうぐんかんぐんまん、佩金とらりょうさむらいまもるおやぐんときはくのべはくこたえ罕・禿かぶろゆるがせ魯叛于西なついのちこうじきりつぐん討平
  4. ^ a b 安部あべ 1955, p. 107.
  5. ^ もとまき11せい本紀ほんぎ8,「[いたりもとじゅうななねんはる正月しょうがつ……丙午ひのえうまいのち万戸綦公直戍別失八里、たまもの鈔一まんせんひゃくじょう
  6. ^ もとまき11せい本紀ほんぎ8,「[いたりもとじゅうはちねんあきなながつかぶとうまついたちいのち万戸綦公直分宣慰使劉恩所将屯肅州漢兵千人、いれべつじゅうはち、以嘗西川にしかわへいひゃく人為じんい嚮導きょうどう
  7. ^ a b 安部あべ 1955, p. 108.
  8. ^ もとまき165列伝れつでん52綦公直伝じきでん,「じゅうはちねんがつ、陞輔国上くにがみ将軍しょうぐん元帥げんすいせん慰使、鎮別じゅうはちさとはつみかどみことのり長子ちょうしたいかさねまんおおやけちょくひねちちねんおい、乞以たいためらくやすけんいん、就養其父、せい、仍終身しゅうしん勿徙しょくいたり、乃以せわしたいかさねまん、佩金とらしたがえ鎮。おおやけちょく陛辞、曰『しんちちねんねがいそう以行』。みかどもといたりそうごと畢、とげけいらくやすぜい貧民ひんみん逋負、悉以賜金しきんだい輸之、乃行。じゅうさんねん諸王しょおううみ叛、おかせべつじゅうはちおおやけちょくしたがえ丞相じょうしょうはくがおしんせん於洪水山みずやまはい追擊ついげきひたとお援兵えんぺいいたりだい五子瑗力戦而死、おおやけちょくあずかつま及忙いにしえだい俱陷焉」
  9. ^ もとまき165列伝れつでん52綦公直伝じきでん,「じゅうよんねんせわしいにしえだい奔還、授定遠大えんだい将軍しょうぐんちゅうさむらいまもるおやぐんふく指揮しき使あらためみずうみしゅう砲手ほうしゅぐんたくみまん。討衢しゅう山賊さんぞく有功ゆうこうあきらいさむ大将軍だいしょうぐんたいおわり於知やすしうみしゅう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 安部あべ健夫たけお西にしウイグル国史こくし研究けんきゅう中村なかむら印刷いんさつ出版しゅっぱん、1955ねん
  • みや紀子のりこ『モンゴル時代じだいの「」の東西とうざい名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2018ねん
  • もとまき165列伝れつでん52綦公直伝じきでん
  • 新元しんもとまき166列伝れつでん63綦公直伝じきでん
  • やまみぎ金石かねいしこころざしまき21綦公元帥げんすいさき塋之