『シモンの堕落 だらく 』(1170年 ねん 作 さく )
シモニア (英 えい : Simony 、羅 ら : Simonia )ないし聖職 せいしょく 売買 ばいばい (せいしょくばいばい)は、金銭 きんせん など対価 たいか を以 もっ て聖職 せいしょく 者 しゃ の位階 いかい や霊 れい 的 てき な事物 じぶつ を故意 こい に取引 とりひき すること。
この用語 ようご は、聖霊 せいれい の力 ちから を得 え るため使徒 しと ペテロ やヨハネ へ金銭 きんせん の供与 きょうよ を申 もう し出 で た人物 じんぶつ である魔術 まじゅつ 師 し シモン (シモン・マグス)の名 な に由来 ゆらい する(使徒 しと 行 ぎょう 伝 でん 8:18-24)。
中世 ちゅうせい 盛期 せいき の神学 しんがく 者 しゃ トマス・アクィナス (1225年 ねん 頃 ごろ - 1274年 ねん )はシモニアについて「霊的 れいてき なもの、または霊的 れいてき なものと一体化 いったいか しているものを故意 こい に売買 ばいばい すること」と規定 きてい した。
具体 ぐたい 的 てき には、聖 ひじり 務 つとむ 職 しょく ・秘跡 ひせき ・教会 きょうかい 裁 さい 治 ち 権 けん といった霊的 れいてき なもの 、聖職 せいしょく 禄 ろく といった霊的 れいてき なものと不可分 ふかぶん なもの 、聖 ひじり 別 べつ した事物 じぶつ といった霊的 れいてき なものが実体 じったい 化 か したもの を、金銭 きんせん ・推薦 すいせん ・力添 ちからぞ え・口添 くちぞ えなどといった世俗 せぞく 的 てき な利益 りえき で以 もっ て故意 こい に交換 こうかん しようとする意思 いし や行為 こうい をシモニアの罪 つみ として規定 きてい している。また、聖 せい 遺物 いぶつ の交換 こうかん や、聖 せい 遺物 いぶつ の容器 ようき の取引 とりひき もまたシモニアと規定 きてい される。
シモニアの分類 ぶんるい として、対価 たいか の種類 しゅるい により
物品 ぶっぴん の授受 じゅじゅ (munus a manu) - 金銭 きんせん ・動産 どうさん ・不動産 ふどうさん など有体 ありてい 資産 しさん を得 え ること
便宜 べんぎ や好意 こうい の供与 きょうよ (munus a lingua) - 口頭 こうとう により賞与 しょうよ や許認可 きょにんか を表現 ひょうげん すること
隷属 れいぞく 的 てき 奉仕 ほうし または尽力 じんりょく (munus a obsequio) - 卑屈 ひくつ ・過度 かど に奉仕 ほうし を行 おこな うこと
と分 わ けることもされる。
なお、シモニアの日本語 にほんご の訳語 やくご は「聖職 せいしょく 売買 ばいばい 」とされているが、必 かなら ずしも「聖職 せいしょく 」の「(金銭 きんせん による)売買 ばいばい 」に限定 げんてい されるものではない。ローマ教皇 きょうこう ウルバヌス2世 せい が『聖職 せいしょく 売買 ばいばい 』を禁止 きんし した。
4世紀 せいき 初頭 しょとう の頃 ころ にはキリスト教会 きょうかい に富 とみ と権力 けんりょく が集中 しゅうちゅう するようになり、そのことから聖職 せいしょく 位 い や秘跡 ひせき が所望 しょもう されるようになる。すでにローマ皇帝 こうてい ガレリウス 治世 ちせい 下 か の306年 ねん に行 おこな われたエルビラ教会 きょうかい 会議 かいぎ において、洗礼 せんれい に際 さい しての金銭 きんせん 授受 じゅじゅ が禁止 きんし される。451年 ねん のカルケドン公 こう 会議 かいぎ において、霊的 れいてき 祝福 しゅくふく に対 たい する金銭 きんせん の授受 じゅじゅ の禁止 きんし が確認 かくにん される。
教皇 きょうこう グレゴリウス1世 せい (在位 ざいい 590年 ねん - 604年 ねん )はシモニアを異端 いたん と規定 きてい し、シモニアを行 おこな った聖職 せいしょく 者 しゃ の地位 ちい を剥奪 はくだつ するのみならず破門 はもん とさえした。また祝福 しゅくふく や埋葬 まいそう 、修道院 しゅうどういん への受 う け入 い れに先立 さきだ つ金銭 きんせん 授受 じゅじゅ についてもシモニアとした。
787年 ねん の第 だい 2ニカイア公 こう 会議 かいぎ の第 だい 5条 じょう においては、魔術 まじゅつ 師 し シモンの名 な を以 もっ て金銭 きんせん の授受 じゅじゅ を強 つよ く断罪 だんざい 。
メロヴィング朝 あさ (481年 ねん - 751年 ねん )やカロリング朝 あさ (751年 ねん - 987年 ねん )の治世 ちせい にもシモニア禁令 きんれい が繰 く り返 かえ し発布 はっぷ された。ただし当時 とうじ の私有 しゆう 教会 きょうかい 制 せい の敷衍 ふえん などからして、実体 じったい としてやむを得 え ない面 めん があったことは否 いな めないと考 かんが えられる。
910年 ねん に創設 そうせつ されたクリュニー修道院 しゅうどういん に端 はし を発 はっ するクリュニー会 かい は、国王 こくおう や伯 はく などの世俗 せぞく 権力 けんりょく や世俗 せぞく 権力 けんりょく 同等 どうとう の司教 しきょう からの独立 どくりつ を「教皇 きょうこう の直接 ちょくせつ 保護 ほご (Libertas Romana)」で以 もっ て進 すす め、ロマンス語 ご 圏 けん を中心 ちゅうしん に聖俗 せいぞく 両 りょう 界 さかい から支持 しじ された。
グレゴリウス改革 かいかく へと至 いた る叙任 じょにん 権 けん 闘争 とうそう の過程 かてい で、シモニアの規定 きてい もまた明確 めいかく かつ厳密 げんみつ になってゆくこととなる。
11世紀 せいき 初頭 しょとう ヴォルムスのブルクハルト(965年 ねん - 1025年 ねん )が教会 きょうかい 法 ほう を集成 しゅうせい 、教会 きょうかい 法 ほう の実体 じったい との乖離 かいり を示 しめ した。これからシモニアは涜聖と認識 にんしき されるようになる。シモニアによる聖職 せいしょく 位 い 取得 しゅとく が許 ゆる されないのみならず、シモニアによって地位 ちい を取得 しゅとく した聖職 せいしょく 者 しゃ から与 あた えられた秘跡 ひせき を無効 むこう とするようにさえなった。この意見 いけん に対 たい してペトルス・ダミアニ はアウグスティヌス の教 きょう 説 せつ に基 もと づき、一度 いちど おこなわれた秘跡 ひせき は有効 ゆうこう であると主張 しゅちょう した(事 こと 効 こう 性 せい (ex opera operato)の優位 ゆうい )。ただしダミアニは、本来 ほんらい は正 ただ しき聖職 せいしょく 者 しゃ によって秘跡 ひせき が行 おこな われるべきだとも述 の べており、またシモニアや聖職 せいしょく 者 しゃ の帯 おび 妻 つま について終生 しゅうせい 批判 ひはん を繰 く り返 かえ している。一方 いっぽう マルムティエのフンベルトゥスや教皇 きょうこう レオ9世 せい は、秘跡 ひせき を行 おこな った人物 じんぶつ の資質 ししつ を重視 じゅうし (人 ひと 効 こう 性 せい (ex opera operantis)の優位 ゆうい )。フンベルトゥスは1058年 ねん に、秘跡 ひせき の対価 たいか として金銭 きんせん を授受 じゅじゅ することのみならず、俗人 ぞくじん による叙任 じょにん をも非難 ひなん している。
1046年 ねん 、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ3世 せい はストリ にて教会 きょうかい 会議 かいぎ を開催 かいさい 。教皇 きょうこう であると主張 しゅちょう し鼎立 ていりつ していたベネディクトゥス9世 せい ・シルウェステル3世 せい ・グレゴリウス6世 せい を廃位 はいい させ、クレメンス2世 せい を即位 そくい させた。中 なか でもグレゴリウス6世 せい については金銭 きんせん で教皇 きょうこう 座 ざ を得 え たシモニアであると非難 ひなん 。またクレメンス2世 せい 以降 いこう 、教皇 きょうこう 使節 しせつ がシモニアを理由 りゆう として地方 ちほう 聖職 せいしょく 者 しゃ らを告訴 こくそ ・廃位 はいい させるようにもなった。
1059年 ねん に発布 はっぷ された教 きょう 令 れい により教皇 きょうこう 選挙 せんきょ が確立 かくりつ 。教皇 きょうこう 就任 しゅうにん の俗人 ぞくじん からの影響 えいきょう が排 はい される端緒 たんしょ を開 ひら いた。
そして1073年 ねん にグレゴリウス7世 せい が教皇 きょうこう に就任 しゅうにん (在位 ざいい 1073年 ねん - 1085年 ねん )。シモニアの発生 はっせい 要因 よういん であった俗人 ぞくじん による聖職 せいしょく 叙任 じょにん を徹底的 てっていてき に禁止 きんし した。この流 なが れは1122年 ねん のヴォルムス協約 きょうやく にて結実 けつじつ することとなる。ただし、それ以降 いこう もシモニア行為 こうい が消滅 しょうめつ することはなく、教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい (在位 ざいい 1198年 ねん - 1216年 ねん )が1215年 ねん に開催 かいさい した第 だい 4ラテラン公 こう 会議 かいぎ においても非難 ひなん されることとなる。
それでもシモニア行為 こうい は行 おこな われた。14世紀 せいき にダンテ は『神 かみ 曲 きょく 地獄 じごく 篇 へん 』の中 なか で、沽聖者 しゃ は第 だい 8圏 けん ・悪意 あくい 者 しゃ の地獄 じごく (第 だい 3の嚢)に堕 お ちるとしている。そこには教皇 きょうこう ニコラウス3世 せい が逆 さか さまにされ足 あし の裏 うら に炎 ほのお が点 さ された姿 すがた が描 えが かれ、ダンテと同 どう 時代 じだい の教皇 きょうこう ボニファティウス8世 せい とクレメンス5世 せい が同 おな じ罪 ざい で地獄 じごく に堕 お ちるであろうと予言 よげん させている。シモニアに対 たい する非難 ひなん はマキャヴェッリ やエラスムス らも行 おこな っている。
14世紀 せいき にはまた新 あら たに聖職 せいしょく 禄 ろく 取得 しゅとく 納金 のうきん (annatae)や聖職 せいしょく 候補者 こうほしゃ 納金 のうきん (provisores)という形 かたち でのシモニアが横行 おうこう した。そして16世紀 せいき に大 だい 規模 きぼ に乱発 らんぱつ された贖宥状 じょう は、金銭 きんせん で秘跡 ひせき を売買 ばいばい することからシモニアであると見 み 做された。これらの状況 じょうきょう に対 たい して、ウィクリフ 、フス 、そしてルター らが批判 ひはん を行 おこな い、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の流 なが れへと至 いた ることになる。
イングランド国教 こっきょう 会 かい は、1559年 ねん に制定 せいてい した統一 とういつ 法 ほう (国教 こっきょう 会 かい 法 ほう )の中 なか で、聖職 せいしょく 者 しゃ の任命 にんめい 式 しき においてシモニアでないことを誓約 せいやく するよう定 さだ めている。現在 げんざい においても国教 こっきょう 会 かい ではシモニアは罪 つみ であると規定 きてい されており、発覚 はっかく すれば、王権 おうけん により職位 しょくい が剥奪 はくだつ され、将来 しょうらい にわたって聖職 せいしょく に就 つ くことが禁 きん じられるとともに、100ポンド の罰金 ばっきん が科 か せられる。
第 だい 264代 だい ローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい は1996年 ねん 2月 がつ 22日 にち に発布 はっぷ した使徒 しと 憲章 けんしょう 『使徒 しと 座 ざ 空位 くうい と教皇 きょうこう 選挙 せんきょ に関 かん して(UNIVERSI DOMINICI GREGIS)』において、「教皇 きょうこう 選挙 せんきょ においてシモニアの罪 つみ が犯 おか されたならば、関与 かんよ した人間 にんげん すべてを伴 ともなえ 事 ごと 的 てき 破門 はもん に処 しょ す」と述 の べ、選挙 せんきょ の公正 こうせい 性 せい を求 もと めている。