(Translated by https://www.hiragana.jp/)
興津立雄 - Wikipedia コンテンツにスキップ

興津おきつ立雄りつお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
興津おきつ達雄たつおから転送てんそう
興津おきつ 立雄りつお
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 静岡しずおかけん焼津やいづ
生年月日せいねんがっぴ (1936-05-19) 1936ねん5月19にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2022-06-09) 2022ねん6月9にち(86さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
181 cm
83 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 内野ないやしゅ
プロ 1959ねん
はつ出場しゅつじょう 1959ねん4がつ11にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1971ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

興津おきつ 立雄りつお(おきつ たつお、1936ねん5月19にち - 2022ねん6月9にち[1] )は、静岡しずおかけん焼津やいづ[2] 出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ三塁手さんるいしゅ一塁いちるいしゅ)。1962ねんまでの登録とうろくめいは「達雄たつお」。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

焼津やいづ中学ちゅうがく時代じだい学年がくねんじょう田所たどころ善治郎ぜんじろう静岡しずおかしょう国鉄こくてつスワローズ)、いち学年がくねんじょう阿井あい利治としはる静岡しずおかしょう国鉄こくてつスワローズ)と望月もちづききょう静岡しずおかしょうせんだい熊谷組くまがいぐみ)、同級どうきゅうにはライバルこう静岡しずおか高校こうこうすすんだ近藤こんどう晴彦はるひこ早大そうだい大洋たいようとうがいた。静岡しずおか商業しょうぎょう高校こうこうではよんばん打者だしゃ一塁いちるいしゅとして活躍かつやく同期どうき横山よこやま俊雄としお静岡しずおかしょう監督かんとく)、1ねん松浦まつうら三千男みちお阪神はんしん)のりょう投手とうしゅようし、1954ねんなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょう。2回戦かいせん初戦しょせん)でのち広島ひろしまカープ捕手ほしゅとなる田中たなかたかしがいた高松たかまつしょうなみる。準々じゅんじゅん決勝けっしょういずみようだか辛勝しんしょう準決勝じゅんけっしょうはこれも広島ひろしまカープに入団にゅうだんする高知商こうちしょうのエース片田かただ謙二けんじを8かいくず逆転ぎゃくてんち。決勝けっしょう進出しんしゅつするが中京ちゅうきょうしょう中山なかやましゅんたけに0-3で完封かんぷうされ敗退はいたいじゅん優勝ゆうしょうにとどまる[2]甲子園こうしえん通算つうさんで4試合しあい出場しゅつじょうし3安打あんだ打率だりつ.200[3]高校こうこう同期どうきたき英男ひでお捕手ほしゅ阪神はんしん)がいる。

高校こうこう卒業そつぎょうとき慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくから勧誘かんゆうけるも受験じゅけん失敗しっぱいし、一旦いったん富士ふじ製鉄せいてつ入社にゅうしゃめるが、その勧誘かんゆうけて専修大学せんしゅうだいがく進学しんがくする[3]大学だいがく同期どうきにはのち広島ひろしまカープで同僚どうりょうとなるあつし(1ねん中退ちゅうたい)がいた。大学だいがく1年生ねんせいからホームランバッターとして活躍かつやく[2]、その強打者きょうだしゃぶりから東都とうと長嶋ながしまばれた[2]東都とうと大学だいがく野球やきゅうリーグでは3優勝ゆうしょう1957ねん全日本ぜんにほん大学だいがく野球やきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいでは、決勝けっしょう杉浦すぎうらただし長嶋ながしま茂雄しげおほん屋敷やしき錦吾きんごらの立大りつだいに0-5でやぶれ、じゅん優勝ゆうしょうわる。リーグ通算つうさん96試合しあい出場しゅつじょう、272打数だすう68安打あんだ打率だりつ.250、5本塁打ほんるいだ、35打点だてん1958ねん春季しゅんきリーグでは二塁手にるいしゅとしてベストナイン受賞じゅしょう[2]三塁手さんるいしゅには中央大ちゅうおうだい桑田くわたたけし選出せんしゅつされた)。

1959ねん広島ひろしまカープ入団にゅうだん[2]、1ねん開幕かいまくから三塁手さんるいしゅレギュラーとなる。よく1960ねんには一塁いちるいしゅまわり、チーム最多さいたとなる21本塁打ほんるいだ藤本ふじもと勝巳かつみと1ほんセ・リーグ2もりとおる同数どうすう)をはなち、オールスターゲームにも選出せんしゅつされる。さらなる飛躍ひやく期待きたいされたが、よく1961ねん春季しゅんきキャンプだい腰椎ようつい分離ぶんりしょうとなり、同年どうねんのシーズン後半こうはん欠場けつじょうするなどややなやんだ[2]

1962ねん腰痛ようつうたたかいながら三塁手さんるいしゅとして復帰ふっき1963ねんにはぜん試合しあい出場しゅつじょうたして、打率だりつ.303(リーグ5)、93打点だてん(リーグ3当時とうじのチーム記録きろく)をマークするなど、チームの中軸ちゅうじく打者だしゃとして活躍かつやくした[2]1965ねんからは一塁いちるいしゅねる。しかし1966ねんには故障こしょうのためシーズン中盤ちゅうばん欠場けつじょうよく1967ねん故障こしょうなやまされ32試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょうにとどまる。その三塁手さんるいしゅ一塁いちるいしゅひかえや代打だいだつとめ、1971ねん引退いんたい[2]

引退いんたいには打撃だげきコーチ就任しゅうにん要請ようせいもあったというが、アパート経営けいえい理由りゆう退団たいだん水道すいどう工事こうじ会社かいしゃ勤務きんむて、東京とうきょう杉並すぎなみ高円寺こうえんじ水道すいどう工事こうじぎょうきょうりつ設備せつび』を経営けいえいした[4]

2022ねん6がつ9にち左下ひだりしたはいせんがんのため死去しきょ。86さいぼつ[1]

詳細しょうさい情報じょうほう

[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

[編集へんしゅう]
とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1959 広島ひろしま 96 305 273 22 60 12 1 5 89 20 3 2 8 0 23 0 1 84 7 .220 .283 .326 .609
1960 129 500 440 56 118 25 4 21 214 64 3 0 13 5 37 0 5 108 9 .268 .329 .486 .815
1961 64 251 221 24 48 13 1 9 90 30 2 2 1 4 23 1 2 61 4 .217 .292 .407 .699
1962 126 466 429 49 112 13 5 12 171 54 0 0 1 5 28 2 3 108 8 .261 .308 .399 .707
1963 140 595 531 66 161 22 4 19 248 93 5 1 2 10 49 3 3 82 19 .303 .359 .467 .826
1964 131 520 464 63 125 16 2 17 196 55 7 5 5 1 44 1 6 73 15 .269 .340 .422 .762
1965 135 530 474 59 130 17 1 15 194 52 4 3 5 3 42 2 6 97 14 .274 .339 .409 .748
1966 93 331 284 33 61 9 1 10 102 28 0 0 2 1 40 1 4 64 9 .215 .319 .359 .678
1967 38 120 111 12 27 5 0 3 41 9 1 1 0 0 9 0 0 22 3 .243 .300 .369 .669
1968 65 165 149 19 40 4 0 12 80 27 1 1 1 1 14 0 0 34 10 .268 .329 .537 .866
1969 80 230 215 22 50 7 0 15 102 35 2 2 0 1 11 0 3 52 9 .233 .278 .474 .752
1970 89 240 223 13 54 6 1 6 80 24 1 1 1 1 13 1 2 47 10 .242 .289 .359 .648
1971 41 60 57 1 12 1 0 1 16 4 0 0 1 0 2 0 0 21 1 .211 .237 .281 .518
通算つうさん:13ねん 1227 4313 3871 439 998 150 20 145 1623 495 29 18 40 32 335 11 35 853 118 .258 .320 .419 .739
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

記録きろく

[編集へんしゅう]
節目ふしめ記録きろく
  • 1000試合しあい出場しゅつじょう:1968ねん9がつ11にち史上しじょう136にん
その記録きろく
  • 3イニング連続れんぞく本塁打ほんるいだ:1965ねん5がつ11にちたい読売よみうりジャイアンツたたかえ 3かいから5かいにかけて、ソロ、2ラン、3ラン ※史上しじょう3にん[5]
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:3かい (1960ねん、1963ねん、1964ねん

背番号せばんごう

[編集へんしゅう]
  • 10(1959ねん - 1971ねん

登録とうろくめい

[編集へんしゅう]
  • 興津おきつ 達雄たつお (おきつ たつお、1959ねん - 1962ねん
  • 興津おきつ 立雄りつお (おきつ たつお、1963ねん - 1971ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 興津おきつ達雄たつおさん死去しきょ 86さい、カープ4ばん活躍かつやく. 中国ちゅうごく新聞しんぶん. (2022ねん6がつ10日とおか). https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/174865 2022ねん6がつ11にち閲覧えつらん 
  2. ^ a b c d e f g h i プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん 2003(2003ねん日外にちがいアソシエーツ)、124ページ
  3. ^ a b 背番号せばんごうえた人生じんせい』24ぺーじ
  4. ^ 背番号せばんごうえた人生じんせい』33ぺーじ
  5. ^ 講談社こうだんしゃかん 宇佐美うさみ徹也てつやちょ日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん」435ページ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]