芸大げいだい事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
事件じけん舞台ぶたいとなった東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ上野うえのキャンパス)

芸大げいだい事件じけん(げいだいじけん)は、1970年代ねんだい後半こうはんに、当時とうじ東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく音楽学部おんがくがくぶ教授きょうじゅ海野うみの義雄よしおヴァイオリン購入こうにゅうどう大学だいがく学生がくせい斡旋あっせんし、その見返みかえりとして、楽器がっき輸入ゆにゅう販売はんばい業者ぎょうしゃ神田かんだ侑晃から80まんえん相当そうとうゆみ現金げんきん100まんえんっていた事件じけん1981ねん発覚はっかくし、国会こっかいでも議題ぎだいにあがるなど楽壇がくだんにとどまらないスキャンダルとなった[1]事件じけん当時とうじ、オーケストラの楽員がくいん楽器がっきって電車でんしゃると「おまえ海野うみの一味いちみか」と酔漢すいかんにからまれる事件じけんきたといわれる[2]

芸大げいだいバイオリン事件じけん[3]ニセバイオリン事件じけんガダニーニ事件じけん海野うみの教授きょうじゅ事件じけん[4]ひとしともばれる。

事件じけん経過けいか[編集へんしゅう]

1981ねん12月1にち楽器がっき輸入ゆにゅう販売はんばいぎょうカンダ・アンド・カンパニー」(げんミュージックプラザ)の社長しゃちょう神田かんだ侑晃が有印ゆういん私文書しぶんしょ偽造ぎぞうおよびどう行使こうし容疑ようぎ東京とうきょう地方ちほう検察庁けんさつちょう特別とくべつ捜査そうさ逮捕たいほされた。神田かんだは、世界せかい有数ゆうすう楽器がっき鑑定かんていしゃレンバート・ウーリッツァーしゃRembert Wurlitzer Co.米国べいこく)の鑑定かんてい用紙ようし偽造ぎぞうし、イタリアから輸入ゆにゅうした楽器がっき塗装とそうなおしたうえみずからがつくったにせ鑑定かんていしょしてニコロ・アマティ作品さくひんいつわり、総額そうがく1おく1000まんえん利益りえきていた[5]

やがて、神田かんだ侑晃にたいする調しらべの過程かてい海野うみの義雄よしおたいする贈賄ぞうわいあきらかになった。そのひとつは、海野うみの神田かんだ保有ほゆうガダニーニイタリアばん英語えいごばん製作せいさくヴァイオリン1ちょう価格かかく1600まんえん相当そうとう)を教育きょういく研究けんきゅうよう弦楽器げんがっきとしてどう大学だいがく購入こうにゅうさせ、その見返みかえりとして、神田かんだからビネロン英語えいごばん製作せいさくのヴァイオリンようゆみ1ちょう価格かかく80まんえん相当そうとう)をったけん。もうひとつは、神田かんだ保有ほゆうプレッセンダイタリアばん英語えいごばん製作せいさくのヴァイオリン1ちょう価格かかく880まんえん相当そうとう)をみずからの指導しどうする学生がくせい購入こうにゅうさせ、その謝礼しゃれいとして神田かんだから現金げんきん100まんえんったけんであった。海野うみの国内外こくないがいのオーケストラと共演きょうえんし、史上しじょう最年少さいねんしょう東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにんすうおおくの国際こくさいコンクールで審査しんさいんつとめるひとし高名こうみょうなヴァイオリニストとしてられる人物じんぶつであった[6]

海野うみの新聞しんぶんしゃのインタビューで「わたし出演しゅつえんりょうは1かい50まんえんもする。民音みんおんのコンサートだって45まんえん一流いちりゅう演奏えんそうだ。3日間にちかん出演しゅつえんすれば150まんえんにもなる。芸大げいだい教授きょうじゅとしての年収ねんしゅう500~600まんえんふくめれば年収ねんしゅうやく2000まんえんわたし楽器がっき業者ぎょうしゃからワイロをもらう必要ひつようはない。こんなことをわれるのだったら、芸大げいだい教授きょうじゅをやめて、演奏えんそう活動かつどう一筋ひとすじきたい」[7]こたえたが、1981ねん12月8にち東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう海野うみの受託じゅたく収賄しゅうわいならびに有印ゆういん私文書しぶんしょ偽造ぎぞう[7]容疑ようぎ逮捕たいほ[1]同年どうねん12月28にち受託じゅたく収賄しゅうわいざい東京とうきょう地裁ちさい起訴きそした。特捜とくそうは1976ねんはじめからやく3ねんのあいだに神田かんだから海野うみのに2000まんえんちか金品きんぴんおくられていることをつかんだ[8]法廷ほうていでは、

  1. ガダニーニ購入こうにゅうのリベートとして神田かんだ侑晃からゆみったけん
  2. 芸大げいだいせい神田かんだ侑晃のみせ楽器がっき斡旋あっせんし、現金げんきん100まんえんったけん

の2てん問題もんだいとなった。

この問題もんだい当時とうじ日本にっぽん社会党しゃかいとう参議院さんぎいん議員ぎいんであった粕谷あらや照美てるみ国会こっかいでも追及ついきゅうし、当時とうじ東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく学長がくちょうであった山本やまもと正男まさお参考さんこうじんとして招致しょうちされるなど、著名ちょめい演奏えんそう教育きょういくしゃかかわった前代未聞ぜんだいみもん事件じけんとして波紋はもんんだ[1]海野うみの逮捕たいほ芸大げいだい綱紀こうき粛正しゅくせいはかり、教員きょういん学外がくがいでする個人こじんレッスンを当面とうめん禁止きんしするともうわせたため、吉田よしだ秀和ひでかずからは「レッスンをやめてどうするのか。それは日本にっぽん音楽おんがく教育きょういくなんじゅうねん後退こうたい損失そんしつ意味いみするおそれがある」「芸大げいだいはいらず学外がくがいにいるものにも才能さいのうゆたかな、あなたかた授業じゅぎょう必要ひつようとする人間にんげんすくなくない。それを全部ぜんぶやめるのですか?」と批判ひはんされた[2]

1985ねん4がつ8にち海野うみの東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ刑事けいじだい10懲役ちょうえき1ねん6がつ執行しっこう猶予ゆうよ3ねん有罪ゆうざい判決はんけつをいいわたされた[9]。これにたいして海野うみのは、東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ控訴こうそしたものの、「裁判さいばんをこれ以上いじょうつづけることは、精神せいしんてきにも時間じかんてきにも演奏えんそう両立りょうりつしない」との理由りゆうにより1985ねん10月29にち控訴こうそげ、有罪ゆうざい判決はんけつ確定かくていした[7]。こののち海野うみの家族かぞくともフランス移住いじゅうして音楽おんがく活動かつどうつづけた。

また、楽器がっきしょう神田かんだ侑晃については1しん実刑じっけい判決はんけつがくだされたが、控訴こうそしん執行しっこう猶予ゆうよとなった[10]

メディア、著名ちょめいじん反応はんのう[編集へんしゅう]

レコード芸術げいじゅつ1982ねん2がつごう巻頭かんとうごとでは村田むらた武雄たけお海野うみの擁護ようご。『週刊文春しゅうかんぶんしゅん1982ねん2がつ18にちごう2がつ25にちごうでは野田のだあきらぎょう小林こばやしひとし海野うみの擁護ようご

音楽おんがく芸術げいじゅつ1982ねん4がつごうでは、だん伊玖磨いくまがこの事件じけん東京芸大とうきょうげいだい廃校はいこうにせよ、関係かんけいしゃそう辞職じしょくせよと主張しゅちょう。『朝日新聞あさひしんぶん』は1981ねん12月30にち社説しゃせつ海野うみの政界せいかいから司法しほうかいにまでおよ金権きんけん体質たいしつ腐敗ふはい象徴しょうちょうとして批判ひはんするとともに、1982ねん2がつ8にち2がつ10日とおか2がつ12にちかく夕刊ゆうかんに「『芸大げいだい事件じけん』のなかかんがえる」とだいする記事きじ連載れんさいし、記事きじなか伊達だてじゅんすみくら一朗いちろう別宮べつみや貞雄さだおがマスコミを非難ひなんした。『毎日新聞まいにちしんぶん1982ねん5月14にちごうでは、編集へんしゅう委員いいん原田はらだ三朗さぶろうが「学外がくがい個人こじんレッスン」の解禁かいきん非難ひなん。『読売新聞よみうりしんぶん1982ねん2がつ18にち夕刊ゆうかんでは、丹羽にわ正明まさあき海野うみのを「音楽おんがくせていた人々ひとびと信頼しんらい裏切うらぎった」と非難ひなんするなど、この事件じけんはマスコミに幅広はばひろ波紋はもん反響はんきょうんだ。

背景はいけい[編集へんしゅう]

この事件じけん背景はいけいには弦楽器げんがっき業界ぎょうかい慣例かんれいであるヴァイオリンころがしがある。ヴァイオリンころがしとは、教師きょうし弟子でし楽器がっきえらびに助言じょげんあたえ、楽器がっきしょうから謝礼しゃれいることである。これについては、海野うみのベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんコンサートマスターミシェル・シュヴァルベも「楽器がっきの10~15%の手数料てすうりょうだれでもっている」と東京とうきょう地裁ちさい証言しょうげんした[7]。しかし、ほん事件じけん場合ばあい舞台ぶたい国立こくりつ大学だいがくだったことから法的ほうてき問題もんだい発展はってんしたものである。このてんにつき、「楽器がっき選定せんてい会議かいぎ海野うみのが、ソリストの立場たちばからわせていただくと……、と発言はつげんすると、だれも反論はんろんできない。それをおもしろくないとおも教授きょうじゅがいた。海野うみの火種ひだねがなかったとはいわないが、事件じけん芸大げいだい内部ないぶ権力けんりょくあらそい。かれおとしいれようとしたのだとおもう」[7]謀略ぼうりゃくろんものもいる。

問題もんだいとなったガダニーニは各地かくち転々てんてんとしつつ作風さくふうえながら楽器がっき作成さくせいつづけた人物じんぶつで、かれつくった楽器がっき鑑定かんていむずかしいことで有名ゆうめいであり、有名ゆうめい楽器がっき鑑定かんていじん本物ほんものだと判断はんだんくだした楽器がっきでも、その研究けんきゅう偽物にせものだとかるケースもある。 げんにこの事件じけん楽器がっきについても、事件じけん大学だいがくがわもうけた調査ちょうさ委員いいんかい調しらべにより楽器がっき自体じたい本物ほんものであり、2つう鑑定かんていしょのうち1つう[7][1]がカンダ・アンド・カンパニー社長しゃちょうにより偽造ぎぞうされたとの結論けつろんくだされている[9]。ただし、「芸大げいだいがわは『鑑定かんていしょニセ物にせものでもバイオリンは本物ほんもの』としていたが、ガダニーニの弟子でしつくったコピーで80まんえん程度ていどしなとわかると、『コピーとはっていたが出来できいから購入こうにゅうした』とあらためて発表はっぴょうした」とする資料しりょうもある[5]

さらに、この事件じけん問題もんだいになった2ちょうのヴァイオリンのほか芸大げいだいでは1977ねんから1978ねんにかけてパノルモさくコントラバス(900まんえん)、ガリアーノさくヴィオラ(1260まんえん)、トマソ・カルカシーさくヴァイオリン(310まんえん)を購入こうにゅうしていたが、いずれもにせ鑑定かんていしょがついていたともされている[5]

東京芸大とうきょうげいだい問題もんだいのガダニーニを購入こうにゅうするにたり、海外かいがい一流いちりゅう鑑定かんていしょ2まい神田かんだ侑晃に要求ようきゅうしていた。レンバート・ウーリッツァーしゃはこのガダニーニをすで本物ほんものみとめていたが、ウーリッツァーの鑑定かんていしょ到着とうちゃくっていると鑑定かんていしょ提出ていしゅつ期日きじつわない。そこで、ウーリッツァーと同等どうとう鑑定かんてい神田かんだがウーリッツァーの便箋びんせんみずか署名しょめいして提出ていしゅつし、本物ほんものとどいたのちえる予定よていでいたところ、神田かんだ意図いとはんして内部ないぶ告発こくはつけ、詐欺さぎざいでの逮捕たいほいたったともほうじられている[7]

取調とりしらべについて[編集へんしゅう]

海野うみの義雄よしおたいする東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう取調とりしらべは、海野うみの拘置こうちされた東京とうきょう拘置こうちしょうち取調とりしらべしつ連日れんじつおこなわれ、取調とりしら時間じかん1981ねん12月8にちから12月23にちまで1にち平均へいきん8あいだ50ふんおよんだ。取調とりしらべが23までつづいたこともあった。このとき検察官けんさつかん行動こうどうについて、海野うみの弁護人べんごにん一人ひとりだった石井いしい吉一よしかずは、以下いかのようにつたえている[10]

  1. 取調とりしらべしつないで、海野うみの再三さいさんにわたって大声おおごえ怒鳴どなりつけ、人格じんかく侮辱ぶじょくする。
  2. 取調とりしらべで海野うみの収賄しゅうわい否定ひていすると、突然とつぜん書類しょるい机上きじょうたたきつけ、定規じょうぎ机上きじょうたたく。(ゆび怪我けがをするのではないかとおそれて海野うみのめた。)
  3. ボールペン海野うみの眼前がんぜんまでちかづけまわす。のがれようとする海野うみの後頭部こうとうぶさえ、ボールペンをひとみちかくまできつける。
  4. 海野うみの腰掛こしかけていたスチールパイプせい椅子いす突然とつぜんあしでけりつける(このため、海野うみの椅子いすからゆかちて尻餅しりもちをつかされたこともあった)。
  5. 海野うみの取調とりしらべしつかべかわせてかおかべくほど接近せっきんさせ、直立ちょくりつさせ、そのままっているようにめいじる。

海野うみの以上いじょう拷問ごうもん行為こういけたと公判こうはん供述きょうじゅつしたが、とう検察官けんさつかんはこれを全面ぜんめんてき否定ひていし、「取調とりしらべしつ海野うみの体操たいそうしてもいいとったがいち体操たいそうしなかった」「取調とりしらべのとき自分じぶんちゃをこぼしたことがあったため、それをくまでのあいだ海野うみのってもらったことがあった」と主張しゅちょうした[10]。これにたいし、東京とうきょう地裁ちさいは、そのような行為こういが「あったのではないかとのうたがいがのこるといわざるをない」とみとめつつ「本件ほんけん事案じあん性質せいしつ複雑ふくざつさなどにらし、ある範囲はんい必要ひつようやむをなかったものとみとめられ」「合理ごうりてき許容きょようできる範囲はんいいちじるしくえたものとみとめることはできない」とべた[10]

裁判さいばんについて[編集へんしゅう]

裁判さいばん争点そうてんひとつは、学生がくせいにヴァイオリンを斡旋あっせんすることが教授きょうじゅ職務しょくむふくまれるかどうかということだった。職務しょくむなら、国立こくりつ大学だいがく教授きょうじゅ行為こういとして受託じゅたく収賄しゅうわいざい成立せいりつする。私的してき行為こういなら、謝礼しゃれいることは犯罪はんざいとならない。このてんについて、判決はんけついわたしの直前ちょくぜんいたり、検察官けんさつかん裁判所さいばんしょ勧告かんこくしたがって訴因そいん一部いちぶ変更へんこうしたため、その当否とうひ問題もんだいとなった[11]。その訴因そいん変更へんこう内容ないようは、海野うみの職務しょくむ内容ないようきゅう訴因そいんよりも拡大かくだいしたものとなっていた。このため、伊達だて秋雄あきお法政大学ほうせいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)から「すでにみずか撤回てっかいしたきゅう訴因そいん維持いじするきゅう論告ろんこくが、これと矛盾むじゅんするやにみえるしん訴因そいん支持しじする論告ろんこくとして意味いみをもちうるであろうか。そのような経緯けいいでは、弁護人べんごにんとしては、しん訴因そいん争点そうてん何処どこにあるのか、その判断はんだんまよわざるをえない。弁護人べんごにんとしては訴因そいん変更へんこう勧告かんこくをした裁判所さいばんしょ釈明しゃくめいもとめるわけにはいかないから、そうてん不明ふめいのまま弁護べんごおこなわざるをえない」との批判ひはんけた[11]

判決はんけつは「芸大げいだい教授きょうじゅ学生がくせいからバイオリンの買替かいかえの相談そうだんけた場合ばあいに、教授きょうじゅおこなうバイオリンの選定せんていについての助言じょげん指導しどうは、バイオリンの演奏えんそう技術ぎじゅつ指導しどう密接みっせつ不可分ふかぶん関係かんけいだて」ち、そのため「ひろ意味いみでは演奏えんそう技術ぎじゅつ指導しどうにあたる教授きょうじゅ教授きょうじゅ内容ないようふくまれる」とする内容ないようだったが、このてんについて伊達だては「どのようなバイオリンを使つかうかという問題もんだいは、演奏えんそう技術ぎじゅつ指導しどう向上こうじょう、つまりバイオリン教育きょういくそのものにとって、それほど重要じゅうよう意義いぎをもつものとはいえない」と批判ひはんした[11]

また、問題もんだいのビネロンのゆみ海野うみの供与きょうよされた時期じきについても、検察官けんさつかんは「1979ねん1がつ26にちころ芸大げいだい弦楽げんがく部会ぶかい新規しんき購入こうにゅうのバイオリンとしてガダニーニを選定せんていすることが最終さいしゅう決定けっていされたのち同月どうげつ下旬げじゅんごろゆみ供与きょうよがなされた」と冒頭ぼうとう陳述ちんじゅつ主張しゅちょうし、その内容ないよう沿った供述きょうじゅつ調書ちょうしょ証拠しょうことして提出ていしゅつしていたが、裁判さいばん過程かていで、1979ねん1がつ下旬げじゅんにまずゆみ供与きょうよおこなわれてから1979ねん2がつ1にちにガダニーニ購入こうにゅう最終さいしゅう決定けっていされたことが認定にんていされた。このてんについて伊達だては「本件ほんけんにおける贈収賄ぞうしゅうわい趣旨しゅしかんするもっと重要じゅうよう証拠しょうこ供述きょうじゅつ調書ちょうしょのこと─引用いんようしゃ註)は、その証拠しょうこ価値かちうしなった」と批判ひはんしたが、裁判所さいばんしょは「ゆみ供与きょうよとバイオリン購入こうにゅう最終さいしゅう決定けってい時期じきてき前後ぜんご検察官けんさつかん主張しゅちょうのとおり認定にんていできないことをもって結論けつろんにはなんら影響えいきょうおよぼさない」と判示はんじしている[11]

被告人ひこくにんのその[編集へんしゅう]

1985ねん昭和しょうわ60ねん)の有罪ゆうざい判決はんけつ確定かくてい家族かぞくともにフランスに移住いじゅうした海野うみのは、1989ねん平成へいせい元年がんねん)に帰国きこくし、日本にっぽんでの演奏えんそう活動かつどう再開さいかいした。また教育きょういくしゃとしても東京音楽大学とうきょうおんがくだいがく学長がくちょう2011ねん平成へいせい23ねん)3がつまでつとめた[12]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d だい095かい国会こっかい 決算けっさん委員いいんかい 閉会へいかいだいごう”. 参議院さんぎいん決算けっさん委員いいんかい (1981ねん12月16にち). 2010ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 吉田よしだ秀和ひでかず全集ぜんしゅうだい20かん所収しょしゅう「なぜ沈黙ちんもくするのか」(白水しろみずしゃ2002ねん
  3. ^ 朝日新聞あさひしんぶん記事きじ総覧そうらん”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2010ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  4. ^ Jurisuto: だい 918~924 ごう”. ジュリスト (1988ねん). 2010ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c 事件じけん犯罪はんざい研究けんきゅうかいへん明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ 事件じけん犯罪はんざいだい事典じてん』p.598(東京法経学院出版とうきょうほうけいがくいんしゅっぱん、1986ねん
  6. ^ 12月15にちだい7めん Music Kickback Scandal Spreads To The Cellos”. ジ・エイジ (1981ねん12月15にち). 2010ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  7. ^ a b c d e f g しんしお452006ねん11月ごう東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく名器めいきガダニーニ「ニセ鑑定かんていしょ」の真贋しんがん」(新潮社しんちょうしゃ
  8. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1981ねん12がつ10日とおか
  9. ^ a b だい102かい国会こっかい 文教ぶんきょう委員いいんかい だいごう”. 参議院さんぎいん文教ぶんきょう委員いいんかい (1985ねん4がつ16にち). 2010ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d 大野おおの正男まさお渡部わたなべ保夫やすおへん刑事けいじ裁判さいばんひかりかげ』(有斐閣ゆうひかく1989ねん所収しょしゅうかべかってながいことたされた【芸大げいだいバイオリン事件じけん】」(石井いしい吉一よしかず)pp.78-112
  11. ^ a b c d ジュリスト1985ねん7がつ1にちごう 伊達だて秋雄あきお芸大げいだい海野うみの教授きょうじゅ事件じけんだい1しん判決はんけつ意義いぎ問題もんだいてん東京とうきょう地裁ちさい昭和しょうわ60ねん4がつ8にち判決はんけつ」(有斐閣ゆうひかく
  12. ^ 海野うみの義雄よしお プロフィール”. しんえんじ所属しょぞく音楽おんがく事務所じむしょ). 2019ねん7がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]