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藤井ふじいしげる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤井ふじい しげる(ふじい しげじ、1908ねん - 1970ねん)は、日本にっぽん脚本きゃくほん松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょあし本部ほんぶ所属しょぞくしながら、トーキー黎明れいめい京都きょうとにかつて存在そんざいした会社かいしゃ組織そしきえた脚本きゃくほん家集かしゅうだん鳴滝なるたきぐみ」に参加さんか映画えいがのこす。

来歴らいれき人物じんぶつ

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1908ねん明治めいじ42ねん)にまれる。1922ねん大正たいしょう11ねん)、旧制きゅうせい京都きょうと市立しりつだいいち商業しょうぎょう学校がっこうげん京都きょうと市立しりつ西京高等学校さいきょうこうとうがっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう)に入学にゅうがく当時とうじ同級生どうきゅうせい、のちの映画えいが監督かんとく山中やまなか貞雄さだおとはしたしく、映画えいがきの仲間なかまであった。1学年がくねんじょう当時とうじすでに映画えいが俳優はいゆうだったのちの映画えいが監督かんとくマキノ正博まさひろがいた[1]

1933ねん昭和しょうわ8ねんごろ松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょあし本部ほんぶ入社にゅうしゃ同年どうねんげき作家さっか木村きむら錦花きんか歌舞伎かぶき台本だいほん木村きむら富士夫ふじお共同きょうどう脚色きゃくしょくした井上いのうえ金太郎きんたろう監督かんとくの『弥次喜多やじきた』で脚本きゃくほんとしてデビュー、どうさく正月しょうがつ映画えいがとして同年どうねんまつ12月31にち公開こうかいされた。よく1934ねん昭和しょうわ9ねん)、オリジナル脚本きゃくほん採用さいようされ、大下おおした宗一そういち監督かんとく映画えいがした『はる姿すがただんだらしみ』で一本立いっぽんだち、どうさく同年どうねん3月21にち公開こうかいされた。脚本きゃくほんデビュー藤井ふじいは25さい学生がくせい時代じだいからの仲間なかま山中やまなか貞雄さだおおなじ3がつに12ほん監督かんとくさく風流ふうりゅうかつじんけん』を発表はっぴょうしていた。

そのころ藤井ふじいは、松竹しょうちく以外いがい撮影さつえいしょ密集みっしゅうする太秦うずまさ地区ちく北側きたがわ位置いちする京都きょうと右京うきょう鳴滝音戸山なるたきおんどやままちあたりにんでいた。そこには新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえいしょ脚本きゃくほん八尋やひろ不二ふじ監督かんとく鈴木すずきももさく片岡かたおか千恵ちえぞうプロダクション監督かんとく稲垣いながきひろし山中やまなか貞雄さだお日活にっかつ京都きょうと撮影さつえいしょにいた山中さんちゅう助監督じょかんとく萩原はぎはらりょう、そして当時とうじ浪人ろうにんちゅう脚本きゃくほん三村みつむら伸太郎しんたろう監督かんとく滝沢たきざわ英輔えいすけんでいた。かれらはそのを「鳴滝なるたきむら」とんでいた。この交友こうゆう関係かんけいからまれた脚本きゃくほん集団しゅうだんが「鳴滝なるたきぐみ」であり[2]1934ねん昭和しょうわ9ねん)に活動かつどう開始かいしし、共同きょうどうペンネームを「梶原かじはら金八きんぱち」とした。

よく1935ねん昭和しょうわ10ねん)、映画えいがかいは、なぞ新進しんしん脚本きゃくほん梶原かじはら金八きんぱち」の話題わだい騒然そうぜん当時とうじ松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ所長しょちょう城戸きど四郎しろうは「梶原かじはら金八きんぱちけ!」と周囲しゅういめいじたというが、まさか架空かくう名義めいぎとはらず、またその「梶原かじはら金八きんぱち」のひとりが松竹しょうちく下加茂したかも藤井ふじいであるとはよしもなかった。同年どうねん10がつには長谷川はせがわしん原作げんさくの『手繰てぐ音頭おんど』を「梶原かじはら金八きんぱち」が脚色きゃくしょく井上いのうえ金太郎きんたろう監督かんとく監督かんとくし、その前後ぜんごへん松竹しょうちく下加茂したかも製作せいさくされ、11月には公開こうかいされた。1937ねん昭和しょうわ12ねん)には滝沢たきざわ山中さんちゅうも「鳴滝なるたきむら」をはなれて、東京とうきょうP.C.L.映画えいが製作所せいさくしょ入社にゅうしゃ三村みつむら脚本きゃくほんがけた『人情にんじょう紙風船かみふうせん』をって山中さんちゅう出征しゅっせい翌年よくねんには戦死せんししてしまい、「鳴滝なるたきぐみ」は活動かつどう停止ていしした。

そのあいだ藤井ふじい松竹しょうちく下加茂したかもうごかず、脚本きゃくほん発表はっぴょうつづけた。1938ねん昭和しょうわ13ねん)には、かつて「脚本きゃくほん三村みつむら伸太郎しんたろう潤色じゅんしょく梶原かじはら金八きんぱち」とクレジットされ、稲垣いながきひろし山中やまなか貞雄さだおとが共同きょうどう監督かんとくだいヒットした『せき弥太やたッぺ』を、今度こんど藤井ふじいが2度目どめのリメイク(3かい映画えいが)をした。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、御手洗みたらいはじめ共同きょうどう脚本きゃくほんいた高田たかだひろしきち主演しゅえんの『はたずいいん一家いっか』が5月16にち公開こうかいされたが、これを最後さいご藤井ふじい脚本きゃくほんさくられなくなった。藤井ふじい松竹しょうちく下加茂したかもいた映画えいがは41ほん、それとはべつに「梶原かじはら金八きんぱち」がのこした映画えいがは22ほんであった。

戦後せんごあいだもなく、京都きょうと出版しゅっぱんしゃ和敬わけい書店しょてん」が設立せつりつされ、同社どうしゃ編集へんしゅう発行はっこうした歌舞伎かぶき文楽ぶんらく主題しゅだいとした雑誌ざっし幕間まくあい」(1946ねん5月 創刊そうかん - 1961ねん9月 おわりかん)の創刊そうかんかかわる[3]

1970ねん昭和しょうわ45ねん)に死去しきょ享年きょうねん63(61-62さいぼつ)。

おもなフィルモグラフィ

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関連かんれん事項じこう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 日本にっぽん映画えいが監督かんとく全集ぜんしゅう』(キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1976ねん)の「山中やまなか貞雄さだお」のこう(p.427-429)を参照さんしょうどうこう執筆しっぴつ加藤かとうやすし
  2. ^ 立命館大学りつめいかんだいがく衣笠きぬがさキャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイトないの「菅家すがや紅葉こうよう談話だんわ」の記述きじゅつ参照さんしょう
  3. ^ 高木たかぎ四郎しろう藤井ふじいさんとわたし』(『藤井ふじいしげるを憶う』所収しょしゅう天野あまのただしへんぶんわらわしゃ、1971ねん)の記述きじゅつ参照さんしょう

外部がいぶリンク

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