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角田順 (海軍軍人) - Wikipedia コンテンツにスキップ

角田つのだじゅん (海軍かいぐん軍人ぐんじん)

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角田つのだ じゅん(かくた じゅん、1881ねん9月14にち - 1915ねん3月1にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん少佐しょうさ。1915ねん3がつ1にち極秘ごくひ任務にんむ遂行すいこうちゅう千葉ちばけんおき汽艇きてい沈没ちんぼつ事故じこにより死亡しぼう

経歴けいれき

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石川いしかわけん出身しゅっしん1881ねん9月金沢かなざわ 金石かねいし味噌屋みそやまち医師いし角田つのだもとはく長男ちょうなんとしてまれる。石川いしかわけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう現在げんざい石川県立金沢泉丘高等学校いしかわけんりつかなざわいずみがおかこうとうがっこう)をて、1903ねん12月、海軍兵学校かいぐんへいがっこう31)を188にんちゅう13ばん成績せいせき卒業そつぎょう翌年よくねん9がつ海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかんって金田かねだケン結婚けっこんつまは(一般いっぱん女性じょせい対象たいしょうとした日本にっぽんはつミス・コンテストわれる)時事新報じじしんぽうしゃ令嬢れいじょう美人びじんコンクール全国ぜんこく2経歴けいれきつ。

にち戦争せんそうでは軍艦ぐんかん鎮遠乗組のりく殊勲しゅくんげ、1905ねんには中尉ちゅういとなる。1910ねん5月、横浜よこはま海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとう卒業そつぎょう軍艦ぐんかん厳島いつくしま砲術ほうじゅつちょう海軍兵学校かいぐんへいがっこう運用うんようじゅつ教官きょうかん監事かんじなどを兼務けんむ歴任れきにんし、1914ねん5月、海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ12)を卒業そつぎょう同期どうきにはのちだい37だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとなる米内よない光政みつまさがいた。

卒業そつぎょう直後ちょくご鎮海わん派遣はけんされたが、8がつにちどく戦争せんそう開戦かいせんにはだい艦隊かんたい参謀さんぼうとして青島ちんたおたたかにてなんせん苦闘くとうするも独特どくとく戦術せんじゅつ駆使くしして偉勲いくんげ、だいいち艦隊かんたい軍艦ぐんかん常磐ときわ」の幕僚ばくりょうとなり、敵艦てきかんエムデン」の捜査そうさ任務にんむにつく。10月赤道あかみち直下ちょっか困苦こんく欠乏けつぼうをしのいで敵艦てきかん撃滅げきめつし、内地ないち凱旋がいせんのち少佐しょうさ昇進しょうしん横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうとなり、 駆逐くちくかん叢雲むらくも」に乗組のりくむ。 1915ねん3月1にち極秘ごくひ任務にんむ遂行すいこうちゅう千葉ちばけんおき汽艇きてい沈没ちんぼつ事故じこにより死亡しぼう

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい6387ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん10がつ12にち