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趙宝英 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ちょうたからすぐる

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ちょう たからすぐる(ちょう ほうえい、生年せいねんしょう - だいこよみ13ねんたからひさし9ねん11月8にち778ねん12月1にち))は、中国ちゅうごくとうだい宦官かんがん

略歴りゃくれき

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ぞく日本にっぽん』によると、「うち使わきにわれい」としるされており、「わきにわれい」とは「内侍ないししょう管轄かんかつ長官ちょうかんで、宮人みやびと名籍めいせきおよびわきにわみや後宮こうきゅう)の女工じょこうのことを管掌かんしょうした役職やくしょくである。そのため、宦官かんがんにんじられていると『しんとうしょ』「宦官かんがん列伝れつでんじょうにはしるされている。

とうだいこよみ13ねん日本にっぽんたからひさし9ねん778ねん)1がつ13にちに、とう皇帝こうていだいむねいのち長安ながやす到着とうちゃくしたばかりの遣唐使けんとうし小野おのいしらをうま出迎でむかえ、すめらぎじょうそとたくかせている[1]。さらに4がつ皇帝こうてい勅命ちょくめいにより、『こたえしんぶつ』をって、日本にっぽん派遣はけんされることが決定けっていする。遣唐使けんとうしたちは、「本国ほんごくへの行程こうていはるとおく、波風なみかぜ予測よそくがつかず、まんいちせん転覆てんぷくしたら、君命くんめいにそむくことになる」として、これをやんわりとことわろうとしたが、皇帝こうていは、「ちんは、すこしばかりのしんぶつをもっている。いまちょうたからえいらをつかわして護送ごそうさせるのだ。それが道義どうぎであり、心遣こころづかいにはおよばない」とこたえている[2]

4がつ22にちちょうたからすぐる判官ほうがん4にん国土こくどたから貨をたずさえ、遣唐使けんとうし随行ずいこうして来朝らいちょうすることになった。しかし、11月に出航しゅっこうした、からだい1せんは8にち初更しょこう午後ごご8ごろ)、あらし遭遇そうぐうし、副使ふくし小野おのいしら38にんとともに、ちょうたからえいとう使の25めいらもみ、溺死できしさせてしまった。だい1せんともが2つにわかれ、生存せいぞんしゃはそれぞれにつかまり、薩摩さつまこくこしきしまぐん肥後ひごこく天草あまくさぐんながいたという[1]

朝廷ちょうてい宝亀ほうき9ねん12月17にち779ねん1がつ10日とおか)、ちょうたからえいに絁80疋、綿めん200たむろ贈呈ぞうていした[3]かれたすはずだった日本にっぽんへの返礼へんれい使代表だいひょうは、同時どうじ派遣はけんされた判官ほうがんまごきょうすすむ代行だいこうすることになった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ぞく日本にっぽんまきだいさんじゅうひかりじん天皇てんのう宝亀ほうき9ねん11月13にちじょう
  2. ^ ぞく日本にっぽんまきだいさんじゅうひかりじん天皇てんのう宝亀ほうき9ねん9がつ23にちじょう
  3. ^ ぞく日本にっぽんまきだいさんじゅうひかりじん天皇てんのう宝亀ほうき9ねん12月17にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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