つじ辰之助たつのすけ

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つじ 辰之助たつのすけ(つじ たつのすけ、文政ぶんせい2ねん10月1にち1819ねん11月28にち) -  明治めいじ8ねん1875ねん1がつ2にち)は、勤王きんのう志士しし秋田あきたけん仙北せんぼくぐん六郷ろくごうまちげん美郷みさとまち高野たかのむら大町おおまちまれ。

来歴らいれき [編集へんしゅう]

本名ほんみょうりゅうよしみ(たかよし)、国学こくがく和歌わかながじたつじかつ兵衛ひょうえごう豊田とよだしゃきのこう)の長男ちょうなん家業かぎょうこうじ製造せいぞうもの手伝てつだいをしながら、祖父そふ平八へいはち厳格げんかく教育きょういくけてそだつ。

秋田あきたはんぐんかた吟味ぎんみやく漢学かんがくしゃいわ屋良やら兵衛ひょうえけいまなび、1832ねん天保てんぽう3ねん)には平田ひらた篤胤あつたね門人もんじんとなる。1852ねんよしみひさし5ねん)、江戸えどかくはん有志ゆうし西郷さいごう隆盛たかもりらと交流こうりゅうふかめた。これから、20ねんほど、京都きょうと水戸みと久保田くぼた秋田あきた)を奔走ほんそうし、勤王きんのうき、討幕とうばく運動うんどうすすめ、諸国しょこくまわった。

つちのえたつやく1868ねん69ねん)がはじまると帰郷ききょうし、同志どうし連名れんめい建白けんぱくしょ久保田くぼた藩主はんしゅし、みずからはおとうと兵助へいすけ息子むすこらと、六郷ろくごうひゃく余人よにん有志ゆうしたい組織そしきし、官軍かんぐんのためにつくしたが、戦後せんご同志どうしへの論功行賞ろんこうこうしょうもままならず、言動げんどうみだれたまま、56さいでこのった。1918ねん大正たいしょう7ねんつちのえたつやくにより、せい追贈ついぞうされ、六郷ろくごう学友がくゆうかい建立こんりゅう墓碑ぼひ円福寺えんぷくじにある。

大曲おおまがりはなかん斎藤さいとうかん左衛門さえもん後藤ごとう宙外ちゅうがいとは縁戚えんせきである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]