近藤こんどう英明ひであき

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近藤こんどう 英明ひであき(こんどう ひであき、1902ねん8がつ19にち - 1991ねん10月27にち)は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう国会こっかい職員しょくいん参議院さんぎいん草創そうそう1949ねんから1953ねんまでのあいだ参議院さんぎいん事務じむ総長そうちょうつとめた。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

貴族きぞくいん事務じむきょく時代じだい[編集へんしゅう]

島根しまねけん松江まつえ出身しゅっしん1927ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ卒業そつぎょうし、内務省ないむしょう入省にゅうしょう1931ねん12月に貴族きぞくいん書記官しょきかんにんぜられ、以後いご貴族きぞくいん事務じむきょく委員いいん課長かちょう議事ぎじ課長かちょう庶務しょむ課長かちょうつとめた。

このあいだ1935ねん天皇てんのう機関きかんせつ事件じけんさいには、菊池きくち武夫たけお男爵だんしゃくによる政府せいふたいする緊急きんきゅう質問しつもん通告つうこくいた美濃部みのべ達吉たつきちから一身上いっしんじょう弁明べんめいのための発言はつげん通告つうこくけ、近藤こんどう恩師おんしでもある美濃部みのべたいし、一身上いっしんじょう弁明べんめいをせずに黙殺もくさつするほう賢明けんめいであり、菊池きくち男爵だんしゃくのような右翼うよく議員ぎいんはいかによく説明せつめいしても納得なっとくするわけはなく、菊池きくち屈服くっぷくしたとしても背後はいご右翼うよく勢力せいりょく刺激しげきするだけであるむねつたえたが、美濃部みのべは「おまえうところは十分じゅうぶんわかる。しかし‥自分じぶんただしいとしんじていてている学説がくせつたいして批判ひはんくわえられる以上いじょう学者がくしゃ信念しんねんとして沈黙ちんもく出来できない。‥学問がくもん生命せいめいまもるために発言はつげんはしたい」とべたため、発言はつげん通告つうこくった[1]美濃部みのべ一身上いっしんじょう弁明べんめいいた菊池きくち男爵だんしゃくせつ不敬ふけいではないことを議場ぎじょうみとめたが、その美濃部みのべ議員ぎいん辞職じしょく余儀よぎなくされた。

また、1936ねん二・二六事件ににろくじけんさいには、当時とうじ小林こばやし次郎じろう庶務しょむ課長かちょう参議院さんぎいん事務じむ総長そうちょう)からめいぜられ、衆議院しゅうぎいんがわかり議事堂ぎじどう日比谷ひびや)の借用しゃくよう要請ようせい反乱はんらん部隊ぶたい賊軍ぞくぐん官軍かんぐんかをたしかめるために、反乱はんらん部隊ぶたい占領せんりょう地域ちいきとおけてきゅうだん軍人ぐんじん会館かいかん戒厳かいげん司令しれいおもむき「かたちうえでは戒厳かいげん司令しれい指揮しきはいっているが、かれらと無益むえきあらそいはしないでもらいたい。議事堂ぎじどう玉座ぎょくざのあることを指摘してきすれば乱暴らんぼうなどはないだろう。」とのむね回答かいとういんしたところ、すで衆議院しゅうぎいん来訪らいほうした将兵しょうへいは、かり議事堂ぎじどうがコンクリートづくりでなくバラックでタイガーボードかべ弾丸だんがん貫通かんつうすることをり、げていたという[1]

1938ねんには、明治めいじ憲法けんぽう発布はっぷ50ねん記念きねんして、議事堂ぎじどう中央ちゅうおう広間ひろま伊藤いとう博文ひろぶみ大隈おおくま重信しげのぶ板垣いたがき退助たいすけ銅像どうぞう配置はいちされたが、そのさいきた村西むらにしのぞむ彫塑ちょうそによる板垣いたがき退助たいすけ銅像どうぞう原型げんけい議員ぎいんから「開院かいいんしき陛下へいか道筋みちすじにポケットにんでっている銅像どうぞうくのは不敬ふけいだ」とのこえがったため、交渉こうしょうやくたった近藤こんどう北村きたむら訪問ほうもんし、をポケットからすことを依頼いらいしたところ、北村きたむらから「板垣いたがきはく表現ひょうげんするにはあのかたち最善さいぜんであり、かみ一本いっぽん変更へんこうできない。原型げんけい会心かいしん出来できおもっているので、製作せいさくすすめる。げられなくてもやむをない」むねげられた。そのむね貴族きぞくいん各派かくは交渉こうしょうかい報告ほうこくしたところ近藤こんどう意見いけんもとめられ「作品さくひん支障ししょうはない。ポケットからしゅっせというろんすすめれば、最敬礼さいけいれい銅像どうぞうだけしかけず、土下座どげざ銅像どうぞうでもくか、あるいは銅像どうぞうかないことになる。」などとべたこともあり、結局けっきょく北村きたむら原型げんけいしたがった作品さくひん配置はいちされた[1]

だい世界せかい大戦たいせんなか金属きんぞく回収かいしゅう本部ほんぶ設置せっちされ、議事堂ぎじどうのシャンデリアやブロンズとびらなども精神せいしん総動員そうどういんのために供出きょうしゅつすることがもとめられたが、近藤こんどう金属きんぞく回収かいしゅう本部ほんぶちょうたいして「日本にっぽん戦勝せんしょう講和こうわ会議かいぎ議事堂ぎじどうひらくならば、物量ぶつりょうゆたかな敵国てきこくじんたちはシャンデリアなどのはずされた議事堂ぎじどう降伏ごうぶくしたことを後悔こうかいし、勝利しょうりしゃ日本にっぽん命令めいれいかなくなるのではないか」と難詰なんきつし、供出きょうしゅつ中止ちゅうしされた[1]

参議院さんぎいん事務じむきょく時代じだい[編集へんしゅう]

1947ねん5月の日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより、貴族きぞくいんはいされたため、参議院さんぎいん事務じむきょく参事さんじとなり、事務じむ次長じちょうめいぜられた。草創そうそう参議院さんぎいん混乱こんらんつづき、だい5かい国会こっかい1949ねん)には、野党やとう妨害ぼうがい松平まつだいら恒雄つねお議長ぎちょう小林こばやし次郎じろう事務じむ総長そうちょう議長ぎちょうせき事務じむ総長そうちょうせきけないなか議長ぎちょうせきいた松嶋まつしま喜作きさくふく議長ぎちょうしたがって代理だいりとして事務じむ総長そうちょうせきがり、会期かいき延長えんちょう議事ぎじ補佐ほさした。[3]

1949ねん10がつ参議院さんぎいん議員ぎいん選挙せんきょ立候補りっこうほのために辞任じにんした小林こばやし次郎じろうのちをうけ、だい2だい参議院さんぎいん事務じむ総長そうちょう選挙せんきょされた。そのまもなく郷土きょうど先輩せんぱいである若槻わかつき礼次郎れいじろうから直筆じきひつ祝詞のりとをもらい、よく11がつ病床びょうしょうにある若槻わかつきたずねて歓談かんだんしたが、その内容ないよう後輩こうはい後事こうじたくすようなもので、その1週間しゅうかん若槻わかつき逝去せいきょした[1]。また、おなじ11がつには松平まつだいら議長ぎちょう急逝きゅうせいし、後任こうにんしゃ選任せんにん参議院さんぎいんそう執行しっこうのための事務じむ奔走ほんそうした。松平まつだいら議長ぎちょうつづ緑風りょくふうかい出身しゅっしんであるだい2だい佐藤さとう尚武なおたけ議長ぎちょうささえた。

事務じむ総長そうちょう辞任じにん経緯けいい[編集へんしゅう]

1953ねん4がつ参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょのち緑風りょくふうかい社会党しゃかいとう参議院さんぎいんだいとううばわれ、だいさんとうとなったが、緑風りょくふうかい河井かわいわたるはち会長かいちょう自由党じゆうとう吉田よしだしげる首相しゅしょう面談めんだんして、このさい自由党じゆうとうけい無所属むしょぞく議員ぎいん自由党じゆうとう入党にゅうとうさせず緑風りょくふうかい入会にゅうかいさせて緑風りょくふうかいだいとう地位ちいたもたせてほしい、そして、緑風りょくふうかい参議院さんぎいんだいいちとう自由党じゆうとう協力きょうりょくして円満えんまん運営うんえいしたいともうれた。その結果けっか自由党じゆうとうけい無所属むしょぞく議員ぎいん緑風りょくふうかい入会にゅうかいにより、緑風りょくふうかいだいとう地位ちいて、参議院さんぎいん議長ぎちょう自由党じゆうとうふく議長ぎちょう緑風りょくふうかいという了解りょうかいがされたとされていた。しかし、社会党しゃかいとうは、この情勢じょうせい不快ふかいとして議長ぎちょう緑風りょくふうかいからすように要求ようきゅうした。自由党じゆうとうはこの社会党しゃかいとう主張しゅちょう反対はんたいし、河井かわい会長かいちょう社会党しゃかいとうもうれを緑風りょくふうかい総会そうかいはかり、みずからが議長ぎちょう候補者こうほしゃとなるむね決定けっていするにおよび、自由党じゆうとうかく会派かいは代表だいひょうしゃ懇談こんだんかい議院ぎいん運営うんえい委員いいんかい出席しゅっせきすることを拒否きょひするにいたった。

河井かわい会長かいちょうは、議長ぎちょう選挙せんきょ議事ぎじ主宰しゅさいすることとなる近藤こんどうたいし、すみやかにほん会議かいぎひらくことを要求ようきゅうしてきたので、近藤こんどうは、書記官しょきかんちょうつとめた貴族きぞくいん事務じむきょく先輩せんぱいでもある河井かわい会長かいちょうたいし「経緯けいいからして議長ぎちょうけてよいのか。信義しんぎ問題もんだいとしてよいか。」とただしたが、「されるものはける。やむをない。」との返事へんじけた。近藤こんどう主宰しゅさいする議長ぎちょう選挙せんきょ結果けっか[2]河井かわいだい3だい参議院さんぎいん議長ぎちょういたが、近藤こんどう河井かわい議長ぎちょう事務じむ総長そうちょうとして補佐ほさする意思いしうしない、河井かわい議長ぎちょう近藤こんどう辞任じにん希望きぼうしたので、6がつ辞任じにん許可きょかされ、22年間ねんかんつとめた国会こっかいった。のち近藤こんどうは「責任せきにん政治せいじ建前たてまえからは‥すくなくとも議長ぎちょうだいいちとうがとることが妥当だとう」であり、「中間なかま無所属むしょぞく会派かいはいち人々ひとびと策謀さくぼうや、私慾しよくのためにこれが左右さゆうされることがあっては、‥政治せいじ昏迷こんめいおとしいれるのみ」と回顧かいこしている[1]

事務じむ総長そうちょう辞任じにんは、日本にっぽん空港くうこうリムジン交通こうつう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうなどにき、1967ねんから中央ちゅうおう選挙せんきょ管理かんりかい委員いいんとなり、1977ねんからどう委員いいんちょう連続れんぞく3つとめた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 近藤こんどう英明ひであき国会こっかいのゆくえ』(春陽しゅんようどう、1956ねん
  2. ^ 議長ぎちょう選挙せんきょ投票とうひょう自由党じゆうとう出席しゅっせきしぶったため深夜しんやはじまって投票とうひょうちゅうに12ぎることになり、翌日よくじつ投票とうひょうをやりなおしている。[1][2]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
小林こばやし次郎じろう
日本の旗 参議院さんぎいん事務じむ総長そうちょう
1949ねん - 1953ねん
次代じだい
芥川あくたがわおさむ