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道行みちゆき旅路たびじ花聟はなむこ

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道行みちゆき旅路たびじ花聟はなむこ』(みちゆきたびじのはなむこ)とは、歌舞伎かぶきおよび日本にっぽん舞踊ぶよう演目えんもくのひとつ。通称つうしょう落人おちうど』(おちうど)。

解説かいせつ[編集へんしゅう]

天保てんぽう4ねん1833ねん)3がつ江戸えど河原崎かわらざきで『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』が上演じょうえんされたが、このときの番付ばんづけには「じゅういちだん裏表うらおもてしん狂言きょうげんじゅうまく」とあり、これは『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐらぜんじゅういちだんを「ひょう」すなわち本来ほんらいまくとし、そのだんごとに「うら」としてあたらしいまくくわえるという「裏表うらおもて」の趣向しゅこうえんじられたもので、『道行みちゆき旅路たびじ花聟はなむこ』はこのときさんだんの「うら」としてされた清元きよもとたかしによる所作事しょさごとであった。さんしょうさんさく作曲さっきょく清元きよもと栄治郎えいじろう内容ないようは、腰元こしもとおかると逢引あいびきしていておいえ大事だいじ居合いあわせることができなかった早野はやの勘平かんぺいが、おかるの実家じっかのある山城やましろこく山崎やまざきへとおかるとともにちのびてゆく。そこへ鷺坂さぎざかともない手下てしたれやってきて両人りょうにんにからむというもので、歌舞伎かぶき所作事しょさごと代表だいひょうてき演目えんもくとしてられる。

旅路たびじ花聟はなむこ』 初代しょだい中村なかむら福助ふくすけ早野はやの勘平かんぺいよん代目だいめ尾上おがみ菊五郎きくごろうのこしもとおかる。さんだん所作事しょさごと万延まんえん元年がんねん(1860ねん)4がつ江戸えど中村なかむらさん代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく

落人おちうど』の通称つうしょうは、「落人おちうども、るかや野辺のべ若草わかくさの、すすき尾花おばなはなけれども…」という清元きよもとかたしではじまることによるが、これは義太夫ぎだゆう浄瑠璃じょうるりけいせいこい飛脚びきゃく』の「新口にのくちむら」にある文句もんくすこえて転用てんようしたものである。その詞章ししょうについても『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐらさんだんの「裏門うらもん」からおおくを拝借はいしゃくしており、「裏門うらもん」を書替かきかえた所作事しょさごととなっている。ふるくは初演しょえんとおりにさんだんつぎされたが、現在げんざい仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』がとおしで上演じょうえんされるさいには、よんだんのち上演じょうえんされている。

本来ほんらい花道かどうからおかる勘平かんぺい登場とうじょうしたが、現在げんざいではほん舞台ぶたい浅葱あさつきまくってとすといちめんはな春景しゅんけいしょくとおくに富士ふじえるのを背景はいけいに、おかると勘平かんぺい舞台ぶたい中央ちゅうおうっていることがおおい。おかるは矢絣やがすり模様もよう着付きつけにたてやのたい御殿ごてん女中じょちゅうのこしらえ(場合ばあいによってはけいごとであることをおもんじてこのみの振袖ふりそで)、勘平かんぺいくろ紋付もんつき着流きながしにひがしからげでたたんだかみしも背負せおう。場所ばしょ戸塚とつか山中さんちゅうという設定せっていである。ろく代目だいめ尾上おがみ梅幸ばいこうによれば、おかるの着付きつけはこのでは矢絣やがすりにするのが本来ほんらいで、御殿ごてん模様もようなどにするのは上方かみがたかたによるものだろうという。

落人おちうども…」の浄瑠璃じょうるりでよろしくりあって、勘平かんぺいはしばしここでたびつかれをやすめようとおかるにう。このとき初演しょえんではちょうちんげいたいらというたびやつたが、現在げんざいない。やがてにん将来しょうらいのことをかたりあう。勘平かんぺい武士ぶしとしての不心得ふこころえ主君しゅくん塩冶えんや判官ほうがんもうしわけなさのあまり、ここで切腹せっぷくすべくかたなこうとすると、おかるはかたなげ、「それそのときのうろたえしゃにはだれがした」と自分じぶんにもめはある、短気たんきをおこさずともかくも自分じぶん在所ざいしょにまでいっしょにちのびてくれ、あなたを亭主ていしゅとして充分じゅうぶんぐらしのたつようにしてみせるとかき口説くどく。この口説くどきがどころ、きどころのひとつである。このままはらればわたしもきてはおられぬ、それではひと勘平かんぺい不義ふぎ心中しんちゅうのをしたとうだろうというおかるの言葉ことばに、きていればおびのかなうもきっとこようと勘平かんぺいをとりなおし、みちいそぐことにする。

道行みちゆき旅路たびじ花聟はなむこ』 代目だいめ尾上おがみ松緑しょうろく鷺坂さぎざかともない昭和しょうわ12ねん(1937ねん)1がつ東京とうきょう歌舞伎座かぶきざ

おりからそこへ高師直こうのもろなお家来けらいでかねてよりおかるに横恋慕よこれんぼする鷺坂さぎざかともないが、襦袢じばんひとつにたすきがけ、鉢巻はちまき格好かっこう手勢てぜいはなよんてん)をきつれ登場とうじょうし、勘平かんぺいたちをて「ヤア勘平かんぺい、うぬが主人しゅじん塩冶えんや判官ほうがんだかじょうと、おらが旦那だんなちょくこうが、なにらぬが殿中でんちゅうにおいて…」と清元きよもと三味線しゃみせんあわせた「ノリ」という科白せりふ、そしておかるをれてゆこうとする。すると勘平かんぺいは「よいところ鷺坂さぎざかともない、おのれいちいたらねど、勘平かんぺいうでほそねぎ(ほそねぶか)料理りょうり塩梅あんばいくえろうてろエ」と、ともないたちを散々さんざんにやっつける。舞踊ぶようたたかいを表現ひょうげんする「所作しょさダテ」とばれるはなやかな場面ばめんである。はなよんてんたちの得物えものさくらえだあらわされる。最後さいご鷺坂さぎざかともないが「勘平かんぺい覚悟かくご!」とかたなりかかるが、当然とうぜんてきわず、すごすごと舞台ぶたいうしろにさい独特どくとくかたなかたは、鷺坂さぎざかともないちなんだとりさぎ姿すがたあらわしている。

勘平かんぺいともないたちをはらったあと、「ねぐら(ねぐら)はながらす可愛かわい可愛かわいいの夫婦ふうふ(めおと)づれ、さきいそげどしんはあとへ、おいえ安否あんぴ如何いかぞと、あんじゆくこそ道理どうりなれ」の浄瑠璃じょうるりでおかるをれ、意気揚々いきようよう花道かどうにかかる。そこへふたたともないあらわれて、「勘平かんぺいて」とこえをかける。勘平かんぺい「なんぞようか」、ともない「そのようは…い」、勘平かんぺい馬鹿ばかめ」とここでまくきをげる析のおとともない尻餅しりもちをつく。ともない両人りょうにんをなおもうべく花道かどうこうとすると、花道かどうツケぎわかれてくるまくにより、せばまる舞台ぶたい空間くうかんされて上手じょうずむというメタフィクションてき演出えんしゅつがあり、この演目えんもくかぎまく舞台ぶたい下手へたから上手じょうずかってかれ(通常つうじょうぎゃく)、いつのにかともない客席きゃくせきがわ自分じぶんまくきをするというめずらしい演出えんしゅつで、客席きゃくせきからともないやく役者やくしゃめい屋号やごうこえがあった場合ばあいなどは、まくきながら客席きゃくせきかってるという道化どうけもある。そのあとまくがい勘平かんぺいがおかるをれてよろしくむか揚幕あげまくへとはいる。

ともないみち外方そっぽ役柄やくがらうで達者たっしゃ俳優はいゆうつが、幹部かんぶきゅう御馳走ごちそう特別とくべつ出演しゅつえん)でえんじることもおお客席きゃくせきよろこばせる。

初演しょえんときおも役割やくわり[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 黒木くろき勘蔵かんぞうへん 『日本にっぽん名著めいちょ全集ぜんしゅう江戸えど文芸ぶんげいこれだいじゅうはちかん 歌謡かよう音曲おんぎょくしゅう』 日本にっぽん名著めいちょ全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1928ねん ※清元きよもと道行みちゆき旅路たびじ花聟はなむこ所収しょしゅう
  • 井戸いど秀夫ひでお 『舞踊ぶよう手帖てちょう』 駸々しんしんどう、1990ねん ※「落人おちうど」のこう
  • 舞踊ぶよう名作めいさく事典じてん』 演劇えんげき出版しゅっぱんしゃ、1991ねん
  • 服部はっとり幸雄ゆきおへん 『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』〈『歌舞伎かぶきオン・ステージ』8〉 白水しろみずしゃ、1994ねん
  • 早稲田大学わせだだいがく演劇えんげき博物館はくぶつかん デジタル・アーカイブ・コレクション ※天保てんぽう4ねんの『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』の番付ばんづけ画像がぞうあり。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]