(Translated by https://www.hiragana.jp/)
遠山元一 - Wikipedia コンテンツにスキップ

遠山とおやま元一げんいち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

遠山とおやま 元一げんいち(とおやま げんいち、1890ねん7がつ21にち - 1972ねん8がつ9にち)は、埼玉さいたまけん出身しゅっしん実業じつぎょう日興證券にっこうしょうけん創業そうぎょうしゃ初代しょだい会長かいちょう美術びじゅつひん収集しゅうしゅうとしても名高なだかい。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

埼玉さいたまけん比企ひきぐんさん保谷ほうやむら白井沼しろいぬま現在げんざい川島かわじままち)の豪農ごうのう家庭かてい長男ちょうなんとしてまれる。母方ははかた川島かわじままち旧家きゅうか[ちゅう 1]で、外祖父がいそふ比企ひきぐん初代しょだいぐんちょうつとめた鈴木すずきいさおぎょう[2]ちち義三よしぞう放蕩ほうとうにより生家せいか没落ぼつらくしたため、高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、15さい上京じょうきょうし、当時とうじ内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかんをしていた遠縁とおえん水野みずの錬太郎れんたろう書生しょせいになり、みなみ佐久間さくままち私塾しじゅくとおった[2]ちちすすめで16さい東京とうきょう日本橋にほんばしかぶとまちかぶ半田はんだ商店しょうてんやとわれ丁稚でっち奉公ほうこうをする。5ねんほどつとめたのち[3]病弱びょうじゃくのため規模きぼちいさい市村いちむら商店しょうてん平沢ひらさわ商店しょうてん転職てんしょくし、1902ねんに、病気びょうき没落ぼつらくした一家いっか先行さきゆ不安ふあんから、ははかよっていた鎌倉かまくらメソジスト教会きょうかい牧師ぼくし美山みやま貫一かんいちたよ[4]プロテスタント信仰しんこうはいる。

1918ねん独立どくりつし、川島かわじま商店しょうてん設立せつりつ1920ねん株式会社かぶしきがいしゃ改組かいそ満州まんしゅう事変じへん以来いらいこうきょうにのって事業じぎょうおおいに発展はってんし、現在げんざい価値かちで120おくえんをかけて[4]1936ねん故郷こきょうに3000つぼ豪邸ごうてい建設けんせつして生家せいか再興さいこうし、にしきかざる。1938ねん川島かわしま證券しょうけん会社かいしゃ創業そうぎょう1944ねん川島かわじま商店しょうてん吸収きゅうしゅう合併がっぺいだい日本にっぽん證券しょうけん投資とうし取締役とりしまりやくて、1944ねんきゅう日興證券にっこうしょうけんとの合併がっぺいにより社長しゃちょうとなる。

1948ねんしん証券しょうけん取引とりひきほうあん連合れんごうぐんそう司令しれい承認しょうにんけ、どうほう運用うんようたる証券しょうけん取引とりひき委員いいんかい発足ほっそくし、委員いいんちょう徳田とくたのぼるたいら遠山とおやま理事りじかい議長ぎちょう就任しゅうにんした[5]1950ねん米国べいこく証券しょうけんかい視察しさつのため、山一證券やまいちしょうけん小池こいけあつしこれすけ野村證券のむらしょうけん平山ひらやまあきら太郎たろう丸万まるまん証券しょうけん武田たけだ正三しょうさんらとともに渡米とべい[5]1952ねん同社どうしゃ会長かいちょう就任しゅうにん1964ねん会長かいちょう退しりぞくまで戦後せんご日本にっぽん証券しょうけん業界ぎょうかい近代きんだい尽力じんりょくし、遠山とおやま天皇てんのうばれた。

東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ理事りじ経団連けいだんれん評議ひょうぎいんどう常任じょうにん理事りじ東京商工会議所とうきょうしょうこうかいぎしょ常任じょうにん理事りじ日本にっぽん証券しょうけんぎょう協会きょうかい連合れんごうかい会長かいちょうなどの要職ようしょく歴任れきにん日本棋院にほんきいん理事りじもつとめ、1964ねん大倉おおくら喜七郎きしちろうしょう受賞じゅしょう1968ねん故郷こきょう豪邸ごうてい法人ほうじんして財団ざいだん法人ほうじん遠山とおやま記念きねんかんとし、敷地しきちない美術館びじゅつかんてて長年ながねんにわたる貴重きちょう蒐集しゅうしゅう美術びじゅつひん収蔵しゅうぞう1971ねん川島かわじままち名誉めいよ町民ちょうみんとなる。1972ねん入院にゅういんちゅう国立こくりつだいいち病院びょういんげん国際こくさい医療いりょう研究けんきゅうセンター)で心不全しんふぜんによりぼっした[5]

エピソード[編集へんしゅう]

長男ちょうなん遠山とおやま一行いっこうによると、元一げんいちはしばしばひとだまされたが、「だまされてもぐずぐずいわずにいちしりぞき、しかもまたくりかえしだまされた」という。そしてあるときもといちからは「自分じぶんいままでひとにだまされることはあっても、ひとをだますことはしなかった。自分じぶんまんいちのことがあったら、そういう精神せいしんだけはうけついでくれ」とわれたという(『遠山とおやまいちぎょう著作ちょさくしゅうだい4かん所収しょしゅう「だまされる相場そうば」p.113(新潮社しんちょうしゃ、1987ねん)。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

いもうと静子しずこおっと日興証券にっこうしょうけん常務じょうむ赤山あかやま鉱山こうざん社長しゃちょう山下やました経治つねはる山下やましたはじめ大叔父おおおじ)、いもうとてるのおっと野田のだ電機でんき社長しゃちょう高橋たかはしろくおとうと遠山とおやま浩三こうぞうはミッションジュース社長しゃちょうおとうと遠山とおやま四郎しろう東京とうきょう螺子ねじ社長しゃちょう日本にっぽんねじ研究けんきゅう協会きょうかい初代しょだい会長かいちょう[6][7]母方ははかた親戚しんせき鈴木すずき聞多

つま愛子いとしごはら一郎いちろうあね[6]長男ちょうなん遠山とおやま一行いっこう音楽おんがく評論ひょうろん次男じなん遠山とおやま信二しんじ指揮しきしゃ三男さんなん遠山とおやま直道なおみち出版しゅっぱんしゃ社長しゃちょう長女ちょうじょ貞子さだこ外交がいこうかん吉田よしだ健一郎けんいちろうつま[6]まご遠山とおやま公一こういち遠山とおやまもとみち遠山とおやま正道せいどうがいる。従兄じゅうけい遠山とおやま証券しょうけん(のちに日興証券にっこうしょうけん吸収きゅうしゅう創業そうぎょうしゃ遠山とおやま芳三よしぞう[8]芳三よしぞうてい三菱電機みつびしでんき高輪たかなわそう東京とうきょうみなと)として現存げんそんする[9]従妹じゅうまいまご日興証券にっこうしょうけん社員しゃいんからチョコレート職人しょくにんてんじた神田かんだ光三みつぞう[10]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 川島かわしまのみどころ”. KJブランドサイト. 川島かわじままち. 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b だい25かい 遠山とおやま元一げんいち(そのいち)だまされる幸福こうふく人間にんげんどおりの「かぶ」が、日興證券にっこうしょうけん創業そうぎょうする前夜ぜんや福田ふくだ和也かずや、『週刊しゅうかん現代げんだい』2013ねん3がつ23にちごう
  3. ^ 遠山とおやま元一げんいち非常時ひじょうじ財界ざいかい首脳しゅのう』 (武田たけだ経済けいざい研究所けんきゅうじょ, 1938)
  4. ^ a b だい26かい 遠山とおやま元一げんいち(その病気びょうきくるしみじんよわさを実感じっかん大儲おおもうけするかげで「教会きょうかい」にんだ福田ふくだ和也かずや、『週刊しゅうかん現代げんだい』2013ねん3がつ30にちごう
  5. ^ a b c だい27かい 遠山とおやま元一げんいち(そのさん新聞しんぶんおど言葉ことば株式かぶしきブーム」---一般いっぱん市民しみん投資とうしねつ見舞みまわれた時代じだいとは福田ふくだ和也かずや、『週刊しゅうかん現代げんだい』2013ねん4がつ6にちごう
  6. ^ a b c 現代げんだい系譜けいふ 日本にっぽんうごかす人々ひとびと』、東京とうきょう中日新聞ちゅうにちしんぶん出版しゅっぱんきょく、1965、p172
  7. ^ 協会きょうかい沿革えんかく日本にっぽんねじ研究けんきゅう協会きょうかい
  8. ^ 遠山とおやま元一げんいち経済けいざいだい一線いっせん倉田くらた春一しゅんいち ちょ (大鵬たいほう書房しょぼう, 1935)
  9. ^ 三菱電機みつびしでんき高輪たかなわそうきゅう遠山とおやま芳三よしぞうていみなとゆかりの人物じんぶつデータベース
  10. ^ 『エリートの転身てんしん高杉たかすぎりょう角川書店かどかわしょてん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]