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遠藤えんどうただしけい

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遠藤えんどう ただしけい
太平たいへいえいいさむつたえ遠藤えんどうただしみぎ衛門えもんせいちゅう
歌川うたがわ国芳くによしさく
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ もとかめ元年がんねん6月28にち1570ねん8がつ9にち
別名べつめい ちょくつぎはるもと[1].、通称つうしょう喜右衛門きうえもんまたは喜右衛門きうえもんじょう左衛門さえもん
主君しゅくん 浅井あさいひさせい長政ながまさ
氏族しぞく 遠藤えんどう
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遠藤えんどう ただしけい(えんどう なおつね)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう浅井あさい長政ながまさ家臣かしんいみなちょくけい通称つうしょう喜右衛門きうえもん(きえもん)だが、左衛門さえもん ちょくけいめる花押かおうのこっている[2]史料しりょうはほとんど存在そんざいしないが、軍記ぐんきぶつ講談こうだんひとしでは遠藤えんどう喜右衛門きうえもん登場とうじょうして、知勇ちゆう兼備けんびはかりごとしょうとしてられる。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

屋敷跡
小谷おたに城下じょうか遠藤えんどう屋敷やしき[3]
墓
つたわる遠藤えんどうづか[4]

遠藤えんどう祖先そせん柏原かしわばらしょう[5]うつんだ鎌倉かまくら武士ぶし一族いちぞくであるという[6]

ちょくけいは、近江おうみこく坂田さかたぐん須川すがわむら[5]出身しゅっしん[7]須川すがわしろきょとしたとつたわる遠藤えんどうは、赤尾あかおなどと同様どうよう浅井あさい譜代ふだい家臣かしんであった。小谷おたにしろした清水谷しみずたに居館きょかんつことをゆるされて屋敷やしきあとつたわる場所ばしょがあり[3]宇賀野うかのむら[5]にも天文てんもんころちょくけい屋敷やしきかまえたという記録きろくがある[6]

ちょくけい浅井あさい玄蕃げんばまこと老臣ろうしん浅井あさい長政ながまさ後見こうけんてき存在そんざいで、かれらと相談そうだんして(長政ながまさの)つまとしてもらいうけたろくかく家臣かしん平井ひらいじょうたけむすめおくかえしたはなしが『 浅井あさいさんだい』にある[8]

えいろく11ねん1568ねん)8がつ7にち[9]、『太閤たいこう』では、織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきようして上洛じょうらくするまえ浅井あさい長政ながまさ対面たいめんするとして、磯野いそのいんあきら近江おうみ佐和さわ山城やましろ饗応きょうおうけたとき、ちょくけい宴席えんせきにおいてどくをもちいて信長のぶなが暗殺あんさつ実行じっこうしようおもつが、なかなか中座ちゅうざしない長政ながまさ相談そうだんすることができなかったので、小谷おたに浅井あさいひさせい謀略ぼうりゃく許可きょかようとするがひとみちはんするとことわられて、やむなく中止ちゅうしした。しかし信長のぶながころさなければ後々あとあと後悔こうかいすることになるとおもさだめて、ちょくけい信長のぶながちがえようとするが、羽柴はしば秀吉ひでよし機転きてんによって妨害ぼうがいされて失敗しっぱいする[10]

また、さらつづいて同月どうげつ17にち(『太閤たいこう』と『浅井あさいさんだい』では)浅井あさい織田おだ婚儀こんぎむすばれたのち信長のぶなが柏原かしわばらなり菩提ぼだいいん(じょうぼだいいん)[11]まったときに、ちょくけい浅井あさいぬい殿どのすけ中島なかじま九郎くろう次郎じろうの3めい接待せったいやくとしてのこされたが、信長のぶながうままわりしゅかえして小姓こしょう15にん程度ていどだけであることをみて、ちょくけいよるいそ小谷おたにかえって、信長のぶなが暗殺あんさつするように長政ながまさ進言しんげんしたがけいれられなかった[12][6][13][14]

もとかめ元年がんねん(1570ねん)、大依おおより山砦さんさいたたかいで勇戦ゆうせん[12]姉川あねがわたたかした[12]

信長のぶながこう』では、竹中たけなか重治しげはるおとうと竹中たけなか久作きゅうさくじゅうのり合戦かっせんでとった8にん武将ぶしょうくびのなかにちょくけいくびがあり、前々まえまえからかれくびをとると豪語ごうごしていたのだと、簡単かんたんかれている[15]

太閤たいこう』では、浅井あさいぐん総崩そうくずれとなってやぶれたのちちょくけい首実検くびじっけん最中さいちゅう信長のぶなが暗殺あんさつはかったというはなしになっており、床几しょうぎすわ信長のぶながちかくまですすたときに(太閤たいこうでは竹中たけなか半兵衛はんべえとある)竹中たけなか久作きゅうさく見抜みぬかれてしまって、剛力ごうりき久作きゅうさくびかかられくびをかきられた[16]。『太閤たいこう物語ものがたり』では、信長のぶなが久作きゅうさく手柄てがら絶賛ぜっさんする一方いっぽう、「てきながらもてんはれ勇士ゆうしかな、喜右衛門きうえもんじょう、されこそ無念むねんなりけめ」とちょくけいあわれんでいる[17]

ちょくけい奮戦ふんせんして戦死せんしした東上とうじょうざか田園でんえんあいだにあり、遠藤えんどうづかといった[18][4]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 太閤たいこう物語ものがたり」での名前なまえ
  2. ^ 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょの『近江おうみ冨田とみた阿部あべ文書ぶんしょ』『近江おうみ大原おおはら観音寺かんおんじ文書ぶんしょ
  3. ^ a b 滋賀しがけん長浜ながはま小谷おたにぐん上町うえまち付近ふきん
  4. ^ a b 姉川あねがわ古戦場こせんじょう南岸なんがん織田おだ信長のぶなが本陣ほんじんあとちかくのわきにあった。現在げんざいこわされ、40メートルみなみ移転いてんされた場所ばしょちょくけいはかがある(滋賀しがけん長浜ながはま東上坂ひがしこうざか
  5. ^ a b c いずれも滋賀しがけん米原まいばら合併がっぺいされたきゅうむらめいで、現在げんざいどう市内しないとしてのこる。
  6. ^ a b c 近江おうみ坂田さかたぐんしむら編纂へんさん委員いいんかい 1913, p. 784.
  7. ^ 近江おうみ坂田さかたぐんしむら編纂へんさん委員いいんかい 1913, p. 784-785.
  8. ^ 近藤こんどうびんじょう 1919, p. 173-174
  9. ^ この信長のぶなが佐和山さわやまったことは『信長のぶながこう』にもある。
  10. ^ 著者ちょしゃ不明ふめい 1887, p. 446-448.
  11. ^ 滋賀しがけん米原まいばら柏原かしわばらにある比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ別院べついん。『信長のぶながこう』にも登場とうじょうし、しばしば信長のぶなが秀吉ひでよし宿やどとなった。
  12. ^ a b c 阿部あべ 1990, p. 160-161
  13. ^ 近藤こんどうびんじょう, 1919 & 209-210.
  14. ^ 著者ちょしゃ不明ふめい 1887, p. 448-450.
  15. ^ 近藤こんどうびんじょう 1926, p. 65
  16. ^ 著者ちょしゃ不明ふめい 1887, p. 708-709
  17. ^ 大町おおまち 1918, p. 128-129
  18. ^ 近江おうみ坂田さかたぐんしむら編纂へんさん委員いいんかい 1913, p. 785.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]