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鄒作華 - Wikipedia コンテンツにスキップ

鄒作はな

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933)

さくはな(すう さくか、繁体字はんたいじ: 鄒作はな; 簡体字かんたいじ: 邹作华; 拼音: Zōu Zuòhuá; ウェードしき: Tsou Tso-hua1894ねん5月11にちきよしひかりいとぐち20ねん4がつはつ7にち) - 1973ねんみんこく62ねん11月7にち)は、中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)の軍人ぐんじん政治せいじ東北とうほく陸軍りくぐん奉天ほうてん出身しゅっしん砲兵ほうへい専門せんもんとする。のち国民こくみん革命かくめいぐんぞくした。たけろう吉林きつりん将軍しょうぐん管轄かんかつ吉林きつりん現在げんざい永吉ながよしけん出身しゅっしん

事績じせき

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奉天ほうてんでの台頭たいとう

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はじめは吉林きつりんゆうきゅう師範しはん附属ふぞく高等こうとう小学しょうがくまなんだが、1908ねんひかりいとぐち34ねん)に吉林きつりん陸軍りくぐん小学しょうがく入学にゅうがくし、卒業そつぎょう吉林きつりんはじめおんとお部隊ぶたい見習みならいぐんかん[1]1914ねんみんこく3ねん)には陸軍りくぐんだいいち予備よび学校がっこう進学しんがくした。1916ねんみんこく5ねん)、てい陸軍りくぐんぐんかん学校がっこう5期生きせい進学しんがくし、留学生りゅうがくせい予備よびたい編入へんにゅうされる。よく1917ねんみんこく6ねん)に日本にっぽん留学りゅうがく久留米くるめ野砲やほうへいだい24連隊れんたい実習じっしゅう従事じゅうじし、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうだい12砲兵ほうへいまなんだ。卒業そつぎょう1919ねん帰国きこくだん祺瑞ひきいる参戦さんせんぐん教導きょうどうだん砲兵ほうへい教官きょうかんとして所属しょぞくふく隊長たいちょう団長だんちょう代理だいりて、のち重砲じゅうほう営営えいえいちょうつとめる[1]同年どうねん10がつひがしさんしょう巡閲じゅんえつ使まもるたい混成こんせいだん参謀さんぼうとなり、これ以降いこう奉天ほうてんぞくした[2][3]

1922ねんみんこく11ねん)11月、東三ひがしさんしょう陸軍りくぐん砲兵ほうへいだい4だん団長だんちょう就任しゅうにん1925ねんみんこく14ねん)には砲兵ほうへいだい1たびたびちょう昇進しょうしんしている。同年どうねん11がつかくまつよわいちょうさく反旗はんきひるがえして東北とうほく国民こくみんぐん結成けっせいすると、そう司令しれい参謀さんぼうちょう起用きようされる。しかし、鄒はちょうさく霖と内通ないつうしており[4]、12月7にちにしきしゅう占領せんりょう時間じかんかせぎを企図きとした鄒は、かくまつよわいに3日間にちかん部隊ぶたい休息きゅうそく具申ぐしんした。事実じじつ将兵しょうへい連日れんじつ戦闘せんとう凍傷とうしょう疲弊ひへいしきっていたため、かくまつよわいもこれに同意どういしたが[4]ちょうさく霖はこのあいだ反撃はんげきてんじ、東北とうほく国民こくみんぐん瓦解がかい。鄒はかく逃亡とうぼう見届みとどけるとぜんぐん戦闘せんとう停止ていし命令めいれいくだし、ちょうまなぶりょう電話でんわでこれまでの状況じょうきょう報告ほうこくした[5]ちょう配下はいかもどったのちはかくはい功績こうせきから累進るいしんし、1926ねんみんこく15ねん)、奉天ほうてん砲兵ほうへいそう司令しれいとなり、よく1927ねんみんこく16ねん)には砲兵ほうへいぐんぐんちょうつとめる。北京ぺきん政府せいふ中国ちゅうごく国民党こくみんとうきたぐん敗北はいぼくすると、鄒も東北とうほくもどり、おきやすたむろ墾督べんにんぜられた。ちょうまなぶりょう国民こくみん政府せいふえきのぼりすると、鄒もこれに追随ついずいしている。[2][3]

国民こくみん政府せいふでの活動かつどう

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1930ねんみんこく19ねん)1がつ、鄒作はな青天白日せいてんはくじつ勲章くんしょうなどを授与じゅよされた。1933ねんみんこく22ねん)5がつ国民こくみん政府せいふ軍事ぐんじ委員いいんかい北平きたひら分会ぶんかい委員いいん任命にんめいされる。よく1934ねんみんこく23ねん)9がつには陸軍りくぐん砲兵ほうへい学校がっこう校長こうちょう転任てんにん、まもなく同校どうこう教育きょういくちょうとして実務じつむたった。1935ねんみんこく24ねん)4がつ陸軍りくぐん少将しょうしょう銜を授与じゅよされる。にちちゅう戦争せんそう抗日こうにち戦争せんそう)が勃発ぼっぱつすると、全国ぜんこく砲兵ほうへいそう指揮しき任命にんめいされた。1940ねんみんこく29ねん)、軍事ぐんじ委員いいんかい砲兵ほうへいそう指揮しき改組かいそされ、同年どうねん5がつには吉林きつりんしょう政府せいふ主席しゅせきにんぜられたが、名目めいもくのみで実際じっさいはぶけ政府せいふ組織そしきされなかった。[6]1943ねんみんこく32ねん) 12月、国民こくみん政府せいふさんぐんしょさんぐん任命にんめいされ、1945ねんみんこく34ねん)5がつには国民党こくみんとうだい6中央ちゅうおう執行しっこう委員いいん候補こうほ選出せんしゅつされている。[2][3]

にちちゅう戦争せんそう終結しゅうけつ1945ねんみんこく34ねん)9がつ、鄒作はな東北とうほくゆき政治せいじ委員いいんかい委員いいん任命にんめいされ、1947ねんみんこく36ねん)10がつ国民こくみん政府せいふ主席しゅせき東北とうほくゆきながえ政治せいじ委員いいんかい常務じょうむ委員いいんとなった。同年どうねん11がつ陸軍りくぐんきゅうじょうはた銜を授与じゅよされる。1948ねんみんこく37ねん)2がつ戦略せんりゃく顧問こもん委員いいんかい委員いいん任命にんめいされ、同年どうねん3がつにはくだりけん国民こくみん大会たいかい代表だいひょう選出せんしゅつされた。1949ねんみんこく38ねん)、国共こっきょう内戦ないせん敗北はいぼくともな台湾たいわんのがれた。1953ねんみんこく42ねん)に退役たいえきし、以後いご総統そうとう国策こくさく顧問こもんひかりふく大陸たいりく設計せっけい研究けんきゅう委員いいんかい委員いいん歴任れきにんする。国民こくみん大会たいかいでは、1954ねんみんこく43ねん)2がつだい2かい会議かいぎ1960ねんみんこく49ねん)2がつだい3かい会議かいぎでいずれも会議かいぎ主席しゅせきだん主席しゅせきつとめた。1973ねんみんこく62ねん)11月7にち台北たいぺいにて病没びょうぼつ享年きょうねん80(まん79さい)。[2][3]

ちゅう

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  1. ^ a b 邹作华” (中国ちゅうごく). 张氏帅府博物はくぶつ馆. 2020ねん12月3にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d じょあるじへん(2007)、2030ぺーじ
  3. ^ a b c d りゅうこくめいぬしへん(2005)、1134ぺーじ
  4. ^ a b 杉山すぎやま 2012, p. 291.
  5. ^ 杉山すぎやま 2012, p. 296.
  6. ^ りゅう寿ひさしりんほかへん(1995)、959ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • じょともはるぬしへんみんこく人物じんぶつだい辞典じてん ぞうていばん河北かわきた人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2007ねんISBN 978-7-202-03014-1 
  • りゅうこくめいぬしへん中国ちゅうごく国民党こくみんとうひゃくねん人物じんぶつ全書ぜんしょ団結だんけつ出版しゅっぱんしゃ、2005ねんISBN 7-80214-039-0 
  • りゅう寿ひさしりんほかへんみんこくしょくかん年表ねんぴょう中華ちゅうかしょきょく、1995ねんISBN 7-101-01320-1 
  • 杉山すぎやま祐之ひろゆき覇王はおう革命かくめい 中国ちゅうごく軍閥ぐんばついちきゅういちはち白水しろみずしゃ、2012ねんISBN 978-4-560-08256-0 
 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ
先代せんだい
ちょうすすむ
吉林きつりんしょう政府せいふ主席しゅせき
1940ねん5月
次代じだい
ていみち