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野田 孝(のだ こう、1901年8月20日 - 1984年9月23日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。
山梨県竜王町(現在の甲斐市)出身。1920年に甲府中学校を卒業後、旧制第一高等学校を目指して浪人していた。しかし、同年に同郷の小林一三に「(浪人してまで高校・大学に進学するより)早いとこ、実務についた方が良い」と勧められて、阪神急行電鉄に入社した。結婚まで小林一三の自宅に下宿し、結婚後も隣に自宅を構えていた[2]。
1947年2月に京阪神急行電鉄(阪急電鉄)から分離した阪急百貨店の常務に就任し、専務を経て、1957年11月に社長に就任。清水雅が東宝の社長に就任したことによる。社長在任時には、日本一の食品売場を梅田本店に作るなど、阪急百貨店を高収益体質にした。24年近く社長を務めた後、1981年から会長を務めた[3]。
日本百貨店協会会長を1962年から、1970年から、1980年からの3度にわたって務めた。2度目は8年前にやったばかりだと断ろうとしたが、3度目は断ることを諦めてしまった。3度目の協会長時代は岡田茂による三越事件で、三越が一方的に同業他社との対立を深めたことに頭を悩ませた[2]。
1984年9月23日、心不全のために死去[4]。83歳没。
10歳の時から続けた剣道を亡くなる直前まで欠かせなかった[5]。
- ^ a b “第十九代日本百貨店協会長に就任した 野田孝_ひと”. 朝日新聞 (朝日新聞東京本社): p. 3. (1980年6月15日)
- ^ 1981年 5月19日 日本経済新聞 朝刊 p9
- ^ 1984年 9月24日 日本経済新聞 朝刊 p23
- ^ 50年史編集委員会『株式会社阪急百貨店50年史』阪急百貨店、1998年4月。
- 人事興信所 編『人事興信録 第30版 下』人事興信所、1979年。