野田のだたかし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

野田のだ たかし(のだ こう、1901ねん8がつ20日はつか[1] - 1984ねん9月23にち)は、日本にっぽん経営けいえいしゃ阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん社長しゃちょう会長かいちょうつとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

山梨やまなしけん竜王りゅうおうまち現在げんざい甲斐かい出身しゅっしん[1]1920ねん甲府こうふ中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこう目指めざして浪人ろうにんしていた。しかし、同年どうねん同郷どうきょう小林こばやし一三かずみに「(浪人ろうにんしてまで高校こうこう大学だいがく進学しんがくするより)はやいとこ、実務じつむについたほうい」とすすめられて、阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ入社にゅうしゃした[1]結婚けっこんまで小林こばやし一三かずみ自宅じたく下宿げしゅくし、結婚けっこんとなり自宅じたくかまえていた[2]

1947ねん2がつ京阪神けいはんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ阪急電鉄はんきゅうでんてつ)から分離ぶんりした阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん常務じょうむ就任しゅうにんし、専務せんむて、1957ねん11月に社長しゃちょう就任しゅうにん[1]清水しみずみやび東宝とうほう社長しゃちょう就任しゅうにんしたことによる。社長しゃちょう在任ざいにんには、日本一にっぽんいち食品しょくひん売場うりば梅田うめだ本店ほんてんつくるなど、阪急百貨店はんきゅうひゃっかてんこう収益しゅうえき体質たいしつにした。24ねんちか社長しゃちょうつとめたのち1981ねんから会長かいちょうつとめた[3]

日本にっぽん百貨店ひゃっかてん協会きょうかい会長かいちょうを1962ねんから、1970ねんから、1980ねんからの3にわたってつとめた[1]。2度目どめは8ねんまえにやったばかりだとことわろうとしたが、3度目どめことわることをあきらめてしまった。3度目どめ協会きょうかいちょう時代じだい岡田おかだしげるによる三越みつこし事件じけんで、三越みつこし一方いっぽうてき同業どうぎょう他社たしゃとの対立たいりつふかめたことにあたまなやませた[2]

1984ねん9月23にち心不全しんふぜんのために死去しきょ[4]。83さいぼつ

10さいときからつづけた剣道けんどうくなる直前ちょくぜんまでかせなかった[5]

栄誉えいよ[編集へんしゅう]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 人事じんじ興信所こうしんじょ 1979, の24ぺーじ.
  2. ^ a b だいじゅうきゅうだい日本にっぽん百貨店ひゃっかてん協会きょうかいちょう就任しゅうにんした 野田のだたかし_ひと”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞あさひしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ): p. 3. (1980ねん6がつ15にち) 
  3. ^ 1981ねん 5月19にち 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 朝刊ちょうかん p9
  4. ^ 1984ねん 9がつ24にち 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 朝刊ちょうかん p23
  5. ^ 50ねん編集へんしゅう委員いいんかい株式会社かぶしきがいしゃ阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん50ねん阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん、1998ねん4がつ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 人事じんじ興信所こうしんじょ へん人事じんじ興信録こうしんろく だい30はん 人事じんじ興信所こうしんじょ、1979ねん 
先代せんだい
清水しみずみやび
阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん社長しゃちょう
だい2だい:1957ねん - 1981ねん
次代じだい
鳥居とりい正一郎しょういちろう