門脇かどわき誠一郎せいいちろう

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門脇かどわき 誠一郎せいいちろう(かどわき せいいちろう 1886ねん明治めいじ19ねん) - 1947ねん昭和しょうわ22ねん2がつ11にち)は日本にっぽん柔道じゅうどういえ教育きょういくもの維新いしん政府せいふきょうだいすすむ門脇かどわきしげるあや母方ははかた祖父そふ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

鳥取とっとりけん西伯さいはくぐんわたしむら(げん境港さかいみなとわたしまち)にちち直衛なおえはは・ゆきの長男ちょうなんとしてまれた。生家せいかべいいとな繁盛はんじょうしていたが、誠一郎せいいちろうまれたころより家運かうんすこしずつかたむきはじめ、小学校しょうがっこう入学にゅうがくするころには使用人しようにんもすっかりなくなってしまった。このためよく家業かぎょう手伝てつだいをさせられ、べいたわらかついで配達はいたつしてまわったという。べい失敗しっぱいしたちち直衛なおえわたり紱緞工場こうじょうをはじめたが、これも成功せいこうせず一家いっかげて米子よなごなだまちきょうつした。

1903ねん鳥取とっとり県立けんりつだい中学校ちゅうがっこう(げん米子よなごひがし高校こうこう)に入学にゅうがくしたが家庭かてい事情じじょうさんねん退学たいがく柔道じゅうどうこころざして上京じょうきょうする。講道館こうどうかんはい嘉納かのう治五郎じごろう書生しょせいをしながらきびしい修行しゅぎょう生活せいかつおくる。やがて頭角とうかくをあらわし三船みふね久蔵きゅうぞうとく三宝さんぼうとともに「講道館こうどうかん三羽烏さんばがらす」とよばれた。

1915ねん稽古けいこちゅう致命ちめいてき怪我けがをし、嘉納かのう師範しはんすすめにしたがい米子よなご帰郷ききょうする。後進こうしん指導しどう情熱じょうねつそそぐためなだまち吉祥院きっしょういんちかくに道場どうじょう少年しょうねんたち柔道じゅうどうおしえていたが、べいちゅう警察けいさつ柔道じゅうどう教師きょうししょくて、けん柔道じゅうどう大会たいかい個人こじん優勝ゆうしょうかざってから以後いご連続れんぞくして団体だんたい優勝ゆうしょう1928ねん東京とうきょうだか主催しゅさい全国ぜんこく大会たいかいでは国体こくたい優勝ゆうしょう個人こじん優勝ゆうしょうかんかざ全国ぜんこく制覇せいはげ、べいちゅう柔道じゅうどう黄金おうごん時代じだいきずいた。

1947ねん胃潰瘍いかいよう悪化あっかのため死去しきょ。62さい戒名かいみょうまことあつしいん大洞おおほらあおいりゅう居士こじ墓碑ぼひ米子よなご寺町てらまち瑞仙ずいせん寺山てらやまもん内側うちがわ門弟もんてい一同いちどう建碑けんぴしていま香華こうげえない。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • 趣味しゅみ書画しょが刀剣とうけんとう
  • 大変たいへん酒豪しゅごうであり武勇ぶゆうでん数多かずおおつたえられている。あるしゅって両国橋りょうごくばしわたっていると、こうがわより仲仕なかしたちが傍若無人ぼうじゃくぶじんはしいちはいになってわたってるのに出会であい、はし中央ちゅうおうみちゆずゆずらぬで喧嘩けんかとなりきょううえはたちまち修羅場しゅらばした。しかしそれもつかかれ仲仕なかしたちを一人ひとりのこらずかわなかんでしまったという。また当時とうじ相撲すもうかい重鎮じゅうちんばれていた玉椿たまつばき公開こうかい試合しあいおこない、見事みごと勝利しょうりをおさめ「講道館こうどうかん門脇かどわきあり」と東京とうきょう耳目じもく一身いっしんにあつめたとされる。
  • このようなことがいくつかかさなったことから蛮勇ばんゆう他流たりゅう試合しあいきんじている嘉納かのう師範しはんはたまりかね門脇かどわきび、「いま柔道じゅうどう国技こくぎとして世界せかいひろめられ講道館こうどうかん日本にっぽん武道ぶどう総本山そうほんざんになろうとしている。それだけに柔道じゅうどうこころざすものはしん武士ぶし紳士しんしでなければならぬときである。蛮勇ばんゆう無益むえきうで無益むえき殺生せっしょうつつしまねばならぬ」(『実録じつろく柔道じゅうどうさん国史こくし』)と破門はもんをいいわたされている(半年はんとしにはゆるされた)。

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

門脇かどわき
わたしむらにち御崎おんざき神社じんじゃ神官しんかん門脇かどわき・16せいこうだか尼子あまこ経久つねひさ家臣かしんとして戦功せんこうげた。17せいだかせい尼子あまこ滅亡めつぼう大根島おおねじま入江いりえ移住いじゅうした。18せいじゅうだかもとかめ2ねん1571ねんわたしむら移住いじゅうし、江島えじま祇園ぎおんしゃ篠津しのつむらじゅう羅刹らせつ女神めがみしゃ神官しんかんとして奉仕ほうしした。(『わたしむら門脇かどわき系譜けいふ』)[1]
幸高こうたか━━だかせい━━重高しげたか・・・<りゃく>・・・じゅうさと━━じゅうあや━━重雄しげお
彦五ろう直衛なおえ
    ┣━━誠一郎せいいちろう
じゅうあや━ゆき   ┣━━せいひろし 
         綾子あやこ  ┣━━俊博としひろ
           周子かねこ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 米子よなご歴史れきし人物じんぶつ』 1982ねん
  • 勝田かつたおか人物じんぶつ』(編集へんしゅう勝田かつたおか人物じんぶつ編集へんしゅう委員いいんかい発行はっこう鳥取とっとり県立けんりつ米子よなごひがし高等こうとう学校がっこう創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい 2000ねん 152-156ぺーじ

関連かんれん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 境港さかいみなと 上巻じょうかん昭和しょうわ61ねん、371ぺーじ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]