門脇 誠一郎
経歴 [編集 ]
1903
1915
1947
年譜 [編集 ]
- 1886
年 :鳥取 県 西伯 郡 渡 村 (現 境港 市 渡 町 )に生 まれる - 1903
年 :鳥取 県立 第 二 中学校 (現 ・鳥取 県立 米子 東 高等 学校 )入学 - 1905
年 :同校 退学 - 1906
年 :講道館 入門 - 1907
年 :講道館 初段 に進 む - 1908
年 :講道館 二 段 に進 む - 1909
年 :東京 高等 師範 学校 柔道 助 教 並 びに同校 附属 中学校 柔道 教師 拝命 。早稲田 中学校 柔道 教師 拝命 - 1910
年 :講道館 三 段 に進 む。警視庁 武道 師範 拝命 - 1911
年 :陸軍 経理 学校 柔道 教師 拝命 - 1912
年 :日本 体育 学校 柔道 教師 拝命 - 1914
年 :講道館 四 段 に進 む - 1924
年 :講道館 五 段 に進 む - 1932
年 :講道館 六 段 に進 む - 1937
年 :大 日本 武徳 会 総裁 より教 士 號 を賜 る - 1939
年 :講道館 七 段 に進 む - 1947
年 :死去 墓所 は米子 市 寺町 の瑞仙 寺
その他 [編集 ]
趣味 は書画 、刀剣 等 。
大変 な酒豪 であり武勇 伝 が数多 く伝 えられている。ある日 酒 に酔 って両国橋 を渡 っていると、向 こう側 より仲仕 たちが傍若無人 に橋 一 杯 になって渡 って来 るのに出会 い、橋 の中央 で道 を譲 れ譲 らぬで喧嘩 となり橋 の上 はたちまち修羅場 と化 した。しかしそれも束 の間 彼 は仲仕 たちを一人 残 らず川 の中 に投 げ込 んでしまったという。又 、当時 相撲 界 の重鎮 と呼 ばれていた玉椿 と公開 試合 を行 い、見事 に勝利 をおさめ「講道館 に門脇 あり」と東京 の耳目 を一身 にあつめたとされる。- このような
事 がいくつか重 なったことから蛮勇 や他流 試合 を禁 じている嘉納 師範 はたまりかね門脇 を呼 び、「いま柔道 は国技 として世界 に広 められ講道館 は日本 武道 の総本山 になろうとしている。それだけに柔道 を志 すものは真 の武士 、紳士 でなければならぬ時 である。蛮勇 や無益 の腕 、無益 の殺生 は慎 まねばならぬ」(『実録 柔道 三 国史 』)と破門 をい渡 されている(半年 後 には許 された)。
家族 親族 [編集 ]
父 :門脇 直衛 母 :ゆき(神官 門脇 重 綾 娘 )長男 :正 紘
系譜 [編集 ]
門脇 家 渡 村 日 御崎 神社 の神官 門脇 家 の祖 ・16世 幸 高 は尼子 経久 の家臣 として戦功 を挙 げた。17世 高 政 は尼子 氏 滅亡 後 大根島 入江 に移住 した。18世 重 高 は元 亀 2年 (1571年 )渡 村 に移住 し、江島 祇園 社 と篠津 村 十 羅刹 女神 社 の神官 として奉仕 した。(『渡 村 門脇 家 系譜 』)[1]
幸高 ━━高 政 ━━重高 ・・・<略 >・・・重 郷 ━━重 綾 ━━重雄
彦五郎 ━直衛 ┣━━誠一郎 重 綾 ━ゆき ┣━━正 紘 綾子 ┣━━俊博 周子
参考 文献 [編集 ]
- 『
米子 の歴史 と人物 』 1982年 - 『
勝田 ヶ丘 の人物 誌 』(編集 ・勝田 ヶ丘 の人物 誌 編集 委員 会 、発行 ・鳥取 県立 米子 東 高等 学校 創立 百 周年 記念 事業 実行 委員 会 2000年 152-156頁 )
関連 [編集 ]
脚注 [編集 ]
- ^ 『
境港 市 史 上巻 』昭和 61年 、371頁