上方かみがた歌舞伎かぶき

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関西かんさい歌舞伎かぶきから転送てんそう

上方かみがた歌舞伎かぶきかみがたかぶき

  1. おも江戸えど時代じだい大坂おおさか京都きょうと中心ちゅうしん発展はってんした歌舞伎かぶきかた技法ぎほう演出えんしゅつ演技えんぎほう演目えんもく劇壇げきだんなどの総称そうしょう江戸えど江戸えど歌舞伎かぶき対比たいひする上方かみがた歌舞伎かぶきかみがた かぶきのことをいう。
  2. おも明治めいじ以降いこう関西かんさいだい歌舞伎かぶきやその一座いちざ劇壇げきだんなどの総称そうしょうとく戦後せんご昭和しょうわになって上方かみがた活動かつどうする歌舞伎かぶき役者やくしゃかずいちじるしくると、上方かみがたではもはや複数ふくすうむことができなくなり、必然ひつぜんてきだい看板かんばん役者やくしゃでも一座いちざすることを余儀よぎなくされた。これを東京とうきょう菊五郎きくごろう劇団げきだん吉右衛門きちえもん劇団げきだん猿之助えんのすけ劇団げきだんなどに対比たいひする上方かみがた歌舞伎かぶきという。

江戸えど歌舞伎かぶき上方かみがた歌舞伎かぶき[編集へんしゅう]

上方かみがた歌舞伎かぶき江戸えど歌舞伎かぶきとともに歌舞伎かぶき両輪りょうりんをなし、江戸えど歌舞伎かぶき荒事あらごと勇壮ゆうそうげいつくしたのにたいし、ごととよばれるやわらかあじのあるげい形成けいせいしている。まわ舞台ぶたいやセリげなどの舞台ぶたい機構きこう上方かみがたまれるなど18世紀せいきころは上方かみがた歌舞伎かぶきほうすすんでいた。丸本まるほんぶつとよばれる人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶきしたものや、石川いしかわ五右衛門ごえもんなど天下てんかねら悪人あくにんだい活躍かつやくするおいえ騒動そうどうぶつなどの脚本きゃくほんおおい。すじ複雑ふくざつ喜劇きげきてき要素ようそられる。全体ぜんたいてき趣向しゅこうむが独創どくそうせいとぼしく、19世紀せいき後半こうはん並木なみき五瓶ごへい以後いごは、江戸えど歌舞伎かぶきよん代目だいめ鶴屋つるや南北なんぼく代目だいめ河竹かわたけ新七しんしち黙阿弥もくあみのようなすぐれた作者さくしゃなかった。このため今日きょう上演じょうえんされる上方かみがたけい歌舞伎かぶきのうち、丸本まるほんぶつ以外いがい作品さくひんすくない。わずかに金澤かなざわりゅうだまさくわたりかりこい玉章ぎょくしょう』(かりのたより)、近松ちかまつ徳三とくぞうさく伊勢いせ音頭おんどこい寝刃ねたば』(伊勢いせ音頭おんど)、奈川ながわ亀輔かめすけさく敵討かたきうち天下茶屋てんがちゃや』(天下茶屋てんがちゃや)あたりがのこるくらいである。

以後いご上方かみがた歌舞伎かぶき歌舞伎かぶきかい中心ちゅうしんからはずれてゆくが、これは文化ぶんか中心ちゅうしん上方かみがたから江戸えどうつり、江戸えど歌舞伎かぶき発展はってんしていくのと符合ふごうする。

演出えんしゅつ上方かみがた江戸えどではことなる。今日きょう上演じょうえんされる丸本まるほんぶつには上方かみがたしき江戸えどしき演出えんしゅつがある。いちれいを『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐらろくだん』の勘平かんぺいしめすと以下いかのようになる。

  • 勘平かんぺい衣装いしょう
    • 江戸えど勘平かんぺい水色みずいろきぬ紋服もんぷく着替きがえる。
    • 上方かみがた勘平かんぺい終始しゅうし猟師りょうしのやつし姿すがたである。幕切まくぎれにおかやが紋服もんぷくかたにかけさせる。

これは、江戸えど勘平かんぺいうつくしさを強調きょうちょうするにたいし、上方かみがた勘平かんぺいはあくまで猟師りょうしとしてであり、のぞんで武士ぶしもどるという理屈りくつである。

  • 勘平かんぺい切腹せっぷく
    • 江戸えど勘平かんぺい千崎ちざきはらめられ、台詞ぜりふのうちいきなり切腹せっぷく
    • 上方かみがた千崎ちざきはらめられたあと、二人ふたり与市よいち兵衛ひょうえ傷跡きずあと確認かくにんしているときに切腹せっぷく

上方かみがた浄瑠璃じょうるり文言もんごん「いすかのくちばしのくいちがい」をかして、無罪むざいれる直前ちょくぜんぬという悲劇ひげきせい強調きょうちょうする。

江戸えどのは様式ようしきせい重視じゅうしする幕切まくぎれであるが 上方かみがた最後さいご武士ぶしとしてれいくすという理屈りくつである。このように、合理ごうりてき論理ろんりてきめん目立めだつが、これは町人ちょうにん社会しゃかい成熟せいじゅくしていた大阪おおさかという土地とち特色とくしょく関係かんけいるとおもわれる。

観客かんきゃくをあのこのよろこばせるため、ケレンや、即興そっきょう、そのアクのつよ演出えんしゅつがとられたりするのも上方かみがた歌舞伎かぶき特色とくしょくである。娯楽ごらくせいについては、今日きょう吉本よしもとしん喜劇きげき上方かみがた落語らくごなどにも同様どうよう傾向けいこうられる。大正たいしょう時代じだいに『かみ明恵あきえ和合わごう取組とりくみ』(めぐみ喧嘩けんか)が大阪おおさか上演じょうえんされたとき、とんび力士りきし双方そうほううったえをすることで幕切まくぎれとなった。そのとき「ええっ、もうおわいでっか」「なにじゃカスみたいなもんや」と観客かんきゃくから苦情くじょうた。このあとさばきのつづいてると期待きたいしていたのである。江戸えどでは「いき」とみなされる演出えんしゅつ上方かみがたではものらなくえるのである。ぎゃく上方かみがたふう演出えんしゅつ江戸えどではくどいとみなされ「野暮やぼ」にえた。さん代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもんよん代目だいめ市川いちかわ小團次こだんじ江戸えど一部いちぶ観客かんきゃくれられなかったのもこのてんにあった。上方かみがた歌舞伎かぶき演出えんしゅつ戦後せんご衰亡すいぼうしたが、近年きんねんさん代目だいめ市川いちかわ猿之助えんのすけよん代目だいめ坂田さかた藤十郎とうじゅうろうらの努力どりょくさい評価ひょうかされている。

江戸えど時代じだい東西とうざい歌舞伎かぶき交流こうりゅうさかんにおこなわれ、上方かみがたふう演出えんしゅつ数多かずおお江戸えどにもたらされ江戸えど歌舞伎かぶき栄養えいようげんともなった。竹本たけもとばれる義太夫ぎだゆう使用しよう早変はやがわりなどのケレン、現実げんじつてき演技えんぎなどである。これらはよん代目だいめ鶴屋つるや南北なんぼく河竹かわたけ黙阿弥もくあみらにより江戸えどふう演出えんしゅつくわえられた。また、東西とうざい歌舞伎かぶき俳優はいゆうもしのぎをけず相手あいてとしてげい研鑽けんさんつと双方そうほうげい向上こうじょうにつながったのである。

上方かみがたでは、「かた」を重視じゅうしせず、やりかた自分じぶん自身じしん創意そうい工夫くふうすることが大事だいじといわれた。江戸えどでは様式ようしき継承けいしょうおもんじられ、おしえられたとおりにしないと非難ひなんされるが、上方かみがたではおしえられたとおりにすると工夫くふうらないと非難ひなんされた。初代しょだい中村なかむら鴈治郎がんじろうおな狂言きょうげん毎日まいにちちがかたちつとめるなか、代目だいめ鴈治郎がんじろう当時とうじ初代しょだい扇雀せんじゃく)がちちからおしえられたとおりに『心中しんちゅうの天網てんもうとうかわしょう』をつとめたとき「なにおそわったままにするんや、おまえ工夫くふうはないやないか」としかったことなどは、その好例こうれいである。ゆえに代々だいだいいえげいつくられなかったり途絶とだえたりした。そのせいか、上方かみがた歌舞伎かぶき役者やくしゃ代数だいすう江戸えどのそれにくらべるときわめてすくない。一方いっぽうでは、門閥もんばつがいから実力じつりょく名題なだいになるれい上方かみがたではおおかった。これは、「いえ」と格式かくしきおもんじる武士ぶし江戸えど実力じつりょく本位ほんい町人ちょうにん大阪おおさかとのちがいが影響えいきょうしているとかんがえられる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

興隆こうりゅう時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

はち代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんえんじる大星おおぼし由良之助ゆらのすけ

元禄げんろく時代じだい(17世紀せいき後半こうはん近松ちかまつ門左衛門もんざえもん大阪おおさか道頓堀どうとんぼり竹本たけもとで『出世しゅっせけいきよし』『曽根崎そねざき心中しんちゅうの』『平家ひらか女護島にょごがしま』『おんなころせ地獄じごく』などを人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりとして発表はっぴょうするが、それらはすぐ歌舞伎かぶきされる。初代しょだい坂田さかた藤十郎とうじゅうろう近松ちかまつ門左衛門もんざえもん提携ていけいしてごとげい完成かんせいさせた。貴人きじん粗末そまつ町人ちょうにん姿すがた馴染なじみの遊女ゆうじょうという「やつし」がおまりの展開てんかいだった。ほか、初代しょだいあらし三右衛門さんえもん女形おんながたこころがけをいた初代しょだい芳澤よしざわあやめ大和屋やまとや甚左衛門えもん水木みずき辰之助たつのすけなどの名優めいゆうどう時期じき活躍かつやくした。歌舞伎かぶき劇場げきじょうきょう四條しじょう河原かわら南座みなみざ中心ちゅうしんで、大阪おおさか道頓堀どうとんぼり官許かんきょ芝居しばい小屋こやあつまり大西おおにしちゅうかくすみまるわか太夫たゆう竹田たけだ芝居しばい小屋こやのきならべていた。このうちちゅうかくかくたかだい芝居しばいで、はそれより廉価れんか値段ねだんられるはま芝居しばいちゅう芝居しばい)だった。四條しじょう河原かわら道頓堀どうとんぼりともに上方かみがた歌舞伎かぶき中心ちゅうしんだった。

18世紀せいきはいると歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり人気にんきうばわれるが、そのあいだに『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』、『菅原すがわら伝授でんじゅしゅ習鑑』、『義経よしつね千本せんぼんさくら』、『けいせいこい飛脚びきゃく』などの人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり作品さくひん歌舞伎かぶきされた。これらは義太夫ぎだゆう狂言きょうげんあるいはあたらしい表現ひょうげんでは丸本まるほんぶつばれ、歌舞伎かぶき重要じゅうよう演目えんもくとして後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえている。18世紀せいき中頃なかごろには初代しょだい瀬川せかわ菊之丞きくのじょう初代しょだい中村なかむら富十郎とみじゅうろうめい女形おんながた所作事しょさごと大成たいせいし、初代しょだい小川おがわ吉太郎よしたろうえていたごとげい再興さいこうさせた。

初代しょだい並木なみき正三しょうさん初代しょだい中村なかむら歌右衛門うたえもん提携ていけいして『宿やどだんなな雨傘あまがさ』『けいせいてん羽衣はごろも』『さんじゅうせき艠始』『桑名くわな徳蔵とくら入船いりふね物語ものがたり』などのすぐれた脚本きゃくほんつくり、舞台面ぶたいめんではのう舞台ぶたい同様どうようだった破風はふ大臣だいじんばしらはらって舞台ぶたいひろげ、強盗ごうとうかえし奈落ならく活用かつようしたまわ舞台ぶたいせり宙乗ちゅうのりなどをしてスペクタクルせいつよめ、演出えんしゅつめんでは義太夫ぎだゆう台本だいほんれるチョボ採用さいようなどの功績こうせきをあげ、歌舞伎かぶきいきかえした。

18世紀せいき後半こうはんには狂言きょうげん作者さくしゃ初代しょだい並木なみきびん役者やくしゃでは初代しょだいあらしひなすけのほか、初代しょだい尾上おがみ菊五郎きくごろう初代しょだい澤村さわむら宗十郎そうじゅうろうらが江戸えどくだ江戸えど歌舞伎かぶきおおきな影響えいきょうあたえている。

さん代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもんの「武部たけべ源蔵げんぞう」(19世紀せいきはじめ)

幕末ばくまつから明治めいじ時代じだい[編集へんしゅう]

代目だいめ尾上おがみぞう玉屋たまやしん兵衛ひょうえ」(1849ねん

19世紀せいきから幕末ばくまつにかけて、「ねる」役者やくしゃばれた万能ばんのう選手せんしゅ名人めいじんさん代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもんなな代目だいめはち代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん代目だいめあらし吉三郎きちさぶろう、ケレンでした代目だいめ尾上おがみぞうごとげい名人めいじん代目だいめ實川じつかわがく十郎じゅうろうなどの名優めいゆう活躍かつやくした。一方いっぽうよん代目だいめ市川いちかわ小團次こだんじよん代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもんよん代目だいめ中村なかむら芝翫しかんのように江戸えどくだって活躍かつやくするものおおく、役者やくしゃしつ江戸えどにひけをとらなかった。ただだい芝居しばい役者やくしゃ格下かくしたはま芝居しばいるようになって芝居しばい品格ひんかく低下ていかしたり、有能ゆうのう狂言きょうげん作者さくしゃず、演目えんもく内容ないようおな種目しゅもくえやはま芝居しばい人気にんき狂言きょうげん上演じょうえんなどで独創どくそうせいけ、江戸えど歌舞伎かぶきとのしつ逆転ぎゃくてんする。歌舞伎かぶき評論ひょうろん権藤ごんどう芳一よしかずはその著書ちょしょ上方かみがた歌舞伎かぶき風景ふうけい』(2005ねん和泉いずみ書院しょいん)のなか当時とうじ状況じょうきょうを「やすくて面白おもしろければよいとする観客かんきゃく、そして狂言きょうげん作者さくしゃ役者やくしゃ劇場げきじょうのいずれもが、歌舞伎かぶきというドラマにたいして節度せつど喪失そうしつしたこと、上方かみがた歌舞伎かぶき衰退すいたい原因げんいんではなかったか」と分析ぶんせきしている。

それでも明治めいじはいると興行こうぎょう三栄さんえいだいせい道頓堀どうとんぼり芝居しばいりたてた。

ここの芝居しばい小屋こやは「道頓堀どうとんぼり」とばれ、東側ひがしがわさかいすじ方面ほうめんから西にしかって、弁天べんてん朝日あさひ中座ちゅうざ浪花なにわいつならび、歌舞伎かぶき新派しんぱ五郎ごろうげきなどが上演じょうえんされていた。かいがわには芝居しばい茶屋ちゃやのきならにぎわっていた。役者やくしゃ名優めいゆうあつまり、上方かみがたかずごと第一人者だいいちにんしゃ初代しょだい實川じつかわ延若えんじゃくはこってりとした芸風げいふうで、ケレンを得意とくいとした初代しょだい市川いちかわみぎだんからだった高度こうど技芸ぎげいせ、あたらしい歌舞伎かぶき目指めざした中村なかむら宗十郎そうじゅうろう東京とうきょう舞台ぶたい進出しんしゅつするなど、おのおのだい活躍かつやくして「のべむねみぎ」の時代じだいばれる空前くうぜん繁栄はんえいをもたらした。そして明治めいじまつ関西かんさい歌舞伎かぶき真髄しんずいともいうべき初代しょだい中村なかむら鴈治郎がんじろう登場とうじょうする。

鴈治郎がんじろう時代じだい[編集へんしゅう]

初代しょだい中村なかむら鴈治郎がんじろう

明治めいじから大正たいしょうにかけ、中村なかむら鴈治郎がんじろうによってごとげい極限きょくげんにまで洗練せんれんされた。生来せいらい美貌びぼうくわえ、初代しょだい延若えんじゃくきゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろうなどの東西とうざい役者やくしゃげいまなぶなどの旺盛おうせい研究けんきゅうしん、そしてはなやかでちた演技えんぎなどが鴈治郎がんじろうをして関西かんさい歌舞伎かぶき王者おうじゃたらしめたのである。同時どうじ興業こうぎょう会社かいしゃ松竹しょうちく白井しらい松次郎まつじろう大谷おおや竹次郎たけじろう兄弟きょうだい鴈治郎がんじろう提携ていけいして勢力せいりょくばし、東西とうざい歌舞伎かぶき興行こうぎょうけん独占どくせんすることとなり、鴈治郎がんじろう存在そんざいはその歌舞伎かぶき歴史れきしをもえてしまったのである。

現代げんだい人気にんき歌手かしゅのように、わか女性じょせいが「ガンジロハン」と嬌声きょうせいをあげて舞台ぶたい殺到さっとうし、定紋じょうもんのイひしをあしらった土産物みやげものぶようにれたのである。ただかれたんなる人気にんきしゃわらなかったのは、その数多かずおお素晴すばらしい舞台ぶたい伝説でんせつとなり今日きょう関西かんさい歌舞伎かぶきおおきな影響えいきょうあたつづけているということである。今日きょう上演じょうえんされる『心中しんちゅうの天網てんもうとうかわしょう』、『そう蝶々ちょうちょう曲輪くるわ日記にっき引窓ひきまど』、『土屋つちや主税ちから』、『ふじ十郎じゅうろうこい』などの人気にんき狂言きょうげん鴈治郎がんじろうによってつくられたものである。そしてかれげい大阪おおさか京都きょうとだけでなく東京とうきょう観客かんきゃくにもみとめられ、関西かんさい歌舞伎かぶき中村なかむら鴈治郎がんじろうという現象げんしょうまれる。

ほかの歌舞伎かぶき役者やくしゃには、代目だいめ實川じつかわ延若えんじゃくじゅういち代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん代目だいめ中村なかむら梅玉ばいぎょくさん代目だいめ中村なかむら雀右衛門じゃくえもん代目だいめ尾上おがみ卯三郎うさぶろうさん代目だいめ尾上おがみぞうあらしいわおわらいよん代目だいめあらし璃寛代目だいめあらし璃珏などが活躍かつやくした。いずれも一家いっかをなすちからゆうしてはいたが、如何いかんせん人気にんき知名度ちめいどともに鴈治郎がんじろうわれていた。それほどかれ影響えいきょうりょく巨大きょだいだった。

だが、興行こうぎょう会社かいしゃ松竹しょうちく鴈治郎がんじろう中心ちゅうしん興行こうぎょう形態けいたいはさまざまなゆがみをんでいく。じゅういち代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん代目だいめ實川じつかわ延若えんじゃくといった有能ゆうのう役者やくしゃ冷遇れいぐうされ、東京とうきょう活躍かつやくうつしていかざるをなくなる。それにいえげいという意識いしきひく関西かんさい歌舞伎かぶき風土ふうど後継こうけいしゃ作成さくせい積極せっきょくてきでなく、鴈治郎がんじろう一人ひとり舞台ぶたい状態じょうたいつづなか関係かんけいしゃ鴈治郎がんじろうについてはなん対策たいさくこうじることなく、1935ねん昭和しょうわ10ねん)の鴈治郎がんじろうむかえる。

凋落ちょうらく時代じだい[編集へんしゅう]

戦前せんぜん概況がいきょう[編集へんしゅう]

千日前せんにちまえ大阪おおさか歌舞伎座かぶきざ(1934ねんはがきより

鴈治郎がんじろう死後しごは、代目だいめ延若えんじゃくと、中村なかむらいさおしゃさん代目だいめ中村なかむら梅玉ばいぎょくさんしゃ上方かみがた歌舞伎かぶき牽引けんいんする。まだ、歌舞伎かぶき興行こうぎょう自体じたい人気にんきがあり、昭和しょうわはいって、最新さいしん設備せつびをほこる大阪おおさか歌舞伎座かぶきざせんにちまえつくられるなど環境かんきょうめん整備せいびされた。立女形たておやまかんしては関西かんさいのほうが充実じゅうじつしていた。うめだまはしばしば上京じょうきょうしては『妹背山しはいやま婦女ふじょ庭訓ていきん吉野川よしのがわ』のじょうだかや『しゅう合邦がっぽうつじ合邦がっぽう庵室あんしつ』の玉手たまて御前ごぜんなどの至芸しげいせて東京とうきょう歌舞伎かぶき愛好あいこうしゃからたか評価ひょうかされていたし、じゅう代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん東京とうきょううつったのも、東京とうきょう立女形たておやま不足ふそく補強ほきょうするためでもあった。

毛谷けだにむら初代しょだい中村なかむらいさおしゃのおえん代目だいめ実川じつかわ延若えんじゃく六助ろくすけ

色気いろけのある立役たちやく延若えんじゃく古風こふう立女形たておやまうめたま技巧ぎこうさきがけしゃと、さんしゃげい独特どくとく個性こせいがあり初代しょだい鴈治郎がんじろうとならぶほどしつたかいものだった。わきよん代目だいめ市川いちかわ市蔵いちぞう初代しょだい市川いちかわばことうなな代目だいめあらし吉三郎きちさぶろう初代しょだい市川いちかわむしろおんなよん代目だいめ浅尾あさお奥山おくやま代目だいめ中村なかむらかすみせんげい達者たっしゃがならび、そこに代目だいめわがとみろく代目だいめみのすけ中村なかむらもしほ(のちのじゅうなな代目だいめ中村なかむら勘三郎かんざぶろう)、代目だいめ市川いちかわ小太夫こだゆうなどの東京とうきょうからの移籍いせきぐみ、そして、扇雀せんじゃく長三郎ちょうさぶろう福助ふくすけなどの有望ゆうぼう若手わかてくわわり、かおぶれは充実じゅうじつしていた。さん代目だいめばんあずま壽三郎じゅさぶろうによる新派しんぱとの合同ごうどう公演こうえんなどのあたらしいこころみもおこなわれたり、村田むらた嘉久よしひさ梅村うめむら蓉子ようこ、などの新劇しんげき映画えいが女優じょゆう参加さんかがさかんであった。劇場げきじょうでは京都きょうと南座みなみざ大阪おおさか中座ちゅうざ浪花なにわ大阪おおさか歌舞伎座かぶきざかく歌舞伎かぶき上演じょうえん関西かんさい歌舞伎かぶきは、その内容ないようめん施設しせつめんともに問題もんだいはなかった。

だが、興行こうぎょうがわ観客かんきゃく初代しょだい中村なかむら鴈治郎がんじろう幻影げんえいもとめ、延若えんじゃく鴈治郎がんじろうあたやくつとめさせるなど的外まとはずれの興行こうぎょうがおこなわれ、役者やくしゃあじかせぬ弊害へいがいをもたらしていた。太平洋戦争たいへいようせんそうは、歌舞伎座かぶきざなどの劇場げきじょう閉鎖へいさ芝居しばい茶屋ちゃや廃業はいぎょうなどのきびしい状況じょうきょうにもかかわらず、さんしゃ中心ちゅうしん歌舞伎かぶき関西かんさい歌舞伎かぶき愛好あいこうしゃ人気にんきあつめ、大戦たいせん末期まっき空襲くうしゅうにもこごめせず興行こうぎょうおこなわれた。

終戦しゅうせん混乱こんらん[編集へんしゅう]

戦後せんごになると、関西かんさい歌舞伎かぶき凋落ちょうらく急速きゅうそくすすんだ。京都きょうと南座みなみざ大阪おおさか歌舞伎座かぶきざをのぞく、主要しゅよう劇場げきじょう空襲くうしゅうによる焼失しょうしつおおきな痛手いたでだった。それに、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ中村なかむらいさおしゃ戦災せんさい、1946ねん昭和しょうわ21ねん)のじゅう代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん不慮ふりょつづいて、1948ねん昭和しょうわ23ねん)にはさん代目だいめ中村なかむら梅玉ばいぎょくが、そして1951ねん昭和しょうわ26ねん)に「最後さいご上方かみがた役者やくしゃ」とばれた代目だいめ延若えんじゃくが、それぞれ死去しきょした。初代しょだい鴈治郎がんじろう死後しごわずかじゅうねんで、牽引けんいんしゃよんにんうしなったのである。

1948ねん昭和しょうわ23ねん中座ちゅうざ復興ふっこうした。だが、かく浪花なにわ映画えいがかんになり、大阪おおさか道頓堀どうとんぼりから歴史れきしある歌舞伎かぶき劇場げきじょう相次あいついでえてった。

さん代目だいめ中村なかむら梅玉ばいぎょく(1947)

この時点じてんのこされた関西かんさい歌舞伎かぶき後継こうけいしゃは、代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろうよん代目だいめ片岡かたおかわがとうさん代目だいめ市川いちかわ壽海じゅかいさん代目だいめばんあずま壽三郎じゅさぶろうよん代目だいめ中村なかむら富十郎とみじゅうろうろく代目だいめ坂東ばんどうみのすけ(のちはち代目だいめ坂東ばんどう三津五郎みつごろう)・代目だいめはやし又一郎またいちろう代目だいめ片岡かたおか芦燕ろえん(のちじゅうさん代目だいめ片岡かたおか我童がどう死後しごじゅうよん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもん追贈ついぞう)・代目だいめ中村なかむら福助ふくすけ高砂屋たかさごや)・代目だいめ實川じつかわのべ二郎じろう(のちさん代目だいめ実川じつかわ延若えんじゃく)・代目だいめ中村なかむらしげる太郎たろう。そして若手わかてよん代目だいめ坂東ばんどうづるすけ(のち代目だいめ中村なかむら富十郎とみじゅうろう)・代目だいめ中村なかむら扇雀せんじゃく(のちよん代目だいめ坂田さかた藤十郎とうじゅうろう)・初代しょだい中村なかむら太郎たろうあらしうろこのぼり(のちはち代目だいめあらし吉三郎きちさぶろう)ら。ほかに戦前せんぜんからの代目だいめ中村なかむらかすみせんをはじめとして、中村なかむら松若まつわかなな代目だいめあらし吉三郎きちさぶろうじゅういち代目だいめあらし三右衛門さんえもんじゅう代目だいめあらしひなすけ代目だいめ片岡かたおか愛之助あいのすけよん代目だいめ尾上おがみ菊次郎きくじろう代目だいめあらし璃珏さん代目だいめ市川いちかわきゅうだんなど脇役わきやくそろっていた。このうち、壽海じゅかいみのすけ富十郎とみじゅうろう東京とうきょうまれ、わがとうは1951ねん昭和しょうわ26ねん)3がつ亡父ぼうふ名跡みょうせきじゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんとなるが、芸風げいふう地味じみであり純然じゅんぜんたる大阪おおさか俳優はいゆうではない(かれ自身じしん東京とうきょうまれ)。またことぶき三郎さぶろう大阪おおさかまれだがげいしつごとてきしていない。のべ二郎じろう扇雀せんじゃくづるすけ経験けいけん不足ふそく、となると、純然じゅんぜんたる上方かみがた役者やくしゃは、鴈治郎がんじろう又一郎またいちろう兄弟きょうだいのみということになる。そして又一郎またいちろう身体しんたいよわく、つぎ世代せだいるのは鴈治郎がんじろうのみで、人材じんざいめん不安ふあんがあった。

武智たけち歌舞伎かぶき時代じだいはち代目だいめ市川いちかわ雷蔵らいぞう野崎のさきむら」の久松ひさまつ(1949)

そうことぶきおうぎづる時代じだい[編集へんしゅう]

仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐらろくだん ひだりからはち代目だいめ雷蔵らいぞう雷蔵らいぞう千崎ちざき弥五郎やごろうさん代目だいめ市川いちかわ寿海じゅかい早野はやの勘平かんぺいはち代目だいめ市川いちかわ中車ちゅうしゃ不破ふわ数右衛門かずえもん(1953ねん

鴈治郎がんじろう自身じしんは、周囲しゅうい期待きたいなか偉大いだいちち意識いしきするあまりに、極度きょくど不振ふしんおちいっていた。年齢ねんれいからくと壽海じゅかいことぶき三郎さぶろう主導しゅどうしゃかくとなる。ただし、両者りょうしゃとも役者やくしゃとしては優秀ゆうしゅうだったが、業界ぎょうかい牽引けんいんするという指導しどうりょくにはけていた。興行こうぎょうがわ松竹しょうちくでもおなじことがられた。白井しらい松次郎まつじろう死後しごおとうと白井しらい信太郎しんたろう経営けいえいうつるが、すでに凋落ちょうらくにある関西かんさい歌舞伎かぶきてなおすにはあまりにも力量りきりょう不足ふそくだった。また、戦後せんご大阪おおさか経済けいざい衰退すいたいしそれまで歌舞伎かぶき贔屓ひいきしていた後援こうえんしゃ東京とうきょう相次あいついでうつってしまった。終戦しゅうせん関西かんさい歌舞伎かぶきは、強力きょうりょく主導しゅどうしゃ後援こうえんしゃもなく、いつ終焉しゅうえんかってもおかしくない状態じょうたいだった。

ただ、延若えんじゃく前後ぜんご関西かんさい歌舞伎かぶき一時いちじてき活況かっきょうていした。まず、壽海じゅかいことぶき三郎さぶろうによる「そうことぶき時代じだい」がはじまる。壽海じゅかいは『とりやま心中しんちゅうの』の菊池きくちなかば九郎くろう、『次郎吉じろきち懺悔ざんげ』の次郎吉じろきち、『石切いしきり梶原かじはら』の梶原かじはら平三へいぞうなどの若若わかわかしい演技えんぎでそれまで大阪おおさか歌舞伎かぶきになかったあたらしいげい確立かくりつした。ことぶき三郎さぶろうも「関西かんさいひだりだん」とばれるようにしん歌舞伎かぶき本領ほんりょう発揮はっきしていたが、『熊谷くまがい陣屋じんや』の熊谷くまがい直実なおみなどにおいて、不得手ふえてだった丸本まるほんぶつでも演技えんぎ上達じょうたつはじめ、ことぶき三郎さぶろうこそ次代じだい関西かんさい歌舞伎かぶき主導しゅどうしゃみとめられはじめた。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)4がつよんきょう文楽ぶんらく武智たけち鉄二てつじによる「武智たけち歌舞伎かぶき」がはじまる。武智たけちは、扇雀せんじゃくづるじょうろこのぼる太郎たろうのべ二郎じろうむしろぞう関西かんさい歌舞伎かぶき若手わかて役者やくしゃを、原作げんさく重視じゅうし演出えんしゅつ中心ちゅうしんのやりかたをもとに、発声はっせいほう演技えんぎほうなどを、歌舞伎かぶきからは簔助が指導しどう。ほか、文楽ぶんらくゆたかちく山城やましろしょうとち京舞きょうまい井上いのうえ八千代やちよ能楽のうがく片山かたやま九郎くろうみぎ衛門えもん一流いちりゅう講師こうしによる指導しどう徹底的てっていてききたげ、『熊谷くまがい陣屋じんや』『平家ひらか女護島にょごがしま俊寛としひろ』『しゅう合邦がっぽうつじ』『妹背山しはいやま婦女ふじょ庭訓ていきん道行みちゆき』などの丸本まるほんぶつ、『勧進かんじんちょう』などの古典こてんや『恐怖きょうふ時代じだい』『修善寺しゅぜんじ物語ものがたり』などの新作しんさく精力せいりょくてき上演じょうえん好評こうひょうはく松竹しょうちくがわ積極せっきょくてき後援こうえんするまでにいたった。このうごきは沈滞ちんたいしていた関西かんさい歌舞伎かぶき新風しんぷうおくみ、若手わかてなかから扇雀せんじゃくづるすけ頭角とうかくあらわし「おうぎづる時代じだい」をす。

扇雀せんじゃく代目だいめ鴈治郎がんじろうとして、毛並けなみのさと美貌びぼう将来しょうらい嘱望しょくぼうされながらなやんでいたが、武智たけちによる指導しどう飛躍ひやくてき向上こうじょうし「みにく毛虫けむし一瞬いっしゅんにしてうつくしいちょうまれわったような」[1]おどろきを周囲しゅういあたえた。また、よん代目だいめ富十郎とみじゅうろうづるすけは、女形おんながたとして評価ひょうかされていたが、武智たけちはあえて『勧進かんじんちょう』の弁慶べんけいえんじさせ、立役たちやくとしてそだてていく。

とくに『曾根崎そねざき心中しんちゅうの』で大当おおあたりをとった扇雀せんじゃく人気にんきすさまじく(扇雀せんじゃくブーム)、歌舞伎かぶきわくえて全国ぜんこくてき知名度ちめいどた。1953ねん昭和しょうわ28ねん)には壽海じゅかいことぶき三郎さぶろうらオール関西かんさい歌舞伎かぶきそう出演しゅつえんによる『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』のどおしが東京とうきょう帝国ていこく劇場げきじょう上演じょうえんされたり、同年どうねん12がつ京都きょうと南座みなみざ顔見世かおみせ関西かんさいぜい中心ちゅうしんおこなわれるなど、陣容じんようととのい、わかちからがようやくそだってきたかにえたが、それはえつきようとする蝋燭ろうそく最後さいごかがやきでもあった。

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)9がつ24にちさん代目だいめばんあずま壽三郎じゅさぶろうんだ。この時点じてん関西かんさい歌舞伎かぶき終焉しゅうえんしたという見方みかたがある。すでに「そうことぶき」「おうぎづる」の人気にんきかげで、おもやくをもらえずめしべるかたちとなっていた鴈治郎がんじろう富十郎とみじゅうろうらの不満ふまんがくすぶっていた。たとえば、松竹しょうちく壽海じゅかい初代しょだい鴈治郎がんじろうあたやくつとめさせ鴈治郎がんじろう憤慨ふんがいさせるなど、興行こうぎょうめん重視じゅうしによるそのしのぎの対応たいおうばかりで、関西かんさい歌舞伎かぶき正当せいとう後継こうけいしゃたいする考慮こうりょけていた。

そんなとき、どうにかまとめやくつとめてきたことぶき三郎さぶろうがいなくなった。すでにことぶき三郎さぶろうまえの9がつ1にちづるすけ松竹しょうちく脱退だったいがおこっていたが、よく1955ねん昭和しょうわ30ねん)4がつみのすけが、づるすけのもめごとが人権じんけん侵害しんがいにあたるとして松竹しょうちく幹部かんぶ法務局ほうむきょくうったえる騒動そうどう。さらに鴈治郎がんじろう扇雀せんじゃく親子おやこ映画えいがかいりと、わずか半年はんとしあまりで連続れんぞくして騒動そうどうつづく。このような状況じょうきょう当然とうぜんながら観客かんきゃく動員どういん激減げきげんしてゆく。ここに、関西かんさい歌舞伎かぶき凋落ちょうらく終焉しゅうえんだれにもあきらかな事態じたいとなった。

ことぶき三郎さぶろうとならぶ壽海じゅかい関西かんさい歌舞伎かぶき俳優はいゆう協会きょうかい会長かいちょう要職ようしょくにあり、人格じんかくもよくげいかく向上こうじょうして名実めいじつとも当代とうだい一流いちりゅう歌舞伎かぶき役者やくしゃとなっていたが、東京とうきょうまれであり、先述せんじゅつした松竹しょうちく壽海じゅかい偏重へんちょう方針ほうしんわざわいして反発はんぱつだれにも支持しじされていなかった。だい看板かんばんうしな興行こうぎょう減少げんしょうすると、 興行こうぎょうがわ歌舞伎かぶき見切みきりをつけるようになり1958ねん昭和しょうわ33ねん)に大阪おおさか歌舞伎座かぶきざ閉場へいじょうする。

このような状況じょうきょうに、将来しょうらい不安ふあんつのらせた歌舞伎かぶき関係かんけいしゃはやるうしなってった。関西かんさい歌舞伎かぶきたいしてあるもの見切みきりをつけ、またあるもの失望しつぼうし、役者やくしゃ稼業かぎょうつづけるにせよ、以下いかのようなかたちはなれてゆくもの続出ぞくしゅつする。

こうして各自かくじ勝手かって方向ほうこうかい、関西かんさい歌舞伎かぶき事実じじつじょう空中くうちゅう分解ぶんかい状態じょうたいになった。その扇雀せんじゃくは8ねん鴈治郎がんじろうは10ねんちょうきにわた歌舞伎かぶきおもて舞台ぶたいといえるもどことはなく、東京とうきょう活路かつろもとめたづるすけみのすけもその関西かんさい本拠ほんきょもどことはなかった。また、なな代目だいめ大谷おおや友右衛門ともえもんなど、映画えいが俳優はいゆうなどとの兼業けんぎょうおこなったもの数多かずおおい。いずれにしても、大半たいはん役者やくしゃ歌舞伎かぶき一本いっぽんべてゆくことすらままならない状況じょうきょうまれたのである。

安易あんい興行こうぎょうかえし、関係かんけいしゃ後継こうけいしゃ育成いくせい努力どりょくおこたったことが、おおきなツケとなってここにかえってきたのである。また、とくはち代目だいめ市川いちかわ雷蔵らいぞうについては、その映画えいがかいでのだい活躍かつやくかんがみた場合ばあい歌舞伎かぶきかいとの血縁けつえんうすさ、当初とうしょ養父ようふ脇役わきやく役者やくしゃという境遇きょうぐうゆえに、歌舞伎かぶきかいがその才能さいのうばすことができず映画えいがかいへと流出りゅうしゅつさせてしまったことが、興行こうぎょうという意味いみにおいて当時とうじ歌舞伎かぶき映画えいが競合きょうごうする関係かんけいにあった以上いじょう関西かんさい歌舞伎かぶきにとっては後年こうねんさらにおおきな痛手いたでとなってゆく。

戦後せんごは、東京とうきょう歌舞伎かぶきかいなな代目だいめ松本まつもと幸四郎こうしろうろく代目だいめ尾上おがみ菊五郎きくごろう初代しょだい中村なかむら吉右衛門きちえもんなどの名優めいゆう相次あいついで死去しきょするなど、大阪おおさかたような衰退すいたいかいけたが、ろく代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもん代目だいめ尾上おがみ松緑しょうろくさん代目だいめ市川いちかわひだりだん幹部かんぶ俳優はいゆう活躍かつやくみとどまり、他方たほうではきゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう以来いらい政財界せいざいかいつながりがこうそうして、その方面ほうめんからの援助えんじょおおきなささえとなっていた。やがて歌右衛門うたえもんのアメリカ興行こうぎょうじゅういち代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう襲名しゅうめい披露ひろう興行こうぎょうなどを起爆きばくざいとして見事みごとなおっていくのである。そのてん俳優はいゆう興行こうぎょうどもにまとまりをき、大阪おおさか経済けいざい地盤じばん沈下ちんかによる後援こうえんしゃ減少げんしょうなどマイナスの要件ようけんばかりがかさなり、さしたるうしたてつことができなかった関西かんさい歌舞伎かぶき不運ふうんだった。

髙砂代目だいめ中村なかむら福助ふくすけ

復興ふっこう時代じだい[編集へんしゅう]

ななにんかい[編集へんしゅう]

しん歌舞伎座かぶきざ

1958ねん昭和しょうわ33ねん)8がつ大阪おおさか毎日まいにちホールで、山口やまぐち廣一ひろかず主催しゅさい[2]のもと「ななにんかい」が開催かいさいされる。かおぶれは鴈治郎がんじろう仁左衛門にざえもんじゅうさん代目だいめ片岡かたおか我童がどう又一郎またいちろう高砂たかさご代目だいめ中村なかむら福助ふくすけ延若えんじゃく扇雀せんじゃくななにん歌舞伎かぶき役者やくしゃによる自主じしゅ公演こうえんだった。かいは1961ねん昭和しょうわ36ねん)まで3かいおこなわれ採算さいさんめん問題もんだい消滅しょうめつしたが、公演こうえん自体じたい成功裏せいこうりわり、関西かんさい歌舞伎かぶき復興ふっこうのきっかけとなった。

こうした関係かんけいしゃ努力どりょくにもかかわらず、1950年代ねんだい後半こうはん大阪おおさかでは歌舞伎かぶき公演こうえんがまったくおこなわれていなかった。大阪おおさか観客かんきゃく内紛ないふんつづきの歌舞伎かぶきにそっぽをいてしまい、映画えいがしん喜劇きげき漫才まんざい歌謡かようショーにあしはこんでいた。1958ねん昭和しょうわ33ねん松竹しょうちくから経営けいえいけんゆずけたせん土地興業とちこうぎょう難波なんばしん歌舞伎座かぶきざ開場かいじょうさせるが、オーナーの松尾まつお國三くにぞう方針ほうしんにより、こけらとしこそ歌舞伎かぶきおこなわれたものの、女優じょゆうやタレント興行こうぎょう中心ちゅうしんおこなわれるようになり、としいちかいあるかないかの状態じょうたいとなった。さらに1960年代ねんだい後半こうはんには襲名しゅうめい興行こうぎょう追善ついぜん興行こうぎょうのみになった。一方いっぽう京都きょうと歳末さいまつおこなわれる顔見世かおみせ興行こうぎょうは、市民しみんぶし風物ふうぶつとして根付ねついており客足きゃくあし途絶とだえることはなかった。しかし、いつしか東西とうざい合同ごうどう銘打めいうたれるようになり、東京とうきょうふう歌舞伎かぶき上演じょうえん頻度ひんどたかまっていった。関西かんさい歌舞伎かぶきふゆ時代じだいはまだまだつづく。

仁左衛門にざえもん歌舞伎かぶき[編集へんしゅう]

1962ねん昭和しょうわ37ねん)8がつ19にちじゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんによって自主じしゅ公演こうえん仁左衛門にざえもん歌舞伎かぶき」がはじまった。このとしの4がつ東京とうきょう歌舞伎座かぶきざでのはなやかなじゅういち代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう襲名しゅうめい披露ひろう出演しゅつえんし、つづく南座みなみざ公演こうえんぎゃく不入ふいりを経験けいけんした仁左衛門にざえもんは、関西かんさい歌舞伎かぶき暗澹あんたんたる現状げんじょう衝撃しょうげきけていた。自伝じでんにあるように、かれ自身じしん東京とうきょう移住いじゅうすすめられ、関西かんさい見切みきりをつけて東京とうきょう移籍いせきすることもかんがえていた。だが「現在げんざいこの有様ありさま上方かみがたてては、片岡かたおか先祖せんぞうにおよばず、なんだいかかって上方かみがた芝居しばいをここまできずきあげてきた先輩せんぱいたちにこれほどもうわけないことはないではないか。なにとしても上方かみがたまもらなければ」[3]とあるように、切実せつじつ関西かんさい歌舞伎かぶき愛惜あいせき先祖せんぞへのおもいとが「それでも駄目だめなら歌舞伎かぶき心中しんじゅうしよう」(同上どうじょう)という悲壮ひそう決心けっしんかったのである。さいわ家族かぞくらや松下まつした幸之助こうのすけ関西かんさい財界ざいかいなど関係かんけいしゃ理解りかいとをて、仁左衛門にざえもん自主じしゅ公演こうえんにむけてのうごきをはじめた。かれ自身じしん記者きしゃ会見かいけんをしておもいをうったえ、精力せいりょくてき後援こうえん依頼いらいしてまわった結果けっか文楽ぶんらくおこなわれた公演こうえん大盛おおもりきょうだった。安価あんか料金りょうきん上方かみがた狂言きょうげんとおしの基本きほん方針ほうしんで、1967ねん昭和しょうわ42ねん)までけい5かい。いずれも成功裏せいこうりわった。大阪おおさかでも歌舞伎かぶきはできるということが立証りっしょうされ、関西かんさい歌舞伎かぶき最後さいごまもられた。

その仁左衛門にざえもんは、終生しゅうせいわたってファンの開拓かいたくつとつづけた。1976ねん昭和しょうわ51ねん)には、子息しそくとともに近畿きんき地方ちほう高校生こうこうせい対象たいしょうとする「高校生こうこうせいのための歌舞伎かぶき教室きょうしつ」を開催かいさいしたが、仁左衛門にざえもん死後しご長男ちょうなん代目だいめ片岡かたおかわがとうがれ、36ねんながきにわたって実施じっしされた。わがとう自身じしんわたしのライフワークです。」とかたるほどであり[4]、それまで歌舞伎かぶき興味きょうみのなかった若者わかものせるおおきな成果せいかげた。

今日きょう歌舞伎かぶきかい活躍かつやくしている役者やくしゃなかにも、仁左衛門にざえもん歌舞伎かぶき教室きょうしつをきっかけに歌舞伎かぶき興味きょうみち、歌舞伎かぶきもんたたいたものすくなくない。関西かんさい歌舞伎かぶきなが歴史れきしのなかでも、じゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんたした役割やくわりはあまりにもおおきい。

関西かんさい歌舞伎かぶきそだてるかい[編集へんしゅう]

仁左衛門にざえもん歌舞伎かぶきによって、とりあえず滅亡めつぼう危機ききだっしたものの、昭和しょうわ40年代ねんだいから50年代ねんだいにかけて、関西かんさい歌舞伎かぶき不振ふしん終焉しゅうえんえず、青息吐息あおいきといき状態じょうたいつづいていた。道頓堀どうとんぼり中座ちゅうざ朝日あさひしん歌舞伎座かぶきざ散発さんぱつてき歌舞伎かぶき興行こうぎょうおこなわれるのだが、観客かんきゃく嗜好しこう依然いぜんとして漫才まんざいなどの演芸えんげいや、美空みそらひばり三波みなみ春夫はるおなど流行りゅうこう歌手かしゅ歌謡かようショー、あるいは渋谷しぶや天外てんがい藤山ふじやま寛美ひろみらの松竹しょうちくしん喜劇きげき映画えいがなどにけられており、継続けいぞくしないのである。関係かんけいしゃ無力むりょくかんさいなまれながらも、なんしゅつことが出来できなかった。

一方いっぽうでは、映画えいが俳優はいゆうとして大成たいせいした長谷川はせがわ一夫かずお初代しょだい鴈治郎がんじろう門下もんか)や市川いちかわ雷蔵らいぞう歌舞伎かぶき復帰ふっき企画きかくなどのうわさもあったものの、うわさうわさいきることのないまましょ事情じじょう実現じつげんいたらなかった。とく雷蔵らいぞうは、歌舞伎かぶきかい復帰ふっきのぞんでいたとされるが、1969ねん昭和しょうわ44ねんなつに37さい病没びょうぼつしている。また、おなじように戦後せんご不振ふしんだった上方かみがた落語らくごが1970ねんごろ復興ふっこうし、1980ねんごろからは漫才まんざい史上しじょう空前くうぜんだいブームはじまったが、対照たいしょうてき関西かんさいでは歌舞伎かぶき相変あいかわらず時代じだいおくれのものとされて、あらたなファンそう拡大かくだいさえもままならない状態じょうたいつづいていた。

そんななかで、東京とうきょう代目だいめ澤村さわむら藤十郎とうじゅうろう自主じしゅ公演こうえん関西かんさい歌舞伎かぶきそだてるかい」をげる。1977ねん昭和しょうわ52ねん)、歌舞伎かぶき興行こうぎょう低迷ていめいゆえに大阪おおさかしん歌舞伎座かぶきざが、藤十郎とうじゅうろうあにきゅう代目だいめそう十郎じゅうろう襲名しゅうめい披露ひろう最後さいごとして、ついに歌舞伎かぶき公演こうえんからくことになり、これに責任せきにんかんじての奮起ふんきだったとう。東京とうきょう歌舞伎かぶき関係かんけいしゃも、関西かんさい歌舞伎かぶき凋落ちょうらく歌舞伎かぶきかい全体ぜんたい衰退すいたいつながりかねないと、相当そうとう危機ききかんいていたのである。そんな関西かんさい歌舞伎かぶき復興ふっこう目指めざ人々ひとびと熱意ねつい大阪おおさか助成じょせいきんみん労協ろうきょう協力きょうりょくもあり、興行こうぎょうがわおもこしげた。1979ねん昭和しょうわ54ねん)5がつ朝日あさひだい1かい公演こうえんおこなわれ、じつに52ねんぶりとなる船乗ふなのみもおこなわれた。

この公演こうえんは1989ねん平成へいせい元年がんねん)までじゅうかいつづく。東京とうきょうからはそう十郎じゅうろう藤十郎とうじゅうろう兄弟きょうだいのほか、じゅうなな代目だいめ中村なかむら勘三郎かんざぶろう代目だいめ中村なかむら勘九郎かんくろう親子おやこなな代目だいめ尾上おがみ梅幸ばいこうじゅう代目だいめ市川いちかわ海老蔵えびぞうなな代目だいめ尾上おがみ菊五郎きくごろう代目だいめ中村なかむら吉右衛門きちえもんきゅう代目だいめ松本まつもと幸四郎こうしろう代目だいめ中村なかむら富十郎とみじゅうろう地元じもとじゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんじゅうさん代目だいめ片岡かたおか我童がどう代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろう片岡かたおか孝夫たかお代目だいめ片岡かたおかわがとう代目だいめ片岡かたおか秀太郎ひでたろうさん代目だいめ實川じつかわ延若えんじゃくなな代目だいめあらし徳三郎とくさぶろう代目だいめ中村なかむら扇雀せんじゃくなどが参加さんか人気にんきのある古典こてんかりやすい狂言きょうげんたくみにならべたり、藤十郎とうじゅうろう主催しゅさいのイベント「歌舞伎かぶきかた」で、観客かんきゃく芝居しばいてくるうませるなどの趣向しゅこうおおいに話題わだいび、場所ばしょだい2かいから中座ちゅうざおこなわれるようになった。このとき熱気ねっきじゅう代目だいめ仁左衛門にざえもんが「・・・お客様きゃくさまがあふれて、かい客席きゃくせき階段かいだんにまですわっててくださいました。当時とうじ中座ちゅうざ支配人しはいにんがおしりくのにふる芝居しばいのポスターをしてきましてね。『それはいかんやろ』ということで座布団ざぶとんをおしゅっししたこともありました。」[5]述懐じゅっかいしている。

関西かんさい歌舞伎かぶき聖地せいちである道頓堀どうとんぼり歌舞伎かぶき役者やくしゃのぼりちならび、大阪おおさかなつ年中ねんじゅう行事ぎょうじとなった。「関西かんさい歌舞伎かぶきそだてるかい」は、1992ねん平成へいせい4ねん)「関西かんさい歌舞伎かぶきあいするかい」と改称かいしょうして今日きょういたっている。

南座みなみざ京都きょうと

復興ふっこう[編集へんしゅう]

 1970年代ねんだい半期はんき東京とうきょうで、仁左衛門にざえもんえんじる『菅原すがわら伝授でんじゅしゅ習鑑道明寺どうみょうじ』のかん丞相じょうしょう鴈治郎がんじろうの『心中しんちゅうの天網てんもうとうかわしょう』の兵衛ひょうえなどの名演技めいえんぎ評価ひょうかされ、りょうゆう実力じつりょく開花かいかした。若手わかてでは、片岡かたおか孝夫たかお東京とうきょう代目だいめ坂東ばんどう玉三郎たまさぶろう共演きょうえんした『さくらひめひがし文章ぶんしょう』がわか観客かんきゃく人気にんきあつめ、関西かんさいぜいからスターがひさしぶりに誕生たんじょうした。また、さん代目だいめ市川いちかわ猿之助えんのすけさん代目だいめ延若えんじゃくより宙乗ちゅうのりや早替はやがわりなどの演出えんしゅつぎ、一連いちれん猿之助えんのすけ歌舞伎かぶき多用たようして人気にんきあつめ、道頓堀どうとんぼり中座ちゅうざ公演こうえん成功せいこう。それまで邪道じゃどうあつかいをけていた上方かみがた仕込しこみのケレンがあらためて見直みなおされた。1984ねん昭和しょうわ59ねん)に、国立こくりつ文楽ぶんらく劇場げきじょう開場かいじょう人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり専門せんもん劇場げきじょうだが歌舞伎かぶき公演こうえん積極せっきょくてきおこなわれるなど、関西かんさい歌舞伎かぶきにもあかるいニュースが相次あいつぎ、ようやく復興ふっこうすすむことになった。

国立こくりつ文楽ぶんらく劇場げきじょう大阪おおさか

おおくの人々ひとびと努力どりょくにより、昭和しょうわから平成へいせいわるころには東西とうざいともに歌舞伎かぶきがブームとなり、1991ねん平成へいせい3ねん代目だいめ中村なかむら扇雀せんじゃくさん代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろう襲名しゅうめいするころになると大阪おおさかでもわか歌舞伎かぶきファンがえた。ただ同年どうねん延若えんじゃく関西かんさい歌舞伎かぶき再建さいけん目前もくぜん死去しきょしたのは一大いちだいつう恨事こんじだった。ほか1983ねん昭和しょうわ58ねん)に代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろうが、1993ねん平成へいせい5ねん)にはじゅうさん代目だいめ片岡かたおか我童がどうが、1994ねん平成へいせい6ねん)には関西かんさい歌舞伎かぶき復興ふっこう多大ただい貢献こうけんをしたじゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんがそれぞれ死去しきょした。ここにも世代せだい交代こうたいなみせていた。

現況げんきょう[編集へんしゅう]

現在げんざいは、松竹しょうちくによる「上方かみがた歌舞伎かぶきじゅく」の開催かいさい若手わかて俳優はいゆう自主じしゅ公演こうえん若鮎わかあゆかい」など大阪おおさか京都きょうと根付ねついた歌舞伎かぶき復興ふっこうおこなわれている。よん代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろうさん代目だいめ中村なかむら扇雀せんじゃくろく代目だいめ片岡かたおか愛之助あいのすけろく代目だいめ上村うえむら吉彌よしやなどの関西かんさい歌舞伎かぶきゆかりの名跡みょうせき若手わかてによりがれたり、上方かみがた演出えんしゅつによる『仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』などの上演じょうえんおこなわれ、1997ねん平成へいせい9ねん)には大阪おおさか松竹しょうちく演劇えんげきせんもん劇場げきじょうとして落成らくせいした。2005ねん平成へいせい17ねん)にはさん代目だいめ中村なかむら鴈治郎がんじろう上方かみがたにおける伝説でんせつてき名跡みょうせき坂田さかた藤十郎とうじゅうろうよん代目だいめとして襲名しゅうめい近松ちかまつ門左衛門もんざえもんをはじめとするうずもれた狂言きょうげん復活ふっかつ上演じょうえん従来じゅうらい狂言きょうげんにおける上方かみがたしき演出えんしゅつ再現さいげんなどで話題わだいぶこともおおくなった。

大阪おおさか松竹しょうちく(2009ねん

当代とうだい坂田さかた藤十郎とうじゅうろうは、「やはり上方かみがた歌舞伎かぶきというのは、さきほどからいろいろもうげましたが、おおくのほうえんじていただく、ていただくことがまずだいいちだとおもいます。ですからそういうことになるようにいろいろな意味いみ頑張がんばらないといけませんね。……今度こんどはそれをやるようになるだけの歌舞伎かぶき役者やくしゃをつくっていかなければいけないとおもいます。じゃ、どうやってつくっていくかとったら、まず上方かみがた歌舞伎かぶききだ、やろうという人間にんげんおおくならないといけません。そういうひとたちにはいわゆる上方かみがた歌舞伎かぶきはこういうものであることを理解りかいしてもらう、浸透しんとうさせていくということですね。これがまず一番いちばん大事だいじだとおもいます」とかたっている [6]

一時期いちじきくらべると、関西かんさい歌舞伎かぶき公演こうえんえ、上方かみがたふう演出えんしゅつうずもれた作品さくひん紹介しょうかいのほか人材じんざい育成いくせい施設しせつめん充実じゅうじつなどかなり復活ふっかつしており、歌舞伎かぶき全体ぜんたい上演じょうえん現在げんざいでは大阪おおさか松竹しょうちく京都きょうと南座みなみざなどでいちねんのうち数カ月すうかげつおきに歌舞伎かぶき公演こうえんられるようになっている[7]


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 山田やまだ庄一しょういち上方かみがた芸能げいのうこんむかしがたり』P・122
  2. ^ 権藤ごんどう芳一よしかず上方かみがた歌舞伎かぶき風景ふうけい』2005ねん 和泉いずみ書院しょいん
  3. ^ 片岡かたおか仁左衛門にざえもん役者やくしゃななじゅうねん』1976ねん 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
  4. ^ 関西かんさい歌舞伎かぶきあいするかい 結成けっせいよんじゅう周年しゅうねん記念きねんなながつだい歌舞伎かぶきパンフレット 「昭和しょうわ平成へいせい関西かんさい歌舞伎かぶき復興ふっこう篝火かがりび. 大阪おおさか松竹しょうちく. (2019ねん7がつ20日はつか) 
  5. ^ 関西かんさい歌舞伎かぶきあいするかい結成けっせいよんじゅう周年しゅうねん記念きねんなながつだい歌舞伎かぶきパンフレットp・37. 大阪おおさか松竹しょうちく. (2019ねん7がつ20日はつか) 
  6. ^ 歌舞伎かぶき 研究けんきゅう批評ひひょう 15』 歌舞伎かぶき学会がっかい 雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん 1995ねん
  7. ^ 東京とうきょうでは歌舞伎座かぶきざ通年つうねん国立こくりつ劇場げきじょう半年はんとし以上いじょう公演こうえん。その上演じょうえん活発かっぱつ