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阿蘇あそ惟直これなお

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阿蘇あそ惟直これなお
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん3月2にち1336ねん4がつ13にち
別名べつめい 八郎はちろう
墓所はかしょ 佐賀さがけん天山てんざん山頂さんちょう
氏族しぞく 阿蘇あそ
父母ちちはは ちち阿蘇あそ惟時これとき
兄弟きょうだい 惟直これなお坂梨さかなしまごぐままる阿蘇あそ惟澄これずみしつ
おもんみなり[1]おもんみじょう
やしなえ兄弟きょうだい惟澄これずみ恵良えらおもんみ)、
惟村これむら阿蘇あそ惟澄これずみ
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阿蘇あそ 惟直これなお(あそ これなお)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての武将ぶしょう阿蘇あそだい宮司ぐうじ

略歴りゃくれき

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阿蘇あそ惟時これときとして誕生たんじょう[2]

元弘もとひろ3ねん1333ねん)、幕命ばくめいけて義兄弟ぎきょうだい阿蘇あそ惟澄これずみ恵良えら惟澄これずみとも楠木くすのき正成まさしげもる千早ちはやじょうめに参戦さんせんしようとしたが、護良親王もりよししんのういのちけて討幕とうばく運動うんどう活躍かつやくした。しかし九州きゅうしゅうにおける討幕とうばく運動うんどうにおいては、鎮西ちんぜい探題たんだい北条ほうじょう英時ひでとき鎮圧ちんあつけて失敗しっぱいした。

のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん1336ねん)、九州きゅうしゅうちてきた足利尊氏あしかがたかうじむかち、肥後ひごこく菊池きくち武敏たけとし筑後ちくごこく蒲池かまち武久たけひさ星野ほしののうらととも阿蘇あそ一族いちぞくひきいて多々良たたらはまたたかにてたたかったが、松浦まつうらとう離反りはんにより合戦かっせん敗北はいぼく阿蘇あそぜいやぶれて惟直これなお重傷じゅうしょうい、九郎くろうおもんみなりらと肥後ひご敗走はいそうするが、三瀬峠みつせとうげえた地点ちてん追手おって千葉ちばたねさだ捕捉ほそくされ壊滅かいめつ惟直これなお肥前ひぜんこく小城おぎぐん天山あまやま付近ふきん白坂峠しらさかとうげなど諸説しょせつある)にて自害じがいした[3]はか阿蘇あそけむり望見ぼうけんできる天山てんざん山頂さんちょうにある。多々良たたらはまたたかいには惟澄これずみ参加さんかしているが、惟澄これずみのこっている。九郎くろうおもんみなりあにとも討死うちじにしたとされているが、佐賀さが富士ふじまち古湯ふるゆ温泉おんせんには九郎くろうびていたとされる、九郎くろうどう九郎くろう神社じんじゃ)の伝承でんしょうのこる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 長男ちょうなんとも。
  2. ^ 熊本くまもとけんだい百科ひゃっか事典じてん』18ぺーじ中段ちゅうだん
  3. ^ 肥後ひご人物じんぶつものがたり』24-25ぺーじ

出典しゅってん

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  • 熊本くまもとにちにち新聞しんぶん編纂へんさん発行はっこう熊本くまもとけんだい百科ひゃっか事典じてん』、1982ねん
  • 熊本くまもと教育きょういく振興しんこうかいへん肥後ひご人物じんぶつものがたり』熊本くまもと教育きょういく振興しんこうかい、1988ねん、24-25ぺーじ
  • 熊本くまもと風土ふうどとこころ編集へんしゅう委員いいんかい熊本くまもと人物じんぶつ熊本日日新聞社くまもとにちにちしんぶんしゃ、1980ねん、38-39ぺーじ
  • 阿蘇あそおもんみこれへん阿蘇あそ神社じんじゃ学生がくせいしゃ、2007ねん