難波なんば三綱さんこう

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難波なんば三綱さんこう
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
主君しゅくん 大海人皇子おおあまのおうじ
氏族しぞく 難波なんばきち
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難波なんば 三綱さんこう(なにわ の みつな[1])は、飛鳥あすか時代ときよ人物じんぶつせいきち

672ねんみずのえさるらん大海人皇子おおあまのおうじ天武天皇てんむてんのう)のがわにつき、脱出だっしゅつした大津皇子おおつのおうじ同行どうこうした。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

難波なんば難波なんばきち)は渡来とらいけい氏族しぞくであるが、よし士族しぞく阿倍あべ管理かんりかれていたことから、阿倍あべ遠祖えんそであるだい彦命後裔こうえいしょうした[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

みずのえさるらん勃発ぼっぱつ三綱さんこう近江おうみ大津おおつみやがある大津おおつにいたらしい。大海人皇子おおあまのおうじ挙兵きょへいめたとき、その高市皇子たけちのおうじ大津皇子おおつのおうじてき本拠ほんきょである大津おおつにいた。二人ふたり共々ともどもだっし、かれてちちのあとをった。難波なんば三綱さんこう大津皇子おおつのおうじいちぎょうくわわり、25にち深夜しんや伊勢いせこく鈴鹿すずかせき到達とうたつし、翌朝よくあさ朝明あさけぐんの迹太かわあたり合流ごうりゅうたした。ともに朝明あさけぐん辿たどいたのは、大津皇子おおつのおうじのほかに、大分おおいためぐみじゃく駒田こまだしのぶじん山辺やまべやすしりょしょう墾田こんでんいのしししゅからたち大分おおいたややしん根金ねがねうるしともであった。こののち内戦ないせん難波なんば三綱さんこうたした活動かつどうについては記録きろくがない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ きゅう仮名遣かなづかいでのみは「なにはのみつな」
  2. ^ 太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん角川書店かどかわしょてん、1963ねん