くらかかとら二郎じろう

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くらかか とら二郎じろう
江原えばらまん勤王きんのう志士しし くらかかとら二郎じろう -原題げんだい 祖父そふ書翰しょかん-』よりくらかかとら二郎じろう
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 天保てんぽう5ねん4がつ2にち1834ねん5がつ10日とおか
死没しぼつ 明治めいじ4ねん8がつ13にち1871ねん9月27にち
改名かいめい幼名ようみょう種夫たねお
鞍掛くらかけとら二郎じろう小林こばやしとら哉、松枝まつえだ寅五郎とらごろう
別名べつめいいみなよしとら
やまくん
ごうあきなぎさ
戒名かいみょう きよしおういん殿どのぶん明道みょうどうけんだい居士こじ
墓所はかしょ 津山つやま本源ほんげんてら岡山おかやまけん津山つやま
官位かんい おくしたがえよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん もり忠徳ただのり松平まつだいらけいりん
はん 赤穂あこうはん津山つやまはん
父母ちちはは ちち鞍掛くらかけもとすけはは大国たいこくおんな美喜みき
兄弟きょうだい あね野上のかみ鹿之助しかのすけしつ
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くらかか とら二郎じろう(くらかけ とらじろう)は日本にっぽん武士ぶし赤穂あこう藩士はんし、のち津山つやま藩士はんし)、儒学じゅがくしゃいみなよしとらやまくんごうあきなぎさ位階いかい勲等くんとうおくしたがえよん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

赤穂あこうはん抜擢ばってき追放ついほう[編集へんしゅう]

天保てんぽう5ねん1834ねん4がつ2にち旧暦きゅうれき)、赤穂あこうはん下級かきゅう藩士はんし鞍掛くらかけもとすけ次男じなんとしてまれる。はは大国たいこくおんな美喜みき天保てんぽう10ねんちちもとすけ死去しきょするも、よしみひさし元年がんねん1848ねん)、15さいおり藩主はんしゅもり縁故えんこがあった小林こばやしぎ、小林こばやしとら哉をしょうした。そのとし藩主はんしゅもり忠徳ただのり世子せいしもり忠弘ただひろさむらいつづけ茶道さどうやくとして広間ひろまめの側近そっきんとして抜擢ばってきされ、江戸えど塩谷しおや宕陰師事しじした[1]

おりしも赤穂あこうはんでは天保てんぽうだい飢饉ききんからつづ天災てんさいにより財政ざいせい窮乏きゅうぼうしており、もり主税ちから出身しゅっしん家老がろうもりしんいでもり采女うねめ出身しゅっしんもりさんしょう緊縮きんしゅく政策せいさくおこなったがことごとく失敗しっぱいもり当主とうしゅも9だい藩主はんしゅちゅうぬき夭折ようせつしたため、急遽きゅうきょおとうと忠徳ただのりまましいだものの、当初とうしょから家老がろうたちに実権じっけんうばわれていたために政治せいじ関心かんしんてずにいた。これがため、忠弘ただひろもと財政ざいせい改革かいかくうごきがあった。忠弘ただひろ安政あんせい4ねん1858ねん)、18さいわかさで夭折ようせつしたが、その遺命いめいにより同年どうねん12がつ、24さい勘定かんじょう奉行ぶぎょう任命にんめいされた。

だが、下級かきゅう藩士はんし出身しゅっしんとらろう抜擢ばってきしんもりはん領袖りょうしゅう村上むらかみしん上級じょうきゅう藩士はんしらの反発はんぱつまねき、かれらは江戸えど藩邸はんていにいる忠徳ただのり強硬きょうこう談判だんぱん仕掛しかけた。とらろう改革かいかく第一歩だいいっぽとしてがわわらわ解雇かいこ要求ようきゅうするなど、忠徳ただのり自身じしん綱紀こうき粛正しゅくせいうったえていたために、忠徳ただのり改革かいかく中止ちゅうし決断けつだん改革かいかく家老がろうもりのり失脚しっきゃくし、とらろう責任せきにん一身いっしんけるかたちはん追放ついほうされた[2]

赤穂あこうはん追放ついほうされたとらろうは、最初さいしょ大坂おおさかふじ沢東たくとうもんたたいたが、村上むらかみによるとらろうへの讒言ざんげんおもんじたひがし畡はこれを固辞こじ江戸えどもどり、ふたたび宕陰の門人もんじんとなる。その津山つやま藩士はんし河井かわいいたる左衛門さえもん紹介しょうかい領内りょうない香々美かがみむらだい庄屋しょうや中島なかじま援助えんじょけ、私塾しじゅくきゅういや学舎がくしゃ」を開校かいこうした。当時とうじ津山つやまはんでは経費けいひ捻出ねんしゅつさくとしてとみくじ発行はっこうしていたが、とらろうは『富籤とみくじろん』を上梓じょうししてこれを批判ひはん。これがこうそうし、文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、津山つやまはんかかえの儒者じゅしゃとしてかかえられた。そのあいだ松枝まつえだ寅五郎とらごろういでくらかかとらろうへと改名かいめいしている。あわせてこのとし国事こくじ周旋しゅうせんかけはん応対おうたいがかり)をにんじられきょうおもむき、諸国しょこく志士ししたちとせっした。

一方いっぽうとらろうはん追放ついほうされたのち赤穂あこうはんふたた主税しゅぜい一派いっぱ実権じっけんにぎったが、はん二分にぶんした党争とうそうによって財政ざいせい益々ますます窮乏きゅうぼうした。文久ぶんきゅう3ねん党争とうそうはいよいよ憤激ふんげきした西川にしかわますきち急進きゅうしん10すうめいによって彜、村上むらかみ両氏りょうし暗殺あんさつされる事態じたい発展はってんした。西川にしかわ襲撃しゅうげきしゃ脱藩だっぱんし、土佐とさはんかくまわれた。党勢とうせい急進きゅうしんかたむき、復権ふっけんしたのり事件じけん不問ふもんとして村上むらかみ一族いちぞく追放ついほう一族いちぞく誅殺ちゅうさつおそれをいた村上むらかみしん輔の次子じし河原かわはら駱之輔ははん大目おおめづけうったえたが拒絶きょぜつされ、悲嘆ひたんうち切腹せっぷくした。これにより、村上むらかみ一族いちぞくきゅう保守ほしゅ復讐ふくしゅうのためにうごすこととなった[3]

この事態じたいのりは、とらろう調停ちょうてい依頼いらいとらろう土佐とさはん説得せっとくし、襲撃しゅうげきしゃ帰還きかんみとめさせた。帰国きこくした襲撃しゅうげきしゃ入牢にゅうろうしたがほどなく解放かいほうされ、長州ちょうしゅうはんわたって倒幕とうばく活動かつどうとうじた。かれらは赤穂あこうはん勤王きんのうぞくさせようと活動かつどうしたがはんろんかたぶかず、西川にしかわふたた暗殺あんさつ計画けいかくしたのか仲間なかま同士討どうしうちをこし誅殺ちゅうさつされた。一方いっぽう村上むらかみ一派いっぱ復讐ふくしゅうゆるめることはなく、その標的ひょうてきとらろうあね婿むこにして、最初さいしょ彜、村上むらかみ両氏りょうし暗殺あんさつさい穏健おんけん立場たちば終始しゅうししたためにどっちつかずの立場たちばにいた野上のかみ鹿之助しかのすけかい、慶応けいおう3ねんにこれを襲撃しゅうげき殺害さつがいした[4]

村上むらかみ一派いっぱ復讐ふくしゅう明治めいじ4ねん1871ねん)の、「高野たかのかたきち」までつづく。

だいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつ小豆島あずしま事件じけん[編集へんしゅう]

かくして赤穂あこうはん紛糾ふんきゅうしていた最中さいちゅう文久ぶんきゅう3ねん8がつ王政おうせい復古ふっこ運動うんどう最大さいだい危機ききむかえていた。このつき大和やまと行幸ぎょうこう宣下せんげされ、攘夷じょうい気運きうんたかまるなかはちがつじゅうはちにち政変せいへんによって朝議ちょうぎ一変いっぺん長州ちょうしゅうはん京都きょうと警固けいごにんかれ、三条さんじょう実美みみ攘夷じょうい公家くげ長州ちょうしゅうへとびた(ななきょう)。この事件じけんにおいて、津山つやま藩主はんしゅ松平まつだいらけいりんやまいしており、老臣ろうしん海老原えびはら信濃しなのかくはんとの折衝せっしょうたった。けいりん池田いけだ慶徳けいとく因幡いなば)、池田いけだしげるせい備前びぜん)、蜂須賀はちすかしげる阿波あわ)など自身じしん兄弟きょうだいたちと協議きょうぎし、幕府ばくふたいし、毛利もうりたかしおや親子おやこへの譴責けんせきゆるすよう連署れんしょしているが、とらろう副使ふくしとして江戸えどおもむき、酒井さかいただし板倉いたくらかつしずらに面会めんかいしている。

よく文治ぶんじ元年がんねん禁門きんもんへんによって窮地きゅうちたされた長州ちょうしゅうはんたいし、幕府ばくふがわ長州ちょうしゅう征討せいとうけたうごきをせていた。その最中さいちゅう8がつ25にち瀬戸内海せとないかいおき停泊ていはくしていたイギリス船上せんじょうじゅう暴発ぼうはつし、一部いちぶ津山つやまはんりょうとなっていた小豆島しょうどしま住人じゅうにんながだまによって死亡しぼうした事件じけん発生はっせいした。けいりんとらろうにイギリスとの損害そんがい賠償ばいしょう交渉こうしょうたらせ、とらろうはまず小豆島あずしま10日とおかほど現地げんち調査ちょうさおこない、その江戸えどおもむいて幕府ばくふ外国がいこく奉行ぶぎょうかいして英国えいこく行使こうし交渉こうしょう交渉こうしょう最中さいちゅううませき戦争せんそう勃発ぼっぱつし、英国えいこく賠償金ばいしょうきん300まんドルを幕府ばくふ肩代かたがわりさせることで講和こうわったことで幕府ばくふがわ対応たいおう弱腰よわごしであった。

だがとらろうねばづよ交渉こうしょうによってよく慶応けいおう元年がんねん4がつ23にち英国えいこくがわ銀貨ぎんか200まいもっ賠償ばいしょうとすることで合意ごういした。

長州ちょうしゅう征討せいとう最中さいちゅうとらろう対外たいがい交渉こうしょうのため江戸えど滞在たいざいしていたのは、一説いっせつには前年ぜんねんから長州ちょうしゅう征討せいとう派兵はへい反対はんたいし諫言をかえしていたとらろうをこの問題もんだいからとおざけたからだとされている[5]津山つやまはん勤王きんのうであったとらろう重用じゅうようしていたのはぜん藩主はんしゅにして、徳川とくがわ家斉いえなりだい15である松平まつだいらひとしみんかくどう)によるところおおきかった。だが、津山つやま松平まつへい嫡流ちゃくりゅうけいりん当主とうしゅになり、かくどう江戸詰えどづめとなるころには佐幕さばくいきおいをもどしていた。よく慶応けいおう2ねんからは藩政はんせいからとおざけられるように江戸えど藩邸はんていざいばんめいじられている。よく慶応けいおう3ねん在勤ざいきん津山つやまもどるも政治せいじ参画さんかくする機会きかいはなかった。

遭難そうなん[編集へんしゅう]

津山つやまじょう鶴山つるやま公園こうえんにあるくらかかとらろう顕彰けんしょう

慶応けいおう4ねん、すなわち明治めいじ元年がんねん1868ねん)になると鳥羽とば伏見ふしみたたか幕府ばくふぐん敗退はいたいし、徳川とくがわ慶喜よしのぶ大阪城おおさかじょう退去たいきょし、江戸えどへとかえった。情勢じょうせい完全かんぜん勤王きんのうかたむくにつれ、守旧しゅきゅうてき津山つやまはんおよけいりんたいする圧力あつりょく日増ひましにたかまっていった。事態じたい長州ちょうしゅう岡山おかやまりょうはんへいはんさかいまですすめ、その向背こうはい詰問きつもんするまでになり、ここでようやくとらろう大目おおめづけとして復権ふっけんした。とらろう朝廷ちょうていへの二心ふたごころはないという確認かくにん勅命ちょくめいけて帰国きこくはんろん勤王きんのう倒幕とうばく統一とういつして、りょうはんとの調停ちょうてい成功せいこうした。

明治めいじ2ねん大政奉還たいせいほうかんるととらろうけんだい参事さんじ議事ぎじきょく議長ぎちょうめいじられた。だが、今度こんど田安たやす亀之助かめのすけ徳川とくがわ家達いえさと)の後見人こうけんにんめいじられたかくどう支持しじ佐幕さばく転身てんしんはん出身しゅっしん下級かきゅう武士ぶし出自しゅつじであるとらろう反発はんぱつはじめた。

そして明治めいじ4ねん1871ねん)、みんしょう出仕しゅっしめいじられ東京とうきょうた。このとしの7がつ廃藩置県はいはんちけん発布はっぷされ、民心みんしん動揺どうよう憂慮ゆうりょしたとらろう津山つやま帰郷ききょう帰路きろけいりん死去しきょしたことをる。すでにはんないかくどうめられており、とらろう8がつ12にち夜半やはん親交しんこうのあった河瀬かわせ重男しげおたずね、その帰路きろにつこうとした玄関げんかんさき何者なにものかによるせにい、短銃たんじゅういちげきむね死亡しぼうした。襲撃しゅうげきしゃ正体しょうたい現在げんざい判明はんめいしていない。享年きょうねん38。

もりはんはかがある津山つやま本源ほんげんてらほうむられた。戒名かいみょうきよしおういん殿どのぶん明道みょうどうけんだい居士こじ朝廷ちょうていからまつりしとぎりょうとしてかね70りょう下賜かしされた。よんじょのこされ、そのうちさんじょ野上のかみ鹿之助しかのすけ遺児いじいさむ二郎じろう結婚けっこんし、くらかかいえいだ。

明治めいじ31ねん1898ねん)7がつ4にちしたがえよん追贈ついぞうされた。

昭和しょうわ17ねん1942ねん)12月13にち津山つやまじょう鶴山つるやま公園こうえんに、きゅう津山つやま藩士はんしぞく平沼ひらぬま騏一郎きいちろう碑文ひぶんによる顕彰けんしょう建立こんりゅうされた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

くらかかとらろう赤穂あこうはん津山つやまはん党争とうそうによって疲弊ひへいしていたしょうはんつかえ、度々たびたび調停ちょうてい交渉こうしょうっていた。外国がいこく勢力せいりょくからくにまもるために、対立たいりつめて大同団結だいどうだんけつするべきという情熱じょうねつてき憂国ゆうこくであり、その舌鋒ぜっぽうみずからの主君しゅくんにも容赦ようしゃなくけられた。赤穂あこう藩主はんしゅもり忠徳ただのりにはがわわらわはいするよう進言しんげんし、だいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつ出兵しゅっぺい問題もんだいはんろんされ幕府ばくふがわにつこうとする津山つやま藩主はんしゅ松平まつだいらけいりんたいしては、「きよしひかりいん津山つやま松平まつへいはんである松平まつだいら秀康ひでやす在天ざいてん神霊しんれい、いかばかり、ご嘆息たんそくあそばさるべくとぞんまつこう」と痛烈つうれつ論調ろんちょうでその非違ひいいた[6]

とらろうつかえた赤穂あこうはん津山つやまはんはともに優柔不断ゆうじゅうふだんでリーダーシップにける藩主はんしゅや、はんない家臣かしんない軋轢あつれきから二分にぶんし、立場たちばえながら延々のびのび内部ないぶこうそうつづけていること、そして赤穂あこう事件じけんはしはっする、暴力ぼうりょくによる安易あんい解決かいけつはかろうとする短慮たんりょさなどで共通きょうつうしている。とらろう才能さいのうみとめられて抜擢ばってきされるも、守旧しゅきゅうてき上級じょうきゅう藩士はんしいちによる反動はんどうと、厭世えんせいてき主君しゅくんけむたがられたことではんない孤立こりつし、必要ひつよう以上いじょうてきつくってしまった。赤穂あこうはんでは村上むらかみしん輔の次男じなん河原かわはら駱之輔が藩儒はんじゅにおける先輩せんぱいかくにあったとされ、それゆえ村上むらかみ一族いちぞく彜、村上むらかみ両氏りょうし暗殺あんさつ黒幕くろまくとらろうであるとして、とらろう誹謗ひぼうする覚書おぼえがきのこしている。津山つやまはんでも勤王きんのうとしてけいりん佐幕さばくにらまれ、大政奉還たいせいほうかんには一転いってんして、ぜん藩主はんしゅかくどう支持しじ反発はんぱつまねいた。

島田しまだ母子ぼし顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

慶応けいおう3ねん津山つやまはんないいんしょうげん津山つやま院庄いんのしょう)に島田しまだすすむなる人物じんぶつつまなかとむすめ浅野あさの自害じがいをした。生活せいかつ貧窮ひんきゅうしていた島田しまだぬすみをおかして入牢にゅうろうしたため、はんにかはわたしたちであるとそのつみこうむり、釈放しゃくほうもとめての犠牲ぎせい行為こういだった。とらろうはこの事件じけん母子ぼし犠牲ぎせいにいたく感激かんげきし、母子ぼし遺書いしょを1まんまい以上いじょう印刷いんさつし、しょはん知人ちじん配布はいふした。また、みずか碑文ひぶんしるしては母子ぼし顕彰けんしょう後世こうせいへの偉業いぎょうとしようと活動かつどうした。とらろう友人ゆうじんたちの感想かんそうぶん収録しゅうろくした『づるあまりおん』なる文集ぶんしゅう明治めいじ2ねん出版しゅっぱん。さらにその続編ぞくへん出版しゅっぱんしようとしたが、これはとらろう明治めいじ4ねん死去しきょしたため出版しゅっぱんされなかった。

顕彰けんしょうは「さだれつ純孝すみたか島田しまだ母子ぼしいしぶみ」のめいで、慶応けいおう3ねんに、いんしょう構城建立こんりゅうされた。この構城は、もり忠政ただまさ津山つやまはんてんふうされたのちはじめて拠点きょてんかまえようとした場所ばしょである。母子ぼし犠牲ぎせいみずからの階級かいきゅう汲々きゅうきゅうとしている大夫たいふたちにたいする「頂門ちょうもんいちはり」(警告けいこく)であるとしるしている[7]。2武士ぶし階級かいきゅうかべはばまれて不遇ふぐうをかこっていたとらろう現状げんじょう打破だはこころみて、母子ぼし犠牲ぎせい美談びだんにせんと躍起やっきになっていた。この活動かつどうしょはん健在けんざいしめかたちになったのか、慶応けいおう4ねん復権ふっけんへとなった[5]

写真しゃしん[編集へんしゅう]

写真しゃしんくらかかとらろうさんようあおい紋付もんつきを羽織はおり、右手みぎてには乗馬じょうばようむちがある。これらはいずれもけいりんから拝領はいりょうしたものである。したがって、津山つやま藩士はんし時代じだいの1862ねんから死去しきょする1871ねんまでに撮影さつえいされたと推測すいそくされる[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 片山かたやまはくさんへん)、江原えばらまんちょ)『勤王きんのう志士しし くらかかとら二郎じろう -原題げんだい 祖父そふ書翰しょかん-』くらかかよしとら先生せんせい顕彰けんしょうかい 1961ねん、6p
  2. ^ 江原えばら、29 -30p
  3. ^ 江原えばら、63 - 64p
  4. ^ 江原えばら、66 - 73p
  5. ^ a b “~慶応けいおう年間ねんかんくらかかとらろうかれ書簡しょかんより~”. 小島こじまとおる 津山つやま郷土きょうど博物館はくぶつかん. (2000ねん7がつ1にち). http://www.tsu-haku.jp/asset/00032/tsuhaku/dayori27.pdf 2020ねん3がつ4にち閲覧えつらん 
  6. ^ 江原えばら、90p - 98p
  7. ^ さだれつ純孝すみたか島田しまだ母子ぼしいしぶみ 京都大きょうとだいがく貴重きちょう資料しりょうデジタルアーカイブ 2021ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  8. ^ 江原えばらかんあたま掲載けいさい写真しゃしんのキャプションより。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 片山かたやまはくさんへん)、江原えばらまんちょ)『勤王きんのう志士しし くらかかとら二郎じろう -原題げんだい 祖父そふ書翰しょかん-』くらかかよしとら先生せんせい顕彰けんしょうかい 1961ねん
  • 宮崎みやざき じゅうさんはち安岡やすおか 昭男あきおへん)『幕末ばくまつ維新いしん人名じんめい事典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 1994ねん ISBN 978-4404020635
  • 慶応けいおう年間ねんかんくらかかとらろうかれ書簡しょかんより~ 小島こじまとおる 津山つやま郷土きょうど博物館はくぶつかん 2000ねん