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香西こうざいてら

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香西こうざいてら
境内
境内けいだい
所在地しょざいち 香川かがわけん高松たかまつ香西西こうざいにしまち211番地ばんち
位置いち 北緯ほくい3420ふん50.7びょう 東経とうけい13359ふん38.3びょう / 北緯ほくい34.347417 東経とうけい133.993972 / 34.347417; 133.993972 (香西こうざいてら)座標ざひょう: 北緯ほくい3420ふん50.7びょう 東経とうけい13359ふん38.3びょう / 北緯ほくい34.347417 東経とうけい133.993972 / 34.347417; 133.993972 (香西こうざいてら)
山号さんごう たから幢山
院号いんごう 地蔵じぞういん
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう大覚寺だいかくじ
寺格じかく 別格べっかく本山ほんざん
本尊ほんぞん 地蔵じぞう菩薩ぼさつ延命えんめい地蔵じぞう
創建そうけんねんつて天平てんぺい11ねん739ねん
開基かいきつて行基ぎょうき
中興ちゅうこうねん 鎌倉かまくら時代ときよ
中興ちゅうこう 香西こうざいむら
正式せいしきめい たから幢山 地蔵じぞういん 香西こうさいてら
札所ふだしょとう 四国しこく別格べっかくじゅう霊場れいじょう だい19ばん
四国しこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょう だい33ばん
さぬきなな福神ふくじん毘沙門天びしゃもんてん
ぼけふうさんじゅうさん観音かんのん だい11ばん
文化財ぶんかざい 毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 5470005000150 ウィキデータを編集
香西寺の位置(高松市内)
香西寺
香西こうざいてら
高松駅
高松たかまつえき
高松空港
高松たかまつ空港くうこう
高松檀紙IC
高松たかまつ檀紙だんしIC
高松西IC
高松西たかまつにしIC
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香西こうざいてら(こうざいじ)は香川かがわけん高松たかまつ所在しょざいする真言宗しんごんしゅう大覚寺だいかくじ寺院じいんたから幢山(ほうどうざん)、地蔵じぞういん(じぞういん)とごうす。本尊ほんぞん延命えんめい地蔵じぞう菩薩ぼさつ四国しこく別格べっかくじゅう霊場れいじょうだいじゅうきゅうばん札所ふだしょ四国しこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだいさんじゅうさんばん札所ふだしょ、さぬきなな福神ふくじん毘沙門天びしゃもんてん

  • 本尊ほんぞん真言しんごん:おん かかかびさんまえい そわか
  • 御詠歌ごえいか
    • 南無なむ大悲だいひ 延命えんめい地蔵じぞう だい菩薩ぼさつ みちびきたまへ こののちの別格べっかく
    • れぬれば さめてねるらむ よい芙蓉ふよう ぼとけのつねの みにだかれて(四国しこく観音かんのん

歴史れきし

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てらでんによれば、奈良なら時代じだい天平てんぺい11ねん739ねん)に行基ぎょうき勝賀山かつがやまきたふもとあんむすび、たから幢をきざんでたから幢山勝賀かつがてらとして創建そうけんしたといわれている。この場所ばしょおくどうばれており、奈良なら時代じだい平安へいあん時代じだいかわらへん出土しゅつどすることから寺院じいんあととみなされ、勝賀かつが廃寺はいじ呼称こしょうされている。平安へいあん時代じだい前期ぜんきひろしひとし8ねん817ねん空海くうかい弘法大師こうぼうだいし)が現在地げんざいち寺院じいんうつし、地蔵じぞう菩薩ぼさつぞうきざんで安置あんちしたとわれる。

嵯峨天皇さがてんのう勅願ちょくがんてらとなり、朱雀すざく天皇てんのうのとき勅旨ちょくし讃岐さぬきよん談議だんぎしょは、萩原はぎはらてら無量むりょう寿ことぶきいん極楽寺ごくらくじ[1])のひとつとなったが、その衰微すいびしていたようである。 鎌倉かまくら時代ときよになり、この豪族ごうぞく香西こうざい左近さこん将監しょうげんむら鎌倉かまくら幕府ばくふいのちにより寺院じいん再興さいこう香西こうざいてら名付なづけた。その香西こうざい庇護ひごけることとなった。

南北なんぼくあさ時代じだいには室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご大名だいみょう細川ほそかわよりゆきこれほん現在げんざい香西東こうざいひがしまち)に移転いてんし、香西こうざい11だい当主とうしゅ香西こうざいもと地福寺じふくじ改称かいしょうした。

戦国せんごく時代じだい天正てんしょう年間ねんかん1573ねん – 1592ねん)には戦火せんかにより伽藍がらん焼亡しょうぼうした。(香西こうざいてら縁起えんぎでは戦火せんかかれたとなってない)

桃山ももやま時代じだい讃岐さぬきこく大名だいみょうとしてはいされた生駒いこまちかしただし復興ふっこう高福寺こうふくじあらためた。

江戸えど時代じだい前期ぜんき万治まんじ元年がんねん1658ねん失火しっかにより伽藍がらん焼失しょうしつし、ふたた現在げんざい移転いてんした。寛文ひろふみ9ねん1669ねん高松たかまつはん初代しょだい藩主はんしゅ松平まつだいらよりゆきじゅう伽藍がらん整備せいび別格べっかく本山ほんざん香西こうざいてら改称かいしょうした。しかし、その失火しっか見舞みまわれ再建さいけんがなされている。

変遷へんせんのまとめ
時期じき 開基かいき復興ふっこう てらめい 所在地しょざいち
739ねん 行基ぎょうき 勝賀かつがてら 勝賀山かつがやまきたふもと
817ねん 空海くうかい 勝賀かつがてら 現在地げんざいち
鎌倉かまくら時代ときよ 香西こうざい左近さこん 香西こうざいてら 現在地げんざいち
室町むろまち時代ときよ 細川ほそかわよりゆきこれ 地福寺じふくじ 香西東こうざいひがしまち
桃山ももやま時代じだい 生駒いこまちかしただし 高福寺こうふくじ 香西東こうざいひがしまち
1669ねん 松平まつだいらよりゆきじゅう 香西こうざいてら 現在地げんざいち

境内けいだい

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仁王門におうもん
  • 山門やまかど仁王門におうもん
  • 本堂ほんどうわきふつ愛染明王あいぜんみょうおう毘沙門天びしゃもんてんなかはいって参拝さんぱいできる。
  • 大師堂だいしどう本尊ほんぞん弘法大師こうぼうだいしみぎわきじん八幡やはた菩薩ぼさつひだりわきじん不動明王ふどうみょうおうなかはいっていずれも拝顔はいがんできる。 
  • 毘沙門堂びしゃもんどう
  • 閻魔えんまどうおさめけいしょ
  • 水子みずこ地蔵じぞう 
  • みずかけ地蔵じぞう

高松たかまつ北西ほくせい勝賀山かつがやま北東ほくとうふもと位置いちする。仁王門におうもんからほぼ一直線いっちょくせん参道さんどうすすむと本堂ほんどうがある。本堂ほんどうかって右側みぎがわくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう安置あんちする毘沙門堂びしゃもんどうがある。さらにそのみぎには大師堂だいしどうけん護摩堂ごまどうがある。おさめけいしょ仁王門におうもんをくぐって左側ひだりがわにある。

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい

交通こうつうアクセス

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鉄道てつどう
道路どうろ

前後ぜんご札所ふだしょ

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四国しこく別格べっかくじゅう霊場れいじょう
18 海岸かいがんてら --(33.3 km)-- 19 こう西寺にしてら --(41.1 km)-- 20 大瀧おおたきてら
四国しこくさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょう
32 そうぞうてら ---- 33 こう西寺にしてら ---- 1 せいきょうてら

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 存続そんぞく寺院じいん当時とうじ極楽寺ごくらくじ塔頭たっちゅうであった鴨部かべ(かべ)の長福寺ちょうふくじ
  2. ^ 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 香川かがわけん歴史れきし散歩さんぽ編集へんしゅう委員いいんかい へん新版しんぱん 香川かがわけん歴史れきし散歩さんぽ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃしん全国ぜんこく歴史れきし散歩さんぽシリーズ, 37〉、1996ねん、173ぺーじNCID BN14477324全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:96067317 
  • 宮崎みやざき建樹たけき四国しこく遍路へんろひとりある同行どうこうにん地図ちずへんだい9はん)、へんろみち保存ほぞん協力きょうりょくかい、2010ねん 
  • 宮崎みやざき建樹たけき四国しこく遍路へんろひとりある同行どうこうにん解説かいせつへんだい7はん)、へんろみち保存ほぞん協力きょうりょくかい、2007ねん 
  • 現地げんち説明せつめいばん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]

外部がいぶリンク

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