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黒須くろすたかし

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黒須くろす たかし
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 埼玉さいたまけん
生年月日せいねんがっぴ (1968-09-18) 1968ねん9月18にち(56さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
177 cm
79 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 捕手ほしゅ
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
国際こくさい大会たいかい
代表だいひょうチーム 日本の旗 日本にっぽん
五輪ごりん 1996ねん
オリンピック
男子だんし 野球やきゅう
ぎん 1996 野球やきゅう

黒須くろす たかし(くろす たかし、1968ねん9月18にち - )は、社会しゃかいじん野球やきゅうもと選手せんしゅ捕手ほしゅみぎみぎち)である。

1996ねんアトランタオリンピック野球やきゅう日本にっぽん代表だいひょう

人物じんぶつ来歴らいれき

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埼玉さいたまけん出身しゅっしん浦和学院うらわがくいんでは3ねんなつに1ねん後輩こうはい鈴木すずきけん西武せいぶヤクルト)、バッテリーをんだ谷口たにぐちえいこう大学だいがくでも同僚どうりょう)らとともになつ甲子園こうしえんベスト4り。その東洋大とうようだい進学しんがく、1ねんあきには明治めいじ神宮じんぐう大会たいかいにも先発せんぱつ出場しゅつじょう。3ねんはるリーグであった。一部いちぶリーグ通算つうさん76試合しあい出場しゅつじょう、224打数だすう58安打あんだ打率だりつ.259、1本塁打ほんるいだ、26打点だてん。1学年がくねん後輩こうはい桧山ひやますすむ次郎じろうのほか徳田とくた吉成よしなり黒須くろす存在そんざいもあって3ねんまでは野手やしゅであった。1991ねん日産自動車にっさんじどうしゃ入社にゅうしゃ

強打きょうだ捕手ほしゅとして社会しゃかいじん野球やきゅうかいでも注目ちゅうもくあつめ、1993ねん1994ねん社会しゃかいじん野球やきゅう日本にっぽん選手権せんしゅけん大会たいかい2ねん連続れんぞくじゅん優勝ゆうしょう貢献こうけん。1994ねん日本にっぽん・キューバ選手権せんしゅけんはじめて日本にっぽん代表だいひょうりをたす。チームでは川尻かわじり哲郎てつろう北川きたがわ哲也てつやをリードした。

1996ねんにはアトランタ五輪ごりん代表だいひょうりし、ぎんメダル獲得かくとく捕手ほしゅ代表だいひょうりしたのは大久保おおくぼ秀昭ひであき当時とうじ日本石油にほんせきゆ。その近鉄きんてつ慶大けいだい、JX-ENEOS監督かんとく)と黒須くろすのみであった。1997ねんにはIBAFインターコンチネンタルカップ日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされ、キューバをやぶって世界一せかいいちかがやく。よく1998ねんには川越かわごえ英隆ひでたかとのバッテリーでチーム2度目どめ都市とし対抗たいこう野球やきゅう優勝ゆうしょう経験けいけんし、社会しゃかいじんベストナイン捕手ほしゅ部門ぶもん選出せんしゅつされる。

2000ねん都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかい10ねん連続れんぞく出場しゅつじょう表彰ひょうしょうけ、2001ねんにはIBAFワールドカップ日本にっぽん代表だいひょうり。これが最後さいご日本にっぽん代表だいひょうりとなった(日本にっぽん代表だいひょうキャリアは12)。しかし後進こうしんみちゆずりたいとしてこのとしかぎりでユニフォームをいだ。その社業しゃぎょういている[1]

おも日本にっぽん代表だいひょうキャリア

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おも表彰ひょうしょう、タイトル

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 埼玉さいたま頂点ちょうてんしんかて 86ねん浦和学院うらわがくいん選手せんしゅたちはいま”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (2018ねん5がつ17にち). 2021ねん2がつ27にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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