慶應義塾 けいおうぎじゅく 体育 たいいく 会 かい 野球 やきゅう 部 ぶ (けいおうぎじゅくたいいくかいやきゅうぶ、英 えい : Keio University Baseball Club )は、東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう 連盟 れんめい に所属 しょぞく する大学 だいがく 野球 やきゅう チーム。慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく の学生 がくせい によって構成 こうせい されている。球界 きゅうかい に幾多 いくた の人材 じんざい を送 おく り出 だ し、早稲田大学 わせだだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ とともに日本 にっぽん 野球 やきゅう の創成 そうせい ・発展 はってん を支 ささ えてきた。OB組織 そしき の名称 めいしょう は「三田 みた 倶楽部 くらぶ 」。
ユニフォーム は、グレー色 しょく の生地 きじ に「KEIO 」と表記 ひょうき されたもの。野球 やきゅう 帽 ぼう には、「K 」の一文字 ひともじ が取 と り付 つ けられている。
三田 みた ベースボール倶楽部 くらぶ 員 いん (1891年 ねん 5月 がつ )
第 だい 1回 かい 慶 けい 早 はや 戦 せん の両校 りょうこう 選手 せんしゅ (1903年 ねん 11月21日 にち )
三田 みた 綱 つな 町 まち 球場 きゅうじょう (1918年 ねん 春 はる の慶明 よしあき 戦 せん )
1928–1929年 ねん 頃 ごろ の野球 やきゅう 部 ぶ
出陣 しゅつじん 学徒 がくと 壮行 そうこう 慶 けい 早 はや 戦 せん
体育 たいいく 会 かい 野球 やきゅう 部 ぶ 合宿 がっしゅく 所 しょ (日吉 ひよし )
日吉 ひよし グラウンド
日吉 ひよし グラウンド
1884年 ねん 頃 ころ からアメリカ人 じん 教師 きょうし ストーマーの指導 しどう で野球 やきゅう を始 はじ める塾生 じゅくせい が現 あらわ れ始 はじ め[1] 、日本 にっぽん 初 はつ の野球 やきゅう チームといわれる「新橋 しんばし アスレチック倶楽部 くらぶ 」にも参加 さんか し練習 れんしゅう を行 おこな っていた。1888年 ねん にアメリカから帰国 きこく した岩田 いわた 伸太郎 しんたろう が塾 じゅく 内 ない に野球 やきゅう を奨励 しょうれい し、「三田 みた ベースボール倶楽部 くらぶ 」が発足 ほっそく した[2] 。この時 とき を野球 やきゅう 部 ぶ の創設 そうせつ としている。1892年 ねん には塾 じゅく 体育 たいいく 会 かい 創設 そうせつ とともにその傘下 さんか となり、翌 よく 1893年 ねん 6月19日 にち には当時 とうじ 最強 さいきょう といわれた一 いち 高 だか に初 はつ 挑戦 ちょうせん で勝利 しょうり を収 おさ めた。1901年 ねん には日本 にっぽん の野球 やきゅう チームで初 はつ となる国内 こくない 遠征 えんせい を敢行 かんこう している[3] 。
1903年 ねん 11月21日 にち 、新興 しんこう チームであった早稲田 わせだ の挑戦 ちょうせん を受 う け、三田 みた 綱 つな 町 まち 球場 きゅうじょう で第 だい 一 いち 回 かい の早慶 そうけい 戦 せん (慶應 けいおう での呼称 こしょう は慶 けい 早 はや 戦 せん 。以下 いか 、本稿 ほんこう では「慶 けい 早 はや 戦 せん 」で統一 とういつ )を行 おこな い勝利 しょうり を収 おさ め、両校 りょうこう は翌年 よくねん から春秋 しゅんじゅう 2回 かい の定期 ていき 戦 せん を行 おこな うことを確認 かくにん した。1904年 ねん 6月2日 にち 、前日 ぜんじつ の早稲田 わせだ に引 ひ き続 つづ いて一 いち 高 だか を撃破 げきは 、1893年 ねん の時 とき と違 ちが い全員 ぜんいん レギュラーで臨 のぞ んだ一 いち 高 だか を破 やぶ ったことで慶 けい 早 はや の勇名 ゆうめい は一挙 いっきょ に轟 とどろ き、慶 けい 早 はや 戦 せん は一躍 いちやく 日本 にっぽん 球界 きゅうかい の覇権 はけん を争 あらそ う試合 しあい として大 おお きな熱狂 ねっきょう を呼 よ んだ。しかし応援 おうえん 合戦 かっせん が過熱 かねつ したことから1906年 ねん 11月10日 にち 、1勝 しょう 1敗 はい で迎 むか える第 だい 3戦 せん の前日 ぜんじつ に中止 ちゅうし となった。以後 いご 、慶 けい 早 はや 戦 せん は1925年 ねん の東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 連盟 れんめい 結成 けっせい まで19年 ねん にわたって中断 ちゅうだん されることとなる。
慶 けい 早 はや 戦 せん 中断 ちゅうだん の間 あいだ も慶應 けいおう は技量 ぎりょう の向上 こうじょう に努 つと め、日本 にっぽん 球界 きゅうかい の発展 はってん をリードする存在 そんざい であり続 つづ けた。1907年 ねん 10月にはハワイ ・セントルイス大学 だいがく を招 まね いて国内 こくない 初 はつ の海外 かいがい チーム招待 しょうたい 試合 しあい にしてこれも国内 こくない 初 はつ の有料 ゆうりょう 試合 しあい を挙行 きょこう した。その後 ご もアメリカの大学 だいがく チームをたびたび招聘 しょうへい 、1908年 ねん にはハワイ、1911年 ねん にはアメリカ本土 ほんど に遠征 えんせい を行 おこな い29勝 しょう 20敗 はい 1分 ふん と勝 か ち越 こ しを収 おさ めた。同年 どうねん OB組織 そしき としての三田 みた 倶楽部 くらぶ が設立 せつりつ し、早稲田 わせだ OB組織 そしき である稲 いね 門 もん 倶楽部 くらぶ との間 あいだ に「三田 みた -稲 いね 門 もん 」戦 せん を始 はじ めたが、早稲田 わせだ から絶縁 ぜつえん 状 じょう が届 とど くなど[4] 慶 けい 早 さ 間 あいだ の亀裂 きれつ は埋 うず まらずにいた。一方 いっぽう では創部 そうぶ 間 あいだ もない明治大学 めいじだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ を指導 しどう し、1914年 ねん からは慶 けい ・早 はや ・明 あかり の3校 こう からなる三 さん 大学 だいがく リーグ戦 せん が始 はじ まり、法政大学 ほうせいだいがく 、立教大学 りっきょうだいがく が相次 あいつ いでこれに参加 さんか 。
1925年 ねん 、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく が当時 とうじ の五 ご 大学 だいがく 連盟 れんめい に加盟 かめい 、これを機 き に慶 けい 早 はや 戦 せん 再開 さいかい の機運 きうん が盛 も り上 あ がり、内海 うつみ 弘蔵 こうぞう (明大 めいだい 野球 やきゅう 部長 ぶちょう )と武満 たけみつ 国雄 くにお (法大 ほうだい 監督 かんとく )が中心 ちゅうしん に[5] 「再開 さいかい に応 おう じないチームを外 はず して新 あたら しいリーグを設立 せつりつ する」として慶 けい 早 さ 両校 りょうこう に再開 さいかい を迫 せま った。しかし現役 げんえき 部員 ぶいん は歓迎 かんげい したものの先輩 せんぱい たちが応 おう じようとしない[注釈 ちゅうしゃく 1] 。桐原 きりはら 眞二 しんじ 主将 しゅしょう らがこれを必死 ひっし に説得 せっとく 、ようやく同年 どうねん 秋 あき から慶 けい 早 はや 戦 せん が再開 さいかい された。またこの年 とし 、初代 しょだい 監督 かんとく として三宅 みやけ 大輔 だいすけ が着任 ちゃくにん した。1926年 ねん からは名将 めいしょう ・腰 こし 本 ほん 寿 ことぶき が監督 かんとく を務 つと め、やがて山下 やました 実 みのる ・宮武 みやたけ 三郎 さぶろう ・水原 みずはら 茂 しげる ・牧野 まきの 直隆 なおたか らの俊英 しゅんえい たちが集 あつ まり黄金 おうごん 時代 じだい を形成 けいせい した。1928年 ねん 秋季 しゅうき リーグ戦 せん では10戦 せん 全勝 ぜんしょう で優勝 ゆうしょう を飾 かざ った。この全勝 ぜんしょう を挟 はさ んで20連勝 れんしょう を記録 きろく 、これは現在 げんざい でも破 やぶ られていない六 ろく 大学 だいがく 連盟 れんめい の連勝 れんしょう 記録 きろく である。1929年 ねん 、宮武 みやたけ と早稲田 わせだ の新人 しんじん ・小川 おがわ 正太郎 しょうたろう との対決 たいけつ は全国 ぜんこく 的 てき な熱狂 ねっきょう を集 あつ め「宮武 みやたけ ・小川 おがわ 時代 ときよ 」と呼 よ ばれる空前 くうぜん の慶 けい 早 はや 戦 せん 人気 にんき を現出 げんしゅつ した。
その後 ご 1930年代 ねんだい に入 はい ると法政 ほうせい と立教 りっきょう の台頭 たいとう 、加 くわ えて明治 めいじ が4連覇 れんぱ を果 は たし、1935年 ねん には腰 こし 本 ほん が辞任 じにん 後 ご 急逝 きゅうせい するなど優勝 ゆうしょう から遠 とお ざかったが、1939年 ねん 秋季 しゅうき リーグ戦 せん で7年 ねん ぶりに優勝 ゆうしょう を達成 たっせい した。しかし折 おり からの軍部 ぐんぶ ・文部省 もんぶしょう による野球 やきゅう 弾圧 だんあつ は激 はげ しさを極 きわ め、1942年 ねん 秋季 しゅうき リーグ戦 せん を最後 さいご に東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 連盟 れんめい も翌 よく 1943年 ねん 4月 がつ に解散 かいさん を余儀 よぎ なくされる。同年 どうねん 10月 がつ には法文 ほうぶん 系 けい 学生 がくせい の徴兵 ちょうへい 猶予 ゆうよ も解除 かいじょ され、いよいよ野球 やきゅう 部 ぶ の存続 そんぞく も危 あや うくなった。ここで当時 とうじ の主将 しゅしょう ・阪井 さかい 盛一 もりいち が代表 だいひょう となって出陣 しゅつじん 学徒 がくと の餞 はなむけ として慶 けい 早 はや 戦 せん の開催 かいさい を塾長 じゅくちょう ・小泉 こいずみ 信三 しんぞう に直訴 じきそ 。小泉 こいずみ もこれを快諾 かいだく し、早稲田 わせだ 側 がわ が大学 だいがく 当局 とうきょく の理不尽 りふじん な妨害 ぼうがい に苦 くる しんだものの[6] 10月16日 にち に最後 さいご の慶 けい 早 はや 戦 せん が実現 じつげん した。これを最後 さいご に部員 ぶいん の大半 たいはん が戦地 せんち へ駆 か り出 だ され、1944年 ねん 5月 がつ を最後 さいご に活動 かつどう を休止 きゅうし した。結局 けっきょく 太平洋戦争 たいへいようせんそう 終戦 しゅうせん までの間 あいだ に桐原 きりはら らOBを含 ふく む20名 めい が戦争 せんそう の犠牲 ぎせい となった。
1945年 ねん 10月28日 にち の六 ろく 大学 だいがく OB紅白 こうはく 戦 せん 、そして11月18日 にち の全 ぜん 慶 けい 早 はや 戦 せん で戦後 せんご の野球 やきゅう がスタート、1946年 ねん からは東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく リーグ戦 せん も復活 ふっかつ した。大島 おおしま 信雄 のぶお 、別当 べっとう 薫 かおる 、加藤 かとう 進 すすむ らが戦地 せんち から還 かえ ってきた慶應 けいおう は復活 ふっかつ 第 だい 一 いち 回 かい 目 め のリーグ戦 せん を5戦 せん 全勝 ぜんしょう で制覇 せいは 、1947年 ねん には春秋 しゅんじゅう 連続 れんぞく 優勝 ゆうしょう を成 な し遂 と げた。以後 いご 、早稲田 わせだ と交互 こうご に優勝 ゆうしょう を分 わ け合 あ い、平古 ひらこ 場 じょう 昭二 しょうじ 、河合 かわい 貞雄 さだお 、藤田 ふじた 元 もと 司 つかさ 、佐々木 ささき 信也 しんや 、衆 しゅう 樹 じゅ 資 し 宏 ひろし らのスター選手 せんしゅ を擁 よう し再 ふたた び黄金 おうごん 時代 じだい を到来 とうらい させた。
1950年代 ねんだい 後半 こうはん には長嶋 ながしま 茂雄 しげお らが活躍 かつやく する立教 りっきょう に後塵 こうじん を拝 はい したこともあったが、前田 まえだ 祐吉 ゆうきち が監督 かんとく に就任 しゅうにん した1960年 ねん 秋 あき に伝説 でんせつ の慶 けい 早 はや 六 ろく 連戦 れんせん を闘 たたか い優勝 ゆうしょう は逸 いっ したが、この頃 ころ から再 ふたた び上昇 じょうしょう 軌道 きどう に乗 の り、六 ろく 大学 だいがく 初 はつ の完全 かんぜん 試合 しあい を達成 たっせい した渡辺 わたなべ 泰 やすし 輔 らの活躍 かつやく で1964年 ねん までの間 あいだ に3たびリーグ戦 せん を制 せい した。だが当時 とうじ の通算 つうさん 本塁打 ほんるいだ タイ記録 たいきろく (8本 ほん )を樹立 じゅりつ した広野 ひろの 功 いさお や江藤 えとう 省三 しょうぞう らの主力 しゅりょく が卒業 そつぎょう した1966年 ねん 春季 しゅんき リーグ戦 せん では、チーム力 りょく が一気 いっき に低下 ていか し史上 しじょう 初 はつ の最下位 さいかい という屈辱 くつじょく を味 あじ わった。しかし若 わか い近藤 こんどう 良輔 りょうすけ 監督 かんとく を中心 ちゅうしん に猛 もう 練習 れんしゅう でチーム力 りょく を上 あ げると翌 よく 1967年 ねん 春季 しゅんき リーグ戦 せん ではエース藤原 ふじわら 真 しん の大 だい 活躍 かつやく で涙 なみだ のリーグ優勝 ゆうしょう を果 は たした。その後 ご 1971年 ねん 秋季 しゅうき からはエース萩野 はぎの 友康 ともやす に松下 まつした 勝実 かつみ ・山下 やました 大輔 だいすけ らの強力 きょうりょく 打線 だせん でチーム最多 さいた 連覇 れんぱ となる3連覇 れんぱ を果 は たした。
ところがこの3連覇 れんぱ の偉業 いぎょう を最後 さいご に、長 なが く暗 くら い低迷 ていめい のトンネルに入 はい り込 こ んでしまった。後藤 ごとう 寿彦 としひこ ・堀場 ほりば 秀孝 ひでたか ・青島 あおしま 健太 けんた らの好 こう 打者 だしゃ が神宮 じんぐう を沸 わ かせたものの法政 ほうせい ・明治 めいじ ・早稲田 わせだ の牙城 がじょう を崩 くず すまでには至 いた らず、1977年 ねん 春季 しゅんき ・1981年 ねん 春季 しゅんき にはまたも最下位 さいかい 転落 てんらく の悲哀 ひあい を味 あじ わった。このどん底 ぞこ からの再生 さいせい を託 たく されたのが前田 まえだ であった。1982年 ねん に前田 まえだ が二 に 度目 どめ の監督 かんとく に就任 しゅうにん するとチーム力 りょく は徐々 じょじょ に上向 うわむ き、1985年 ねん 秋季 しゅうき リーグ戦 せん では1年生 ねんせい エース志村 しむら 亮 あきら の大 だい 活躍 かつやく に相場 あいば 勤 つとむ ・仲澤 なかざわ 伸一 しんいち らの強力 きょうりょく 打線 だせん が火 ひ を噴 ふ き、実 じつ に13年 ねん ぶりのリーグ優勝 ゆうしょう を10勝 しょう 無敗 むはい 1分 ふん で飾 かざ り、ようやく57年 ねん ぶりに2本 ほん 目 め の白線 はくせん をストッキングに入 い れることに成功 せいこう した(エピソード の項 こう 参照 さんしょう )。
この快挙 かいきょ で完全 かんぜん に息 いき を吹 ふ き返 かえ した慶應 けいおう は、前田 まえだ の指導 しどう のもと選手 せんしゅ たちがのびのびとプレーし、数々 かずかず の偉業 いぎょう を打 う ち立 た ててきた。1987年 ねん には、24年 ねん ぶりに全日本 ぜんにほん 大学 だいがく 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 大会 たいかい を制 せい した。この年 とし の主将 しゅしょう ・猿田 さるた 和三 かずみ
、エース・鈴木 すずき 哲 あきら は共 とも に2年 ねん 浪人 ろうにん して慶大 けいだい に入学 にゅうがく 。「2浪 なみ 組 ぐみ 」が活躍 かつやく する慶応 けいおう らしい日本一 にっぽんいち だった。通算 つうさん 31勝 しょう を挙 あ げた志村 しむら 、リーグ屈指 くっし の右腕 うわん ・鈴木 すずき 哲 あきら 、三冠王 さんかんおう ・大森 おおもり 剛 つよし らが神宮 じんぐう のみならず大学 だいがく 球界 きゅうかい を代表 だいひょう する名 めい 選手 せんしゅ として大 だい 暴 あば れした。
1990年 ねん 春 はる には慶 けい 早 さ 戦史 せんし 上 じょう に残 のこ る12年 ねん ぶりの「早慶 そうけい V決戦 けっせん 」を展開 てんかい 。優勝 ゆうしょう こそ逃 のが したが、NHK が急遽 きゅうきょ 全 ぜん 試合 しあい をテレビ中継 ちゅうけい し、3回戦 かいせん はスタンドに入 い れなかった学生 がくせい 2万 まん 人 にん が球場 きゅうじょう の外 そと を囲 かこ み、急 せ きょ設置 せっち されたテレビモニターで観戦 かんせん する事態 じたい となった。1991年 ねん には小桧山 こびやま 雅仁 まさひと ・大久保 おおくぼ 秀昭 ひであき のバッテリーで19年 ねん ぶりの春秋 しゅんじゅう 連覇 れんぱ を達成 たっせい した。1994年 ねん に前田 まえだ から後藤 ごとう に監督 かんとく が引 ひ き継 つ がれてからも次々 つぎつぎ と好 こう 選手 せんしゅ が現 あらわ れ、1994年 ねん 秋季 しゅうき には丸山 まるやま 泰 やすし 令 れい がチーム戦後 せんご 4人 にん 目 め となる三冠王 さんかんおう を獲得 かくとく 、1996年 ねん 春季 しゅんき には高橋 たかはし 由 ゆかり 伸 しん も三 さん 冠 かん を達成 たっせい した。高橋 たかはし は翌 よく 1997年 ねん に法政 ほうせい ・田淵 たぶち 幸一 こういち の記録 きろく を29年 ねん ぶりに破 やぶ る通算 つうさん 23号 ごう 本塁打 ほんるいだ を放 はな ち、春季 しゅんき リーグ戦 せん では5年 ねん ぶりのリーグ優勝 ゆうしょう に導 みちび いた。
2000年 ねん 秋季 しゅうき には早稲田 わせだ との優勝 ゆうしょう を懸 か けた決戦 けっせん を制 せい して20世紀 せいき 最後 さいご のリーグ覇者 はしゃ に就 つ き、翌 よく 2001年 ねん 秋季 しゅうき には喜多 きた 隆志 たかし が東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく のリーグ新 しん 記録 きろく となる打率 だりつ .535をマークするなど、開幕 かいまく から8連勝 れんしょう の破竹 はちく の快 かい 進撃 しんげき で通算 つうさん 優勝 ゆうしょう 回数 かいすう を30回 かい の大台 おおだい に載 の せた。2004年 ねん 秋季 しゅうき リーグ戦 せん では鬼 おに 嶋 しま 一司 かずし 監督 かんとく のもと31回 かい 目 め のリーグ優勝 ゆうしょう を飾 かざ り、2007年 ねん には加藤 かとう 幹 みき 典 てん の好投 こうとう で春 はる ・秋 あき とも慶 けい 早 はや 戦 せん に優勝 ゆうしょう を懸 か けるところまで来 き たが、いずれのシーズンも斎藤 さいとう 佑 たすく 樹 じゅ らを擁 よう する早稲田 わせだ にわずかに及 およ ばなかった。
2008年 ねん は塾 じゅく 創立 そうりつ 150周年 しゅうねん 、創部 そうぶ 120周年 しゅうねん の記念 きねん の年 とし にあたり、4年 ねん ぶりの天皇杯 てんのうはい 奪回 だっかい を目指 めざ したが果 は たせなかった。しかし常 つね に優勝 ゆうしょう を争 あらそ えるチーム力 りょく を蓄 たくわ えており、2010年 ねん からは部 ぶ 史上 しじょう 初 はつ のプロ出身 しゅっしん 監督 かんとく として、OBの江藤 えとう 省三 しょうぞう を監督 かんとく に招聘 しょうへい 。「早稲田 わせだ 黄金 おうごん 時代 じだい 」と呼 よ べる状況 じょうきょう にあった東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう で、同年 どうねん から2年 ねん 連続 れんぞく 春季 しゅんき リーグ戦 せん に優勝 ゆうしょう することで、「打倒 だとう 早稲田 わせだ 」というチーム伝統 でんとう の使命 しめい を果 は たした。また、江藤 えとう の在任 ざいにん 中 ちゅう には、部員 ぶいん から3年 ねん 連続 れんぞく でプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ を輩出 はいしゅつ (2012年 ねん :伊藤 いとう 隼 はやぶさ 太 ふとし 、2013年 ねん :福谷 ふくたに 浩司 こうじ 、2014年 ねん :白村 はくそん 明弘 あきひろ )。2012年 ねん には、チーム史上 しじょう 初 はつ の女子 じょし 選手 せんしゅ として、川崎 かわさき 彩乃 あやの 投手 とうしゅ を登録 とうろく した[7] 。
戦前 せんぜん の宮武 みやたけ ・山下 やました ・別当 べっとう 、戦後 せんご の衆 しゅう 樹 じゅ ・広野 ひろの ・山下 やました ・青島 ちんたお ・大森 おおもり ・高橋 たかはし など、数 すう 多 おお くの長距離 ちょうきょり 砲 ほう を育成 いくせい してきた伝統 でんとう を持 も つ。また志村 しむら ・加藤 かとう 幹 みき など優 すぐ れたサウスポー が次々 つぎつぎ 生 う まれるのも慶應 けいおう の伝統 でんとう といわれる。水原 みずはら に代表 だいひょう される、いかにも「慶應 けいおう ボーイ」といえる華 はな やかなスターが多 おお いのも特徴 とくちょう といえるだろう。
なお江藤 えとう は、4年 ねん の任期 にんき が満了 まんりょう した2013年 ねん 11月に、監督 かんとく の座 ざ を助監督 じょかんとく の竹内 たけうち 秀夫 ひでお に譲 ゆず る格好 かっこう でいったん退任 たいにん 。2014年 ねん 1月 がつ 20日 にち 付 づけ で日本 にっぽん 学生 がくせい 野球 やきゅう 連盟 れんめい から(プロ野球 やきゅう 経験 けいけん 者 しゃ による高校生 こうこうせい への指導 しどう に必要 ひつよう な)学生 がくせい 指導 しどう 資格 しかく の回復 かいふく を認 みと められたため、同年 どうねん 春 はる からは慶應義塾 けいおうぎじゅく の各 かく 高校 こうこう 野球 やきゅう 部 ぶ を統括 とうかつ する「総 そう 監督 かんとく 」に転 てん じる予定 よてい だった。しかし、竹内 たけうち は大学 だいがく 監督 かんとく への就任 しゅうにん 直後 ちょくご から、内臓 ないぞう 疾患 しっかん で長期 ちょうき にわたって入院 にゅういん 。現場 げんば 復帰 ふっき の目途 もくと が立 た たないことから、2014年 ねん 2月 がつ 28日 にち には、江藤 えとう が同年 どうねん の東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう の春季 しゅんき リーグ戦 せん 期間 きかん 中 ちゅう に再 ふたた び大学 だいがく の野球 やきゅう 部 ぶ を指揮 しき することを発表 はっぴょう した。ただし、竹内 たけうち が現場 げんば への復帰 ふっき を前提 ぜんてい に監督 かんとく 職 しょく へとどまっているため、東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう 連盟 れんめい には竹内 たけうち の代理 だいり 扱 あつか いで江藤 えとう を「助監督 じょかんとく 」として登録 とうろく 。春季 しゅんき リーグ戦 せん が終了 しゅうりょう する6月 がつ 末 まつ までの指導 しどう を予定 よてい していた[8] が、そのリーグ戦 せん ではチームを再 ふたた び優勝 ゆうしょう に導 みちび いている。秋季 しゅうき リーグは高 こう 多 た 倫 りん 正 せい が助監督 じょかんとく を務 つと め、竹内 たけうち は秋季 しゅうき リーグ終了 しゅうりょう 後 ご に1度 ど も指揮 しき を執 と ることなく退任 たいにん した(2015年 ねん 8月 がつ 5日 にち 死去 しきょ )[9] 。2015年 ねん からはJX-ENEOS野球 やきゅう 部 ぶ 監督 かんとく だった大久保 おおくぼ 秀昭 ひであき が監督 かんとく を務 つと める。
2019年 ねん 秋季 しゅうき リーグは、開幕 かいまく から9連勝 れんしょう でリーグ優勝 ゆうしょう 。東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう 連盟 れんめい 代表 だいひょう として出場 しゅつじょう した明治 めいじ 神宮 じんぐう 野球 やきゅう 大会 たいかい では3連勝 れんしょう で優勝 ゆうしょう し、19年 ねん ぶりの日本一 にっぽんいち となった[10] 。同 どう 年度 ねんど を以って大久保 おおくぼ 監督 かんとく が退任 たいにん (JX-ENEOS野球 やきゅう 部 ぶ 監督 かんとく に復帰 ふっき )し、JR東日本 ひがしにっぽん 硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ 監督 かんとく だった堀井 ほりい 哲也 てつや が2019年 ねん 12月1日 にち 付 づけ で新 しん 監督 かんとく に就任 しゅうにん する。
昭和 しょうわ 初期 しょき の新田 にった 合宿 がっしゅく 所 しょ
当初 とうしょ 、塾 じゅく の横 よこ にあった稲荷山 いなりやま グラウンドで練習 れんしゅう をしていたが非常 ひじょう に狭 せま く、正規 せいき のダイヤモンドを確保 かくほ できないほどであった。その後 ご 、三田 みた 綱 つな 町 まち の山林 さんりん を切 き り開 ひら いてグラウンドを造成 ぞうせい (現 げん 慶應義塾 けいおうぎじゅく 中等 ちゅうとう 部 ぶ 綱 つな 町 まち グラウンド )[11] 、第 だい 一 いち 回 かい 慶 けい 早 はや 戦 せん の会場 かいじょう となったのを始 はじ め、大正 たいしょう 後期 こうき まで本拠地 ほんきょち としていた。
その後 ご 1924年 ねん に田園調布 でんえんちょうふ 球場 きゅうじょう を借用 しゃくよう [12] 、1926年 ねん からは東京 とうきょう 府 ふ 荏原 えばら 郡 ぐん 矢口 やこう 村 むら (現 げん 東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 千鳥 ちどり 2丁目 ちょうめ )の新田 にった 球場 きゅうじょう に本拠 ほんきょ を移 うつ し[13] 、1941年 ねん に現在地 げんざいち に落 お ち着 つ いた[14] 。
リーグ戦 せん (※2023年 ねん 度 ど 秋季 しゅうき リーグ戦 せん 終了 しゅうりょう 時 じ )
優勝 ゆうしょう :40回 かい (戦前 せんぜん 8回 かい 、戦後 せんご 32回 かい 。最近 さいきん の優勝 ゆうしょう =2023年 ねん 秋季 しゅうき 。3連覇 れんぱ =1971年 ねん 秋季 しゅうき ~1972年 ねん 秋季 しゅうき 、10戦 せん 全勝 ぜんしょう =1928年 ねん 秋季 しゅうき 、無敗 むはい 優勝 ゆうしょう =1985年 ねん 秋季 しゅうき [注釈 ちゅうしゃく 2] 。完全 かんぜん 優勝 ゆうしょう =戦後 せんご 7回 かい 。)
連勝 れんしょう 記録 きろく =20(1927年 ねん 秋季 しゅうき 明治 めいじ 3回戦 かいせん から1929年 ねん 春季 しゅんき 慶 けい 早 はや 1回戦 かいせん まで。リーグ記録 きろく )
※ 獲得 かくとく タイトルは、東京 とうきょう 6大学 だいがく 野球 やきゅう リーグで歴代 れきだい 4位 い の計 けい 54回 かい である。
主 おも な出身 しゅっしん 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
※ 多数 たすう につき、Category:慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ の選手 せんしゅ を参照 さんしょう 。以下 いか 、主 おも な選手 せんしゅ のみピックアップする。
※ 太字 ふとじ は2020年 ねん までに野球 やきゅう 殿堂 でんどう 入 い りした人物 じんぶつ [15] 。
宮原 みやはら 清 きよし
桜井 さくらい 弥一郎 やいちろう - 野球 やきゅう 部 ぶ 草創 そうそう 期 き の投手 とうしゅ 。慶 けい 早 はや 戦 せん 復活 ふっかつ に尽力 じんりょく 。上田 うえだ 中 ちゅう 出身 しゅっしん
島田 しまだ 善 よし 介 かい
直木 なおき 松太郎 まつたろう
腰 こし 本 ほん 寿 ことぶき - 2代目 だいめ 監督 かんとく (1926~1934年 ねん )。「和製 わせい マグロー」の異名 いみょう 。 慶應 けいおう 普通 ふつう 部 ぶ 出身 しゅっしん
三宅 みやけ 大輔 だいすけ - 1916・17年度 ねんど 主将 しゅしょう 。1925年 ねん 初代 しょだい 監督 かんとく 。慶應 けいおう 普通 ふつう 部 ぶ 出身 しゅっしん
小野 おの 三 さん 千 せん 麿 まろ - 大正 たいしょう 期 き の投手 とうしゅ 。メジャー・リーグ 選抜 せんばつ 相手 あいて に日本人 にっぽんじん 初 はつ 勝利 しょうり 。神奈川 かながわ 師範 しはん 出身 しゅっしん
新田 にった 恭一 きょういち - 大正 たいしょう 期 き の投手 とうしゅ 。ゴルフスイングを打撃 だげき に取 と り入 い れ小 しょう 鶴 つる 誠 まこと らを育 そだ てる。慶應 けいおう 普通 ふつう 部 ぶ 出身 しゅっしん
桐原 きりはら 眞二 しんじ - 1924年度 ねんど 主将 しゅしょう 。遊撃手 ゆうげきしゅ 。慶 けい 早 はや 戦 せん 復活 ふっかつ に尽力 じんりょく 。北野中 きたのなか 出身 しゅっしん 。のちに戦死 せんし
浜崎 はまざき 真二 しんじ - 1925年 ねん 、"慶 けい 早 はや 戦 せん 復活 ふっかつ のヒーロー"、プロ野球 やきゅう 史上 しじょう 最年長 さいねんちょう 勝利 しょうり 他 た 、最年長 さいねんちょう 記録 きろく タイトルホルダー、阪急 はんきゅう 、高橋 たかはし 、国鉄 こくてつ 監督 かんとく 。広島 ひろしま 商業 しょうぎょう ~神戸 こうべ 商業 しょうぎょう 出身 しゅっしん
宮武 みやたけ 三郎 さぶろう - 戦前 せんぜん 最高 さいこう といわれる天才 てんさい 選手 せんしゅ 。投手 とうしゅ として38勝 しょう 、打者 だしゃ として7本塁打 ほんるいだ 、首位 しゅい 打者 だしゃ 。高松 たかまつ 商業 しょうぎょう 出身 しゅっしん
水原 みずはら 茂 しげる - 投手 とうしゅ ・三塁手 さんるいしゅ 、昭和 しょうわ 初期 しょき 屈指 くっし のスター。「リンゴ事件 じけん 」、高松 たかまつ 商業 しょうぎょう 出身 しゅっしん
加藤 かとう 喜作 きさく - 八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ 選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく 、南海 なんかい 軍 ぐん ・近畿 きんき 日本 にっぽん 軍 ぐん 、星野 ほしの 組 ぐみ 、小倉 おぐら 高校 こうこう 監督 かんとく 。広陵 こうりょう 中 ちゅう 出身 しゅっしん
山下 やました 実 みのる - 「和製 わせい ベーブ」と呼 よ ばれた長距離 ちょうきょり 打者 だしゃ 。第 だい 一 いち 神 かみ 港 みなと 商業 しょうぎょう (現 げん 市 し 神 しん 港 みなと 高 だか )出身 しゅっしん
村上 むらかみ 実 みのる
牧野 まきの 直隆 なおたか - 1932・33年度 ねんど 主将 しゅしょう 。二塁手 にるいしゅ 。第 だい 4代 だい 高野連 こうやれん 会長 かいちょう 。慶應 けいおう 商工 しょうこう 出身 しゅっしん
楠本 くすもと 保 たもつ - 慶大 けいだい では野手 やしゅ に転向 てんこう 、1939・40年度 ねんど 主将 しゅしょう 。明石 あかし 中 ちゅう (現 げん 明石 あかし 高 だか )出身 しゅっしん
山本 やまもと 英一郎 えいいちろう
中田 なかた 武雄 たけお - 投手 とうしゅ 。明石 あかし 中 ちゅう 時代 じだい に延長 えんちょう 25回 かい の激闘 げきとう
白木 しらき 義 よし 一郎 いちろう - 投手 とうしゅ 。戦後 せんご まもなくプロ野球 やきゅう で活躍 かつやく 。後 のち に参議院 さんぎいん 議員 ぎいん を務 つと めた。慶應 けいおう 商工 しょうこう 出身 しゅっしん
宇野 うの 光雄 みつお - 1942年度 ねんど 主将 しゅしょう 。三塁手 さんるいしゅ 。「100万 まん ドルの内野 ないや 陣 じん 」、1946年 ねん 春季 しゅんき 監督 かんとく 。和歌山 わかやま 中 ちゅう (現 げん 桐蔭高 とういんこう )出身 しゅっしん
正力 しょうりき 亨 とおる - 元 もと 巨人軍 きょじんぐん オーナー。大学 だいがく 時代 じだい はマネージャー。慶應 けいおう 普通 ふつう 部 ぶ 出身 しゅっしん
別当 べっとう 薫 かおる - 1946年度 ねんど (春季 しゅんき )主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。1942年 ねん 春 はる 首位 しゅい 打者 だしゃ 。甲 きのえ 陽 よう 中 ちゅう (現 げん 甲 きのえ 陽 よう 学院 がくいん 高 だか )出身 しゅっしん
大島 おおしま 信雄 のぶお - 戦中 せんちゅう ・戦後 せんご 期 き のエース。岐阜 ぎふ 商業 しょうぎょう 出身 しゅっしん
平古 ひらこ 場 じょう 昭二 しょうじ - 1951年度 ねんど 主将 しゅしょう 。投手 とうしゅ 。1940年代 ねんだい 終盤 しゅうばん のエース。浪 なみ 華 はな 商業 しょうぎょう (現 げん 大体 だいたい 大浪 おおなみ 商 しょう 高 だか )出身 しゅっしん
前田 まえだ 祐吉 ゆうきち - 投手 とうしゅ 。のち1960年代 ねんだい 前半 ぜんはん から90年代 ねんだい 前半 ぜんはん にかけて二 に 期 き にわたり監督 かんとく 。監督 かんとく として慶應 けいおう 最多 さいた 、六 ろく 大学 だいがく 歴代 れきだい 2位 い の通算 つうさん 268勝 しょう 。高知 こうち 城東 じょうとう 中 ちゅう (現 げん 高知 こうち 追 つい 手前 てまえ 高 だか )出身 しゅっしん
河合 かわい 貞雄 さだお - 投手 とうしゅ 。早大 そうだい からノーヒットワンランを達成 たっせい 。西京 にしぎょう 高 だか 出身 しゅっしん
花井 はない 悠 ゆう - 外野 がいや 手 しゅ 。岐阜 ぎふ 高 だか 出身 しゅっしん
佐々木 ささき 信也 しんや - 1955年度 ねんど 主将 しゅしょう 。二塁手 にるいしゅ 。湘南 しょうなん 高 だか 出身 しゅっしん
藤田 ふじた 元 もと 司 つかさ - 「悲運 ひうん のエース」。通算 つうさん 31勝 しょう 。西条 さいじょう 北 きた (現 げん 西条 さいじょう )高 こう 出身 しゅっしん
衆 しゅう 樹 じゅ 資 し 宏 ひろし - 1956年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。1955年 ねん 春 はる に六 ろく 大学 だいがく 戦後 せんご 初 はつ の三冠王 さんかんおう 。湘南 しょうなん 高 だか 出身 しゅっしん
中田 なかた 昌宏 まさひろ - 一塁 いちるい 手 しゅ 。のち阪急 はんきゅう ブレーブス。1961年 ねん パ・リーグ 本塁打 ほんるいだ 王 おう 。鳴尾 なるお 高 だか 出身 しゅっしん
渡海 とかい 昇二 しょうじ - 1960年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。のち巨人 きょじん ・東映 とうえい 。芦屋 あしや 高 だか 出身 しゅっしん
清沢 きよさわ 忠彦 ただひこ - 投手 とうしゅ 。甘 あま いマスクで人気 にんき 。高校 こうこう 野球 やきゅう 審判 しんぱん でも活躍 かつやく 。岐阜 ぎふ 商 しょう 出身 しゅっしん
安藤 あんどう 統 みつる 夫 おっと - 1961年度 ねんど 主将 しゅしょう 。遊撃手 ゆうげきしゅ 。慶 けい 早 はや 六 ろく 連戦 れんせん でも活躍 かつやく 。土浦 つちうら 一 いち 高 だか 出身 しゅっしん 、元 もと 阪神 はんしん タイガース監督 かんとく
榎本 えのもと 博明 ひろあき - 外野 がいや 手 しゅ 。首位 しゅい 打者 だしゃ (2回 かい )、当時 とうじ の最高 さいこう 打率 だりつ (5割 わり 1分 ふん 7厘 りん )を記録 きろく 。和歌山 わかやま 海南 かいなん 高 だか 出身 しゅっしん
石黒 いしぐろ 和弘 かずひろ - 外野 がいや 手 しゅ ・遊撃手 ゆうげきしゅ 。のち東京 とうきょう オリオンズ。中京 ちゅうきょう 商業 しょうぎょう 高 だか 出身 しゅっしん
大橋 おおはし 勲 いさお - 捕手 ほしゅ 。巨 きょ 人 じん で森 もり 昌彦 まさひこ との執拗 しつよう なポジション争 あらそ いに敗 やぶ れる。土佐 とさ 高 だか 出身 しゅっしん
渡辺 わたなべ 泰 やすし 輔 - 投手 とうしゅ 。通算 つうさん 29勝 しょう 。立教 りっきょう 相手 あいて に六 ろく 大学 だいがく 史上 しじょう 初 はつ の完全 かんぜん 試合 しあい 達成 たっせい 。のち南海 なんかい 。慶應 けいおう 高 だか 出身 しゅっしん
江藤 えとう 省三 しょうぞう - 1965年度 ねんど 主将 しゅしょう 。二塁手 にるいしゅ 。元 もと 監督 かんとく 。中京 ちゅうきょう 商業 しょうぎょう 高 だか 出身 しゅっしん 。兄 あに は江藤 えとう 慎一 しんいち
広野 ひろの 功 いさお - 外野 がいや 手 しゅ 。1965年 ねん に当時 とうじ の本塁打 ほんるいだ リーグ記録 きろく (8本 ほん )に並 なら ぶ。徳島 とくしま 商業 しょうぎょう 出身 しゅっしん
藤原 ふじわら 真 しん - 投手 とうしゅ 。1967年 ねん 春 はる 六 ろく 大学 だいがく 最下位 さいかい から優勝 ゆうしょう の立役者 たてやくしゃ 。のちヤクルト・東映 とうえい 。西脇 にしわき 高 だか 出身 しゅっしん
萩野 はぎの 友康 ともやす - 1972年度 ねんど 主将 しゅしょう 。投手 とうしゅ 。慶大 けいだい 三 さん 連覇 れんぱ 。新日鉄 しんにってつ 八幡 やはた にて第 だい 45回 かい 都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい 久慈賞 くじしょう 。土佐 とさ 高 だか 出身 しゅっしん
山下 やました 大輔 だいすけ - 1973年度 ねんど 主将 しゅしょう 。内野 ないや 手 しゅ 。1973年 ねん 春季 しゅんき 首位 しゅい 打者 だしゃ 。元 もと 横浜 よこはま ベイスターズ監督 かんとく 。清水東 しみずひがし 高 だか 出身 しゅっしん
後藤 ごとう 寿彦 としひこ - 1975年度 ねんど (春季 しゅんき )主将 しゅしょう 。内野 ないや 手 しゅ 。元 もと 監督 かんとく 。1975年 ねん 春 はる 三冠王 さんかんおう 、元 もと ・日本 にっぽん 代表 だいひょう (全日本 ぜんにほん アマチュア野球 やきゅう )監督 かんとく 。JR西日本 にしにほん 総 そう 監督 かんとく 。岐阜 ぎふ 高 だか 出身 しゅっしん
堀場 ほりば 英孝 ひでたか - 1978年度 ねんど 主将 しゅしょう 。捕手 ほしゅ 。明治 めいじ 高田 たかだ 繁 しげる の六 ろく 大学 だいがく 最多 さいた 安打 あんだ 記録 きろく 127安打 あんだ に次 つ ぐ通算 つうさん 125安打 あんだ 。のち広島 ひろしま -大洋 たいよう -巨人 きょじん 。丸子 まるこ 実 みのる 出身 しゅっしん 。
青島 あおしま 健太 けんた - 1980年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。シーズン22打点 だてん のリーグ記録 きろく 保持 ほじ 者 しゃ 。新潟 にいがた 県 けん 出身 しゅっしん 者 しゃ で唯一 ゆいいつ 主将 しゅしょう を務 つと め、かつプロ野球 やきゅう 界 かい 入 い りした。のち東芝 とうしば 、ヤクルトスワローズ。春日部 かすかべ 高 だか 出身 しゅっしん 。東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう を経 へ てプロ入 い りを果 は たした新潟 にいがた 県 けん 出身 しゅっしん 者 しゃ 2人 にん の内 うち の1人 ひとり 。(もう1人 ひとり は法政大学 ほうせいだいがく 野球 やきゅう 部 ぶ 出身 しゅっしん の猪俣 いのまた 隆 たかし )
上田 うえだ 和明 かずあき - 遊撃手 ゆうげきしゅ 。1984年 ねん 春慶 しゅんけい 早 はや 戦 せん で3試合 しあい 連続 れんぞく アーチ、ロス五輪 ごりん 代表 だいひょう 。巨人 きょじん ドラフト1位 い も伸 の び悩 なや む。八幡浜 やわたはま 高 だか 出身 しゅっしん
相場 あいば 勤 つとむ - 外野 がいや 手 しゅ 。元 もと 監督 かんとく 。1985年 ねん 春 はる に3打席 だせき 連続 れんぞく ホームラン。桐生 きりゅう 高 だか 出身 しゅっしん
石井 いしい 章夫 あきお - 1986年度 ねんど 主将 しゅしょう 。捕手 ほしゅ 。大洋 たいよう ドラフト2位 い 蹴 け り東京 とうきょう ガス、のち同 どう 部 ぶ 監督 かんとく 。桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん
鈴木 すずき 哲 あきら - 投手 とうしゅ 。1987年 ねん 大学 だいがく 日本一 にっぽんいち の主力 しゅりょく 。福島 ふくしま 高 だか 出身 しゅっしん
堤 つつみ 辰 たつ 佳 けい - 1988年度 ねんど 主将 しゅしょう 。読売新聞 よみうりしんぶん 東京 とうきょう 本社 ほんしゃ 運動 うんどう 部長 ぶちょう などを経 へ て、元 もと 巨人 きょじん ゼネラルマネージャー 兼 けん 編成 へんせい 部長 ぶちょう 。済々黌 せいせいこう 高 だか 出身 しゅっしん
志村 しむら 亮 あきら - 投手 とうしゅ 。通算 つうさん 31勝 しょう 、投手 とうしゅ 初 はつ の満塁 まんるい 本塁打 ほんるいだ 。巨人 きょじん などのドラフト指名 しめい の誘 さそ いを蹴 け り三井不動産 みついふどうさん へ。桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん
大森 おおもり 剛 つよし - 一塁 いちるい 手 しゅ ・外野 がいや 手 しゅ 。1988年 ねん 春 はる 三冠王 さんかんおう 、ソウルオリンピック 代表 だいひょう 。高松 たかまつ 商業 しょうぎょう 高 だか 出身 しゅっしん
小桧山 こびやま 雅仁 まさひと - 投手 とうしゅ 。1991年 ねん 春秋 しゅんじゅう 連覇 れんぱ 時 じ のエース、桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん 、バルセロナオリンピック代表 だいひょう
大久保 おおくぼ 秀昭 ひであき - 1991年度 ねんど 主将 しゅしょう 。捕手 ほしゅ 。1991年 ねん 春秋 しゅんじゅう 連覇 れんぱ 、JX-ENEOS 選手 せんしゅ 、監督 かんとく 、2015-2019年度 ねんど 監督 かんとく 。桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん 、アトランタオリンピック日本 にっぽん 代表 だいひょう
髙木大成 たいせい - 1995年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ ・捕手 ほしゅ 。桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん
高橋 たかはし 由 ゆかり 伸 しん - 1997年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。三冠王 さんかんおう (1996年 ねん 春 はる )、通算 つうさん 最多 さいた 本塁打 ほんるいだ 記録 きろく 保持 ほじ 者 しゃ (23本 ほん )。2016-2018年 ねん 巨人 きょじん 監督 かんとく 。桐蔭学園 とういんがくえん 高 だか 出身 しゅっしん
山本 やまもと 省吾 しょうご - 投手 とうしゅ 。2000年 ねん 秋 あき のリーグ戦 せん 優勝 ゆうしょう 時 じ の主力 しゅりょく 。通算 つうさん 21勝 しょう 。星稜 せいりょう 高 だか 出身 しゅっしん
三木 みき 仁 ひとし - 2001年度 ねんど 主将 しゅしょう 。三塁手 さんるいしゅ 。上宮 かみみや 高 だか 出身 しゅっしん
喜多 きた 隆志 たかし - 外野 がいや 手 しゅ 。シーズン最高 さいこう 打率 だりつ 記録 きろく 保持 ほじ 者 しゃ 。智弁和歌山 ちべんわかやま 高 だか 出身 しゅっしん
中村 なかむら 太郎 たろう - 2004年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。首位 しゅい 打者 だしゃ (2004年 ねん 秋 あき )、埼玉 さいたま ・大宮 おおみや 高 だか 出身 しゅっしん
池 いけ 邉啓二 に - 外野 がいや 手 しゅ 。JX-ENEOS。三菱 みつびし ふそう川崎 かわさき (補強 ほきょう 選手 せんしゅ )にて第 だい 76回 かい 都市 とし 対抗 たいこう 野球 やきゅう 大会 たいかい 若獅子賞 わかじししょう 。智弁和歌山 ちべんわかやま 高 だか 出身 しゅっしん
加藤 かとう 幹 みき 典 てん - 投手 とうしゅ 。慶應 けいおう では志村 しむら 以来 いらい となる史上 しじょう 20人 にん 目 め の30勝 しょう を記録 きろく 。川和 かわわ 高 だか 出身 しゅっしん
伊藤 いとう 隼 はやぶさ 太 ふとし - 2011年度 ねんど 主将 しゅしょう 。外野 がいや 手 しゅ 。第 だい 5回 かい 世界 せかい 大学 だいがく 野球 やきゅう 選手権 せんしゅけん 日本 にっぽん 代表 だいひょう 4番 ばん 打者 だしゃ 。中京 ちゅうきょう 大 だい 中京 ちゅうきょう 高 だか 出身 しゅっしん
福谷 ふくたに 浩司 こうじ - 投手 とうしゅ 。大学 だいがく 選手権 せんしゅけん 準 じゅん 優勝 ゆうしょう 。理工学部 りこうがくぶ 。愛知 あいち ・横須賀 よこすか 高 だか 出身 しゅっしん
矢崎 やさき 拓也 たくや - 投手 とうしゅ 。大学 だいがく 通算 つうさん 24勝 しょう 。旧姓 きゅうせい ・加藤 かとう 。慶應 けいおう 高 だか 出身 しゅっしん
岩見 いわみ 雅紀 まさのり - 外野 がいや 手 しゅ 。大学 だいがく 通算 つうさん 21本塁打 ほんるいだ 。比叡山 ひえいざん 高 だか 出身 しゅっしん
郡司 ぐんじ 裕也 ゆうや - 2019年度 ねんど 主将 しゅしょう 。捕手 ほしゅ 。三冠王 さんかんおう (2019年 ねん 秋 あき )。仙台育英 せんだいいくえい 高 だか 出身 しゅっしん
柳 やなぎ 町 まち 達 たち - 外野 がいや 手 しゅ 。リーグ戦 せん 通算 つうさん 113安打 あんだ 。慶應 けいおう 高 だか 出身 しゅっしん
萩尾 はぎお 匡 ただし 也 - 外野 がいや 手 しゅ 。4年 ねん 秋 あき の東京 とうきょう 六 ろく 大学 だいがく 野球 やきゅう リーグ戦 せん で史上 しじょう 16人 にん 目 め の三冠王 さんかんおう に輝 かがや いた。
スクールカラー の青 あお いストッキングに2本 ほん の白線 はくせん が入 はい っている。これは1928年 ねん 秋 あき のリーグ戦 せん で全勝 ぜんしょう 優勝 ゆうしょう を果 は たしたときに、腰 こし 本 ほん 寿 ことぶき 監督 かんとく が発案 はつあん して、全勝 ぜんしょう のたびに加 くわ えることにしたものだった。1985年 ねん 秋 あき のリーグ戦 せん で慶應 けいおう は1分 わ けを挟 はさ む全勝 ぜんしょう 優勝 ゆうしょう を達成 たっせい 、57年 ねん 目 め にしてようやく2本 ほん 目 め の白線 はくせん を入 い れることができた。
2024年 ねん 現在 げんざい 慶應 けいおう にはスポーツ推薦 すいせん のようなスポーツに特 とく 化 か した試験 しけん や実技 じつぎ 試験 しけん を課 か す入学 にゅうがく 試験 しけん はない。この事 こと が野球 やきゅう 部 ぶ OBのみならず、塾 じゅく 員 いん から早大 そうだい との差異 さい として語 かた られる場合 ばあい がある、ただし甲子園 こうしえん を優勝 ゆうしょう した塾 じゅく 高 だか にはスポーツ推薦 すいせん が存在 そんざい しており、同校 どうこう の推薦 すいせん 導入 どうにゅう 後 ご はレギュラーの半分 はんぶん は同校 どうこう 出身 しゅっしん 者 しゃ が占 し める場合 ばあい が多 おお い。
^ 早慶 そうけい 戦 せん 復活 ふっかつ に最後 さいご まで反対 はんたい したのは三井 みつい 財閥 ざいばつ の池田 いけだ 成彬 せいひん であったという(『球道 きゅうどう 半 はん 世紀 せいき 』 215頁 ぺーじ )。
^ 1946年 ねん 春季 しゅんき にも全勝 ぜんしょう 優勝 ゆうしょう しているが各校 かくこう 1回戦 かいせん 総 そう 当 あ たりだったため、リーグ公式 こうしき 記録 きろく 上 じょう では全勝 ぜんしょう 優勝 ゆうしょう とは扱 あつか われていない。
設置 せっち 校 こう
慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 中学 ちゅうがく ・高校 こうこう 併設 へいせつ 校 こう 高等 こうとう 学校 がっこう 中学校 ちゅうがっこう 小学校 しょうがっこう 関係 かんけい 校 こう ・廃止 はいし 校 こう ・併合 へいごう 校 こう 等 とう
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