慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん 旧館 きゅうかん (けいおうぎじゅくとしょかんきゅうかん)は、東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く 三田 みた の慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 三田 みた キャンパスにある大学 だいがく 図書館 としょかん で、三田 みた 演説 えんぜつ 館 かん と並 なら んで慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく を象徴 しょうちょう する建造 けんぞう 物 ぶつ の一 ひと つである。国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい (建造 けんぞう 物 ぶつ )に指定 してい されている。
1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )開館 かいかん 時 じ の正式 せいしき 名称 めいしょう は慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 五 ご 十 じゅう 年 ねん 紀 き 念 ねん 図書館 としょかん 。1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )に図書館 としょかん 新館 しんかん が開館 かいかん した後 のち は旧館 きゅうかん と呼 よ ばれるようになった[1] 。
慶應義塾 けいおうぎじゅく 創設 そうせつ 者 しゃ となる福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち は早 はや くから図書館 としょかん の重要 じゅうよう 性 せい を認識 にんしき し、1866年 ねん (慶応 けいおう 2年 ねん )に刊行 かんこう された『西洋 せいよう 事情 じじょう 』初 はつ 編 へん 巻 まき 之 の 一 いち で西洋 せいよう 諸国 しょこく の都 みやこ 府 ふ の「文庫 ぶんこ 」を紹介 しょうかい していた[2] 。
1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )に慶應義塾 けいおうぎじゅく が三田 みた の旧 きゅう 島原 しまばら 藩邸 はんてい に移転 いてん すると邸 やしき 内 ない の「月 つき 波 なみ 楼 ろう 」の一室 いっしつ を図書 としょ 室 しつ とした。次 つ いで1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )に煉瓦 れんが 講堂 こうどう 内 ない の一室 いっしつ に書籍 しょせき 館 かん を設 もう けたが、蔵書 ぞうしょ 数 すう が増 ふ えるにつれて独立 どくりつ した図書館 としょかん の建設 けんせつ を求 もと める声 こえ が次第 しだい に高 たか まっていった[3] 。
図書館 としょかん の建設 けんせつ [ 編集 へんしゅう ]
1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )の慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 50周年 しゅうねん の記念 きねん 事業 じぎょう として、以前 いぜん からその必要 ひつよう に迫 せま られていた図書館 としょかん 建設 けんせつ の議 ぎ が起 お こり、前年 ぜんねん 12月 がつ に「慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 五十年紀念図書館建設趣意書」が発表 はっぴょう され、同時 どうじ に資金 しきん 募集 ぼしゅう を行 おこな ったところ、募金 ぼきん 額 がく は30万 まん 円 えん 以上 いじょう に達 たっ した[4] 。
図書館 としょかん の建物 たてもの を木造 もくぞう とするか煉瓦 れんが 造 づくり とするかについては意見 いけん が分 わ かれた。建設 けんせつ 費 ひ を節約 せつやく して工科 こうか を新設 しんせつ してはどうかとの意見 いけん もあったが、塾長 じゅくちょう 鎌田 かまた 栄吉 えいきち は不燃 ふねん 物 ぶつ の図書館 としょかん を造 つく るべきだと主張 しゅちょう し、結局 けっきょく 煉瓦 れんが 造 づくり とすることで決着 けっちゃく した[5] 。
建設 けんせつ 地 ち は三田 みた 山上 さんじょう 北東 ほくとう の一角 いっかく に決定 けってい し、建築 けんちく 設計 せっけい は当時 とうじ の慶應義塾 けいおうぎじゅく 評議 ひょうぎ 員 いん 会 かい 会長 かいちょう 荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう を通 つう じて曾禰達蔵 たつぞう に依頼 いらい され、建物 たてもの のデザインは曾禰中條 ちゅうじょう 建築 けんちく 事務所 じむしょ から提案 ていあん された12、3種類 しゅるい の中 なか から最終 さいしゅう 的 てき に中條 ちゅうじょう 精一郎 せいいちろう のゴシック式 しき のプランが採用 さいよう された[6] 。
工事 こうじ 請負 うけおい は戸田 とだ 組 ぐみ が落札 らくさつ した[7] 。当時 とうじ の戸田 とだ 組 ぐみ は幹部 かんぶ 制 せい を採用 さいよう したばかりの駆 か け出 だ し組 ぐみ であり、この工事 こうじ を引 ひ き受 う けたことは並々 なみなみ ならぬ名誉 めいよ と感 かん じていたようである[8] [9] 。
図書館 としょかん の建設 けんせつ 工事 こうじ は1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )12月24日 にち に根 ね 切 きり 工事 こうじ と菱 ひし 矢来 やらい 建設 けんせつ から始 はじ まり、翌年 よくねん 5月 がつ 26日 にち に地鎮祭 じちんさい 、地階 ちかい の石積 いしつみ 工事 こうじ を終 お えた11月23日 にち に安 やす 礎 いしずえ 式 しき が行 おこな われた。内装 ないそう 工事 こうじ と周辺 しゅうへん 整備 せいび も曾禰中條 ちゅうじょう 建築 けんちく 事務所 じむしょ の下 した で進 すす められ、1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )4月 がつ 15日 にち に戸田 とだ 組 ぐみ より曾禰・中條 ちゅうじょう 両人 りょうにん 立会 たちあ いの下 した で建物 たてもの の引 ひ き渡 わた しが行 おこな われた[10] 。
図書館 としょかん の開館 かいかん [ 編集 へんしゅう ]
竣工 しゅんこう 時 じ の図書館 としょかん
開館 かいかん 式 しき は1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )5月 がつ 18日 にち に2階 かい 大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ で行 おこな われ、塾長 じゅくちょう 鎌田 かまた 栄吉 えいきち の挨拶 あいさつ に続 つづ いて徳川 とくがわ 頼 よりゆき 倫 りん の祝辞 しゅくじ 、徳川 とくがわ 家達 いえさと の祝辞 しゅくじ (田中 たなか 一 はじめ 貞 さだ 代読 だいどく )、日本 にっぽん 図書館 としょかん 協会 きょうかい 会長 かいちょう 西村 にしむら 竹 たけ 間 あいだ の祝辞 しゅくじ 、社頭 しゃとう 福澤 ふくさわ 一太郎 いちたろう の謝辞 しゃじ があり、図書館 としょかん の建物 たてもの は18日 にち 夜 よる から3日間 にちかん にわたってイルミネーション で彩 いろど られた。慶應義塾 けいおうぎじゅく 消費 しょうひ 組合 くみあい では開館 かいかん 記念 きねん のアルバムや絵葉書 えはがき 、純 じゅん 銀 ぎん メダル(彫刻 ちょうこく 家 か 畑 はた 正吉 まさきち 制作 せいさく )などが販売 はんばい され、絵葉書 えはがき は三田 みた 界隈 かいわい の書店 しょてん や文房具 ぶんぼうぐ 店 てん でも市販 しはん された[11] 。同年 どうねん 11月 がつ 1日 にち から外来 がいらい 閲覧 えつらん 者 しゃ も利用 りよう 可能 かのう となった(入館 にゅうかん 料 りょう は1回 かい 5銭 せん 、1ヵ月 かげつ 1円 えん )[12] 。
開館 かいかん 時 じ は本館 ほんかん 2階 かい の大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ に150席 せき を設 もう けていた。来館 らいかん 者 しゃ は貸出 かしだし 台 だい の職員 しょくいん に閲覧 えつらん したい書籍 しょせき の目録 もくろく カード を提示 ていじ し、職員 しょくいん は大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ の西 にし 隣 となり の書庫 しょこ から書籍 しょせき を取 と り寄 よ せた[13] [14] 。
書庫 しょこ は閉架式 しき で、地階 ちかい から地上 ちじょう 4階 かい までの各階 かくかい に中央 ちゅうおう 廊下 ろうか と南北 なんぼく 2室 しつ を設 もう けた。地階 ちかい は倉庫 そうこ として使用 しよう し、地上 ちじょう 階 かい の各 かく 部屋 へや に壁 かべ 付 づけ 片面 かためん 書架 しょか を2列 れつ 、両面 りょうめん 書架 しょか を6列 れつ 並 なら べた。ただし1階 かい 南側 みなみがわ の部屋 へや は当初 とうしょ 教職員 きょうしょくいん 用 よう の書庫 しょこ 内 ない 閲覧 えつらん 室 しつ として使用 しよう されていた[15] [16] 。書庫 しょこ の収容 しゅうよう 力 りょく は20万 まん 冊 さつ とされたが[17] 、将来 しょうらい 的 てき に中央 ちゅうおう 廊下 ろうか を延長 えんちょう して書庫 しょこ を増築 ぞうちく することが可能 かのう な設計 せっけい が当初 とうしょ からなされていた[18] 。
大 だい 階段 かいだん 踊 おど り場 ば 北面 ほくめん の大 だい 窓 まど にはステンドグラスを設置 せっち する計画 けいかく だったが、開館 かいかん 当初 とうしょ は板 いた ガラスであった。1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )12月30日 にち に和田 わだ 英作 えいさく 原画 げんが 、小川 おがわ 三知 みち 制作 せいさく の色 いろ 鮮 あざ やかなステンドグラス がはめ込 こ まれた。これは高 たか さ約 やく 3間 あいだ 半 はん 、幅 はば 1間 あいだ 半 はん の大作 たいさく で、甲冑 かっちゅう 姿 すがた の武士 ぶし が馬 うま を降 お りて自由 じゆう の女神 めがみ と相対 そうたい する図案 ずあん に、ラテン語 らてんご で Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣 けん よりも強 つよ し )と記 しる されていた[19] 。
開館 かいかん 時 じ の図書館 としょかん 脇 わき には旧 きゅう 島原 しまばら 藩邸 はんてい 時代 じだい の黒 くろ 門 もん が建 た っていた。長 なが い年月 としつき を経 へ て倒壊 とうかい の危険 きけん が生 しょう じたため、1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )9月 がつ に石柱 せきちゅう 鉄扉 てっぴ の西洋 せいよう 式 しき の門 もん に改 あらた められた。これがのちに「幻 まぼろし の門 もん 」と呼 よ ばれることとなる[20] [21] 。
関東大震災 かんとうだいしんさい [ 編集 へんしゅう ]
震災 しんさい 直後 ちょくご の書庫 しょこ 内部 ないぶ
1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )9月 がつ 1日 にち の関東大震災 かんとうだいしんさい で慶應義塾 けいおうぎじゅく は火災 かさい こそ免 まぬか れたが、激 はげ しい揺 ゆ れにより三田 みた 山上 さんじょう の各 かく 建造 けんぞう 物 ぶつ は大 おお きな被害 ひがい を受 う けた。図書館 としょかん も例外 れいがい ではなく、本体 ほんたい 部分 ぶぶん と八角 はっかく 塔 とう の接合 せつごう 部 ぶ など各所 かくしょ に亀裂 きれつ が生 しょう じた[22] [23] 。その後 ご 1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )から翌年 よくねん にかけて応急 おうきゅう 修理 しゅうり と精密 せいみつ 検査 けんさ が行 おこな われ、一時 いちじ は建 た て替 か えの可能 かのう 性 せい も検討 けんとう されたが、鉄骨 てっこつ を加 くわ えることで修復 しゅうふく 可能 かのう との結論 けつろん が得 え られた[24] 。
やがて三田 みた 山上 さんじょう では演説 えんぜつ 館 かん の移築 いちく 、大 だい 講堂 こうどう の修理 しゅうり 、塾 じゅく 監 かん 局 きょく の建 た て替 か えが進 すす められ、図書館 としょかん の本格 ほんかく 修理 しゅうり は1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )8月 がつ に着手 ちゃくしゅ し、翌年 よくねん 8月 がつ 竣工 しゅんこう した。これに先行 せんこう して正面 しょうめん 向 む かって左手 ひだりて に第 だい 二 に 書庫 しょこ が増築 ぞうちく された(施工 しこう は清水 しみず 組 ぐみ )。第 だい 二 に 書庫 しょこ の外観 がいかん デザインは創建 そうけん 時 じ の書庫 しょこ とほぼ同 おな じで、鉄骨 てっこつ 鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり 、建坪 たてつぼ 53坪 つぼ 、延坪 のべつぼ 268坪 つぼ 余 あまり [25] 。その後 ご 1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )までに図書館 としょかん の玄関 げんかん 脇 わき にヒマラヤ杉 ひまらやすぎ が数 すう 本 ほん 植樹 しょくじゅ された[26] 。
震災 しんさい 後 ご の図書館 としょかん の部屋 へや 配置 はいち は震災 しんさい 前 まえ とほぼ同 おな じだが、地階 ちかい の便所 べんじょ が水洗 すいせん 式 しき となり、旧 きゅう 新聞 しんぶん 製本 せいほん 室 しつ で売店 ばいてん が開業 かいぎょう するなどのサービス改善 かいぜん が図 はか られた。この売店 ばいてん は当初 とうしょ パン や牛乳 ぎゅうにゅう などの調理 ちょうり 煮炊 にたき しないものに限 かぎ って販売 はんばい していたが、いつしかカレーライス やラーメン も品目 ひんもく に加 くわ えられた[27] 。
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )5月 がつ 9日 にち に挙行 きょこう された慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 75年 ねん 記念 きねん 祝典 しゅくてん に秩父宮雍仁親王 ちちぶのみややすひとしんのう が来 らい 塾 じゅく し、図書館 としょかん 大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ で開催 かいさい された西洋 せいよう 経済 けいざい 思想 しそう 史 し 展覧 てんらん 会 かい も参観 さんかん したが、このとき秩父宮 ちちぶのみや は「英国 えいこく の本 ほん が多 おお いですね」との感想 かんそう を漏 も らした。説明 せつめい 役 やく の高橋 たかはし 誠一郎 せいいちろう によれば秩父宮 ちちぶのみや の表情 ひょうじょう は不満 ふまん そうだったという。この展覧 てんらん 会 かい には慶應義塾 けいおうぎじゅく 出身 しゅっしん の犬 いぬ 養 やしなえ 毅 あつし 首相 しゅしょう も同席 どうせき していたが、6日 にち 後 ご の五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん で暗殺 あんさつ された[28] [29] 。
戦時 せんじ 下 か の図書館 としょかん [ 編集 へんしゅう ]
やがて軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ の荒波 あらなみ は慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん にも押 お し寄 よ せ、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )までには共産 きょうさん 主義 しゅぎ や無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ の文献 ぶんけん のみならず、美濃部 みのべ 達吉 たつきち や河合 かわい 栄治郎 えいじろう などの著書 ちょしょ も禁 きん 閲対象 たいしょう となった[30] 。軍 ぐん 方面 ほうめん からステンドグラスの図案 ずあん がけしからぬ、ペンは剣 けん よりも強 つよ しとは何事 なにごと か、と難癖 なんくせ をつけられたのもこの頃 ころ である[31] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう が始 はじ まると私服 しふく 刑事 けいじ が玄関 げんかん 脇 わき で来館 らいかん 者 しゃ を監視 かんし するようになり、統計 とうけい 書 しょ や官庁 かんちょう の報告 ほうこく 書 しょ 、航空 こうくう 写真 しゃしん が掲載 けいさい された地理 ちり 書 しょ なども閲覧 えつらん できなくなった[32] 。前述 ぜんじゅつ の売店 ばいてん も配給 はいきゅう 制度 せいど 下 か で商品 しょうひん が欠乏 けつぼう し、しまいには乾燥 かんそう バナナなどを売 う りながら細々 こまごま と営業 えいぎょう を続 つづ けたという[33] 。さらに1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )から学徒 がくと 出陣 しゅつじん が始 はじ まり、三田 みた 山上 さんじょう に塾生 じゅくせい の姿 すがた はまばらとなった。文部省 もんぶしょう の指示 しじ により大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ は1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )5月 がつ から千代田生命保険 ちよだせいめいほけん に貸与 たいよ され、同年 どうねん 夏 なつ 頃 ごろ から重要 じゅうよう 図書 としょ の疎開 そかい が行 おこな われた。図書館 としょかん の建物 たてもの でも屋根裏 やねうら 可燃 かねん 物 ぶつ の除去 じょきょ 、書庫 しょこ 屋根裏 やねうら 階段 かいだん の封鎖 ふうさ などの防火 ぼうか 対策 たいさく を施 ほどこ した[34] 。
廃墟 はいきょ と化 か した玄関 げんかん ホール
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ 24日 にち の空襲 くうしゅう で慶應義塾 けいおうぎじゅく は綱 つな 町 まち の普通 ふつう 部 ぶ 校舎 こうしゃ や亜細亜 あじあ 研究所 けんきゅうじょ の大 だい 部分 ぶぶん 、史学 しがく 科 か 考古 こうこ 室 しつ (現在 げんざい の西館 にしだて 付近 ふきん )などを焼失 しょうしつ したが、図書館 としょかん に被害 ひがい はなかった。しかし、25日 にち 夜 よる から翌日 よくじつ にかけての山 やま の手 て 空襲 くうしゅう で第 だい 二 に 書庫 しょこ 屋根裏 やねうら と八角 はっかく 塔 とう に引火 いんか 。書庫 しょこ の被害 ひがい は最小 さいしょう 限度 げんど にととめたものの、八角 はっかく 塔 とう の火 ひ は事務 じむ 室 しつ と閲覧 えつらん 室 しつ に延焼 えんしょう し、28日 にち まで燃 も え続 つづ けた[35] 。この火災 かさい で書庫 しょこ 外 がい の未 み 整理 せいり 蔵書 ぞうしょ の多 おお くが焼失 しょうしつ した。その中 なか には馬場 ばば 孤蝶 こちょう ・水上 みずかみ 瀧太郎 たきたろう 旧 きゅう 蔵書 ぞうしょ 、泉 いずみ 鏡花 きょうか 旧 きゅう 蔵書 ぞうしょ (一部 いちぶ )・フランク・ホーレー旧 きゅう 蔵書 ぞうしょ (一部 いちぶ )のほか、時事新報 じじしんぽう 社 しゃ 解散 かいさん 後 ご に同社 どうしゃ から寄贈 きぞう された『時事新報 じじしんぽう 』の揃 ぞろ いなどが含 ふく まれていた。また、書庫 しょこ 内 ない の蔵書 ぞうしょ も雨水 あまみず や消火 しょうか 水 すい などで少 すく なからず損傷 そんしょう した[36] 。
これらの空襲 くうしゅう で三田 みた 地区 ちく は5割 わり 以上 いじょう の施設 しせつ を失 うしな った[37] 。図書館 としょかん 事務 じむ 室 しつ は焼失 しょうしつ を免 まぬか れた第 だい 一 いち 校舎 こうしゃ の1番 ばん 教室 きょうしつ に移転 いてん し、2番 ばん 教室 きょうしつ と3番 ばん 教室 きょうしつ を仮 かり 書庫 しょこ 、2階 かい 西側 にしがわ の33番 ばん 教室 きょうしつ を仮 かり 閲覧 えつらん 室 しつ とした[38] 。
幻 まぼろし の門 もん と修復 しゅうふく された図書館 としょかん 。2000年 ねん の東館 ひがしたて 竣工 しゅんこう と幻 まぼろし の門 もん 移設 いせつ により、この光景 こうけい は過去 かこ のものとなった。
慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 100年 ねん 記念 きねん 切手 きって (1958年 ねん 発行 はっこう )
終戦 しゅうせん 後 ご の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )10月 がつ から翌年 よくねん 2月 がつ にかけて書庫 しょこ の屋根 やね の応急 おうきゅう 修理 しゅうり が中野 なかの 組 ぐみ の請負 うけおい によって行 おこな われ[39] 、さらに1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )12月から1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )5月 がつ にかけて図書館 としょかん 本体 ほんたい の本格 ほんかく 的 てき な復旧 ふっきゅう 工事 こうじ が安藤 あんどう 組 ぐみ の請負 うけおい によって行 おこな われたが、屋根 やね は装飾 そうしょく のないトタン屋根 やね となり、焼失 しょうしつ したステンドグラス の跡 あと には透明 とうめい ガラスが張 は られた。復興 ふっこう 落成 らくせい 式 しき は5月5日 にち に行 おこな われ、9日 にち から図書館 としょかん での閲覧 えつらん 業務 ぎょうむ を再開 さいかい した[40] [41] 。しかし、同年 どうねん 8月 がつ のキティ台風 たいふう 上陸 じょうりく により書庫 しょこ の屋根 やね が吹 ふ き飛 と ばされたため、翌年 よくねん 再 さい 復旧 ふっきゅう した[42] 。
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に文学部 ぶんがくぶ 図書館 としょかん 学科 がっか が創設 そうせつ され、同 どう 学科 がっか の図書 としょ 室 しつ が図書館 としょかん 内 ない に作 つく られた[42] 。
1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん )10月 がつ 7日 にち 、インド共和 きょうわ 国 こく 首相 しゅしょう のジャワハルラール・ネルー が来 らい 塾 じゅく 。三田 みた 演説 えんぜつ 館 かん での名誉 めいよ 博士 はかせ 号 ごう 授与 じゅよ 式 しき に臨 のぞ んだのち図書館 としょかん 2階 かい のバルコニーに立 た ち、約 やく 6,000人 にん の塾生 じゅくせい の前 まえ で演説 えんぜつ を行 おこな った[43] 。
1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )11月8日 にち 、郵政省 ゆうせいしょう から図書館 としょかん と福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち の胸像 きょうぞう 、ペンマーク、三田 みた 演説 えんぜつ 館 かん の外壁 がいへき が描 えが かれた慶應義塾 けいおうぎじゅく 創立 そうりつ 100年 ねん 記念 きねん 切手 きって が発行 はっこう され、同日 どうじつ に日吉 ひよし 記念 きねん 館 かん で開催 かいさい された創立 そうりつ 100年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん で初 はつ 刷 すり 1シートの贈呈 ぞうてい 式 しき が行 おこな われた[44] [45] 。
1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )、第 だい 三 さん 書庫 しょこ を増築 ぞうちく (設計 せっけい 監理 かんり :三菱地所 みつびしじしょ 部 ぶ 、施工 しこう :安藤 あんどう 組 ぐみ )[46] 。構造 こうぞう は鉄筋 てっきん コンクリート地下 ちか 2階 かい 地上 ちじょう 3階 かい 建 けん で、建坪 たてつぼ 約 やく 160坪 つぼ (528.9m2 )、延坪 のべつぼ 約 やく 858坪 つぼ 余 あまり (2,838.2m2 )[47] 。これにより閲覧 えつらん 者 しゃ 席 せき は400席 せき となり、書庫 しょこ は30万 まん 冊 さつ 分 ぶん 拡張 かくちょう し、さらに研究 けんきゅう 室 しつ 、レファレンス室 しつ 、開架 かいか 室 しつ なども新設 しんせつ された[48] 。翌年 よくねん 10月 がつ には斯道 しどう 文庫 ぶんこ が日吉 ひよし から第 だい 三 さん 書庫 しょこ 内 ない に移転 いてん した[49] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )8月 がつ 、作家 さっか 久保田 くぼた 万太郎 まんたろう の寄附 きふ した著作 ちょさく 権 けん によって三田 みた 文学 ぶんがく ライブラリーが設立 せつりつ され、八角 はっかく 塔 とう 内 ない で関連 かんれん 資料 しりょう の保管 ほかん ・整理 せいり が始 はじ まった[50] [51] 。
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )3月 がつ 12日 にち 、図書館 としょかん の初期 しょき の建物 たてもの 部分 ぶぶん が国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい に指定 してい された[52] 。もっとも、この年 とし は大学 だいがく 紛争 ふんそう の影響 えいきょう で図書館 としょかん は2度 ど にわたって臨時 りんじ 休館 きゅうかん を強 し いられ、職員 しょくいん は重要 じゅうよう 書籍 しょせき の移転 いてん や書庫 しょこ 封鎖 ふうさ の対応 たいおう に追 お われるなど散々 さんざん な一 いち 年 ねん となった[53] 。
同年 どうねん 11月 がつ 、図書館 としょかん 西 にし 隣 となり に研究 けんきゅう 室 しつ 棟 とう が竣工 しゅんこう し、第 だい 三 さん 書庫 しょこ との間 あいだ に連絡 れんらく 通路 つうろ が設 もう けられた。翌年 よくねん 4月 がつ に研究 けんきゅう ・教育 きょういく 情報 じょうほう センターが発足 ほっそく 。研究 けんきゅう 室 しつ 棟 とう 東側 ひがしがわ に同 どう センター事務 じむ 室 しつ と研究 けんきゅう 室 しつ 書庫 しょこ が設 もう けられ、図書館 としょかん 蔵書 ぞうしょ と研究 けんきゅう 室 しつ 蔵書 ぞうしょ の一体 いったい 運用 うんよう が始 はじ まった[1] [54] 。
1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )に大 だい 階段 かいだん 室 しつ のステンドグラスが復元 ふくげん された[41] 。
福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 胸像 きょうぞう (柴田 しばた 佳 けい 石作 いしづくり )
1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )11月、研究 けんきゅう ・教育 きょういく 情報 じょうほう センター所長 しょちょう と文 ぶん ・経 けい ・法 ほう ・商 しょう 4学 がく 部長 ぶちょう の連名 れんめい で新 しん 図書館 としょかん 建設 けんせつ の要望 ようぼう 書 しょ が提出 ていしゅつ される[1] 。1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )、槇 まき 文彦 ふみひこ の設計 せっけい による図書館 としょかん 新館 しんかん が完成 かんせい したのに伴 ともな い、慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん 旧館 きゅうかん は記念 きねん 図書館 としょかん ・研究 けんきゅう 図書館 としょかん として改修 かいしゅう されることとなり、屋根 やね は元 もと のスレート葺 ふ きとなり、八角 はっかく 塔 とう の風見鶏 かざみどり も復元 ふくげん された[55] 。地下 ちか 1階 かい に民俗 みんぞく 学 がく ・考古学 こうこがく 資料 しりょう 展示 てんじ 室 しつ 、三田 みた 文学 ぶんがく ライブラリー、地上 ちじょう 1階 かい に福澤 ふくさわ 記念 きねん 室 しつ 、泉 いずみ 鏡花 きょうか 記念 きねん 室 しつ 、塾 じゅく 史 し 資料 しりょう 室 しつ 、2階 かい に大 だい ・小 しょう 会議 かいぎ 室 しつ が設 もう けられ、斯道 しどう 文庫 ぶんこ は1階 かい から4階 かい に移転 いてん した[56] 。
1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )9月 がつ 29日 にち 、旧館 きゅうかん 正面 しょうめん 入口 いりくち 脇 わき に福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 胸像 きょうぞう が設置 せっち された。この胸像 きょうぞう はもともと旧 きゅう 第 だい 一 いち 研究 けんきゅう 室 しつ 前 まえ に設置 せっち されていたもので、現在 げんざい の研究 けんきゅう 室 しつ 棟 とう 建設 けんせつ のため1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )にいったん撤去 てっきょ されたが、大学 だいがく 紛争 ふんそう 長期 ちょうき 化 か のために再 さい 設置 せっち できないまま久 ひさ しく倉庫 そうこ に保管 ほかん されていた。それが1983年 ねん 4月 がつ の福澤 ふくさわ 研究 けんきゅう センター発足 ほっそく を機 き にようやく再 ふたた び日 ひ の目 め を見 み ることとなった[57] [58] 。
平成 へいせい 期 き 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい 後 ご の1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )に行 おこな われた耐震 たいしん 診断 しんだん で図書館 としょかん 旧館 きゅうかん は強度 きょうど 不足 ふそく と判定 はんてい され、構造 こうぞう 設計 せっけい 者 しゃ から免 めん 震 ふるえ レトロフィット工法 こうほう による耐震 たいしん 化 か を提案 ていあん された。しかし、当時 とうじ は同 どう 工法 こうほう の施工 しこう 例 れい が少 すく なかったこと、費用 ひよう が高額 こうがく であったこと、校舎 こうしゃ の耐震 たいしん 化 か が優先 ゆうせん されたことにより、この時点 じてん での耐震 たいしん 化 か は見送 みおく られた[59] 。
2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )春 はる 、三田 みた 通 どお り沿 そ いに図書館 としょかん 旧館 きゅうかん のデザインを模 も した8階 かい 建 けん の東 ひがし 館 かん が竣工 しゅんこう 。これに伴 ともな い「幻 まぼろし の門 もん 」は東館 ひがしたて アーケードとブリッジをくぐり抜 ぬ けた坂道 さかみち の上 うえ に移設 いせつ され、三田 みた 通 どお り沿 ぞ いから図書館 としょかん 旧館 きゅうかん を見上 みあ げる光景 こうけい は大 おお きく様変 さまが わりした[60] [21] 。
2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )10月 がつ 28日 にち 、イギリスのチャールズ3世 せい (当時 とうじ 皇太子 こうたいし )が来 らい 塾 じゅく し、図書館 としょかん 旧館 きゅうかん 2階 かい の旧 きゅう 閲覧 えつらん 室 しつ (当時 とうじ は大 だい 会議 かいぎ 室 しつ )で歌舞伎 かぶき 研究 けんきゅう 会 かい のオリジナル演目 えんもく 「慶 けい 吉日 きちじつ 対面 たいめん ( よろこびてきちにちたいめん ) 」と剣道 けんどう の演武 えんぶ を鑑賞 かんしょう した[61] 。
2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )3月 がつ 11日 にち の東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい では八角 はっかく 塔 とう の煉瓦 れんが が剥落 はくらく する被害 ひがい があり、耐震 たいしん 性 せい と経年 けいねん 劣化 れっか の問題 もんだい が改 あらた めて浮 う き彫 ぼ りとなった[62] 。
地階 ちかい のドライエリア が修復 しゅうふく された図書館 としょかん 旧館 きゅうかん (2019年 ねん 6月 がつ )
2015年 ねん (平成 へいせい 27年 ねん )、慶應義塾 けいおうぎじゅく は図書館 としょかん 旧館 きゅうかん の耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ と保存 ほぞん 修理 しゅうり 工事 こうじ の実施 じっし を決定 けってい し、文化庁 ぶんかちょう と協議 きょうぎ を重 かさ ねた結果 けっか 、重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい に指定 してい されている初期 しょき 建築 けんちく 部分 ぶぶん の工事 こうじ は国庫 こっこ 補助 ほじょ 事業 じぎょう で、未 み 指定 してい の第 だい 二 に 書庫 しょこ については慶應義塾 けいおうぎじゅく の自主 じしゅ 事業 じぎょう で実施 じっし することとなった(設計 せっけい :三菱地所 みつびしじしょ 設計 せっけい 、設計 せっけい 監理 かんり :文化財 ぶんかざい 保存 ほぞん 計画 けいかく 協会 きょうかい 、施工 しこう :戸田建設 とだけんせつ )。工事 こうじ に先立 さきだ って玄関 げんかん 脇 わき のヒマラヤ杉 ひまらやすぎ は2016年 ねん (平成 へいせい 28年 ねん )12月に伐採 ばっさい され[26] 、福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 胸像 きょうぞう は翌年 よくねん 2月 がつ に三田 みた 演説 えんぜつ 館 かん 前 まえ へ移設 いせつ された[63] 。
2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )2月 がつ 1日 にち の着工 ちゃっこう から2年 ねん 4ヶ月 かげつ におよぶ工事 こうじ は2019年 ねん (令 れい 和 わ 元年 がんねん )5月 がつ 31日 にち に完了 かんりょう し、同年 どうねん 9月 がつ 30日 にち の報告 ほうこく 書 しょ 提出 ていしゅつ をもって図書館 としょかん 旧館 きゅうかん の耐震 たいしん 改修 かいしゅう および保存 ほぞん 修理 しゅうり 事業 じぎょう は完了 かんりょう した[64] 。また、耐震 たいしん 改修 かいしゅう 工事 こうじ の対象 たいしょう 外 がい とされた第 だい 三 さん 書庫 しょこ についても大 だい 規模 きぼ な内部 ないぶ 改修 かいしゅう が行 おこな われた[65] 。
なお、研究 けんきゅう 室 しつ 棟 とう との間 あいだ に設 もう けられていた渡 わた り廊下 ろうか は2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )に撤去 てっきょ された[66] 。
現在 げんざい 、慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん 旧館 きゅうかん は三田 みた メディアセンターが管理 かんり 運営 うんえい し、その中 なか には、福澤 ふくさわ 研究 けんきゅう センター(1階 かい )[67] 、AVコーナー(1階 かい )[68] 、カフェ八角 はっかく 塔 とう (1階 かい )[69] 、福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 記念 きねん 慶應義塾 けいおうぎじゅく 史 し 展示 てんじ 館 かん (2階 かい )[70] 、小 しょう 会議 かいぎ 室 しつ (2階 かい )[71] 、斯道 しどう 文庫 ぶんこ (4階 かい )[72] などがある。
外観 がいかん および館内 かんない [ 編集 へんしゅう ]
慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん 旧館 きゅうかん は、関東大震災 かんとうだいしんさい (1923年 ねん )、東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう (1945年 ねん )という2度 ど にわたる大 だい 災害 さいがい をくぐり抜 ぬ け、建設 けんせつ 当初 とうしょ の華麗 かれい な姿 すがた を留 と めている。赤 あか 煉瓦 れんが と花崗岩 かこうがん による壮麗 そうれい な外観 がいかん を有 ゆう しており、ゴシック様式 ようしき の洋風 ようふう 建築 けんちく である。広 ひろ さは本体 ほんたい 部分 ぶぶん (地下 ちか 1階 かい ・地上 ちじょう 2階 かい ・一部 いちぶ 3階 かい )、書庫 しょこ (地上 ちじょう 4階 かい ・地階 ちかい と屋 や 階 かい あり)、東南 とうなん 隅 すみ にある八角 はっかく 塔 とう (地下 ちか 1階 かい ・地上 ちじょう 4階 かい )を合 あ わせて建坪 たてつぼ 208坪 つぼ (688m2 )ほどである(竣工 しゅんこう 時 じ 、附属 ふぞく 建築 けんちく 物 ぶつ 除 のぞ く)[73] 。
「創立 そうりつ 五十年紀念慶應義塾図書館」の篆刻 てんこく 文字 もじ (2010年 ねん 撮影 さつえい )
正面 しょうめん 玄関 げんかん 上部 じょうぶ に掲 かか げられた「創立 そうりつ 五十年紀念慶應義塾図書館」の文字 もじ は篆刻 てんこく 家 か 山本 やまもと 拝 はい 石 せき の書 しょ を岩村 いわむら 透 とおる が指図 さしず して天 てん 賞 しょう 堂 どう に鋳造 ちゅうぞう させたものである[74] 。2階 かい バルコニー 上部 じょうぶ のペンマークのレリーフ は戦後 せんご 修復 しゅうふく されたものだが劣化 れっか が著 いちじる しかったため、2017-19年 ねん の改修 かいしゅう 工事 こうじ に際 さい して明治 めいじ 期 き の写真 しゃしん をもとに擬 なずらえ 石 せき で復元 ふくげん した[62] 。
書庫 しょこ の壁面 へきめん 上部 じょうぶ の直径 ちょっけい 5尺 しゃく の大 だい 時計 とけい はラテン語 らてんご の TEMPUS FUGIT(光陰 こういん 矢 や の如 ごと し )を文字 もじ 盤 ばん に並 なら べたもので、工芸 こうげい 家 か 沼田 ぬまた 一雅 かずまさ の作品 さくひん である[75] [76] 。この時計 とけい は空襲 くうしゅう で機械 きかい 部分 ぶぶん は焼失 しょうしつ したものの、表 ひょう 時 じ 盤 ばん は無傷 むきず であった。雄 お 工 こう 舎 しゃ 製 せい 電気 でんき 時計 とけい を取 と り付 つ けて再 ふたた び時 じ を刻 きざ み始 はじ めたのは1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )2月 がつ 中旬 ちゅうじゅん のことであった[77] 。
玄関 げんかん ホールと手 て 古奈 こな 像 ぞう (左 ひだり 奥 おく )
ステンドグラスの原画 げんが (和田 わだ 英作 えいさく 筆 ふで )
第 だい 三 さん 書庫 しょこ 西側 にしがわ の斯道 しどう 文庫 ぶんこ 入口 いりくち (2009年 ねん 撮影 さつえい )
赤 あか 絨毯 じゅうたん が敷 し かれた玄関 げんかん ホールの一角 いっかく に設置 せっち されている大理石 だいりせき 像 ぞう は彫刻 ちょうこく 家 か 北村 きたむら 四海 しかい の第 だい 3回 かい 文展 ぶんてん 出品 しゅっぴん 作 さく 「手 て 古奈 こな 」で、塾 じゅく 員 いん 山中 やまなか 吉三郎 きちさぶろう を通 つう じて慶應義塾 けいおうぎじゅく に寄贈 きぞう されたものである。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )の空襲 くうしゅう で両 りょう 腕 うで 部分 ぶぶん を失 うしな い、戦後 せんご は地下 ちか 倉庫 そうこ に保管 ほかん されていた。2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )年 ねん から2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )にかけて修復 しゅうふく 作業 さぎょう が行 おこな われたが、戦争 せんそう の記憶 きおく を後世 こうせい に伝 つた えるため、あえて両 りょう 腕 うで のない状態 じょうたい のまま公開 こうかい されている[78] [79] 。
玄関 げんかん ホール東 ひがし 隣 となり には開館 かいかん 時 じ は雑誌 ざっし 室 しつ 、南東 なんとう 側 がわ の八角 はっかく 塔 とう 1階 かい には教員 きょういん 読書 どくしょ 室 しつ があった。八角 はっかく 塔 とう 2階 かい は特別 とくべつ 室 しつ 、3階 かい は吹抜 ふきぬけ 、最上階 さいじょうかい の接客 せっきゃく 室 しつ 兼 けん 談話 だんわ 室 しつ は「月 つき 波 なみ 楼 ろう 」と呼 よ ばれ、窓 まど からは房総半島 ぼうそうはんとう の連山 れんざん を眺 なが めることができたという[80] 。
玄関 げんかん ホール西 にし 隣 となり には以前 いぜん は図書館 としょかん 事務 じむ 室 しつ があったが、現在 げんざい は慶應義塾 けいおうぎじゅく 福澤 ふくさわ 研究 けんきゅう センターが置 お かれている。同 どう センターは1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に発足 ほっそく した塾 じゅく 史 し 編纂 へんさん 所 しょ を起源 きげん とし、『慶應義塾 けいおうぎじゅく 百 ひゃく 年 ねん 史 し 』の編纂 へんさん 事業 じぎょう 完了 かんりょう 後 ご の1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )に塾 じゅく 史 し 資料 しりょう 室 しつ 、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )に現在 げんざい の名称 めいしょう に変更 へんこう した。その研究 けんきゅう 目的 もくてき は福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち や慶應義塾 けいおうぎじゅく の歴史 れきし 編纂 へんさん のみならず、福澤 ふくさわ や義 ぎ 塾 じゅく の視点 してん からの日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し 研究 けんきゅう を目指 めざ すものである。なお、センター内 ない での資料 しりょう 閲覧 えつらん は研究 けんきゅう 者 しゃ 限定 げんてい で、事前 じぜん 予約 よやく が必要 ひつよう となっている[81] 。
玄関 げんかん ホール奥 おく の緑色 みどりいろ 大理石 だいりせき の三 さん 連 れん アーチをくぐると大 だい 階段 かいだん 室 しつ があり、東 ひがし 隣 となり の福澤 ふくさわ 記念 きねん 室 しつ には洋画 ようが 家 か 川村 かわむら 清雄 きよお が描 えが いた福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 像 ぞう が飾 かざ られていた[14] 。2階 かい に上 のぼ る大 だい 階段 かいだん 踊 おど り場 ば 北面 ほくめん の小川 おがわ 三知 みち 作 さく のステンドグラス は戦災 せんさい で焼失 しょうしつ したが、小川 おがわ の未亡人 みぼうじん から慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん が重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい に指定 してい されたことを知 し らされた小川 おがわ 門下 もんか の大竹 おおたけ 龍蔵 りゅうぞう がステンドグラスの復元 ふくげん を申 もう し入 い れ、和田 わだ 英作 えいさく の原画 げんが をもとに4年 ねん がかりでこれを制作 せいさく し、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )12月 がつ 10日 とおか に復興 ふっこう 除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われた。しかし、大竹 おおたけ はステンドグラスの完成 かんせい した姿 すがた を見 み ることなく10月 がつ 10日 とおか に突如 とつじょ 他界 たかい した[82] [83] 。
福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 記念 きねん 慶應義塾 けいおうぎじゅく 史 し 展示 てんじ 館 かん は2021年 ねん (令 れい 和 わ 3年 ねん )7月 がつ 5日 にち に開館 かいかん した。2階 かい 旧 きゅう 大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ を改装 かいそう した常設 じょうせつ 展示 てんじ 室 しつ では福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち の生涯 しょうがい や慶應義塾 けいおうぎじゅく 史 し に関 かん する各種 かくしゅ 資料 しりょう が公開 こうかい されており、企画 きかく 展示 てんじ 室 しつ での特別 とくべつ 展 てん も年 とし に数 すう 回 かい 開催 かいさい されている。開館 かいかん 時間 じかん は10時 じ から18時 じ までで、閉館 へいかん 日 び は日曜 にちよう ・祝日 しゅくじつ など。入場 にゅうじょう 料 りょう は無料 むりょう [70] [84] [85] 。
斯道 しどう 文庫 ぶんこ は4階 かい にあり、国内外 こくないがい の和漢 わかん 書籍 しょせき の収集 しゅうしゅう ・整理 せいり と研究 けんきゅう 者 しゃ (原則 げんそく として大学院生 だいがくいんせい 以上 いじょう )への公開 こうかい を行 おこな っている。開館 かいかん 時間 じかん は9時 じ 30分 ふん から16時 じ 30分 ふん までで、閉館 へいかん 日 び は土 ど ・日曜日 にちようび ・祝日 しゅくじつ など。入口 いりくち は建物 たてもの の西側 にしがわ にある[72] 。
書庫 しょこ は現在 げんざい も慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 三田 みた メディアセンターの施設 しせつ として活用 かつよう されており[86] 、第 だい 三 さん 書庫 しょこ 3階 かい には遠山 とおやま 音楽 おんがく 文庫 ぶんこ (音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か 遠山 とおやま 一行 いっこう が設立 せつりつ した旧 きゅう 遠山 とおやま 音楽 おんがく 財団 ざいだん 附属 ふぞく 図書館 としょかん の旧 きゅう 蔵 ぞう 資料 しりょう の一部 いちぶ )および風早 かざはや 文庫 ぶんこ (ミュージカル評論 ひょうろん 家 か 風早 かざはや 美樹 みき の旧 きゅう 蔵 ぞう 資料 しりょう )が所蔵 しょぞう されている[87] 。
慶應義塾 けいおうぎじゅく 図書館 としょかん 旧館 きゅうかん の東側 ひがしがわ には「文学 ぶんがく の丘 おか 」と呼 よ ばれる小高 こだか い丘 おか があり、慶應義塾 けいおうぎじゅく ゆかりの文人 ぶんじん を顕彰 けんしょう する文学 ぶんがく 碑 ひ 3基 き と胸像 きょうぞう 1体 たい が設置 せっち されている。
開館 かいかん 式 しき 当日 とうじつ の光景 こうけい (1912年 ねん 5月 がつ 18日 にち )
玄関 げんかん ホールの手 て 古奈 こな 像 ぞう (竣工 しゅんこう 時 じ )
1階 かい 福澤 ふくさわ 紀 おさむ 念 ねん 室 しつ (竣工 しゅんこう 時 じ )
2階 かい 大 だい 閲覧 えつらん 室 しつ (竣工 しゅんこう 時 じ )
書庫 しょこ 内部 ないぶ (竣工 しゅんこう 時 じ )
ハーバード
大学 だいがく エリオット総長 そうちょう の
来 らい 塾 じゅく (1912
年 ねん 6
月 がつ 26
日 にち )
関東大震災 かんとうだいしんさい 後 ご の図書館 としょかん 。被害 ひがい の大 おお きかった八角 はっかく 塔 とう は一度 いちど 解体 かいたい された。
震災 しんさい 復旧 ふっきゅう および第 だい 二 に 書庫 しょこ 増築 ぞうちく 後 ご の図書館 としょかん (1928年 ねん )
改修 かいしゅう 工事 こうじ 前 まえ の図書館 としょかん 旧館 きゅうかん 入口 いりくち (右側 みぎがわ のヒマラヤ杉 ひまらやすぎ は2016年 ねん に伐採 ばっさい され、左側 ひだりがわ の福澤 ふくさわ 諭吉 ゆきち 像 ぞう は三田 みた 演説 えんぜつ 館 かん 前 まえ に移設 いせつ された)
改修 かいしゅう 工事 こうじ 後 ご の図書館 としょかん 旧館 きゅうかん (2020年 ねん )
設置 せっち 校 こう
慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 中学 ちゅうがく ・高校 こうこう 併設 へいせつ 校 こう 高等 こうとう 学校 がっこう 中学校 ちゅうがっこう 小学校 しょうがっこう 関係 かんけい 校 こう ・廃止 はいし 校 こう ・併合 へいごう 校 こう 等 とう
関連 かんれん 施設 しせつ ・研究所 けんきゅうじょ 歴史 れきし
源流 げんりゅう 機構 きこう 会派 かいは 等 とう 出来事 できごと
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