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象山ぞうざん書院しょいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

象山ぞうざん書院しょいんは、1839ねん天保てんぽう10ねん)に佐久間さくま象山ぞうさん神田かんだたまひらいた私塾しじゅく玉池たまいけ書院しょいんともいう。

俊英しゅんえい達識たっしき傲岸ごうがんにしてひとくだらず」とわれていた佐久間さくま象山ぞうさんではあったが、1844ねん(天保てんぽう15ねんひろ元年がんねん)に、著名ちょめい教育きょういくしゃ朱子学しゅしがくしゃであった小松こまつはん近藤こんどうあつしさんい、「ふところさだ」の揮毫きごうと「みことしょ聞行しょ聞所ききどころたっとるところをくだりふ)」の言葉ことばおくられている。また、度重たびかさなる依頼いらいすえちょうごと[1]、「象山ぞうざん書院しょいん[2]扁額へんがくおくられじゅくかかげている。

1851ねんよしみなが4ねん)には江戸えど木挽こびきまちにあらたに「五月ごがつじゅく」をひらいた。

概要がいよう

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沿革えんかく

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佐久間さくま象山ぞうさん漢学かんがくしゃ朱子学しゅしがくものとしてははやくに一家いっかをなし、湯島ゆしま聖堂せいどう佐藤さとう一斎いっさい門下もんかとしてれた学者がくしゃであった。天保てんぽう10ねん、29さい神田かんだたまに「象山ぞうざん書院しょいん」をひらいて弟子でしをとったのがはじまりである。となり梁川はしかわ星巌せいがんがいた。よく11ねんには『江戸えど名家めいか一覧いちらんひょう』にそのせられて本人ほんにん自信満々じしんまんまんになったといわれる。のちに象山ぞうざん主君しゅくんである松代まつだいはんおも真田さなだみゆきぬき老中ろうじゅうとなり、海防かいぼうかけとなったため、象山ぞうざん海防かいぼうのことを研究けんきゅうはじめる。象山ぞうざんじゅくけて伊豆いず韮山にらやま西洋せいよう砲術ほうじゅつ江川えがわ英龍ひでたつした入門にゅうもんしたが退すさじゅくして下曽根しもそねきむ三郎さぶろうについて砲術ほうじゅつならった。蘭学らんがくについては、象山ぞうざんは34さいから本格ほんかくてき研究けんきゅうはじめた晩学ばんがくで、じゅく黒川くろかわりょうやす交換こうかん教授きょうじゅはじめ、窮理きゅうり兵法ひょうほうおさめた。ひろし4、5ねんごろにはらんじんベウセルの砲術ほうじゅつしょんで、しょうほう鋳造ちゅうぞうしたり、ショメールの百科全書ひゃっかぜんしょによって硝子がらす製造せいぞうしたりしている。ひろし3ねんには象山ぞうざんはんしたためじゅく閉鎖へいさされることとなった。かえりはんしているあいだ象山ぞうざん多彩たさい活動かつどうつづけていた。1850ねんよしみなが3ねん)には江戸えど居住きょじゅうゆるされ木挽こびきまち現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう銀座ぎんざ)に「がつじゅく」を開設かいせつして砲術ほうじゅつ西洋せいようがくこうじる。門下もんかすうひゃくにんおよんだといわれる。元治もとはる元年がんねん3がつ17にち象山ぞうざん幕府ばくふいのちにより、上洛じょうらくして開国かいこくろんをとなえるという危険きけん仕事しごといた。攘夷じょういろん渦巻うずま京都きょうと攘夷じょうい標的ひょうてきとなり、三条さんじょう木屋こやまちどおりで刺客しかくおそわれることとなった。

象山ぞうざんじゅくおとずれたおも人物じんぶつには、吉田よしだ松陰しょういん小林こばやし虎三とらぞうろうかつ麟太郎りんたろう橋本はしもとひだりない武田たけだ三郎さぶろう河井かわい継之助つぐのすけ山本やまもとさとしなど、幕末ばくまつ明治維新めいじいしん多大ただい影響えいきょうあたえる精鋭せいえい数多かずおおくいる。

中津なかつはん慶應義塾けいおうぎじゅく

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蘭学らんがくとは所縁しょえんふか中津なかつはん江戸えど藩邸はんていちか木挽こびきまちにあった佐久間さくま象山ぞうさんじゅくに、中津なかつはんはん子弟してい数多かずおおおくみ、象山ぞうざん中津なかつはんのために西洋せいようしき大砲たいほうもん鋳造ちゅうぞう上総かずさこく姉ヶ崎あねがさき試射ししゃしたり、藩邸はんてい招待しょうたいされて学問がくもん教授きょうじゅしたりしている。そのため中津なかつはん調練ちょうれんはんくらべておおいに進歩しんぽしており、象山ぞうざんまなんだ藩士はんし岡見おかみ彦三ひこそ江戸えど藩邸はんていない蘭学らんがくじゅくもうけて、中津なかつはん家老がろうてきじゅく塾頭じゅくとうをしていた福澤ふくさわ諭吉ゆきち招聘しょうへいして蘭学らんがくしょ慶應義塾けいおうぎじゅく前身ぜんしん)の講師こうしとさせた。さらに、象山ぞうさん息子むすこ新撰しんせんぐみたい佐久間さくまつとむ二郎じろうかつ海舟かいしゅう紹介しょうかい慶應義塾けいおうぎじゅく入塾にゅうじゅくしているため、象山ぞうざんじゅく洋学ようがく系譜けいふ初期しょき慶應義塾けいおうぎじゅく亜流ありゅうかたちつたわることとなった。島津しまつ文三郎ぶんざぶろうなど、象山ぞうざんから直接ちょくせつ免許皆伝めんきょかいでんものもおり、また福澤ふくさわ諭吉ゆきち岡見おかみ所蔵しょぞうしていた佐久間さくま象山ぞうさん貴重きちょう洋書ようしょんでおり、立田たつたかわなど松代まつだいはんとも蘭学らんがくまなび、慶應義塾けいおうぎじゅくうつってきたものもいる。

慶應義塾けいおうぎじゅく発足ほっそくするにいたるのは、中津なかつはん佐久間さくま象山ぞうさんすすめで洋式ようしき大砲たいほうもん購入こうにゅうしたはよいが、肝腎かんじん象山ぞうざん吉田よしだ松陰しょういん密航みっこう事件じけん連座れんざ信州しんしゅうなどに蟄居ちっきょされてしまい、薩摩さつまはん松木まつき弘安ひろやすすぎ亨二こうじらが担当たんとうしていたが、幕府ばくふにおいて勝海かつみふね台頭たいとうもあったので、大砲たいほうわかかちともつうじる福沢ふくさわ諭吉ゆきち後任こうにんとして中津なかつはん蘭学らんがくじゅくまかされることになったのである。福澤ふくさわは、幕府ばくふ翻訳ほんやくかたとなりわたしおうまえから仙台せんだいはん紀州きしゅうはん三田みたはん長岡ながおかはんとも交流こうりゅう資金しきん提供ていきょうがあり、帰国きこくはこれらの藩士はんしらの入塾にゅうじゅく相次あいついだため、慶応けいおう4ねん慶應義塾けいおうぎじゅく江戸えど藩邸はんてい創設そうせつするにいたった。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 渡部わたなべ盛義もりよし 近藤こんどうあつしさん 愛媛えひめけん教育きょういくかい(S43)
  2. ^ 近藤こんどう則之のりゆき岡田おかだ武彦たけひこ 近藤こんどうあつしさんはやしりょうとき 明徳めいとく出版しゅっぱんしゃ(1988)