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AEG

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
AEGブランドロゴ。ペーター・ベーレンスのデザイン。

AEGドイツみ:アーエーゲー、英語えいごみ:エーイージー)は、ドイツ電機でんきメーカー。Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft(アルゲマイネ・エレクトリツィテート・ゲゼルシャフト、総合そうごう電気でんき会社かいしゃ)のりゃくである。ゼネラル・エレクトリック世界せかい市場いちばい、空前くうぜん輸出ゆしゅつりょう記録きろくした。家電かでん発電はつでん自動車じどうしゃ航空機こうくうき製造せいぞう[1]鉄道てつどう電化でんかがけた。ドイツさい統一とういつ前後ぜんごかく事業じぎょう親会社おやがいしゃダイムラーもろともシュナイダーエレクトリックなどに分譲ぶんじょうされた。

概要がいよう

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テレフンケンを吸収きゅうしゅうするまで

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1883ねんトーマス・エジソン特許とっきょ取得しゅとくしたユダヤじん実業じつぎょうエミール・ラーテナウ英語えいごばん政治せいじヴァルター・ラーテナウ父親ちちおや)が、ジーメンス・ウント・ハルスケすうぎょう支援しえんけドイツ・エジソンしゃ(Deutsche Edison-Gesellshaft, DEG)を創業そうぎょうした。これがAEGとなり、ベルリンのアメリカ資本しほんとして世界せかいうごかした[2]。1903ねん、ラーテナウがウニオンしゃUnion-Elektricitäts-Gesellschaft)を吸収きゅうしゅう合併がっぺいするため親会社おやがいしゃのゼネラル・エレクトリック(GE)と協議きょうぎし、同年どうねんあき合意ごういた。20世紀せいき初頭しょとう、にわかに国籍こくせき企業きぎょうとなってGEと世界せかい規模きぼカルテルむすんだ。そしてシーメンスなら独占どくせん資本しほんとなり、だいいち世界せかい大戦たいせんでも両社りょうしゃ協力きょうりょくした。AEGをめぐるGEとシーメンスの綱引つなひきは戦後せんご処理しょりをきっかけとして一挙いっきょ後者こうしゃ有利ゆうり展開てんかいとなった。ヴァイマル共和きょうわせい合衆国がっしゅうこく資本しほんとりことなったのである。AEGは1929ねん増資ぞうしさいし、株式かぶしき資本しほんの1/4にあたる額面がくめん1おくマルクをGEへ2おくマルクで売却ばいきゃくした[3]。この資金しきん提供ていきょうえにAEG はGE に監査かんさやくせきを5つあたえたが、そのひとつはオーウェン・D・ヤングめた[4]。このような経緯けいいからJPモルガン緊密きんみつなコルレス関係かんけいにあるドレスナー銀行ぎんこうがAEGの伝統でんとうてきメインバンクであった。

このドレスナーがダナート銀行ぎんこうをかばってかたむくと、AEG はナチスドイツの統制とうせい経済けいざいまれた。ほとんどの設備せつびをAEG はだい世界せかい大戦たいせん焼失しょうしつした。そのわり1946ねん10がつ、リーダーのビューヒャー放免ほうめんされた。AEG は戦後せんご西にしドイツにおける独占どくせん解体かいたいまぬかれ、復古ふっこてきべいふつ資本しほんによる経済けいざい奇跡きせき享受きょうじゅした。主権しゅけん回復かいふくされた1954ねんから増資ぞうしつづけ、ベルリンのかべができてからの軍需ぐんじゅ生産せいさんになった[5]。この目的もくてきで1967ねんテレフンケンを100%支配しはいして吸収きゅうしゅう合併がっぺいした。

AEGコンツェルン解体かいたい始末しまつ

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AEG はドイツの電力でんりょく事業じぎょうにも貢献こうけんした。ウニオンしゃおなじく1892ねん、エレクトロヴェルケ(Elektrowerke)が設立せつりつされた。1917ねん9がつドイツ帝国ていこくがAEGのエレクトロヴェルケを買収ばいしゅうした。ヴァイマル(1926ねん)のエレクトラヴェルケも、やはりバイエルン電力でんりょく(VIAG, げんE.ON)をつうじて100%連邦れんぽう所有しょゆうであった。その供給きょうきゅうする電力でんりょくは、供給きょうきゅうりょうRWEよりいちまわちいさい程度ていどであったが、しかし供給きょうきゅうさきがベルリンの、アルミニウム精錬せいれんくちとするしょ工業こうぎょう集中しゅうちゅうしていた。バイエルン電力でんりょくは1986ねんから民営みんえいされていった。[6]

1985ねん、AEGがダイムラー・ベンツ買収ばいしゅうされた。これはドイツ銀行ぎんこう勢力せいりょくうつったことをしめだい事件じけんであり、ドイツ経済けいざいさい編成へんせいともひょうされた。しかしドイツ銀行ぎんこうが1989ねんにモルガン・グレンフェルを買収ばいしゅうしたことをかんがえると、AEG買収ばいしゅう同社どうしゃのアーリアでもドイツ資本しほんでもなく、ドイツ経済けいざいがドイツ銀行ぎんこうという根幹こんかんからべいふつ資本しほんとしてさい編成へんせいされるプロセスだったということになる。どう1989ねんからダイムラーごとAEGは解体かいたいされていった。1992ねんアトラスコプコがAEGの電機でんき部門ぶもん買収ばいしゅうした。同年どうねんアルカテル=アルストムがAEGのケーブル部門ぶもん(AEG Kabel)を買収ばいしゅうし、ドイツ政府せいふ欧州おうしゅう委員いいんかい抗議こうぎする国際こくさい紛争ふんそう発展はってんした。1994ねん、シュナイダーエレクトリックがオートメーション部門ぶもんを、エレクトロラックス家電かでん部門ぶもんをそれぞれ買収ばいしゅうした[7]

AEG はベルリン近郊きんこうヘニヒスドルフ英語えいごばん(Hennigsdorf)にて、鉄道てつどう車両しゃりょうとく電気でんき機関きかんしゃ)の製造せいぞうおこなっていた。ドイツ・エジソンしゃがAEGへと社名しゃめい変更へんこうした1887ねんに、AEG はドイツエジソン会社かいしゃおこしたベルリン電力でんりょく会社かいしゃげんバッテンフォール)の業務ぎょうむいだ[8][9]先述せんじゅつのウニオンしゃ買収ばいしゅうもAEGの鉄道てつどうである(1903ねん)。1915ねん、ベルリン電力でんりょく会社かいしゃ市有しゆうされた[10]。1927ねん、ベルリン電力でんりょく会社かいしゃ人材じんざい今日きょう悪名あくめいたか信用しんよう情報じょうほう集積しゅうせきしょSchufa)を設立せつりつした。だい世界せかい大戦たいせん、AEGのヘニヒスドルフ工場こうじょうひがしドイツがわぞくしたため、社名しゃめい機関きかんしゃ製造せいぞう電気でんき技術ぎじゅつ工場こうじょう(Lokomotivbau Elektrotechnische Werke, LEW)に変更へんこうした。LEWしゃはドイツさい統一とういつって西にしドイツがわのAEGしゃ吸収きゅうしゅうされた。AEGしゃ鉄道てつどう車両しゃりょう製造せいぞう部門ぶもんのちヘンシェルとの合併がっぺいアドトランツへの吸収きゅうしゅうなどをて、ボンバルディア・トランスポーテーション一部いちぶとなった。そのボンバルディア・トランスポーテーションもアルストム買収ばいしゅうされたことから同社どうしゃ一部いちぶとなっている。

モルガンたいジーメンス

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ベーレンスがデザインした電気でんき計器けいき電圧でんあつけい

1894ねん、AEG は67まんマルクをはらってジーメンス・ウント・ハルスケから完全かんぜん独立どくりつした。1903ねん、AEGの支配しはいけんをめぐる競争きょうそうがおこった(ほん段落だんらくのテーマ)。AEG は同年どうねん電車でんしゃ車両しゃりょう製造せいぞうられたウニオンしゃ吸収きゅうしゅうした。GE の合意ごうい必要ひつようだった理由りゆう説明せつめいする。ウニオンしゃは1892ねんボストントムソン・ヒューストン(Thomson-Houston Electric Company)が参加さんかして設立せつりつされたものであった。トムソン・ヒューストンはどう時期じきにドレクセル・モルガンしゃ融資ゆうしでGE に吸収きゅうしゅう合併がっぺいされていた。そこでAEG がウニオンしゃ吸収きゅうしゅうするさいにはGE と協議きょうぎしなければならなかった。1907ねん、AEGとGEとのあいだにカルテルが締結ていけつされ、AEGが欧州おうしゅう市場いちば[11]、GEが北米ほくべい市場いちばを、それぞれ自社じしゃ販売はんばい地域ちいきとした。一方いっぽうでAEG は1903ねんジーメンス・ウント・ハルスケとの合弁ごうべん会社かいしゃテレフンケンを設立せつりつした。このテレフンケンはシーメンスのフェルディナント・ブラウンやGEのグリエルモ・マルコーニ無線むせん開発かいはつきそった。ジーメンス・ウント・ハルスケは同年どうねんにAEGと合弁ごうべん無線むせん電信でんしん会社かいしゃ(Gesellschaft für drahtlose Telegraphie m.b.H.)を設立せつりつした[12]だいいち世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜん、いわゆる戦争せんそう資材しざい会社かいしゃ(Kriegsrohstoffgesellschaft)が設立せつりつされた。そしてシーメンスとAEGがだい株主かぶぬしとなった[13][5]

終戦しゅうせんによりAEGをめぐる競争きょうそうはモルガンの勝利しょうり明白めいはくとなった。1919ねん無線むせん業界ぎょうかい国際こくさいカルテルがむすばれた(ドイツ=オーストリア電信でんしん連合れんごう#無線むせん時代じだい)。1920ねん前後ぜんごにわたり、AEG はM・M・ヴァールブルク&CO貿易ぼうえき金融きんゆうによりアメリカへ輸出ゆしゅつし、見返みかえりとしてヴァールブルクはAEG 新規しんき発行はっこう社債しゃさいの1/4をグッゲンハイム売却ばいきゃくできた[14]

モルガンたいナチス

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1933ねんには同社どうしゃ技術ぎじゅつしゃであるEduard Schüllerドイツばんによってテープレコーダーの磁気じきヘッドが開発かいはつされ[15]、1935ねんに「マグネトフォン(Magnetophon)」の市販しはんされたが当時とうじはまだ直流ちょくりゅうバイアスしき音質おんしつわるかった。音質おんしつ向上こうじょうしたのは1940ねんヴァルター・ヴィーベルHans-Joachim von Braunmühlドイツばんによる高周波こうしゅうはバイアス方式ほうしき英語えいごばん発明はつめいまでたなければならなかった。これら製品せいひんナチス・ドイツのメディア戦略せんりゃく貢献こうけんし、AEGは利潤りじゅん獲得かくとくしていった。1941ねん、AEGがテレフンケンを子会社こがいしゃ戦争せんそう直前ちょくぜん無線むせんきょく観測かんそくヘリなどを開発かいはつした。

1935ねんにエネルギー産業さんぎょうほう制定せいていされた。これにより、それまで各州かくしゅう独立どくりつしてっていた電力でんりょく政策せいさく連邦れんぽう経済けいざい大臣だいじん統括とうかつされることとなった。ナチスは翌年よくねん10がつに「価格かかく形成けいせい連邦れんぽう委員いいんかい(Reichskommiser für Preisbilding)」を、1939ねん9がつに「電力でんりょくぎょう連邦れんぽう機関きかん(Reichsstelle für Elektrizitätswirtschaft)」を設立せつりつした。1941ねんライフラインを統合とうごうして「水道すいどうエネルギー総督そうとく(Generalinspektor für Wasser und Energie)」を設置せっちした。ナチスは列挙れっきょしたような人的じんてき統制とうせいによりAEGをふくむ電力でんりょくぎょう統制とうせいしようとした。しかしエネルギー産業さんぎょうほう各州かくしゅう反対はんたいけたので、国内こくない電力でんりょくぎょう国有こくゆう民営みんえい混合こんごういずれにけるのか、さらに電力でんりょく供給きょうきゅう都市とし集中しゅうちゅうさせるのかどうか、方向ほうこうせい結論けつろんしないまま成立せいりつしていた。[6]

AEGの工場こうじょうもベーレンス作品さくひんひとつである。

だい世界せかい大戦たいせん、シーメンスとAEG はドイツばんぎゃくコースによってまった独占どくせん解体かいたいまぬかれた。ビューヒャーが一時いちじ戦犯せんぱんとして退しりぞいてほどなく、AEGきゅう幹部かんぶのシュペンラート(Friedrich Spennrath)が取締役とりしまりやく会長かいちょうとなった(1947ねん)。その前年ぜんねんにベルリンの金属きんぞく労働ろうどう組合くみあいがシュペンラートを戦犯せんぱんとして追及ついきゅうするよう決議けつぎしたが、西側にしがわ占領せんりょう当局とうきょく決議けつぎ黙殺もくさつした。西にしドイツの主権しゅけん回復かいふくまでマーシャル・プラン更地さらちをもてあますAEG に巨額きょがく復興ふっこう信用しんよう(Wiederaufbaukredit, 見返みかえ資金しきんからの借款しゃっかん)をあたつづけ、AEGはおびただしい工場こうじょう建設けんせつした。主権しゅけん回復かいふくの1955-56ねんに、AEG は直属ちょくぞく企業きぎょうたいだけで1おくマルク以上いじょう設備せつび投資とうしおこなった。その設備せつびでコンツェルンの総力そうりょくをあげた軍需ぐんじゅ生産せいさん展開てんかいした。なお、通貨つうか改革かいかく以後いご1960ねんまでの12年間ねんかんにおいて、コンツェルンとしてのシーメンスとAEGの投資とうし総額そうがくはそれぞれ18おくマルクと8おくマルクであった。主権しゅけん回復かいふく前後ぜんごには、国家こっか政策せいさく過大かだい償却しょうきゃく推進すいしんされ、合法ごうほうてき秘密ひみつ積立つみたてきん制度せいどとして利潤りじゅん隠蔽いんぺい資本しほん蓄積ちくせき促進そくしんしていた。西にしドイツの輸出ゆしゅつさき戦前せんぜんちがい、1960ねんだと6わりきょう西欧せいおうで、アメリカはたったの8.9%であった。さい生産せいさんとしてAEG はオーストリアやブラジル・アルゼンチンへ自社じしゃブランドの参与さんよ会社かいしゃもうけた。一方いっぽう、テレフンケンもアメリカのテルディクス(Teldix)へ50%参加さんかしたが、なかんずくフランスのラジコンメーカー(Société Européenne de Téléguidage)にたいする20%の参与さんよNATO支柱しちゅうであった。[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1917ねん、ドイッチェ・ルフトレーデライしゃ(Deutsche Luft-Reederei, DLR)を設立せつりつした。ヴェルサイユ条約じょうやくによって飛行機ひこうき製造せいぞうをあきらめたが、しかし航空こうくう会社かいしゃルフトハンザドイツ航空こうくう統合とうごうされるまで経営けいえいつづいた。
  2. ^ フランス・エジソンしゃはドイツ・エジソンしゃ買収ばいしゅうされた。
  3. ^ Deutsche Allgemeine Zeitung Potsdam, RWiM, Bd. 17564(Reform des Aktienrechts), Bl. 100; Frankfurter Zeitung Nr. 572, v. 3. 8. 1929.
  4. ^ Adressbuch der Direktoren und Aufsichtsräte der Aktiengesellschaften, 2/1933, S.72; Eberhard Koebel-Tusk, AEG Energie Profit Verbrechen, Berlin 1958, S.114.
  5. ^ a b c はやしあきら西にしドイツにおけるAEGコンツェルンの復活ふっかつ発展はってん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく商学部しょうがくぶ経営けいえい研究けんきゅうだい72ごう 1964ねん7がつ
  6. ^ a b 田野たの慶子けいこ 『ドイツ資本しほん主義しゅぎとエネルギー産業さんぎょう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 2003ねん 166-169ぺーじ
  7. ^ 以来いらい、「AEG」はエレクトロラックスの高級こうきゅう家電かでんブランドの名称めいしょうとなる。2005ねんよりブランドめいを AEG-Electrolux へと変更へんこうし、本格ほんかくてき世界せかい進出しんしゅつはかった。
  8. ^ 1899ねん、ベルリン電力でんりょく会社かいしゃがベルリンとの契約けいやく市街しがい電車でんしゃ低廉ていれん電力でんりょく独占どくせん供給きょうきゅうすることになった。
  9. ^ T.P.ヒューズ 市場いちば泰男やすおやく電力でんりょく歴史れきし平凡社へいぼんしゃ 1996ねん
  10. ^ このときまでに電力でんりょく会社かいしゃは1889ねん約定やくじょうされた半径はんけい30キロ圏内けんない電力でんりょくをすべて供給きょうきゅうできるまでに技術ぎじゅつ向上こうじょう規模きぼ拡大かくだいすすんでおり、AEG に満足まんぞくできる配当はいとうをもたらしていた。会社かいしゃ売却ばいきゃく価格かかくは1おく3240まんマルクであった。
  11. ^ ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダ・デンマーク・スイス・トルコ・バルカン
  12. ^ 英語えいごばんが1923ねんからとしているが、あやまり。
  13. ^ 戦争せんそう資材しざい会社かいしゃはニッケル・アルミニウムとう金属きんぞく資源しげん侵略しんりゃく地域ちいき中立ちゅうりつ諸国しょこくから徴発ちょうはつしたが、とくどうはシーメンスとAEGが戦前せんぜん戦中せんちゅう確保かくほすることができた。
  14. ^ ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ ユダヤ財閥ざいばつ興亡こうぼううえ)』 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ 1998ねん p.342.
  15. ^ Magnetophon

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • AEG-Electrolux会社かいしゃ日本語にほんごウェブサイト。