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博多(ハカタ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

博多はかたみ)ハカタ

デジタル大辞泉だいじせん博多はかた」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

はかた【博多はかた

福岡ふくおかめい那珂川なかがわなかがわ以東いとう地域ちいきで、商業しょうぎょうさかん。ふるなのつとよばれ、大陸たいりくとの交通こうつう要地ようちとして発展はってん博多港はかたこう博多はかたえき福岡空港ふくおかくうこうがある。どんたく祇園山ぎおんやまかさなどのまつりがおこなわれる。

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はかた【博多はかた

  1. [ 1 ] 福岡ふくおか行政ぎょうせいひとつ。那珂川なかがわ右岸うがん商業しょうぎょう地域ちいき昭和しょうわよんななねんいちきゅうなな成立せいりつふるくは大宰府だざいふ外港がいこうとしてずい使遣唐使けんとうし発着はっちゃく鎌倉かまくら時代じだいには鎮西ちんぜい探題たんだいかれて西国さいこく統治とうち拠点きょてんとなった。室町むろまち時代じだいから海外かいがい貿易ぼうえき活発かっぱつにより繁栄はんえいし、薩摩さつまこく鹿児島かごしまけん坊津ぼうのつ伊勢いせこく三重みえけんおもねとともに日本にっぽん三津みつづひとつ。江戸えど時代じだい黒田くろだ城下町じょうかまち福岡ふくおか商業しょうぎょう地域ちいきとして繁栄はんえい古名こみょう、儺津(なのつ)(なのつ)・儺大津おおつ(なのおおつ)筑紫つくし大津おおつ(つくしのおおつ)荒津あらつ(あらつ)
  2. [ 2 ] 名詞めいし
    1. はかたおり(博多織はかたおり」のりゃく
      1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「くろちゃく、はかたのおび」(出典しゅってん歌舞伎かぶきかんじん漢文かんぶん手管てくだはじめから人殺ひとごろし)(1789)いち)
    2. はかたおび(博多帯はかたおび」のりゃく
      1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「本場ほんば博多はかた(ハカタ)を、かいくちむすびなし」(出典しゅってん当世とうせい書生しょせい気質きしつ(1885‐86)〈坪内つぼうち逍遙しょうようさん)

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん博多はかた」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

博多はかた (はかた)

筑前ちくぜんこく港町みなとちょうげん福岡ふくおか博多はかた)。

ふるくは(なのつ),大津おおつ(なのおおつ)とばれ,8世紀せいきちゅうごろから博多はかたしょうされ,中世ちゅうせいには石城せきじょう(せきじよう),冷泉れいせんとも別称べっしょうされた。当初とうしょだいおさむ博多はかたとして,大宰府だざいふ外港がいこうてき役割やくわりをはたした。ここに筑紫つくしかん(つくしのむろつみ)とばれる外国がいこく使節しせつ接待せったいのための迎賓館げいひんかんかれ,のちにおおとり臚館(こうろかん)としょうされた。おおとり臚館は外国がいこく使節しせつ渡来とらいじん饗応きょうおうをつかさどり,遣唐使けんとうし入唐にっとうそう宿舎しゅくしゃにあてられた。838ねんうけたまわ5)の派遣はけん最後さいご遣唐使けんとうし廃止はいしされると,おおとり臚館は外交がいこう使節しせつ遣唐使けんとうし応接おうせつ機関きかんから外国がいこく商人しょうにん応接おうせつ機関きかんへと性格せいかく変化へんかし,来日らいにちした商人しょうにんたちはここで貿易ぼうえきおこなった。また博多はかたには博多はかた警固けいごしょかれていた。11世紀せいきごろからはそう商人しょうにん国内こくない荘園しょうえんみなと入港にゅうこうして,荘園しょうえん領主りょうしゅそうかん貿易ぼうえきおこなったが,とくに北部ほくぶ九州きゅうしゅう沿岸えんがん荘園しょうえんではこれが顕著けんちょで,博多はかたにはおおくのそう商人しょうにん居住きょじゅうしてだいとうがいという中国人ちゅうごくじんがい形成けいせいした。1151ねん仁平にだいら1)には大宰府だざいふが筥崎(はこざき),博多はかただいおい(だいついぶ)をおこない,そうじんおうのぼる後家ごけをはじめ1600いえ資財しざいぶつはこびとり,筥崎宮はこざきぐう乱入らんにゅうして正体しょうたい神宝しんぽうぶつるという事件じけんがおこった。鎌倉かまくら初期しょきには,筥崎宮はこざきぐうりょうなかそうじんみな免田めんだ26まちがあり,そうじんたちは筥崎宮はこざきぐうからくらからきぬなどの唐物とうぶつ上納じょうのうしていた。また,どうみやだい神殿しんでん四面しめん玉垣たまがきは,西崎にしざき領主りょうしゅ博多はかたつなしゅちょうきょうどうつなしゅちょうえいといったそう商人しょうにん負担ふたんするなど,筥崎宮はこざきぐうそうしょうふか関係かんけいゆうしていた。博多はかたからはおおくの中国ちゅうごく陶磁とうじ出土しゅつどしているが,なかには〈ちょうつな〉〈ちょうつな〉と墨書ぼくしょされたものも発見はっけんされている。12世紀せいき中期ちゅうき大宰府だざいふ掌握しょうあくしたたいらは,香椎かしいみや宗像むなかた(むなかた)大社たいしゃといった博多はかた周辺しゅうへん寺社じしゃをも掌握しょうあくし,対外たいがい貿易ぼうえき拠点きょてんとして博多はかたそでみなと(そでのみなと)を築造ちくぞうしたといわれている。

 鎌倉かまくら時代じだいになると,博多はかたにはせいぶくてら(しようふくじ),うけたまわてんてらなどの禅宗ぜんしゅう寺院じいん次々つぎつぎ建立こんりゅうされ,禅宗ぜんしゅうをはじめとする宗教しゅうきょう文化ぶんかさかえた。13世紀せいき後半こうはんに2にわたるモンゴル襲来しゅうらいがあり,博多はかた戦場せんじょうとなった。ぶんながやく(1274)再度さいどのモンゴル襲来しゅうらいそなえていし築地つきじ(いしついじ)が博多湾はかたわん沿岸えんがん築造ちくぞうされ,その景観けいかんから,博多はかた石城せきじょうばれるようになった。また同時どうじに,九州きゅうしゅう御家人ごけにん博多はかた湾岸わんがん警備けいびする異国いこく警固けいごばんやく開始かいしされ,さらにえいひとし年間ねんかん(1293-99)鎌倉かまくら幕府ばくふ出先でさき機関きかん鎮西ちんぜい探題たんだいがここに設置せっちされると,博多はかた政治せいじ都市としとしての性格せいかくつよつようになった。その結果けっかおおくの御家人ごけにんばんやくつとむつかまつ(ごんじ)や訴訟そしょうのために博多はかたあつまった。しかし,1333ねん元弘もとひろ3)の鎮西ちんぜい探題たんだい滅亡めつぼうさいに,博多はかた戦火せんかにあい,一時いちじ荒廃こうはいした。33ねん8がつ博多はかた海岸かいがんであるいきはま(おきのはま)がたてたけし政権せいけんより大友おおとも貞宗さだむねあたえられ,同地どうちは46ねん正平しょうへい1・貞和さだかず2)室町むろまち幕府ばくふによって鎮西ちんぜい管領かんりょう在所ざいしょ指定していされた。最近さいきん発掘はっくつ調査ちょうさによると,14世紀せいき前半ぜんはん博多はかたまちわりおおきく変化へんかすることがあきらかになっている。

 14世紀せいき後半こうはんから15世紀せいき前半ぜんはんにかけてあきら(みん),朝鮮ちょうせん建国けんこく日本にっぽんにおける南北なんぼくあさ合一ごういつ中山なかやま(ちゆうざん)王朝おうちょうによる琉球りゅうきゅう統一とういつなどによりひがしアジア世界せかい安定あんていし,相互そうご交流こうりゅう活発かっぱつになると,博多はかた海外かいがいへの窓口まどぐちとして発展はってんする。室町むろまち九州きゅうしゅう探題たんだい渋川しぶかわ博多はかた拠点きょてんいたが,1419ねんおうなが26)のおうなが外寇がいこう契機けいきとして積極せっきょくてき朝鮮ちょうせん貿易ぼうえきにのりだし,探題たんだい一族いちぞく家臣かしん頻繁ひんぱん貿易ぼうえきおこなった。その貿易ぼうえき活動かつどうささえたのは,むねきんをはじめとする博多はかた商人しょうにんであった。また渋川しぶかわは,20ねん朝鮮ちょうせん通信使つうしんしそうのぞみいちぎょう博多はかた滞在たいざいさいして,治安ちあんのために博多はかた市街しがいもんつくるなど,博多はかた都市とし整備せいびにも尽力じんりょくしている。おう永末ながすえねん渋川しぶかわ没落ぼつらくすると,大内おおうちしょうあいだ博多はかた支配しはいをめぐるはげしいこうそうつづいた。15世紀せいき中期ちゅうきには博多はかた大内おおうちきょうひろしによって掌握しょうあくされ,大内おおうちはここを拠点きょてんとして日明ひあがり貿易ぼうえきにのりだした。15世紀せいき後半こうはんから16世紀せいき前半ぜんはんにかけて,博多はかた大内おおうちあかりせん派遣はけん拠点きょてんとなった。いっぽう1429ねんえいとおる1)に博多はかた進出しんしゅつした大友おおともは,いきはま田原たはらさだなり派遣はけんして活発かっぱつ対外たいがい貿易ぼうえきおこなった。博多はかた商人しょうにんたちも朝鮮ちょうせんあきら琉球りゅうきゅう東南とうなんアジアとの貿易ぼうえき従事じゅうじし,博多はかた国際こくさいてき商業しょうぎょう都市としとして繁栄はんえいし,薩摩さつま坊津ぼうのつ伊勢いせ安濃あのう)とともに日本にっぽん三津みつづしょうされた。

 応仁おうにん文明ぶんめいらん(1467-77)がおこると,しょう筑前ちくぜん奪回だっかいし,博多はかた西南せいなん4000しょう東北とうほく6000大友おおとも支配しはいはいった。78ねん文明ぶんめい10)にはふたた大内おおうち支配しはいにはいり,山鹿やまが博多はかた代官だいかんつとめた。その大内おおうち大友おおとも両氏りょうしあいだ博多はかたいきはまをめぐって確執かくしつがあり,1538ねん天文てんもん7)の両氏りょうし和平わへい大内おおうちはこれを返還へんかんしなかった。16世紀せいき中期ちゅうき大内おおうち滅亡めつぼう博多はかた大友おおとも支配しはいにはいり,東西とうざい地域ちいき区分くぶんされ,自治じちてき機構きこうゆうした。しかし大友おおとも筑前ちくぜん支配しはい安定あんていせず,59ねんえいろく2)の筑紫つくし反乱はんらん,80ねん天正てんしょう8)の肥前ひぜん竜造寺りゅうぞうじ侵入しんにゅうなどによって,博多はかたはたびたび戦火せんかにあい,壊滅かいめつてき打撃だげきをうけた。
執筆しっぴつしゃ

1587ねん九州きゅうしゅう平定へいていえた豊臣とよとみ秀吉ひでよしはたびかさなる戦禍せんか廃墟はいきょしていた博多はかた復興ふっこうめいじ,同時どうじ楽市らくいち楽座らくざれいはっして博多はかた商人しょうにん特権とっけんみとめた。まちわり急速きゅうそくすすめられ,離散りさんしていた商人しょうにんかえじゅうして博多はかたはよみがえった。代表だいひょうてき町人ちょうにん神屋かみやそうじん島井しまい宗室そうしつである。しかし秀吉ひでよし博多はかた復興ふっこう目的もくてき博多はかたきたるべき朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい兵站へいたん基地きちとすることにあったので,しだいに博多はかた特権とっけん侵害しんがいされ,貿易ぼうえきこうとしての地位ちい長崎ながさきにうばわれた。そして黒田くろだ入国にゅうこく急速きゅうそく城下町じょうかまちされていった。まちすうは1690ねん元禄げんろく3)で113まちあり,ここのつの〈ながれ(ながれ)〉を構成こうせいしていた。かくまち1~2めい町年寄まちどしより町内ちょうない諸般しょはんことをつかさどり,10~20構成こうせいするくみ組頭くみがしらがそれを補佐ほさした。博多はかた全体ぜんたいまちせいすうにんとし行司ぎょうじ担当たんとうした。〈りゅう〉の役割やくわりには宗旨しゅうしあらためなどのまちせいおよび櫛田くした神社じんじゃ祇園ぎおんかい執行しっこうがあり,町年寄まちどしよりなかからえらばれたつき行司ぎょうじがそれを担当たんとうした。はんまち支配しはいには町奉行まちぶぎょうたった。90ねん家数やかずは3118けん人口じんこうは1まん9468にんで,このころが博多はかた最盛さいせいであった。しかししだいに衰微すいびかい,とくにとおる飢饉ききん影響えいきょうもあって,1737ねんもとぶん2)には1まん3469にん激減げきげんした。町人ちょうにん経営けいえい伝統でんとう産業さんぎょうにとどまったので,以後いご幕末ばくまつまで人口じんこうが1まん6000にんえることがなかった。博多はかた名産めいさんとしては博多織はかたおり博多はかたねりしゅなどがある。博多織はかたおり将軍しょうぐんへの献上けんじょうひんとして指定していされ,はん厳重げんじゅう統制とうせいにおかれた。博多はかたねりしゅ天下てんかめいさけとして名高なだかく,これも毎年まいとし将軍しょうぐん献上けんじょうされた。博多はかたには栄西えいさい創建そうけん本邦ほんぽう最初さいしょぜんくつといわれるせいぶくてらのほか数多すうた寺院じいんがあり,せん厓などの名僧めいそうんだ。せいぶくてら門前もんぜん御供所ごくしょまち(ごくしよまち)あたりはもっともよく博多はかた面影おもかげをとどめている。また櫛田くした神社じんじゃ博多はかた鎮守ちんじゅしゃとして町民ちょうみん崇敬すうけいあつめ,その盛大せいだい祇園ぎおんやまかさ)はいまがれている。1873ねん人口じんこうは2まん0985にん,89ねん福岡ふくおかとなった。いまめい,JR駅名えきめいをとどめている。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)博多はかた」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

博多はかた
はかた

福岡ふくおか那珂川なかがわ(なかがわ)右岸うがん位置いちする九州きゅうしゅういち商業しょうぎょう中心ちゅうしん地区ちく。1972ねん昭和しょうわ47)の政令せいれい指定してい都市とし発足ほっそくによりもうけられた5ひとつでもある。ふるくは「(なのつ)」ともいわれたように『こころざし倭人わじんでん(ぎしわじんでん)』でられるやつこく(なこく)のみなとであったとかんがえられる歴史れきしふる場所ばしょで、律令りつりょう(りつりょう)時代じだいにはだいおさむ博多はかた(だざいはかたのつ)という大宰府だざいふ外港がいこうとしてさかえ、ずい使(けんずいし)、遣唐使けんとうしもここから出発しゅっぱつした。そのかたな(とい)、こうむ(もうこ)の来襲らいしゅうけたので鎮西ちんぜい探題たんだい(ちんぜいたんだい)が博多はかたかれ、博多はかた大宰府だざいふにかわって九州きゅうしゅう内政ないせい外交がいこう中心ちゅうしんとなった。15世紀せいきはいると大内おおうち進出しんしゅつしてたいあきら(みん)貿易ぼうえき推進すいしんしたため貿易ぼうえき商業しょうぎょうとして発達はったつ日本にっぽん三津みつづ(しん)のひとつにかぞえられるにいたった。さかい(さかい)とならんで自治じちけんゆうした博多はかた商人しょうにん基礎きそきずかれたのはこのころである。その戦国せんごく時代じだい戦乱せんらんにより野原のはらしたが、1587ねん天正てんしょう15)九州きゅうしゅうりした豊臣とよとみ秀吉ひでよし(とよとみひでよし)によりかた10まちまちわりによる博多はかた復興ふっこう着手ちゃくしゅされ、現在げんざい博多はかた地区ちく原形げんけい完成かんせい、ふたたび商人しょうにんまちとして発展はってんはじめた。江戸えど時代じだいには福岡ふくおかはん城下町じょうかまちである福岡ふくおかと、那珂川なかがわはさんで対峙たいじ(たいじ)したが、城下町じょうかまちまれることになった。

 明治めいじはいって1872ねん明治めいじ5)福岡ふくおかだい一大いちだい博多はかただいだいとなったが、1878ねんだい一大いちだい合体がったいされ、1889ねんには福岡ふくおかとなった。めい福岡ふくおかであるが、鉄道てつどうえきみなと人形にんぎょう織物おりものにわか(にわか)、どんたくなど博多はかたかんしたものがおおく、市民しみんしたしまれており、めいとしてのこっている。現在げんざい博多はかたは、博多はかた5まち中心ちゅうしん問屋とんやがい発達はったつするとともに、博多はかたえき九州きゅうしゅう最大さいだいえきとして発展はってん周辺しゅうへん地区ちくには官公庁かんこうちょう銀行ぎんこう商社しょうしゃビル、ホテルなどがならんで天神てんじん地区ちくとともに都心としんとしての機能きのうそなえてきた。北端ほくたんには博多港はかたこう中枢ちゅうすうである中央ちゅうおう埠頭ふとう(ふとう)と、対馬つしま(つしま)、壱岐いき(いき)、五島ごしま(ごとう)、沖縄おきなわなどへの航路こうろ発着はっちゃくする博多はかた埠頭ふとうが、ひがしはしには福岡空港ふくおかくうこうがあり、福岡ふくおかけんにおける交通こうつう拠点きょてんでもある。福岡空港ふくおかくうこう博多はかたえき市営しえい地下鉄ちかてつむすばれている。また、埠頭ふとうちかくにはマリンメッセ福岡ふくおか福岡ふくおか国際こくさいセンター、福岡ふくおか国際こくさい会議かいぎじょうなどがあつまっている。北東ほくとうはしにある東公園ひがしこうえんには、1981ねん昭和しょうわ56)県庁けんちょう県警けんけい本部ほんぶ移転いてんし、けん行政ぎょうせい中心ちゅうしんとして発展はってんはじめている。一方いっぽう西端せいたん位置いちする中洲なかす(なかす)は全国ぜんこくてきられる九州きゅうしゅういち歓楽街かんらくがい人出ひとでおおい。どころとしては板付いたづけ遺跡いせき(いたづけいせき)(国史こくしあと)に代表だいひょうされる弥生やよい(やよい)遺跡いせきや、住吉すみよし(すみよし)神社じんじゃ櫛田くした(くしだ)神社じんじゃうけたまわてん(じょうてん)てらせいぶくてら(しょうふくじ)(境内けいだい国史こくしあと)、たかしぶく(そうふく)てら東長ひがしおさ(とうちょう)てら東光とうこう(とうこう)いんなど著名ちょめい社寺しゃじんでおり、どんたく、博多はかた祇園山ぎおんやまかさ(ぎおんやまがさ)(くに重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい)、おくんちなどの有名ゆうめい年中ねんじゅう行事ぎょうじとあわせ多数たすう観光かんこうきゃくあつめている。

石黒いしぐろ正紀まさき

村瀬むらせ時男ときおへん博多はかたせんねん』(1961・以文しゃ)』


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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん博多はかた」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

博多はかた
はかた

福岡ふくおかけん北西ほくせい福岡ふくおか博多湾はかたわん沿岸えんがん地域ちいき狭義きょうぎにはひがし石堂いしどう (御笠みかさ) かわ西にし那珂川なかがわきた博多湾はかたわんみなみ房州ぼうしゅう (ぼうしゅう) ほりまでとされた。房州ぼうしゅうほり現在げんざいほとんどのこっておらず,JR博多はかたえき北西ほくせいにある出来できまち (できまち) 公園こうえん付近ふきんに,わずかに遺構いこうのこる。はやくからひらかれ,大陸たいりくとの経済けいざい文化ぶんか中継ちゅうけいとして繁栄はんえい。 JR博多はかたえき博多港はかたこうがあり,博多織はかたおり博多はかた人形にんぎょう博多はかたどんたく,博多はかた祇園山ぎおんやまかさなど名産めいさん年中ねんじゅう行事ぎょうじおおい。なお,地元じもとでは一般いっぱん福岡ふくおか全体ぜんたい博多はかたんでいる。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん博多はかた」の解説かいせつ

博多はかた
はかた

福岡ふくおか構成こうせいする7ひとつ。のほぼ中央ちゅうおう位置いちする。日本にっぽん最古さいこきゅう稲作いなさく遺跡いせきがあり,古代こだいには大宰府だざいふ外港がいこうとして外交がいこうじょう重要じゅうよう機能きのうをはたした。古代こだい後期こうき中世ちゅうせいにちちゅうにちちょう貿易ぼうえき拠点きょてんとして日本にっぽん対外たいがい交渉こうしょうじょう重要じゅうよう役割やくわりをはたし,自治じち都市としとしても有名ゆうめい近世きんせい初頭しょとう豊臣とよとみ秀吉ひでよし直轄ちょっかつりょうとなり,その黒田くろだ支配しはい商業しょうぎょう都市としとしてさかえた。1889ねん(明治めいじ22)福岡ふくおか一部いちぶとなり,1972ねん(昭和しょうわ47)博多はかた成立せいりつ

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん博多はかた」の解説かいせつ

博多はかた
はかた

福岡ふくおかひがしはん那珂川なかがわ以東いとうみなと商業しょうぎょう地区ちく
現在げんざい福岡ふくおか博多はかたにあたる。ふるくは (なのつ) とばれ,三津みつづ (さんしん) のひとつにかぞえられた。律令りつりょう時代じだい大宰府だざいふ外港がいこうとして大陸たいりくとの交通こうつう要地ようちとしてさかえ,にちそう貿易ぼうえき勘合かんごう貿易ぼうえき根拠地こんきょちとなり,室町むろまち時代じだい大内おおうち支配しはい博多はかた商人しょうにん活躍かつやくした。戦国せんごく時代じだいには12にんとし行事ぎょうじにより自治じちおこなわれ,一時いちじ豊臣とよとみ秀吉ひでよし直轄ちょっかつとなったが,江戸えど時代じだい商業しょうぎょう都市としとして発展はってんした。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち博多はかた言及げんきゅう

織物おりもの】より

…このように,いろいろな機会きかい舶載はくさいされた唐綾からあや唐錦からにしき金襴きんらん緞子どんすしるしきんしゃ繻子しゅすきたきぬなどのきれるい貴顕きけん人々ひとびと珍重ちんちょう愛好あいこうされ,またおおくの人々ひとびと染織せんしょくたいする視野しやをひろめ,ひいては日本にっぽん染織せんしょく刺激しげきあたえ,その発達はったつおおいに役立やくだったのである。名物めいぶつきれ
近世きんせい初期しょき
 中世ちゅうせい末期まっきから近世きんせい初期しょき隆盛りゅうせいした機業きぎょうは,京都きょうとのほか山口やまぐち博多はかたさかいとがあった。山口やまぐちせい平年へいねんあいだ(1346‐70)に大内おおうち弘世ひろよ京都きょうとにならってまちづくりをし,文化ぶんか導入どうにゅうしたことから織物おりもの発達はったつをみたといわれる。…

神屋かみやそうじん】より

ゆたか政権せいけんより江戸えど幕府ばくふ初期しょきいた博多はかた豪商ごうしょうで,茶人ちゃじんとしても有名ゆうめい幼名ようみょう善四郎ぜんしろう貞清さだきよ。…

瀬戸内海せとないかい】より

たい朝鮮ちょうせん貿易ぼうえきしゃには内海うつみ各地かくち港湾こうわん太守たいしゅ代官だいかんや,海賊かいぞく大将軍だいしょうぐんのったもの朝鮮ちょうせんがわ記録きろくえる。たいあかり貿易ぼうえきだい根拠地こんきょちさかい博多はかたは,内海うちうみ二分にぶんするかたち勢力せいりょくり,勘合かんごう貿易ぼうえき実権じっけんあらそった細川ほそかわ大内おおうちのそれぞれ配下はいかにあった。
戦国せんごく
 戦国せんごく時代じだい権力けんりょく集中しゅうちゅう進行しんこうするなか海賊かいぞくしゅ去就きょしゅうけっせざるをえなくなり,1555ねん(弘治こうじ1)の厳島いつくしません三島みしま村上むらかみ毛利もうりにみかたし,屋代島やしろじま以下いか島嶼とうしょ給与きゅうよされて毛利もうり水軍すいぐん色彩しきさいつよめ,71ねん(もとかめ2)能島のしま村上むらかみ毛利もうりそむくと毛利もうり能島のしま攻撃こうげきしてこれをやぶり,82ねん(天正てんしょう10)来島くるしま織田おだ信長のぶながさそいにおうずると,村上むらかみ毛利もうりかた能島のうじま因島いんのしま信長のぶながかた来島らいとうとに分裂ぶんれつした。…

筑前ちくぜんこく】より

…《万葉集まんようしゅう》には大伴旅人おおとものたびとなど大宰府だざいふかんじんうた中心ちゅうしんとうくにかんするうたおおおさめられている。対外たいがいきゃくかんおおとり臚館(こうろかん)は現在げんざい福岡ふくおかかれたが,9世紀せいき以降いこう対外たいがい貿易ぼうえきとなり,博多はかた居留きょりゅうするそうしょうすくなくなかった。太宰府だざいふでは大量たいりょう輸入ゆにゅう陶磁器とうじき銅銭どうせん発掘はっくつされている。…

博多はかた商人しょうにん】より

中世ちゅうせい以降いこう国内外こくないがい活躍かつやくした博多はかた商人しょうにん中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん琉球りゅうきゅう東南とうなんアジアとう海外かいがいへの窓口まどぐちであった博多はかたには商人しょうにんぐん形成けいせいされ,しだいに外国がいこくとの貿易ぼうえき従事じゅうじして,ひがしアジアを舞台ぶたい活躍かつやくした。…

福岡ふくおか[]】より

…1889ねん市制しせい。1972ねん政令せいれい指定してい都市としとなり中央ちゅうおう博多はかたひがし西にしみなみの5設置せっち,82ねん西にし城南じょうなん早良さわら(さわら),西にしの3けて7せい施行しこう人口じんこう128まん4795(1995)。…

山鹿やまが】より

南北なんぼくあさになると終始しゅうしきた朝方あさがたについた麻生あそう対抗たいこうして,南朝なんちょうかたとして活躍かつやくした。戦国せんごくには大内おおうち博多はかた代官だいかん世襲せしゅうした山鹿やまががおり,大内おおうち家臣かしん飯田いいだ家人かじんとして,大内おおうち博多はかた支配しはい現地げんちになった。山鹿やまが壱岐いきもりどう弾正だんじょうちゅうどうしゅうむねどう治部じぶすすむどう秀康ひでやす史料しりょうえ,博多はかた下向げこうした連歌れんが宗祇そうぎそうせきあきら使節しせつさく彦周りょうらとの交流こうりゅうられている。…

楽市らくいちれい】より

…このようにあらゆる権力けんりょく支配しはい社会しゃかい規制きせいから自由じゆうであることを社会しゃかいてき承認しょうにんされていたらく市場いちばは,中世ちゅうせい自由じゆう都市とし自治じち都市とし成立せいりつ原点げんてんめる存在そんざいであり,当時とうじじゅうらく(極楽ごくらく)の(みなと)とばれた伊勢いせ桑名くわなは,自治じち都市としとして権力けんりょく支配しはい拒否きょひしていた。事実じじつ中世ちゅうせい自由じゆう都市とし自治じち都市とし代表だいひょうするさかい博多はかた楽市らくいちないしはらくばれる存在そんざいであったことは,1587ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし博多はかたした法令ほうれいが,楽市らくいちという言葉ことばはないものの,その内容ないようはまったく保証ほしょうがた楽市らくいちれいおなじものであったことからも確認かくにんされる。ところで,このような権力けんりょく無縁むえん存在そんざいであるらく市場いちばが,その機能きのう楽市らくいちれいというかたちで権力けんりょく保証ほしょうされたり,さらに権力けんりょくによって利用りようされたりするということは,すでに本来ほんらい楽市らくいちとしての性格せいかく放棄ほうきしたことを意味いみする。…

※「博多はかた」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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くにまたは地方ちほう公共こうきょう団体だんたい個々ここ候補者こうほしゃ選挙せんきょ費用ひよう一部いちぶまたは全額ぜんがく負担ふたんすること。選挙せんきょかねがかかりすぎ,政治せいじ腐敗ふはい原因げんいんになっていることや,候補者こうほしゃ個人こじんてき財力ざいりょくによって選挙せんきょ不公平ふこうへいしょうじないようにという目的もくてきで...

選挙せんきょ公営こうえい用語ようご解説かいせつ

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