基本情報
面積=6113.95km2(全国23位)
人口(2010)=145万1338人(全国25位)
人口密度(2010)=237.4人/km2(全国28位)
市町村(2011.10)=13市6町0村
県庁所在地=山口市(人口=19万6628人)
県花=ナツミカン
県木=マカマツ
県鳥=ナベヅル
中国地方の最西部を占め,北は日本海,西は響灘,南は瀬戸内海に臨む県。
沿革
山口県はかつての周防,長門の2国に当たり,幕末には長州藩(山口藩)とその支藩である徳山藩,岩国藩,清末藩,長府藩(1869年豊浦(とよら)藩と改称)の5藩があった。1871年(明治4)6月徳山藩は山口藩と合併し,同年7月の廃藩置県の実施により山口,岩国,清末,豊浦の4藩はそれぞれ同名の県となった。つづく同年11月の府県統廃合によって4藩は統合され,現在の県域が確定した。
山口県の遺跡
先縄文時代の遺跡はあまり多いとはいえないが,たとえば美濃ガ浜遺跡(山口市)で縄文時代の遺構,古墳時代の集落に伴う土器製塩址,それに中期の兜山古墳群などとともに,旧石器の包含層が知られている。
岩田遺跡(熊毛郡平生町)は縄文時代中期~弥生時代の集落址で,ことに晩期のどんぐり類を収納した貯蔵穴群や甕棺墓群など初期農耕の問題にかかわる遺跡としても重要である。島田川流域遺跡群は県東部を流れる島田川流域に分布するが,なかでも天王,岡山,石光の3遺跡(周南市)など弥生時代の高地性集落址が有名。綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡(下関市)はおびただしい弥生前期土器や石器を伴って,多数の袋状竪穴群や溝状遺構が検出され,アズキその他の植物遺存体と,珍しい陶塤(とうけん)が出土したことでも知られる。中ノ浜遺跡(下関市)は弥生時代前期~中期初頭の埋葬遺跡。前期前半には土壙墓,前期中葉から末葉には配石墓,前期後半から中期初頭には箱式石棺墓がそれぞれ盛行し,甕棺墓や集骨葬もある。副葬品には細形銅剣,銅戈(どうか)などがある。梶栗浜(かじくりはま)遺跡(下関市)も弥生時代前期末~中期初頭の埋葬遺跡。組合せ箱式石棺が主で,その上に積石や列石を伴う。副葬品には朝鮮半島からの舶載と思われる多鈕細文(たちゆうさいもん)鏡と細形銅剣,それに碧玉製管玉などがある。土井ヶ浜遺跡(下関市)は,これまでに200余体の人骨が出土したこともあって,こうした弥生時代の埋葬遺跡としては最も著名であろう。被葬者の成人男性人骨の身長が縄文人より高く,朝鮮半島南部の住民に近いことが注目されている。東向きの仰臥屈葬や伸展葬で抜歯例も多い。副葬品には弥生土器のほか玉類や貝釧(かいくしろ),指輪などがある。
竹島古墳(周南市)は古墳時代前期の前方後円墳。舶載の四神四獣鏡や銅鏃などが出土している。白鳥(しらとり)古墳(平生町)は県下最大の前方後円墳で全長125m。埴輪列をもち,神獣鏡や巴形銅器などを副葬する5世紀前半ごろの古墳である。長光寺山古墳(山陽小野田市)は全長約62mの前方後円墳で二つの竪穴式石室をもつ。三角縁神獣鏡などの副葬品がある。赤妻古墳(山口市)は高さ約6mの円墳で,かつて墳頂から箱形石棺2,刳抜式舟形石棺1が出土している。各種鏡,玉類などの副葬品がある。見島(みしま)古墳群(萩市)はジーコンボ古墳群とも呼ばれ,約200基の後期の積石塚古墳からなる。柳井茶臼山古墳(柳井市。茶臼山古墳)からは仿製(ぼうせい)の鼉竜(だりゆう)鏡が出土している。
石城山神籠石(いわきさんこうごいし)(光市)は7世紀ごろの朝鮮式山城。土塁がめぐらされ,門址,水門をもつ(山城)。周防国衙址(防府市)は,方2町の古代地方政庁。周防鋳銭司址(山口市)は平安時代の官営鋳銭所の跡で,工房址,井戸址などの遺構,鋳損じの銭貨,緑釉陶器,木簡等々の遺物が出土した。
→周防国 →長門国
執筆者:坂本 一登
西日本の海陸交通の十字路
本州の最西端に位置し,中国山地の西部を占める山口県は,あまり高い山も広い平野もない低山性の半島県である。北は日本海に面して大陸に近く,南は瀬戸内海をひかえ,関門海峡を隔てて,古代文化の先進地北九州と相対しており,早くから大陸・九州と中央とを結ぶ交通上の要衝であった。弥生時代人骨を出土した土井ヶ浜遺跡,西日本最大級の弥生時代集落址として有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の存在も,この地域の文化が先進的であったことを示している。《日本書紀》に見える仲哀天皇の穴門豊浦(あなととよら)宮は,大和朝廷による九州経略の基地となったところで,下関市長府の忌宮(いみのみや)神社境内がその故地と伝えられている。さらに古代の終焉を告げた源平最後の壇ノ浦合戦の舞台となったのも,下関市の関門海峡であった。室町時代には,山口盆地に本拠をもつ大内氏が朝鮮や中国との貿易によって経済的基盤を築き,中央へも進出したが,この大内氏の繁栄も,防長両国の地理的条件に負うところが大きい。近世になって防長2国を領有した毛利氏は瀬戸内海沿岸の浅海を干拓して農地を開発し,米,塩の増産をすすめ,また内海航路の発達に伴って,赤間関(あかまがせき),三田尻,室積(むろづみ),上関(かみのせき),柳井などの港町が開け,なかでも赤間関(現在の下関)は長崎とともに西日本屈指の商港として繁栄した。
明治以降,山陽本線の下関までの開通(1901)によって,大陸への西日本の門戸としての地域性を強め,また北九州工業地帯の延長として,下関をはじめ内海沿岸各地に,重化学工業の展開をみた。さらに関門鉄道トンネル(1942)につづいて,第2次大戦後,関門国道トンネル(1958),中国自動車道の関門橋(1973),山陽新幹線の新関門トンネル(1975)が次々に完成して,九州と結ばれ,東西の文化・経済交流の地として発展している。
停滞的な第1次産業
山口県は中国山地の西部にあたる低山性・丘陵性の地形が大部分を占め,海岸線も沈水性のところが多い。平野も狭小であるが,農業は内海沿岸部の岩国,柳井,下松(くだまつ),防府(ほうふ)などの小三角州や干拓地,内陸の玖珂(くが),鹿野(かの),徳佐,山口など多くの小盆地において,稲作が卓越し,山間地のすみずみまで農業土地利用がゆきとどいている。近郊農業では下関市や宇部市周辺の台地における花卉,野菜の栽培が盛んで,屋代(やしろ)島(周防大島)は山口ミカン,萩市付近はナツミカンの特産地として知られている。全県の農家数は6万3000戸(1995),耕地面積は4万5700ha(1995)で,10年前に比べるとそれぞれ16%程度減少しており,全国傾向と同じように停滞的である。米の生産は19万1700t(1994)で,農業粗生産額の50%を占め,首位である。畜産が乳牛,養鶏を中心に近年伸びてきたものの,まだ農業全体の1/5を占めるにすぎない。林業は私有林が80%を占め,農家の副業としての性質が強く,その経営も零細である。滑山(なめらやま)国有林のアカマツ,錦川上流や阿武川中流のヒノキ,杉やシイタケ,ワサビが知られている。
三面海をめぐらし,出入りに富む沈水海岸の発達した山口県は,沿岸に多くの漁村が分布する。日本海沿岸は対馬海流に洗われ,漁場条件に恵まれているため,古くから海女漁業や長州藩鯨組の捕鯨業で知られたところで,萩と仙崎(長門市)の漁港を中心としている。一方,瀬戸内海側の漁業は日本海側に比べて兼業が多く,著しく零細なうえ,重化学工業の発展に伴って漁場が狭まったことなどにより,漁獲量は日本海側の1/4(2万3000t。1994)にすぎない。沿岸漁業は年々不振となり,養殖漁業の振興がはかられ,クルマエビやハマチ,タイなどの養殖が秋穂(あいお),仙崎,大島などで行われている。
山口県を代表する重要な漁港は下関で,全県の漁獲量の1/4はここに水揚げされる。明治以降朝鮮近海に山口県漁民が多く出漁したが,下関漁港はその水揚港として急速に発達した。さらに昭和に入ってからも,捕鯨船や底引網,巻網漁船の基地となり,西日本における重要な水産物の流通拠点となってきた。しかし近年では漁場の遠隔化などが原因となって,市場への水揚量は減少傾向にあり,1994年の2.8万tは5年前の1/2である。かつては西日本随一の規模をほこった下関漁港も,長崎や福岡,境港に比べてその地位はかなり低下している。
重化学工業の進展
山口県の工業は,すでに近世から各地に織物や醸造,陶業などがあり,明治初期にも民間では日本最初のセメントや化学の近代工業が起こっている。県の産業構造が本格的に工業化へ進展したのは,干拓地の多かった内海沿岸に臨海工業が立地した大正期からで,第1次大戦を契機として,下関に造船や金属精錬,宇部・小野田に鉄工,セメント,火薬,製薬,徳山・下松にソーダ,造船,鉄板の諸工場が設置された。さらに昭和に入ってから,海底炭田の開発で知られた宇部・小野田にソーダ,耐火煉瓦,化学,防府に紡績,ゴム,徳山・下松に石油,鋼板,セメント,岩国に人絹,紡績,パルプ,石油など各種の工場が進出した。山口県は瀬戸内工業地域の一中心として急速に発展し,工業生産額も広島・岡山両県をしのぐに至った。第2次大戦後は岩国,徳山,光の旧軍用地に鉄鋼や薬品,石油精製および石油化学の大工場が建設され,とくに全国的にも重要な石油化学コンビナートが形成されている。
山口県工業の特色は,ソーダ,肥料,薬品などの化学工業,石油精製と石油関連工業,鉄鋼業の3業種による出荷額(1994)が全体の約49%を占め,基幹資源型工業が中心となっていることである。これらの多くが臨海の装置型工業であるため,関連産業が少なく,したがって地域への波及効果が低い体質をもっている。工業の分布は地域的に偏り,内海沿岸に全県の事業所の60%(1994),出荷額の93%が集中し,なかでも徳山市,新南陽市(ともに現,周南市),下松市,光市を含む周南地区が,事業所数は15%であるが,出荷額では39%を占めている。近年,宇部・小野田地区の埋立地に新しく石油化学工業,防府地区の塩田跡地に自動車工業が進出し,下関市長府の海岸埋立地にも新工業団地が形成されつつある。
多彩な自然景観と史跡に富む観光地
山陽と山陰の変化に富む海岸線をあわせもつ山口県は,多島海の風光にすぐれた内海沿岸の主要部が瀬戸内海国立公園に含まれ,日本海側の須佐湾から青海(おうみ)島・油谷半島まで海食景観の卓越する沿岸や島嶼が,北長門海岸国定公園となっている。また深山と高原の魅力をもつ県境の寂地山は西中国山地国定公園の一部をなし,日本で最も広い石灰岩台地の秋吉台は日本最大級の鍾乳洞と特異なカルスト景観をもつ国定公園として有名である。これら多彩な自然景観とともに,歴史的・文化的観光資源も多く,とくに中世の大内氏の遺跡と明治維新期の史跡にすぐれたものがある。山口市の瑠璃光寺五重塔や常栄寺の雪舟庭園などは大内文化を代表するもので,市内湯田温泉を宿泊基地として,山口市と秋吉台,萩市,島根県津和野町を結ぶ巡回型観光ルートが形成されている。萩市は近世毛利氏の城下町景観をよく保存し,松下村(しようかそん)塾や萩城跡,伊藤博文旧宅など明治維新期の史跡の多い町である。茶器として全国に知られる萩焼は,萩藩御用窯の伝統を伝えるすぐれた陶芸で,多くの窯元があって,近年は食器,花器,置物など多種の製品がつくられ,山陰の城下町にふさわしい観光産業となっている。県の東端岩国市にある錦帯橋は錦川に架けられたアーチ型5連の木橋で,江戸時代から日本三奇橋の一つとして知られた貴重な文化財であり,錦川の鵜飼いとともに多くの観光客をよんでいる。一方,山口県西端の下関市の関門橋は関門海峡をまたぐ全長1068mの自動車道路橋で,直下の関門国道トンネルや火ノ山公園とともにユニークな観光地となっている。
県央,県東,県西,県北の4地域
山口県はその自然条件とそれぞれの地方小都市の生活圏の広がりから,次の4地域に区分される。
(1)県央 県の中央部を占め,面積で37%,人口で38%を有する。山口,防府,周南,下松,光の5市からなる。山口盆地や防府平野,下松平野は古代条里制の遺構が県内で最も広く残っており,開発の古い地方で,現在も県下の重要な稲作地域をほとんど含み,米生産量の40%を占め,県内の水田農業の中心をなす。防府市は周防国府の置かれたところであり,内陸盆地の山口市は中世大内氏の城下町として栄え,近世には衰えたが,明治以降は県庁所在地となって,県の行政・文教の中心として発展してきた。周防灘沿岸には石油化学コンビナートに鉄鋼業や自動車工業も加わって,県工業生産のほぼ半ばをあげている周南5都市があり,重化学工業に特色をもつ県の工業の中核的存在となっている。
(2)県東 県の東部を占め,周東とも呼ばれる地方で,面積で21%,人口で17%を有する。岩国市,柳井市と周辺の町を含む。北半の西中国山地,内陸中央の玖珂盆地と丘陵地帯,南半の周防大島や熊毛半島など地形的に複雑な構成をもち,岩国平野,柳井平野,玖珂盆地のほかは平地に乏しい地方である。岩国市は周防国東端の錦川河口に位置する吉川(きつかわ)氏の城下町として起こり,近世に開発された広い干拓地に,大正以降紡績,パルプなどの大工場が進出し,第2次大戦後いち早く石油化学コンビナートが成立し,工業都市として発達した。アメリカ軍岩国基地をもつ基地の町でもある。屋代島をかかえた柳井市は海陸交通の要地を占め,近世以来製塩と柳井縞で知られた商都として栄えた。近年塩田跡地を利用して工業化が進んでいる。沿岸島嶼は明治以降多くの海外移民を送り出したが,現在は山口ミカンの主産地となっている。
(3)県西 県西部を占め,面積23%,人口38%を有する。下関,宇部,山陽小野田,美祢(みね)の4市からなる。全般に丘陵性の地形で,厚東(ことう)川,厚狭(あさ)川,木屋(こや)川,綾羅木川の河川に小三角州平野と干拓地が発達し,内陸にも船木,厚狭,田部,豊田など小盆地が多い。西部を占める下関市は県内一の都市で,古代から海関として重視された。明治以降,化学,金属,機械の諸工業が起こり,大陸貿易や近海漁業の基地となって,水産商工都市として発達した。宇部市,山陽小野田市はともに海底炭田の開発に伴って一寒村から化学工業を中心とした新興工業都市に成長した。ここには山口宇部空港があって,県の空の玄関口となっている。内陸の美祢市も石灰石と無煙炭の開発によって都市化が始まった鉱業都市で,沿岸の宇部市と結びついて工業化が進んでいる。県西部地域は山陽本線・新幹線,山陰本線,中国自動車道の交通幹線がここに集まり,海底トンネルと高速道路橋で九州と結びつき,交通革命の進行するなかで,大きく変貌しつつある。
(4)県北 県北部を占め,面積19%,人口7%を有する。萩市,長門市と周辺の町からなる。山陰側の日本海に臨む地方で,人口密度が低く,開発の遅れた農漁業地域である。この地方の中心都市萩市は,近世に毛利氏36万石の城下町として発達したが,明治以降は停滞的で工業化も進まず,山陰の水産商業都市にとどまっている。萩は明治維新期の史跡に富む城下町景観をよく保存している観光都市として,全国的に知られている。
執筆者:三浦 肇