旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん史し事典じてん 三さん訂てい版ばん 「打うちこわし」の解説かいせつ 打うちこわしうちこわし 江戸えど時代じだい,主しゅとして都市とし貧民ひんみんによりおこされた集団しゅうだん的てき暴動ぼうどう百姓ひゃくしょう一揆いっきでも打うちこわしを伴ともなう場合ばあいがあるが,歴史れきし的てきには打うちこわしは都市とし貧民ひんみんの暴動ぼうどうをさす。その主要しゅようなものは200件けん近ちかくもあるが,なかでも(1)1733(享とおる保ほ18)年ねん—江戸えど,(2)1787(天明てんめい7)年ねん—大坂おおさか→京都きょうと・大津おおつ・奈良なら・長崎ながさき・江戸えどなど多数たすう,(3)天保てんぽう年間ねんかん(1830〜44)—大塩おおしお平八郎へいはちろうの乱らんによる大坂おおさかと全国ぜんこく各地かくち,(4)幕末ばくまつ慶応けいおう期き,特とくに1866(慶応けいおう2)年ねん—江戸えど・大坂おおさかと全国ぜんこく各地かくち,の暴動ぼうどうが代表だいひょう的てきなものである。これらは多おおく飢饉ききんに際さいしておこり,米べいの買占かいしめを行おこなった米べい商人しょうにんをはじめ,地主じぬし・村役人むらやくにん・町役人まちやくにんその他た富商ふしょうが攻撃こうげきされ,文字もじどおり家屋かおくや家財かざいが完全かんぜんにこわされた。百姓ひゃくしょう一揆いっきに比くらべて組織そしき力りょくに欠かけるが,時代じだいが下くだるとこれと相あい呼応こおうするものも出でてきた。江戸えど・大坂おおさかのような重要じゅうよう都市としにおこり,しばしば無む警察けいさつ状態じょうたいをつくったので幕府ばくふに与あたえたショックは大おおきかった。百姓ひゃくしょう一揆いっきとともに,民衆みんしゅうのエネルギーの爆発ばくはつとして,直接ちょくせつ封建ほうけん制度せいどを倒たおすことはできなかったとはいえ,その動揺どうよう崩壊ほうかいを促進そくしんしたところに意義いぎがある。 出典しゅってん 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん史し事典じてん 三さん訂てい版ばん旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん史し事典じてん 三さん訂てい版ばんについて 情報じょうほう
山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「打うちこわし」の解説かいせつ 打うちこわしうちこわし 打毀うちこわしとも。江戸えど時代じだいの下層かそう都市とし民みんや百姓ひゃくしょうによる闘争とうそう形態けいたいのうち,最もっとも激はげしいもの。ただしその概念がいねんは多様たよう。都市としの打うちこわしは飢饉ききんなどによる米価べいかの騰貴とうきが原因げんいんとなったものが多おおい。1703年ねん(元禄げんろく16)の長崎ながさきの米べい商人しょうにんへの打うちこわしに始はじまり,33年ねん(享とおる保ほ18)の米べいの買占かいしめに起因きいんする江戸えどの打うちこわし(高こう間あいだ騒動そうどう),68年ねん(明和めいわ5)の大坂おおさか家か質しつ奥おく印いん(かじちおくいん)差配さはい所しょ設置せっち反対はんたいの打うちこわしなどがある。87年ねん(天明てんめい7)には江戸えど・大坂おおさかを中心ちゅうしんに近世きんせいを通つうじて最高さいこうの発生はっせい件数けんすうとなった。百姓ひゃくしょう一揆いっきにおける打うちこわしは,強訴ごうそに付随ふずいし,藩はんの専売せんばい政策せいさくと結むすびついて暴利ぼうりを貪むさぼる特権とっけん商人しょうにんや不正ふせいを行おこなう村役人むらやくにんなどにむけられた。家屋かおくや家財かざい・仏壇ぶつだんの破壊はかいなど,共同きょうどう体たいによる制裁せいさいの意味合いみあいが強つよく,盗ぬすみ・放火ほうかは自制じせいされた。 出典しゅってん 山川やまかわ出版しゅっぱん社しゃ「山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん」山川やまかわ 日本にっぽん史し小しょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱんについて 情報じょうほう