目次 日本 日次記と別記 公日記と私日記 近世の日記 伝存と利用 ヨーロッパ 日本 にっぽん 日本 にっぽん における〈日記 にっき 〉の語 かたり は,古来 こらい 広狭 こうきょう さまざまな意味 いみ に用 もち いられた。日 にち にかけて事実 じじつ を書 か きしるしたものという観点 かんてん から,六 ろく 国史 こくし 以下 いか の史書 ししょ を日記 にっき とよぶことも広 ひろ く行 おこな われたし,特定 とくてい の事件 じけん に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ や問 とい 注記 ちゅうき を事 こと 発 はつ 日記 にっき とか,問 もん 注 ちゅう 日記 にっき ,勘 かん 問 とい 日記 にっき と称 しょう した。また《土佐 とさ 日記 にっき 》や《蜻蛉 とんぼ 日記 にっき 》のように,紀行 きこう や回想 かいそう 録 ろく ,随筆 ずいひつ 等 とう の文学 ぶんがく 作品 さくひん で日記 にっき と称 しょう したものも少 すく なくない(〈日記 にっき 文学 ぶんがく 〉の項 こう 参照 さんしょう )。しかし備忘 びぼう のため日々 ひび のできごとを記録 きろく したもの,すなわち狭義 きょうぎ の日記 にっき が,日本 にっぽん のように9世紀 せいき 中 ちゅう ごろからほとんど間断 かんだん なく伝 つて 存 そん していることは,中国 ちゅうごく にも欧米 おうべい にも例 れい をみない現象 げんしょう であり,現在 げんざい 文献 ぶんけん 史料 しりょう としては,典籍 てんせき や文書 ぶんしょ に対 たい し,記録 きろく とよばれて重 おも んぜられている。日本 にっぽん における最古 さいこ の例 れい は《正 せい 倉 くら 院 いん 文書 ぶんしょ 》天平 てんぴょう 18年 ねん (746)の断簡 だんかん に求 もと めることができるが,明確 めいかく に現 あらわ れるのは平安 へいあん 時代 じだい である。
日次 にちじ 記 き と別記 べっき 記録 きろく としての日記 にっき は,記載 きさい の形態 けいたい ・機能 きのう により,日次 にちじ 記 き (ひなみき)と別記 べっき に大別 たいべつ できる。日次 にちじ 記 き は日々 ひび の行動 こうどう や事件 じけん を日次 にちじ を追 お って書 か きついでゆく,普通 ふつう の形 かたち の日記 にっき である。すでに大宝 たいほう 令 れい ,養老 ようろう 令 れい において中務 なかつかさ 省 しょう の内記 ないき がつかさどると規定 きてい されている〈御所 ごしょ 記録 きろく 〉が,中国 ちゅうごく において天子 てんし の日常 にちじょう の起居 ききょ 言行 げんこう を史官 しかん が記録 きろく した起居 ききょ 注 ちゅう と同類 どうるい のものとすれば,内廷 ないてい の日記 にっき の一種 いっしゅ とみなすことができるであろう。9世紀 せいき 中 ちゅう ごろの藤原 ふじわら 師 し 輔 の《九条 くじょう 殿 どの 遺誡 いかい 》には,毎日 まいにち 起床 きしょう 後 ご まず昨日 きのう の事 こと を暦 こよみ 記 き に注 さ して忽 ゆるがせ 忘に備 そな えよとおしえ,当時 とうじ すでに宮廷 きゅうてい 貴族 きぞく の間 あいだ にも,日記 にっき 記載 きさい の習慣 しゅうかん が定着 ていちゃく していたことを物語 ものがた っている。その公家 くげ 日記 にっき は,鎌倉 かまくら 時代 じだい までは巻子 まきこ 仕立 した ての具 ぐ 注 ちゅう 暦 こよみ に書 か きつけたものが多 おお く,暦 こよみ 面 めん の2~4行 ぎょう の空白 くうはく に記載 きさい したので,暦 こよみ 記 き ともいわれた。また記事 きじ が暦 こよみ 面 めん に書 か ききれない場合 ばあい は裏面 りめん に書 か き続 つづ けたり,白紙 はくし をはり継 つ いで書 か き,さらに記事 きじ に関連 かんれん する文書 ぶんしょ をはりこんだものもある。しかし南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい 以降 いこう はしだいに冊子 さっし 本 ほん が多 おお くなり,江戸 えど 時代 じだい になると巻子本 かんすぼん に書 か かれたものは珍 めずら しくなった。
これに対 たい し別記 べっき は特定 とくてい の事柄 ことがら について,日次 にちじ 記 き とは別 べつ に詳細 しょうさい な記録 きろく を残 のこ すため書 か き留 と めたものである。《政事 せいじ 要略 ようりゃく 》には790年 ねん (延 のべ 暦 れき 9)の追 つい 儺(ついな)に関 かん する〈外 そと 記 き 別 べつ 日記 にっき 〉を引載しているが,上記 じょうき の《九条 くじょう 殿 どの 遺誡 いかい 》には,要 よう 枢 くるる の公事 こうじ は暦 こよみ 記 き とは別 べつ に詳 くわ しく書 か きしるして後 こう 鑑 かん に備うべしと諭 さと し,師 し 輔自身 じしん 多 おお くの別記 べっき を残 のこ した。また藤原 ふじわら 頼 よりゆき 長 ちょう も1142年 ねん (康治 こうじ 1)の大 だい 嘗会のあと,10日間 にちかん にわたり諸事 しょじ をなげうって36枚 まい に及 およ ぶ別記 べっき を書記 かきしる したという。こうして朝 あさ 儀 ただし ・公事 こうじ を対象 たいしょう とした廷臣 ていしん の別記 べっき が多 おお く伝 つて 存 そん しているが,ほかに藤原 ふじわら 宗忠 むねただ や藤原 ふじわら 定家 さだいえ の熊野 くまの 詣 まい の別記 べっき などもあり,円仁 えんにん の《入唐 にっとう 求法 ぐほう 巡礼 じゅんれい 行 ぎょう 記 き 》や成 なり 尋 ひろ の《参 まいり 天台 てんだい 五台山 ごだいさん 記 き 》なども別記 べっき の一種 いっしゅ とみなすことができるであろう。
公 おおやけ 日記 にっき と私 わたし 日記 にっき 日記 にっき はまた記 き 主 ぬし =筆者 ひっしゃ の立場 たちば により,公 おおやけ 日記 にっき と私 わたし 日記 にっき に分 わ けることができる。公 おおやけ 日記 にっき の古 ふる い遺文 いぶん としては,上記 じょうき の延 のべ 暦 れき の外 そと 記 き 別 べつ 日記 にっき のほか,《柱 はしら 史 し 抄 しょう 》に引 ひ く886年 ねん (仁和 にわ 2)の内記 ないき 日記 にっき などがあるが,それらはみな断片 だんぺん 的 てき な逸文 いつぶん ないし取 と 意 い 文 ぶん にすぎない。平安 へいあん 時代 じだい の公 おおやけ 日記 にっき のうち,一応 いちおう まとまった記文 きぶん を伝 つた えるのは,外 そと 記 き 日記 にっき と殿上 てんじょう 日記 にっき であるが,前者 ぜんしゃ は地下 ちか (じげ)ないし外 そと 廷の日記 にっき ,後者 こうしゃ は殿上 てんじょう ないし内廷 ないてい の日記 にっき として,両者 りょうしゃ 相 しょう 補 おぎな う性質 せいしつ をもっている。外 そと 記 き 日記 にっき は,太政官 だじょうかん の外 そと 記 き が職務 しょくむ として記録 きろく した公 おおやけ 日記 にっき で,上記 じょうき の延 のべ 暦 れき の別記 べっき や《続 ぞく 日本 にっぽん 後 ご 紀 き 》に引載する840年 ねん (承 うけたまわ 和 わ 7)の外 そと 記 き 日記 にっき の断片 だんぺん はその遺文 いぶん の早 はや いものである。すなわち平安 へいあん 時代 じだい の初 はじ め,すでに別記 べっき をも含 ふく む外 そと 記 き 日記 にっき が記録 きろく されていたわけであるが,爾後 じご その記載 きさい と保管 ほかん がしばしば督励 とくれい され,折 おり にふれて先例 せんれい 考 こう 勘 かん の用 よう に供 きょう された。したがって書 か きつがれた外 そと 記 き 日記 にっき は累積 るいせき して膨大 ぼうだい な量 りょう にのぼり,11世紀 せいき 中 ちゅう ごろの後冷泉天皇 ごれいぜいてんのう のとき,それまでに図書 としょ 寮 りょう の紙工 しこう の盗用 とうよう したことが発覚 はっかく した分 ぶん だけでも200巻 かん を数 かぞ えたという。しかし平安 へいあん 末期 まっき にはその記載 きさい もほとんど廃絶 はいぜつ し,外 そと 記 き 個人 こじん の私 わたし 日記 にっき によってその機能 きのう が代替 だいたい された。なお外 そと 記 き 日記 にっき の遺文 いぶん は,《西宮 にしのみや 記 き 》や各種 かくしゅ の部類 ぶるい 記 き などに収 おさ められているほか,《日本 にっぽん 紀 き 略 りゃく 》や《本朝 ほんちょう 世紀 せいき 》の編纂 へんさん 史料 しりょう としてもその面影 おもかげ を残 のこ している。
殿上 てんじょう 日記 にっき は,当番 とうばん の蔵人 くろうど が記録 きろく した職務 しょくむ 日記 にっき である。《侍 さむらい 中 ちゅう 群 ぐん 要 よう 》に載 の せる蔵人 くろうど 式 しき には,宇多天皇 うだてんのう の勅命 ちょくめい として,当番 とうばん の記事 きじ は大小 だいしょう 遺脱 いだつ することなく記載 きさい すべしとみえ,別 べつ に〈日記 にっき 体 たい 〉としてのその体 からだ 例 れい を示 しめ している。1019年 ねん (寛仁 かんじん 3)の東宮 とうぐう 元服 げんぷく 記 き など,1日 にち の記事 きじ をほぼ完全 かんぜん な形 かたち で残 のこ している二 に ,三 さん の例 れい も,ほぼこの〈日記 にっき 体 たい 〉に合致 がっち している。こうした記述 きじゅつ の統一 とういつ と永続 えいぞく が公 おおやけ 日記 にっき の特色 とくしょく であるが,殿上 てんじょう 日記 にっき の内容 ないよう は殿上 てんじょう の朝 あさ 儀 ただし ・公事 こうじ に参列 さんれつ する公卿 くぎょう ・殿上人 てんじょうびと の私 わたし 日記 にっき と共通 きょうつう する点 てん が多 おお いためか,平安 へいあん 後期 こうき にはすでに廃 はい 亡 ほろぼ し,その今日 きょう に伝 つて 存 そん する遺文 いぶん も少 すく ない。しかしその後 ご 幕府 ばくふ や社寺 しゃじ における職務 しょくむ 日記 にっき の記載 きさい が盛 さか んになり,宮廷 きゅうてい でも《御湯 おゆ 殿上 てんじょう 日記 にっき 》以下 いか の女房 にょうぼう 日記 にっき をはじめ,《議 ぎ 奏 そう 日次 にちじ 案 あん 》や禁裏 きんり ・仙洞 せんとう の執 と 次 じ 詰所 つめしょ (とりつぎつめしよ)日記 にっき などが書 か きつがれ,さらに伏見 ふしみ 宮 みや 以下 いか の各 かく 宮家 みやけ の家 いえ 司 し 日記 にっき など,公武 こうぶ にわたって各種 かくしゅ 各様 かくよう の職務 しょくむ 日記 にっき が記録 きろく された。
これに対 たい し個人 こじん の私的 してき な日記 にっき の早 はや い例 れい としては,746年 ねん (天平 てんぴょう 18)の具 ぐ 注 ちゅう 暦 れき に書 か き込 こ まれた記文 きぶん があるが,さらに公家 くげ の間 あいだ に日記 にっき の記載 きさい が盛 さか んになるに伴 ともな い,公 おおやけ 日記 にっき に対 たい し〈私記 しき 〉とか〈私 わたし 日記 にっき 〉の称 しょう も生 う まれた。そのある程度 ていど まとまった記文 きぶん を今日 きょう に伝 つた える最初 さいしょ は,《宇多天皇 うだてんのう 御 ご 記 き 》以下 いか の三 さん 代 だい 御 ご 記 き であろうが,以後 いご ,天皇 てんのう ・皇族 こうぞく ,摂関 せっかん 以下 いか 公卿 くぎょう ・殿上人 てんじょうびと ・官 かん 人 じん ,武家 ぶけ ・僧侶 そうりょ ・学者 がくしゃ 文人 ぶんじん 等 とう ,各 かく 階層 かいそう の人々 ひとびと によって書 か かれた日記 にっき が数多 かずおお く伝 つて 存 そん している。その記述 きじゅつ の内容 ないよう は,記 き 主 ぬし の個性 こせい や身分 みぶん ,職務 しょくむ などによって異 こと なるが,ことに公家 くげ 日記 にっき では,中世 ちゅうせい 以降 いこう しだいに固定 こてい 化 か した家職 かしょく ・家格 かかく が記述 きじゅつ に反映 はんえい して,それぞれの特色 とくしょく を鮮明 せんめい にしている。またそれらの公家 くげ 日記 にっき の名称 めいしょう は,藤原 ふじわら 宗忠 むねただ の日記 にっき 《愚 ぐ 林 りん 》をはじめ,三条 さんじょう 実 みのる 房 ぼう の《愚昧 ぐまい 記 き 》あるいは後 こう 崇 たかし 光 ひかり 院 いん の《看 み 聞日記 にっき 》などのような,記 き 主 ぬし の謙称 けんしょう ないし自称 じしょう とみられるものもあるが,多 おお くは後 のち に子孫 しそん などによって名付 なづ けられたもので,それにはいくつかの型 かた がある。藤原 ふじわら 忠平 ちゅうへい の《貞 さだ 信 しん 公 おおやけ 記 き 》,平 ひら 親 おや 信 しん の《親 おや 信 しん 卿 きょう 記 き 》,平信 へいしん 範 はん の《人 ひと 車 しゃ 記 き 》(信 しん 範 はん の扁 ひらた )などのような諡号 しごう (しごう)や諱 いみな (いみな)によるもの,藤原 ふじわら 師 し 輔の《九 きゅう 暦 れき 》や大江匡房 おおえのまさふさ の《江 こう 記 き 》のような通称 つうしょう ・氏 し 称 しょう によるもの,三条 さんじょう 長 ちょう 兼 けん の《三 さん 長 ちょう 記 き 》や勘解由小路 かげゆこうじ 兼 けん 仲 なか の《勘 かん 仲 なか 記 き 》のような通称 つうしょう と諱 いみな の複 ふく 合 あい によるもの,藤原 ふじわら 為 ため 隆 たかし の《永 えい 昌記 まさき 》のような居所 きょしょ (永昌 えいしょう 坊 ぼう )によるもの,春宮 とうぐう 権 けん 大夫 たいふ 藤原 ふじわら 資 し 房 ぼう の《春記 はるき 》,左大臣 さだいじん 藤原 ふじわら 頼 よりゆき 長 ちょう の《台 たい 記 き 》など官職 かんしょく 名 めい によるもの,小野 おの 宮 みや 右大臣 うだいじん 実 じつ 資 し の《小 しょう 右記 うき 》,葉室 はむろ 中納言 ちゅうなごん 定 てい 嗣の《葉 は 黄 き 記 き 》など居所 きょしょ ないし通称 つうしょう と官職 かんしょく 名 めい の複 ふく 合 あい ,藤原 ふじわら 忠実 ちゅうじつ の《殿 しんがり 暦 れき 》,藤原 ふじわら 忠 ただし 通 どおり の《玉 たま 林 りん 》のような尊称 そんしょう ないし美称 びしょう などが主 おも な型 かた である。執筆 しっぴつ 者 しゃ :橋本 はしもと 義彦 よしひこ
近世 きんせい の日記 にっき 近世 きんせい の日記 にっき は,前代 ぜんだい に比 ひ して,その書 か き手 て がいちじるしく広範 こうはん になったのが,特徴 とくちょう である。公家 くげ ,武家 ぶけ ,社家 しゃけ ,僧侶 そうりょ ,文人 ぶんじん などのほかに,農民 のうみん や町人 ちょうにん たちが,家業 かぎょう の必要 ひつよう 上 じょう ,あるいは純粋 じゅんすい に記録 きろく を残 のこ したいという動機 どうき から,多 おお くの日記 にっき を残 のこ している。女性 じょせい の日記 にっき が多 おお く残 のこ るようになったのも,この時代 じだい の特質 とくしつ であろう。
まず朝廷 ちょうてい 関係 かんけい では皇室 こうしつ の日記 にっき に後 こう 桜 さくら 町 まち 院 いん ,桃園 ももぞの 院 いん ,後 ご 桃園 ももぞの 院 いん ,光 ひかり 格 かく 天皇 てんのう ,孝明天皇 こうめいてんのう のものがあり,いずれも京都 きょうと 東山 ひがしやま 御 ご 文庫 ぶんこ に保存 ほぞん されている。親王 しんのう では桂 かつら 離宮 りきゅう の智仁 ともひと 親王 しんのう のものがある。また室町 むろまち 中期 ちゅうき 以来 いらい の《御湯 おゆ 殿上 てんじょう 日記 にっき 》は,1820年 ねん (文政 ぶんせい 3)まで書 か きつがれた。皇室 こうしつ の女性 じょせい のものでは,仁孝天皇 にんこうてんのう 皇后 こうごう 鷹司 たかつかさ 氏 し の《新 しん 朔 ついたち 平 ひら 門 もん 院 いん 御 ご 記 き 》,女官 にょかん の《庭田 にわた 嗣子 しし 日記 にっき 》《中山 なかやま 績子日記 にっき 》《押小路 おしこうじ 甫 はじめ 子 こ 日記 にっき 》などがある(なお後 こう 桜 さくら 町 まち 院 いん は女帝 にょてい である)。以上 いじょう は天皇 てんのう の身近 みぢか に関 かん するものであるが,機関 きかん としての朝廷 ちょうてい の記録 きろく には議 ぎ 奏 そう 日記 にっき (17世紀 せいき 末 まつ ~幕末 ばくまつ ),番 ばん 衆 しゅ 所 しょ 日記 にっき ,執 と 次 じ 詰所 つめしょ 日記 にっき ,非 ひ 蔵人 くろうど (ひくろうど)日記 にっき (以上 いじょう いずれも中期 ちゅうき 以降 いこう )などがある。公家 くげ の記録 きろく は各 かく 家 いえ のほかに宮内庁 くないちょう 書 しょ 陵 りょう 部 ぶ に多 おお く伝 つて 存 そん している。それらには当主 とうしゅ のもののほかに,玄関 げんかん 日記 にっき ,詰所 つめしょ 日記 にっき ,役所 やくしょ 日記 にっき など諸 しょ 大夫 たいふ ・用人 ようにん などの家 いえ 司 し によって記 しる された,公家 くげ の家政 かせい あるいは公的 こうてき 業務 ぎょうむ の記録 きろく も含 ふく まれている。なかでも武家 ぶけ 伝奏 てんそう の家 いえ のものは公武 こうぶ 関係 かんけい を知 し る上 じょう で重要 じゅうよう な史料 しりょう である。
社寺 しゃじ の日記 にっき では,春日 かすが 社 しゃ ,北野 きたの 社 しゃ ,東寺 とうじ ,多聞 たもん 院 いん ,鹿 しか 苑 えん 院 いん のものなど前 ぜん 時代 じだい から引 び きつづくもののほかにも多 おお くの記録 きろく がつくられたが,神 かみ 竜 りゅう 院 いん 梵舜の《舜 しゅん 旧記 きゅうき 》,醍醐寺 だいごじ 三宝院義演の《義 ぎ 演 えんじ 准 じゅん 后 きさき 日記 にっき 》,以心崇伝 すうでん の《本 ほん 光 ひかり 国師 こくし 日記 にっき 》などは,初期 しょき の政治 せいじ 史 し の史料 しりょう としても重要 じゅうよう である。また中期 ちゅうき 以降 いこう では,江戸 えど の《浅草寺 せんそうじ 日記 にっき 》や日光 にっこう 東照宮 とうしょうぐう の《御 ご 番所 ばんしょ 日記 にっき 》は寺社 じしゃ 内部 ないぶ だけでなく地域 ちいき の事情 じじょう についても興味深 きょうみぶか い記事 きじ を提供 ていきょう している。
幕府 ばくふ では,公式 こうしき の記録 きろく として〈御 ご 日記 にっき (おにつき)〉(《江戸 えど 幕府 ばくふ 日記 にっき 》)が作成 さくせい された。これは右筆 ゆうひつ (ゆうひつ)の役目 やくめ であり,中期 ちゅうき に右筆 ゆうひつ が表 ひょう と奥 おく とに分 わ かれて以降 いこう は,奥 おく 右筆 ゆうひつ の役目 やくめ となった。一 ひと つ書 が きで簡潔 かんけつ に記 しる す体裁 ていさい をとり,これによって個々 ここ の事件 じけん の細部 さいぶ を知 し ろうとするのは無理 むり であるが,公式 こうしき のものであるだけに,この時代 じだい の第 だい 一等 いっとう 史料 しりょう であることは確 たし かである。〈年号 ねんごう ・日記 にっき 〉〈柳営 りゅうえい 日次 にちじ 記 き (りゆうえいひなみき)〉などの表題 ひょうだい で内閣 ないかく 文庫 ぶんこ に伝 つて 存 そん するが,明 あかり 暦 れき の大火 たいか (1657)以前 いぜん のものについては,姫路 ひめじ 酒井 さかい 家 か や島原 しまばら 松平 まつだいら 家 か などに伝 つた えられた写本 しゃほん で補 おぎな わなければならない。このほかに《御 ご 書物 しょもつ 方 かた 日記 にっき 》《唐 から 通事 つうじ 会所 かいしょ 日 び 録 ろく 》《御徒 おかち 方 かた (おかちかた)万 まん 年 ねん 記 き 》など幕府 ばくふ の各 かく 役向 やくむき で書 か き継 つ がれたものもある。老中 ろうじゅう や奉行 ぶぎょう など幕府 ばくふ 役職 やくしょく 者 しゃ の記録 きろく は,原則 げんそく として幕府 ばくふ にではなく役職 やくしょく 者 しゃ の家 いえ に伝 つた わった。稲垣 いながき 重富 しげとみ (若年寄 わかどしより ),土屋 つちや 篤 あつし 直 ただし ・泰 たい 直 ただし ・英直 ひでなお ・彦直(よしなお)・寅 とら 直 じき (ともなお)(奏者 そうしゃ 番 ばん ,寺社 じしゃ 奉行 ぶぎょう ),水野 みずの 忠 ただし 友 とも (老中 ろうじゅう ),安藤 あんどう 惟 おもんみ 徳 とく (これのり)(大目 おおめ 付 づけ ),水野 みずの 忠 ただし 成 なり (ただあきら)(老中 ろうじゅう ),水野 みずの 忠邦 ただくに (老中 ろうじゅう ),大岡 おおおか 忠相 ただすけ (ただすけ)(越前 えちぜん 守 まもる ,寺社 じしゃ 奉行 ぶぎょう ),水野 みずの 忠 ただし 精 せい (ただきよ)(老中 ろうじゅう ),村 むら 垣 かき 範 はん 正 ただし (外国 がいこく 奉行 ぶぎょう ),堀田 ほった 正睦 まさとし (まさよし)(老中 ろうじゅう ),小栗 おぐり 忠順 ただまさ (ただまさ)(外国 がいこく 奉行 ぶぎょう ,海軍 かいぐん 奉行 ぶぎょう )など中 ちゅう 後期 こうき のものが多数 たすう 残 のこ されている。
諸 しょ 藩 はん では,幕府 ばくふ 〈御 ご 日記 にっき 〉と同様 どうよう に,家老 がろう が執務 しつむ する御 ご 用部屋 ようべや で右筆 ゆうひつ などによっていわゆる〈御用 ごよう 部屋 へや 日記 にっき 〉が作 つく られた。大名 だいみょう 自身 じしん の日記 にっき も池田 いけだ 光政 みつまさ (岡山 おかやま ),佐竹 さたけ 義和 よしかず (よしまさ)・義 よし 厚 あつし (よしひろ)・義 よし 睦 むつみ (よしちか)(秋田 あきた ),酒井 さかい 忠 ただし 以 (ただざね)(姫路 ひめじ ),松平 まつだいら 容 ひろし 敬 けい (かたたか)(会津 あいづ ),伊達 だて 宗城 むねなり (むねなり)(宇和島 うわじま )などの日記 にっき が知 し られている。家臣 かしん の日記 にっき も数多 かずおお い。藩 はん の行政 ぎょうせい ・職務 しょくむ 上 じょう の記録 きろく では,日記 にっき 風 ふう のスタイルのほかに,いわゆる一 いち 件 けん 書類 しょるい (ある件 けん に関 かん する文書 ぶんしょ ・記録 きろく の写 うつ しをとりまとめたもの)が随時 ずいじ 作成 さくせい された(この点 てん は,町 まち や村 むら の記録 きろく についても同様 どうよう であり,日々 ひび の日記 にっき のほかに一 いち 件 けん 書類 しょるい が膨大 ぼうだい に作 つく られたのは,近世 きんせい の記録 きろく の特質 とくしつ である)。
数多 かずおお く書 か かれた学者 がくしゃ ・文人 ぶんじん の日記 にっき は,それぞれの全集 ぜんしゅう や単行本 たんこうぼん として刊行 かんこう されているものが多 おお い。町 まち や村 むら ,町人 ちょうにん や農民 のうみん の日記 にっき も,最近 さいきん では県 けん 市町村 しちょうそん 史 し に史料 しりょう として収録 しゅうろく される機会 きかい が多 おお くなっている。行政 ぎょうせい 機構 きこう としての町 まち ・村 むら には町会 ちょうかい 所 しょ 日記 にっき や御用 ごよう 日記 にっき が残 のこ された。祭 まつ りや年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ を共同 きょうどう で行 おこな った日記 にっき ,職人 しょくにん 仲間 なかま の太子 たいし 講 こう ,若者 わかもの 組 ぐみ の行事 ぎょうじ や集会 しゅうかい の日記 にっき もある。このほかに,商家 しょうか や農家 のうか の経営 けいえい に関 かん する日記 にっき が中 ちゅう 後期 こうき 以降 いこう に多数 たすう 出現 しゅつげん したのも,この時代 じだい の特徴 とくちょう である。商家 しょうか のそれは帳簿 ちょうぼ として考察 こうさつ されるべきものであるが,農家 のうか のそれは年季奉公 ねんきぼうこう 人 じん による地主 じぬし 手 しゅ 作 さく 経営 けいえい の成立 せいりつ と関係 かんけい がある。年々 ねんねん の農作業 のうさぎょう ,奉公人 ほうこうにん に対 たい する食事 しょくじ の内容 ないよう ・給与 きゅうよ や休日 きゅうじつ ,年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ など,経営 けいえい 主体 しゅたい としての関心 かんしん がそこにみられるからである。
女性 じょせい の日記 にっき としては,初期 しょき では伊藤 いとう 仁斎 じんさい 母 はは の《寿 ことぶき 玄 げん 日記 にっき 》が著名 ちょめい である。中 ちゅう 後期 こうき では内親王 ないしんのう や公家 くげ 夫人 ふじん のもののほかに,頼 よりゆき 山陽 さんよう 母 はは の《頼 よりゆき 梅 うめ 颸(ばいし)日記 にっき 》,紀州 きしゅう 藩儒 はんじゅ 者 しゃ 河合 かわい 梅 うめ 所 しょ 夫人 ふじん の《河合 かわい 小梅 こうめ 日記 にっき 》,旗本 はたもと 井関 いせき 親 ちかし 興 きょう 夫人 ふじん の《井関 いせき 隆子 たかこ 日記 にっき 》などが知 し られている。河内 かわち 国 こく 古市 ふるいち 村 むら (現 げん ,羽曳野 はびきの 市 し )の〈西谷 にしたに さく女 おんな 日記 にっき 〉など,商家 しょうか の女性 じょせい のものも,いくつか発見 はっけん されている。
以上 いじょう のように近世 きんせい では,経済 けいざい と文化 ぶんか の発展 はってん を背景 はいけい に,文字 もじ を書 か く人口 じんこう が中世 ちゅうせい に比 ひ して格段 かくだん に増加 ぞうか した結果 けっか ,多 おお くの階層 かいそう の人々 ひとびと によって日記 にっき が作 つく られた。御 ご 伊勢参 いせまい りなど,この時代 じだい に全国 ぜんこく 的 てき に盛 さか んであった寺社 じしゃ 参詣 さんけい の道中 どうちゅう 記 き が庶民 しょみん の手 て で多 おお く作 つく られ,文学 ぶんがく の一 いち ジャンルにまでなったのも,上記 じょうき の傾向 けいこう をものがたっている。執筆 しっぴつ 者 しゃ :高木 たかぎ 昭作 しょうさく
伝 つて 存 そん と利用 りよう 現在 げんざい 伝 つて 存 そん している日記 にっき は,藤原 ふじわら 道長 みちなが の《御堂 みどう 関白 かんぱく 記 き 》をはじめ記 き 主 ぬし の自筆 じひつ 原本 げんぽん も珍 めずら しくはないが,多 おお くは書写 しょしゃ あるいは抄出 しょうしゅつ などの手 て を経 へ て伝 つた えられたものである。とくに公家 くげ の間 あいだ では,先人 せんじん の日記 にっき 記録 きろく を朝 あさ 儀 ただし ・公事 こうじ の奉仕 ほうし に役立 やくだ てるため,つねづねその書写 しょしゃ を心 こころ がけ,あるいは必要 ひつよう な記文 きぶん を書 か き抜 ぬ き,また要目 ようもく をとって目録 もくろく を作成 さくせい し,さらに項目 こうもく に従 したが って目録 もくろく を作成 さくせい し,さらに項目 こうもく に従 したが って該当 がいとう 記事 きじ を抄出 しょうしゅつ 類聚 るいじゅう し,部類 ぶるい 記 き を作 つく った。いま伝 でん 存 そん する《貞 さだ 信 しん 公 おおやけ 記 き 》や《九 きゅう 暦 れき 》は抄録 しょうろく 本 ほん であり,《小 しょう 右記 うき 》の要目 ようもく をとって部類 ぶるい した《小 しょう 記 き 目録 もくろく 》はすでに平安 へいあん 時代 じだい 末期 まっき には成立 せいりつ して,本 ほん 記 き の欠 かけ を補 おぎな う貴重 きちょう な史料 しりょう となっており,さらに各種 かくしゅ の部類 ぶるい 記 き は,現在 げんざい 散逸 さんいつ した本 ほん 記 き の遺文 いぶん の宝庫 ほうこ である。部類 ぶるい 記 き は,藤原 ふじわら 宗忠 むねただ が自分 じぶん の日記 にっき を編集 へんしゅう した《中 ちゅう 右記 うき 部類 ぶるい 》のような単一 たんいつ の日記 にっき によるもの,逆 ぎゃく に《御産 おさん 部類 ぶるい 記 き 》や《東宮 とうぐう 御 ご 元服 げんぷく 部類 ぶるい 記 き 》のように,単一 たんいつ の事項 じこう について多数 たすう の日記 にっき から編集 へんしゅう したものなどがあるが,江戸 えど 時代 じだい には,水戸 みと の史 ふみ 局 きょく によって,恒例 こうれい 公事 こうじ 143項目 こうもく ,臨時 りんじ 公事 こうじ 91項目 こうもく にわたり,233部 ぶ の日記 にっき 記録 きろく から記文 きぶん を抄出 しょうしゅつ 類聚 るいじゅう した《礼儀 れいぎ 類 るい 典 てん 》515巻 かん が編纂 へんさん されるに至 いた った。日記 にっき 記録 きろく の刊行 かんこう は,江戸 えど 時代 じだい 末期 まっき 以来 いらい 個別 こべつ 的 てき に行 おこな われてきたが,《史料 しりょう 通覧 つうらん 》とそれを増補 ぞうほ した《史料 しりょう 大成 たいせい 》に初 はじ めて数 すう 多 おお くの日記 にっき が叢書 そうしょ として収 おさ められ,さらに《大 だい 日本 にっぽん 古記 こき 録 ろく 》や《史料 しりょう 纂集》の刊行 かんこう によって,順次 じゅんじ 未刊 みかん の日記 にっき 記録 きろく が翻刻 ほんこく されている。また近年 きんねん ,近 きん 現代 げんだい 史 し の研究 けんきゅう の発展 はってん と歩調 ほちょう を合 あ わせて《原 はら 敬 たかし 日記 にっき 》などの近 きん 現代 げんだい の日記 にっき 類 るい も相 あい ついで刊行 かんこう されている。 →記録 きろく 執筆 しっぴつ 者 しゃ :橋本 はしもと 義彦 よしひこ
ヨーロッパ 日記 にっき が年代 ねんだい 記 き ,回想 かいそう 録 ろく ,手記 しゅき と区別 くべつ されるのは,構成 こうせい することなく日 ひ ごとに書 か く点 てん である。英語 えいご でdiary,ドイツ語 ご でTagebuch,フランス語 ふらんすご ではjournalという。年代 ねんだい 記 き は修道院 しゅうどういん や教会 きょうかい でカロリング朝 あさ 以前 いぜん から書 か かれ,治世 ちせい 者 しゃ ,貴族 きぞく も書 か かせたが,15世紀 せいき から盛 さか んになり,このころから日記 にっき も現 あらわ れはじめた。これは商人 しょうにん 階級 かいきゅう の台頭 たいとう と軌 き を一 いつ にしている。1405年 ねん から49年 ねん の間 あいだ つけられた《パリ一 いち 市民 しみん の日記 にっき 》が現存 げんそん する最 もっと も古 ふる いものである。16世紀 せいき に入 はい るとフランス王 おう フランソア1世 せい の大 だい 法官 ほうかん デュプラの秘書 ひしょ ジャン・バリヨンJean Barillonの《目録 もくろく 》(1515-21),もう一 ひと つの《パリ一 いち 市民 しみん の日記 にっき 》(1519-30),パリ高等法院 こうとうほういん のベルソリNicolas Versorisの《日計 にっけい 簿 ぼ 》,ピエール・ド・レストアールPierre de l'Estoileの《アンリ3世 せい 下 か の日記 にっき 》,のちのルイ13世 せい の侍医 じい エロアールの《日記 にっき 》,モンテーニュの《旅 たび 日記 にっき 》,またイタリアではマキアベリの《日記 にっき 》等々 とうとう がある。中世 ちゅうせい に日記 にっき が存在 そんざい した可能 かのう 性 せい もあるが,市民 しみん 階級 かいきゅう が台頭 たいとう した15世紀 せいき から多 おお くの日記 にっき が残 のこ されていることは注目 ちゅうもく に値 あたい する。17世紀 せいき 後半 こうはん の貴重 きちょう な生活 せいかつ 記録 きろく 6巻 かん (1660年 ねん 1月 がつ 1日 にち ~69年 ねん 5月 がつ 31日 にち )を暗号 あんごう で書 か き残 のこ したイギリスのS.ピープス が当時 とうじ の新興 しんこう ブルジョアジーに属 ぞく することも示唆 しさ 的 てき である。17世紀 せいき のフランス貴族 きぞく 社会 しゃかい でもアルノー・ダンディイArnauld d'Andilly,オリビエ・ル・フェーブル・ドルメソンOlivier le Févre d'Ormesson,ダンジョー侯爵 こうしゃく Marquis de Dangeauらの日記 にっき があり,18世紀 せいき のマティユ・マレ,バルビエらの日記 にっき に継承 けいしょう される。18世紀 せいき には貴族 きぞく 社会 しゃかい の批判 ひはん 的 てき 観察 かんさつ からラ・ブリュイエールの《人 ひと さまざま》が生 う まれ,サン・シモンの膨大 ぼうだい な《回想 かいそう 録 ろく 》が残 のこ された。18世紀 せいき 末 まつ にはルソーの《告白 こくはく 》《孤独 こどく な散歩 さんぽ 者 しゃ の夢想 むそう 》が内面 ないめん 観照 かんしょう の道 みち をひらき19世紀 せいき の日記 にっき の隆盛 りゅうせい に大 おお きく寄与 きよ した。モンテスキューの《ノート》と16世紀 せいき のレオナルド・ダ・ビンチの《手帖 てちょう 》も公刊 こうかん された(1797)。
このころに起 お こったイギリスの産業 さんぎょう 革命 かくめい とフランス革命 かくめい による社会 しゃかい 変動 へんどう と階級 かいきゅう 制度 せいど の改変 かいへん は個人 こじん と社会 しゃかい の間 あいだ に緊張 きんちょう 状態 じょうたい をもたらし,この結果 けっか ,19世紀 せいき から20世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけて個人 こじん の内面 ないめん 生活 せいかつ を記 しる す日記 にっき が急増 きゅうぞう した。小説 しょうせつ の隆盛 りゅうせい と軌 き を一 いつ にしている。小説 しょうせつ 中 ちゅう にも17,18世紀 せいき の〈手紙 てがみ 〉に代 か わって〈日記 にっき 〉〈手記 しゅき 〉〈手帖 てちょう 〉が現 あらわ れるようになり,女性 じょせい の自立 じりつ とともにヨーロッパでは女性 じょせい も日記 にっき を書 か けるようになった。ピープスは自分 じぶん は日記 にっき をつけながら妻 つま に日記 にっき をつけることを許 ゆる さず破 やぶ っている。フランス革命 かくめい 前 まえ の女性 じょせい が書 か いたのはセビニェ夫人 ふじん に代表 だいひょう されるように〈書簡 しょかん 〉であった。J.サンド,K.マンスフィールド,ドロシー・ワーズワース(詩人 しじん の妹 いもうと )らの日記 にっき が有名 ゆうめい である。絵本 えほん で知 し られるベアトリス・ポッターにも暗号 あんごう で書 か いた日記 にっき がある。スタンダール,コンスタン,ミシュレ,ビニー,サンド,ロビンソンHenry Crabb Robinson,グリルパルツァー,ヘッベルらロマン派 は 的 てき 傾向 けいこう の詩人 しじん ,作家 さっか と日記 にっき は不可分 ふかぶん の関係 かんけい となった。19世紀 せいき からの出版 しゅっぱん の多様 たよう 化 か から,日記 にっき の書 か き手 て も公刊 こうかん の可能 かのう 性 せい を意識 いしき するようになった。
宗教 しゅうきょう 上 じょう の自己 じこ 反省 はんせい の具 ぐ としての日記 にっき はメソディスト派 は を興 おこ したJ.ウェスリー,ピューリタンのJ.ウィンスロップ,マザーCotton Mather,シューワルSamuel Sewallらのが重要 じゅうよう で,内心 ないしん 観照 かんしょう の伝統 でんとう はエマソン,ソロー,ホイットマンらに受 う け継 つ がれ,明治 めいじ 期 き の日本 にっぽん にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。文壇 ぶんだん 生活 せいかつ を書 か いたゴンクールの日記 にっき ,ロシアの少女 しょうじょ バシュキルツェフの日記 にっき ,スイスのアミエルの1万 まん 6990ページの膨大 ぼうだい な自己 じこ 観照 かんしょう に徹 てっ した日記 にっき も忘 わす れられない。20世紀 せいき には公刊 こうかん を意識 いしき しながら書 か かれたレオトー,ジッドの日記 にっき のほか,J.グリーン,F.モーリヤック,G.マルセル《形而上学 けいじじょうがく 的 てき 日記 にっき 》などカトリック作家 さっか の日記 にっき も重要 じゅうよう であり,ジュアンドーMarcel Jouhandeauの21巻 かん の《日 にち 録 ろく Journaliers》,日課 にっか として書 か かれたバレリーの《ノートCahiers》32巻 かん などの記録 きろく は,日記 にっき の概念 がいねん が変化 へんか していることを示 しめ している。 →日記 にっき 文学 ぶんがく 執筆 しっぴつ 者 しゃ :松原 まつばら 秀一 ひでかず