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日記(ニッキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

日記にっきみ)ニッキ

デジタル大辞泉だいじせん日記にっき」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

にっ‐き【日記にっき

毎日まいにち出来事できごと感想かんそうなどの記録きろく日誌にっしにちろくダイアリー。「かかさずに日記にっきをつける」「日記にっき
にち記帳きちょう」のりゃく
[せつ]書名しょめい別項べっこう。→日記にっき
[類語るいご]ダイアリー日誌にっし日乗にちじょうにちろく

にっき【日記にっき】[書名しょめい

原題げんだい、〈フランスJournalルナール日記にっき。1887ねんから直前ちょくぜんまで、24年間ねんかんにわたりつづけられたもの。著者ちょしゃぼつ刊行かんこうされた全集ぜんしゅうにより一般いっぱん公開こうかいされた。

に‐き【日記にっき

にっき」の促音そくおん表記ひょうき
「をとこもすなる―といふものを」〈土佐とさ

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん日記にっき」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

にっ‐き【日記にっき

  1. 名詞めいし
  2. 事実じじつ記録きろくすること。また、その記録きろく実録じつろく。にき。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「注進ちゅうしん 若狭わかさこくふううち絹布けんぷ日記にっき」(出典しゅってん東南とうなんいん文書ぶんしょてんさんねん(1055)いちがついちよんにち東大寺とうだいじけんてらぬしふうぶつ注進ちゅうしん日記にっき)
    2. 「このこと、いづれの日記にっきえたりといふことらねども」(出典しゅってん古今ここん著聞ちょぶんしゅう(1254)なな)
  3. できごとや感想かんそういちにちごとにまとめ、づけをつけて、その当日とうじつまたは接近せっきんした時点じてん記録きろくすること。また、その記録きろくにちろく日乗にちじょう。にき。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「侍従じじゅう以下いかうえしょうろく日記にっきいち哉」(出典しゅってんれいしゅうかい(868)職員しょくいん)
    2. [その文献ぶんけん]〔ろうがくあん筆記ひっきまきさん
  4. にっきちょう(日記にっきちょう」のりゃく

日記にっきう《 季語きごふゆ

  1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「Nicqini(ニッキニ) noru(ノル)わけ帳簿ちょうぼ記載きさいしてある」(出典しゅってんにち葡辞しょ(1603‐04))

日記にっきかたり

( 1 )漢語かんご日記にっき」は日本にっぽんはやくから公文こうぶん書類しょるいなどに使用しようられ、現在げんざいまで呉音ごおんみ「にっき」が定着ていちゃくしている。平仮名ひらがなぶんではおおく、「」の促音そくおん表記ひょうきにして「にき」とかれた。
( 2 )男性だんせい貴族きぞく漢字かんじのみをもちいた真名まな日記にっきのこしており、おも公的こうてき行事ぎょうじについての記録きろくであった。これにたいして平仮名ひらがなしるされたものは私的してき心情しんじょう表出ひょうしゅつおもきをき、文学ぶんがくせいたかい。→日記にっき文学ぶんがく


に‐き【日記にっき

  1. 名詞めいし ( 「にっき」の促音そくおん表記ひょうき ) =にっき(日記にっき
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「をとこもすなる日記にっきといふものを、をむなもしてみんとてするなり」(出典しゅってんひだり日記にっき(935ごろ発端ほったん)

出典しゅってん 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん日記にっき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

日記にっき (にっき)

日本にっぽんにおける〈日記にっき〉のかたりは,古来こらい広狭こうきょうさまざまな意味いみもちいられた。にちにかけて事実じじつきしるしたものという観点かんてんから,ろく国史こくし以下いか史書ししょ日記にっきとよぶこともひろおこなわれたし,特定とくてい事件じけんかんする報告ほうこくしょとい注記ちゅうきことはつ日記にっきとか,もんちゅう日記にっきかんとい日記にっきしょうした。また《土佐とさ日記にっき》や《蜻蛉とんぼ日記にっき》のように,紀行きこう回想かいそうろく随筆ずいひつとう文学ぶんがく作品さくひん日記にっきしょうしたものもすくなくない(〈日記にっき文学ぶんがく〉のこう参照さんしょう)。しかし備忘びぼうのため日々ひびのできごとを記録きろくしたもの,すなわち狭義きょうぎ日記にっきが,日本にっぽんのように9世紀せいきちゅうごろからほとんど間断かんだんなくつてそんしていることは,中国ちゅうごくにも欧米おうべいにもれいをみない現象げんしょうであり,現在げんざい文献ぶんけん史料しりょうとしては,典籍てんせき文書ぶんしょたいし,記録きろくとよばれておもんぜられている。日本にっぽんにおける最古さいこれいは《せいくらいん文書ぶんしょ天平てんぴょう18ねん(746)の断簡だんかんもとめることができるが,明確めいかくあらわれるのは平安へいあん時代じだいである。

記録きろくとしての日記にっきは,記載きさい形態けいたい機能きのうにより,日次にちじ(ひなみき)と別記べっき大別たいべつできる。日次にちじ日々ひび行動こうどう事件じけん日次にちじってきついでゆく,普通ふつうかたち日記にっきである。すでに大宝たいほうれい養老ようろうれいにおいて中務なかつかさしょう内記ないきがつかさどると規定きていされている〈御所ごしょ記録きろく〉が,中国ちゅうごくにおいて天子てんし日常にちじょう起居ききょ言行げんこう史官しかん記録きろくした起居ききょちゅう同類どうるいのものとすれば,内廷ないてい日記にっき一種いっしゅとみなすことができるであろう。9世紀せいきちゅうごろの藤原ふじわらの《九条くじょう殿どの遺誡いかい》には,毎日まいにち起床きしょうまず昨日きのうことこよみしてゆるがせ忘にそなえよとおしえ,当時とうじすでに宮廷きゅうてい貴族きぞくあいだにも,日記にっき記載きさい習慣しゅうかん定着ていちゃくしていたことを物語ものがたっている。その公家くげ日記にっきは,鎌倉かまくら時代じだいまでは巻子まきこ仕立したてのちゅうこよみきつけたものがおおく,こよみめんの2~4ぎょう空白くうはく記載きさいしたので,こよみともいわれた。また記事きじこよみめんききれない場合ばあい裏面りめんつづけたり,白紙はくしをはりいでき,さらに記事きじ関連かんれんする文書ぶんしょをはりこんだものもある。しかし南北なんぼくあさ時代じだい以降いこうはしだいに冊子さっしほんおおくなり,江戸えど時代じだいになると巻子本かんすぼんかれたものはめずらしくなった。

 これにたい別記べっき特定とくてい事柄ことがらについて,日次にちじとはべつ詳細しょうさい記録きろくのこすためめたものである。《政事せいじ要略ようりゃく》には790ねんのべれき9)のつい儺(ついな)にかんする〈そとべつ日記にっき〉を引載しているが,上記じょうきの《九条くじょう殿どの遺誡いかい》には,ようくるる公事こうじこよみとはべつくわしくきしるしてこうかんに備うべしとさとし,自身じしんおおくの別記べっきのこした。また藤原ふじわらよりゆきちょうも1142ねん康治こうじ1)のだい嘗会のあと,10日間にちかんにわたり諸事しょじをなげうって36まいおよ別記べっき書記かきしるしたという。こうしてあさただし公事こうじ対象たいしょうとした廷臣ていしん別記べっきおおつてそんしているが,ほかに藤原ふじわら宗忠むねただ藤原ふじわら定家さだいえ熊野くまのまい別記べっきなどもあり,円仁えんにんの《入唐にっとう求法ぐほう巡礼じゅんれいぎょう》やなりひろの《まいり天台てんだい五台山ごだいさん》なども別記べっき一種いっしゅとみなすことができるであろう。

日記にっきはまたぬし筆者ひっしゃ立場たちばにより,おおやけ日記にっきわたし日記にっきけることができる。おおやけ日記にっきふる遺文いぶんとしては,上記じょうきのべれきそとべつ日記にっきのほか,《はしらしょう》にく886ねん仁和にわ2)の内記ないき日記にっきなどがあるが,それらはみな断片だんぺんてき逸文いつぶんないしぶんにすぎない。平安へいあん時代じだいおおやけ日記にっきのうち,一応いちおうまとまった記文きぶんつたえるのは,そと日記にっき殿上てんじょう日記にっきであるが,前者ぜんしゃ地下ちか(じげ)ないしそと廷の日記にっき後者こうしゃ殿上てんじょうないし内廷ないてい日記にっきとして,両者りょうしゃしょうおぎな性質せいしつをもっている。そと日記にっきは,太政官だじょうかんそと職務しょくむとして記録きろくしたおおやけ日記にっきで,上記じょうきのべれき別記べっきや《ぞく日本にっぽん》に引載する840ねんうけたまわ7)のそと日記にっき断片だんぺんはその遺文いぶんはやいものである。すなわち平安へいあん時代じだいはじめ,すでに別記べっきをもふくそと日記にっき記録きろくされていたわけであるが,爾後じごその記載きさい保管ほかんがしばしば督励とくれいされ,おりにふれて先例せんれいこうかんようきょうされた。したがってきつがれたそと日記にっき累積るいせきして膨大ぼうだいりょうにのぼり,11世紀せいきちゅうごろの後冷泉天皇ごれいぜいてんのうのとき,それまでに図書としょりょう紙工しこう盗用とうようしたことが発覚はっかくしたぶんだけでも200かんかぞえたという。しかし平安へいあん末期まっきにはその記載きさいもほとんど廃絶はいぜつし,そと個人こじんわたし日記にっきによってその機能きのう代替だいたいされた。なおそと日記にっき遺文いぶんは,《西宮にしのみや》や各種かくしゅ部類ぶるいなどにおさめられているほか,《日本にっぽんりゃく》や《本朝ほんちょう世紀せいき》の編纂へんさん史料しりょうとしてもその面影おもかげのこしている。

 殿上てんじょう日記にっきは,当番とうばん蔵人くろうど記録きろくした職務しょくむ日記にっきである。《さむらいちゅうぐんよう》にせる蔵人くろうどしきには,宇多天皇うだてんのう勅命ちょくめいとして,当番とうばん記事きじ大小だいしょう遺脱いだつすることなく記載きさいすべしとみえ,べつに〈日記にっきたい〉としてのそのからだれいしめしている。1019ねん寛仁かんじん3)の東宮とうぐう元服げんぷくなど,1にち記事きじをほぼ完全かんぜんかたちのこしているさんれいも,ほぼこの〈日記にっきたい〉に合致がっちしている。こうした記述きじゅつ統一とういつ永続えいぞくおおやけ日記にっき特色とくしょくであるが,殿上てんじょう日記にっき内容ないよう殿上てんじょうあさただし公事こうじ参列さんれつする公卿くぎょう殿上人てんじょうびとわたし日記にっき共通きょうつうするてんおおいためか,平安へいあん後期こうきにはすでにはいほろぼし,その今日きょうつてそんする遺文いぶんすくない。しかしその幕府ばくふ社寺しゃじにおける職務しょくむ日記にっき記載きさいさかんになり,宮廷きゅうていでも《御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき以下いか女房にょうぼう日記にっきをはじめ,《そう日次にちじあん》や禁裏きんり仙洞せんとう詰所つめしょ(とりつぎつめしよ)日記にっきなどがきつがれ,さらに伏見ふしみみや以下いかかく宮家みやけいえ日記にっきなど,公武こうぶにわたって各種かくしゅ各様かくよう職務しょくむ日記にっき記録きろくされた。

 これにたい個人こじん私的してき日記にっきはやれいとしては,746ねん天平てんぴょう18)のちゅうれきまれた記文きぶんがあるが,さらに公家くげあいだ日記にっき記載きさいさかんになるにともない,おおやけ日記にっきたいし〈私記しき〉とか〈わたし日記にっき〉のしょうまれた。そのある程度ていどまとまった記文きぶん今日きょうつたえる最初さいしょは,《宇多天皇うだてんのう以下いかさんだいであろうが,以後いご天皇てんのう皇族こうぞく摂関せっかん以下いか公卿くぎょう殿上人てんじょうびとかんじん武家ぶけ僧侶そうりょ学者がくしゃ文人ぶんじんとうかく階層かいそう人々ひとびとによってかれた日記にっき数多かずおおつてそんしている。その記述きじゅつ内容ないようは,ぬし個性こせい身分みぶん職務しょくむなどによってことなるが,ことに公家くげ日記にっきでは,中世ちゅうせい以降いこうしだいに固定こていした家職かしょく家格かかく記述きじゅつ反映はんえいして,それぞれの特色とくしょく鮮明せんめいにしている。またそれらの公家くげ日記にっき名称めいしょうは,藤原ふじわら宗忠むねただ日記にっきりん》をはじめ,三条さんじょうみのるぼうの《愚昧ぐまい》あるいはこうたかしひかりいんの《日記にっき》などのような,ぬし謙称けんしょうないし自称じしょうとみられるものもあるが,おおくはのち子孫しそんなどによって名付なづけられたもので,それにはいくつかのかたがある。藤原ふじわら忠平ちゅうへいの《さだしんおおやけ》,ひらおやしんの《おやしんきょう》,平信へいしんはんの《ひとしゃ》(しんはんひらた)などのような諡号しごう(しごう)やいみな(いみな)によるもの,藤原ふじわら輔の《きゅうれき》や大江匡房おおえのまさふさの《こう》のような通称つうしょうしょうによるもの,三条さんじょうちょうけんの《さんちょう》や勘解由小路かげゆこうじけんなかの《かんなか》のような通称つうしょういみなふくあいによるもの,藤原ふじわらためたかしの《えい昌記まさき》のような居所きょしょ永昌えいしょうぼう)によるもの,春宮とうぐうけん大夫たいふ藤原ふじわらぼうの《春記はるき》,左大臣さだいじん藤原ふじわらよりゆきちょうの《たい》など官職かんしょくめいによるもの,小野おのみや右大臣うだいじんじつの《しょう右記うき》,葉室はむろ中納言ちゅうなごんてい嗣の《》など居所きょしょないし通称つうしょう官職かんしょくめいふくあい藤原ふじわら忠実ちゅうじつの《殿しんがりれき》,藤原ふじわらただしどおりの《たまりん》のような尊称そんしょうないし美称びしょうなどがおもかたである。
執筆しっぴつしゃ

近世きんせい日記にっきは,前代ぜんだいして,そのがいちじるしく広範こうはんになったのが,特徴とくちょうである。公家くげ武家ぶけ社家しゃけ僧侶そうりょ文人ぶんじんなどのほかに,農民のうみん町人ちょうにんたちが,家業かぎょう必要ひつようじょう,あるいは純粋じゅんすい記録きろくのこしたいという動機どうきから,おおくの日記にっきのこしている。女性じょせい日記にっきおおのこるようになったのも,この時代じだい特質とくしつであろう。

 まず朝廷ちょうてい関係かんけいでは皇室こうしつ日記にっきこうさくらまちいん桃園ももぞのいん桃園ももぞのいんひかりかく天皇てんのう孝明天皇こうめいてんのうのものがあり,いずれも京都きょうと東山ひがしやま文庫ぶんこ保存ほぞんされている。親王しんのうではかつら離宮りきゅう智仁ともひと親王しんのうのものがある。また室町むろまち中期ちゅうき以来いらいの《御湯おゆ殿上てんじょう日記にっき》は,1820ねん文政ぶんせい3)まできつがれた。皇室こうしつ女性じょせいのものでは,仁孝天皇にんこうてんのう皇后こうごう鷹司たかつかさの《しんついたちひらもんいん》,女官にょかんの《庭田にわた嗣子しし日記にっき》《中山なかやま績子日記にっき》《押小路おしこうじはじめ日記にっき》などがある(なおこうさくらまちいん女帝にょていである)。以上いじょう天皇てんのう身近みぢかかんするものであるが,機関きかんとしての朝廷ちょうてい記録きろくにはそう日記にっき(17世紀せいきまつ幕末ばくまつ),ばんしゅしょ日記にっき詰所つめしょ日記にっき蔵人くろうど(ひくろうど)日記にっき以上いじょういずれも中期ちゅうき以降いこう)などがある。公家くげ記録きろくかくいえのほかに宮内庁くないちょうしょりょうおおつてそんしている。それらには当主とうしゅのもののほかに,玄関げんかん日記にっき詰所つめしょ日記にっき役所やくしょ日記にっきなどしょ大夫たいふ用人ようにんなどのいえによってしるされた,公家くげ家政かせいあるいは公的こうてき業務ぎょうむ記録きろくふくまれている。なかでも武家ぶけ伝奏てんそういえのものは公武こうぶ関係かんけいじょう重要じゅうよう史料しりょうである。

 社寺しゃじ日記にっきでは,春日かすがしゃ北野きたのしゃ東寺とうじ多聞たもんいん鹿しかえんいんのものなどぜん時代じだいからきつづくもののほかにもおおくの記録きろくがつくられたが,かみりゅういん梵舜の《しゅん旧記きゅうき》,醍醐寺だいごじ三宝院義演の《えんじじゅんきさき日記にっき》,以心崇伝すうでんの《ほんひかり国師こくし日記にっき》などは,初期しょき政治せいじ史料しりょうとしても重要じゅうようである。また中期ちゅうき以降いこうでは,江戸えどの《浅草寺せんそうじ日記にっき》や日光にっこう東照宮とうしょうぐうの《番所ばんしょ日記にっき》は寺社じしゃ内部ないぶだけでなく地域ちいき事情じじょうについても興味深きょうみぶか記事きじ提供ていきょうしている。

 幕府ばくふでは,公式こうしき記録きろくとして〈日記にっき(おにつき)〉(《江戸えど幕府ばくふ日記にっき》)が作成さくせいされた。これは右筆ゆうひつ(ゆうひつ)の役目やくめであり,中期ちゅうき右筆ゆうひつひょうおくとにかれて以降いこうは,おく右筆ゆうひつ役目やくめとなった。ひときで簡潔かんけつしる体裁ていさいをとり,これによって個々ここ事件じけん細部さいぶろうとするのは無理むりであるが,公式こうしきのものであるだけに,この時代じだいだい一等いっとう史料しりょうであることはたしかである。〈年号ねんごう日記にっき〉〈柳営りゅうえい日次にちじ(りゆうえいひなみき)〉などの表題ひょうだい内閣ないかく文庫ぶんこつてそんするが,あかりれき大火たいか(1657)以前いぜんのものについては,姫路ひめじ酒井さかい島原しまばら松平まつだいらなどにつたえられた写本しゃほんおぎなわなければならない。このほかに《書物しょもつかた日記にっき》《から通事つうじ会所かいしょろく》《御徒おかちかた(おかちかた)まんねん》など幕府ばくふかく役向やくむきがれたものもある。老中ろうじゅう奉行ぶぎょうなど幕府ばくふ役職やくしょくしゃ記録きろくは,原則げんそくとして幕府ばくふにではなく役職やくしょくしゃいえつたわった。稲垣いながき重富しげとみ若年寄わかどしより),土屋つちやあつしただしたいただし英直ひでなお・彦直(よしなお)・とらじき(ともなお)(奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう),水野みずのただしとも老中ろうじゅう),安藤あんどうおもんみとく(これのり)(大目おおめづけ),水野みずのただしなり(ただあきら)(老中ろうじゅう),水野みずの忠邦ただくに老中ろうじゅう),大岡おおおか忠相ただすけ(ただすけ)(越前えちぜんまもる寺社じしゃ奉行ぶぎょう),水野みずのただしせい(ただきよ)(老中ろうじゅう),むらかきはんただし外国がいこく奉行ぶぎょう),堀田ほった正睦まさとし(まさよし)(老中ろうじゅう),小栗おぐり忠順ただまさ(ただまさ)(外国がいこく奉行ぶぎょう海軍かいぐん奉行ぶぎょう)などちゅう後期こうきのものが多数たすうのこされている。

 しょはんでは,幕府ばくふ日記にっき〉と同様どうように,家老がろう執務しつむする用部屋ようべや右筆ゆうひつなどによっていわゆる〈御用ごよう部屋へや日記にっき〉がつくられた。大名だいみょう自身じしん日記にっき池田いけだ光政みつまさ岡山おかやま),佐竹さたけ義和よしかず(よしまさ)・よしあつし(よしひろ)・よしむつみ(よしちか)(秋田あきた),酒井さかいただし(ただざね)(姫路ひめじ),松平まつだいらひろしけい(かたたか)(会津あいづ),伊達だて宗城むねなり(むねなり)(宇和島うわじま)などの日記にっきられている。家臣かしん日記にっき数多かずおおい。はん行政ぎょうせい職務しょくむじょう記録きろくでは,日記にっきふうのスタイルのほかに,いわゆるいちけん書類しょるい(あるけんかんする文書ぶんしょ記録きろくうつしをとりまとめたもの)が随時ずいじ作成さくせいされた(このてんは,まちむら記録きろくについても同様どうようであり,日々ひび日記にっきのほかにいちけん書類しょるい膨大ぼうだいつくられたのは,近世きんせい記録きろく特質とくしつである)。

 数多かずおおかれた学者がくしゃ文人ぶんじん日記にっきは,それぞれの全集ぜんしゅう単行本たんこうぼんとして刊行かんこうされているものがおおい。まちむら町人ちょうにん農民のうみん日記にっきも,最近さいきんではけん市町村しちょうそん史料しりょうとして収録しゅうろくされる機会きかいおおくなっている。行政ぎょうせい機構きこうとしてのまちむらには町会ちょうかいしょ日記にっき御用ごよう日記にっきのこされた。まつりや年中ねんじゅう行事ぎょうじ共同きょうどうおこなった日記にっき職人しょくにん仲間なかま太子たいしこう若者わかものぐみ行事ぎょうじ集会しゅうかい日記にっきもある。このほかに,商家しょうか農家のうか経営けいえいかんする日記にっきちゅう後期こうき以降いこう多数たすう出現しゅつげんしたのも,この時代じだい特徴とくちょうである。商家しょうかのそれは帳簿ちょうぼとして考察こうさつされるべきものであるが,農家のうかのそれは年季奉公ねんきぼうこうじんによる地主じぬししゅさく経営けいえい成立せいりつ関係かんけいがある。年々ねんねん農作業のうさぎょう奉公人ほうこうにんたいする食事しょくじ内容ないよう給与きゅうよ休日きゅうじつ年中ねんじゅう行事ぎょうじなど,経営けいえい主体しゅたいとしての関心かんしんがそこにみられるからである。

 女性じょせい日記にっきとしては,初期しょきでは伊藤いとう仁斎じんさいははの《寿ことぶきげん日記にっき》が著名ちょめいである。ちゅう後期こうきでは内親王ないしんのう公家くげ夫人ふじんのもののほかに,よりゆき山陽さんようははの《よりゆきうめ颸(ばいし)日記にっき》,紀州きしゅう藩儒はんじゅしゃ河合かわいうめしょ夫人ふじんの《河合かわい小梅こうめ日記にっき》,旗本はたもと井関いせきちかしきょう夫人ふじんの《井関いせき隆子たかこ日記にっき》などがられている。河内かわちこく古市ふるいちむらげん羽曳野はびきの)の〈西谷にしたにさくおんな日記にっき〉など,商家しょうか女性じょせいのものも,いくつか発見はっけんされている。

 以上いじょうのように近世きんせいでは,経済けいざい文化ぶんか発展はってん背景はいけいに,文字もじ人口じんこう中世ちゅうせいして格段かくだん増加ぞうかした結果けっかおおくの階層かいそう人々ひとびとによって日記にっきつくられた。伊勢参いせまいりなど,この時代じだい全国ぜんこくてきさかんであった寺社じしゃ参詣さんけい道中どうちゅう庶民しょみんおおつくられ,文学ぶんがくいちジャンルにまでなったのも,上記じょうき傾向けいこうをものがたっている。
執筆しっぴつしゃ

現在げんざいつてそんしている日記にっきは,藤原ふじわら道長みちながの《御堂みどう関白かんぱく》をはじめぬし自筆じひつ原本げんぽんめずらしくはないが,おおくは書写しょしゃあるいは抄出しょうしゅつなどのつたえられたものである。とくに公家くげあいだでは,先人せんじん日記にっき記録きろくあさただし公事こうじ奉仕ほうし役立やくだてるため,つねづねその書写しょしゃこころがけ,あるいは必要ひつよう記文きぶんき,また要目ようもくをとって目録もくろく作成さくせいし,さらに項目こうもくしたがって目録もくろく作成さくせいし,さらに項目こうもくしたがって該当がいとう記事きじ抄出しょうしゅつ類聚るいじゅうし,部類ぶるいつくった。いまでんそんする《さだしんおおやけ》や《きゅうれき》は抄録しょうろくほんであり,《しょう右記うき》の要目ようもくをとって部類ぶるいした《しょう目録もくろく》はすでに平安へいあん時代じだい末期まっきには成立せいりつして,ほんかけおぎな貴重きちょう史料しりょうとなっており,さらに各種かくしゅ部類ぶるいは,現在げんざい散逸さんいつしたほん遺文いぶん宝庫ほうこである。部類ぶるいは,藤原ふじわら宗忠むねただ自分じぶん日記にっき編集へんしゅうした《ちゅう右記うき部類ぶるい》のような単一たんいつ日記にっきによるもの,ぎゃくに《御産おさん部類ぶるい》や《東宮とうぐう元服げんぷく部類ぶるい》のように,単一たんいつ事項じこうについて多数たすう日記にっきから編集へんしゅうしたものなどがあるが,江戸えど時代じだいには,水戸みとふみきょくによって,恒例こうれい公事こうじ143項目こうもく臨時りんじ公事こうじ91項目こうもくにわたり,233日記にっき記録きろくから記文きぶん抄出しょうしゅつ類聚るいじゅうした《礼儀れいぎるいてん》515かん編纂へんさんされるにいたった。日記にっき記録きろく刊行かんこうは,江戸えど時代じだい末期まっき以来いらい個別こべつてきおこなわれてきたが,《史料しりょう通覧つうらん》とそれを増補ぞうほした《史料しりょう大成たいせい》にはじめてすうおおくの日記にっき叢書そうしょとしておさめられ,さらに《だい日本にっぽん古記こきろく》や《史料しりょう纂集》の刊行かんこうによって,順次じゅんじ未刊みかん日記にっき記録きろく翻刻ほんこくされている。また近年きんねんきん現代げんだい研究けんきゅう発展はってん歩調ほちょうわせて《はらたかし日記にっき》などのきん現代げんだい日記にっきるいあいついで刊行かんこうされている。
記録きろく
執筆しっぴつしゃ

日記にっき年代ねんだい回想かいそうろく手記しゅき区別くべつされるのは,構成こうせいすることなくごとにてんである。英語えいごでdiary,ドイツでTagebuch,フランス語ふらんすごではjournalという。年代ねんだい修道院しゅうどういん教会きょうかいでカロリングあさ以前いぜんからかれ,治世ちせいしゃ貴族きぞくかせたが,15世紀せいきからさかんになり,このころから日記にっきあらわれはじめた。これは商人しょうにん階級かいきゅう台頭たいとういつにしている。1405ねんから49ねんあいだつけられた《パリいち市民しみん日記にっき》が現存げんそんするもっとふるいものである。16世紀せいきはいるとフランスおうフランソア1せいだい法官ほうかんデュプラの秘書ひしょジャン・バリヨンJean Barillonの《目録もくろく》(1515-21),もうひとつの《パリいち市民しみん日記にっき》(1519-30),パリ高等法院こうとうほういんのベルソリNicolas Versorisの《日計にっけい簿》,ピエール・ド・レストアールPierre de l'Estoileの《アンリ3せい日記にっき》,のちのルイ13せい侍医じいエロアールの《日記にっき》,モンテーニュの《たび日記にっき》,またイタリアではマキアベリの《日記にっき等々とうとうがある。中世ちゅうせい日記にっき存在そんざいした可能かのうせいもあるが,市民しみん階級かいきゅう台頭たいとうした15世紀せいきからおおくの日記にっきのこされていることは注目ちゅうもくあたいする。17世紀せいき後半こうはん貴重きちょう生活せいかつ記録きろく6かん(1660ねん1がつ1にち~69ねん5がつ31にち)を暗号あんごうのこしたイギリスのS.ピープス当時とうじ新興しんこうブルジョアジーにぞくすることも示唆しさてきである。17世紀せいきのフランス貴族きぞく社会しゃかいでもアルノー・ダンディイArnauld d'Andilly,オリビエ・ル・フェーブル・ドルメソンOlivier le Févre d'Ormesson,ダンジョー侯爵こうしゃくMarquis de Dangeauらの日記にっきがあり,18世紀せいきのマティユ・マレ,バルビエらの日記にっき継承けいしょうされる。18世紀せいきには貴族きぞく社会しゃかい批判ひはんてき観察かんさつからラ・ブリュイエールの《ひとさまざま》がまれ,サン・シモンの膨大ぼうだいな《回想かいそうろく》がのこされた。18世紀せいきまつにはルソーの《告白こくはく》《孤独こどく散歩さんぽしゃ夢想むそう》が内面ないめん観照かんしょうみちをひらき19世紀せいき日記にっき隆盛りゅうせいおおきく寄与きよした。モンテスキューの《ノート》と16世紀せいきのレオナルド・ダ・ビンチの《手帖てちょう》も公刊こうかんされた(1797)。

 このころにこったイギリスの産業さんぎょう革命かくめいとフランス革命かくめいによる社会しゃかい変動へんどう階級かいきゅう制度せいど改変かいへん個人こじん社会しゃかいあいだ緊張きんちょう状態じょうたいをもたらし,この結果けっか,19世紀せいきから20世紀せいき前半ぜんはんにかけて個人こじん内面ないめん生活せいかつしる日記にっき急増きゅうぞうした。小説しょうせつ隆盛りゅうせいいつにしている。小説しょうせつちゅうにも17,18世紀せいきの〈手紙てがみ〉にわって〈日記にっき〉〈手記しゅき〉〈手帖てちょう〉があらわれるようになり,女性じょせい自立じりつとともにヨーロッパでは女性じょせい日記にっきけるようになった。ピープスは自分じぶん日記にっきをつけながらつま日記にっきをつけることをゆるさずやぶっている。フランス革命かくめいまえ女性じょせいいたのはセビニェ夫人ふじん代表だいひょうされるように〈書簡しょかん〉であった。J.サンド,K.マンスフィールド,ドロシー・ワーズワース(詩人しじんいもうと)らの日記にっき有名ゆうめいである。絵本えほんられるベアトリス・ポッターにも暗号あんごういた日記にっきがある。スタンダール,コンスタン,ミシュレ,ビニー,サンド,ロビンソンHenry Crabb Robinson,グリルパルツァー,ヘッベルらロマンてき傾向けいこう詩人しじん作家さっか日記にっき不可分ふかぶん関係かんけいとなった。19世紀せいきからの出版しゅっぱん多様たようから,日記にっき公刊こうかん可能かのうせい意識いしきするようになった。

 宗教しゅうきょうじょう自己じこ反省はんせいとしての日記にっきはメソディストおこしたJ.ウェスリー,ピューリタンのJ.ウィンスロップ,マザーCotton Mather,シューワルSamuel Sewallらのが重要じゅうようで,内心ないしん観照かんしょう伝統でんとうはエマソン,ソロー,ホイットマンらにがれ,明治めいじ日本にっぽんにもおおきな影響えいきょうあたえた。文壇ぶんだん生活せいかついたゴンクールの日記にっき,ロシアの少女しょうじょバシュキルツェフの日記にっき,スイスのアミエルの1まん6990ページの膨大ぼうだい自己じこ観照かんしょうてっした日記にっきわすれられない。20世紀せいきには公刊こうかん意識いしきしながらかれたレオトー,ジッドの日記にっきのほか,J.グリーン,F.モーリヤック,G.マルセル《形而上学けいじじょうがくてき日記にっき》などカトリック作家さっか日記にっき重要じゅうようであり,ジュアンドーMarcel Jouhandeauの21かんの《にちろくJournaliers》,日課にっかとしてかれたバレリーの《ノートCahiers》32かんなどの記録きろくは,日記にっき概念がいねん変化へんかしていることをしめしている。
日記にっき文学ぶんがく
執筆しっぴつしゃ

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん日記にっき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

日記にっき
にっき
diary

日々ひび出来事できごと行動こうどう記録きろくしたもの。漢文かんぶんによる日次にちじには,官庁かんちょう記録きろく公家くげ行事ぎょうじ記録きろくおもとした日記にっきなどがあり,『万葉集まんようしゅう』にみる大伴家持おおとものやかもち家集かしゅうは「うた日記にっき」というべきもので,文学ぶんがくてき日記にっき先駆せんくであり,円仁えんにんの『入唐にっとう求法ぐほう (にっとうぐほう) 巡礼じゅんれいぎょう』などはたび日記にっきとして文学ぶんがくてきにもすぐれている。西洋せいようではすでにローマ時代じだいから日記にっきをつける習慣しゅうかんがあった。しかし文学ぶんがくとしての価値かちをもつ日記にっきには,筆者ひっしゃ個性こせいのおもしろさが要求ようきゅうされる。 17世紀せいき後半こうはんのイギリスの官僚かんりょう S.ピープスの日記にっき王政おうせい復古ふっこ世相せそう写実しゃじつてきえがいており,個性こせいてきめん強調きょうちょうされると H.アミエルの日記にっきのように内省ないせい思索しさく中心ちゅうしんとしたものとなる。日本にっぽん場合ばあいひとつのジャンルとして「日記にっき文学ぶんがく」があり,筆者ひっしゃ女性じょせい仮託かたくしてかれた紀貫之きのつらゆきの『土佐とさ日記にっき』をはじめとして『蜻蛉とんぼ日記にっき』『和泉式部いずみしきぶ日記にっき』『紫式部むらさきしきぶ日記にっき』『更級さらしな日記にっき』『讃岐典侍さぬきのすけ (さぬきのすけ) 日記にっき』など平安へいあん時代じだい女流じょりゅう日記にっきや『べん内侍ないし (べんのないし) 日記にっき』『十六夜いざよい日記にっき』『とはずがたり』など,しゅとして中世ちゅうせい作品さくひんをさす。これらは事実じじつ記録きろくとしての日記にっきとはことなり,自己じこ告白こくはくてき自伝じでん文学ぶんがくとしての特徴とくちょうをもつ。

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日記にっき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

日記にっき
にっき

日々ひびのできごとや感想かんそう毎日まいにちしるしたもの。「にき」ともみ、日次にちじ(ひなみ)にちろく(にちろく)などともいう。日本にっぽん文献ぶんけん史料しりょうとしてあつかわれるものにたいしては、狭義きょうぎ記録きろく同義どうぎもちいられる。古文書こもんじょなら重要じゅうよう史料しりょうである。

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普及ふきゅうばん どおり日記にっき」のみ・字形じけい画数かくすう意味いみ

日記にっき】につき

日誌にっし。〔ろうがくあん筆記ひっきさん魯直に日記にっきり。これれをいえじょうと曰ふ。むべしゅういたるもくことを輟(や)めず。~だかむね此のしょほんおおいにこれれをあいし、あんおけけり。

どおり」の項目こうもく

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア日記にっき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

日記にっき【にっき】

日記にっき文学ぶんがく

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち日記にっき言及げんきゅう

記録きろく】より

日本にっぽん文献ぶんけん史料しりょういち分野ぶんや用語ようご著作ちょさくぶつである典籍てんせきや,おのれの意思いし用件ようけんなどを相手あいてつたえる目的もくてきかれたものを文書ぶんしょ(もんじよ)とよぶのにたいし,原則げんそくとして自己じこ(近親きんしんしゃあるいは所属しょぞく機関きかんなどもふくむ)の備忘びぼうのためきとめたものを記録きろくといい,しゅとして日記にっきるいがこれに該当がいとうする。この意味いみの〈記録きろく〉のかたり用例ようれいは,すでに8世紀せいき養老ようろう職員しょくいんれい内記ないき職掌しょくしょうについて,〈御所ごしょ記録きろく〉のことをつかさどるべしとえ,のちの内記ないき日記にっきにつながるものとおもわれるが,諸家しょか日記にっきして〈記録きろく〉と明記めいきしたれいには,《花園はなぞのいん宸記》の記事きじがある。…

※「日記にっき」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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