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藤原秀郷(フジワラノヒデサト)とは? 意味や使い方 - コトバンク

藤原ふじわらしげるきょうみ)フジワラノヒデサト

デジタル大辞泉だいじせん藤原ふじわらしげるきょう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ふじわら‐の‐ひでさと〔ふぢはら‐〕【藤原ふじわらしげるきょう

平安へいあん中期ちゅうき東国とうごく武将ぶしょう俗称ぞくしょうたわら藤太とうたたわらとうた平将門たいらのまさかどらん平貞盛たいらのさだもりとともに平定へいていし、下野げやもり武蔵むさしもりとなる。小山こやま結城ゆうきなどはその子孫しそん百足むかでむかで退治たいじ伝説でんせつでもられる。なま没年ぼつねんしょう

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ふじわら‐の‐ひでさと【藤原ふじわらしげるきょう

  1. 平安へいあん中期ちゅうき武将ぶしょう左大臣さだいじんぎょめい子孫しそんという。ちち下野げやだいじょうむらゆうはは下野げやじょう鹿島かしまむすめひらた将門まさかどらん平貞盛たいらのさだもりとともに将門まさかどほろぼし、こうによって下野げやもりとなる。子孫しそん東国とうごく地方ちほう繁栄はんえいし、亘理わたり小山こやま結城ゆうき下河辺しもこうべ足利あしかがなどの諸氏しょしとなった。ぞくたわら藤太とうたばれ、近江おうみ三上山さんじょうさん百足むかで(むかで)退治たいじ伝説でんせつたわら藤太とうた絵巻えまき」によって有名ゆうめいなま没年ぼつねんしょう

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藤原ふじわらしげるきょう (ふじわらのひでさと)

平安へいあん中期ちゅうき関東かんとう武将ぶしょうなま没年ぼつねんしょうちち下野げやだいじょうむらおんどりはは下野げやじょう鹿島かしまむすめという。下野げや土豪どごうとして勢力せいりょくるい,916ねん延喜えんぎ16)に一族いちぞく17にんとともに配流はいる,そのも濫行(らんぎよう)があってただすかんきゆうかん)された。平将門たいらのまさかどらんこると,940ねんてんけい3)2がつ下野げやじょう押領使として下総しもうさ出陣しゅつじん将門まさかどったこうによりしたがえよん下野げやもりなどににんじられ,源経基みなもとのつねもと平貞盛たいらのさだもりらとともに軍事ぐんじ貴族きぞくとして中央ちゅうおう進出しんしゅつするみちをひらいた。せんはれ安和やすかず(あんな)のへんして中央ちゅうおうからは後退こうたいするが,子孫しそん小山こやま足利あしかが亘理わたり諸氏しょしとして北関東きたかんとうから東北とうほく地方ちほうひろまった。
執筆しっぴつしゃ

しゅうきょう超人ちょうじん将門まさかどたおした勇士ゆうしとして英雄えいゆうされ,さまざまな伝説でんせつがつくりされた。たとえば《吾妻あづまきょう》には,将門まさかど反乱はんらんくわだてたとき,そのようすをさぐるため,しゅうきょういつわってもんきゃくになりたいともうれたところ,よろこんだ将門まさかどがくしけずっていたかみたばねず対面たいめんしたので,軽率けいそつさを見抜みぬいたというエピソードをつたえているが,室町むろまち時代じだいになると,しゅうきょう御伽草子おとぎぞうし主人公しゅじんこうとして《たわら藤太とうた物語ものがたり》(別名べつめいたわら藤太とうた草子ぞうし》)などに登場とうじょうし,めざましい活躍かつやくせる。しゅうきょう弓矢ゆみや名手めいしゅとしてそのられていたが,ある瀬田せたきょううえよこたわる大蛇おろちをおくせずにまたいでとおったことから,その大蛇おろち化身けしんした竜神りゅうじん武勇ぶゆう見込みこまれ,三上みかみやまくうだい百足むかでおおむかで)を退治たいじすることを懇望こんぼうされる。そして百足むかで退治たいじ謝礼しゃれいとして黄金おうごん太刀たちよろいとをあたえられ,これによって朝敵ちょうてき追討ついとうすれば将軍しょうぐんになるとげられる。その予言よげんどおり,しゅうきょう竜神りゅうじんたすけによって将門まさかど秘密ひみつ見破みやぶることができ,首尾しゅびよくこれをちとるというのが,そのあらすじだが,この物語ものがたりは《たわら藤太とうた絵巻えまき》などの絵巻えまきにもつくられ,おおいに流布るふした。
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア藤原ふじわらしげるきょう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう【ふじわらのひでさと】

平安へいあん中期ちゅうき東国とうごく豪族ごうぞく下野しものまもる(しもつけのかみ)。なま没年ぼつねんしょう下野げや押領使(おうりょうし)となって勢力せいりょくり,てんけい(てんぎょう)のらんには平貞盛たいらのさだもりとともに平将門たいらのまさかど(まさかど)をたおし,子孫しそん東国とうごくひろがった。後世こうせい伝承でんしょうではたわら藤太とうた(たわらとうだ)と俗称ぞくしょうされ,近江おうみ三上みかみ(おうみみかみ)やまムカデ退治たいじ伝説でんせつ有名ゆうめい
関連かんれん項目こうもく奥州おうしゅう藤原ふじわら鬼貫おにつら西行さいぎょううけたまわひらてんけいらん将門まさかど平貞盛たいらのさだもり結城ゆうき

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)藤原ふじわらしげるきょう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう
ふじわらのひでさと

なま没年ぼつねんしょう平安へいあん中期ちゅうき関東かんとう豪族ごうぞくちちさかなめい(うおな)りゅう藤原ふじわら系譜けいふ下野げやだいじょうむらゆう(しもつけだいじょうむらお)、はは下野げやじょう鹿嶋かしま(かしま)のおんな(むすめ)とつたえる。下野げや栃木とちぎけん)の土豪どごうとしていきおいをるい、916ねん延喜えんぎ16)に一族いちぞく17にんとともに配流はいる、その乱行らんぎょうがあってただすかん(きゅうかん)されている。軍略ぐんりゃくすぐれ、平将門たいらのまさかど(まさかど)のらんこると、940ねんてんけい3)2がつ下野げやじょう・押領使(おうりょうし)として平貞盛たいらのさだもり(さだもり)らと下総しもうさ(しもうさ)北部ほくぶ茨城いばらきけん)に出陣しゅつじん将門まさかどったこうによりしたがえ(じゅ)よん下野しものまもる(かみ)・武蔵むさしもりなどににんじられ、源経基みなもとのつねもと(つねもと)、平貞盛たいらのさだもりらとともに軍事ぐんじ貴族きぞくとして中央ちゅうおう進出しんしゅつみちひらいた。せんはれ(ちはる)が安和やすかず(あんな)のへん(969)にすわ(ざ)して中央ちゅうおう政界せいかいからは後退こうたいするが、子孫しそん北関東きたかんとう奥羽おうう各地かくちひろまり、小山こやま(おやま)、結城ゆうき(ゆうき)、下河辺しもこうべ(しもこうべ)、足利あしかが(あしかが)、亘理わたり(わたり)などの各氏かくしとして発展はってんする。琵琶びわ(びわ)みずうみりゅうおんなねがいにより三上みかみ(みかみ)やまのむかでを退治たいじした説話せつわは『たわら藤太とうた(たわらとうだ)物語ものがたり』などで有名ゆうめいであり、のち文学ぶんがく演劇えんげき主人公しゅじんこうとしてひろしたしまれる。

福田ふくだ豊彦とよひこ

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん藤原ふじわらしげるきょう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう
ふじわらのひでさと

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき下野げや豪族ごうぞくたわら藤太とうたばれる。藤原ふじわらきたぎょめい子孫しそんちち下野げやだいじょうむらゆうはは下野げやじょう鹿島かしまむすめ延喜えんぎ 16 (916) ねんざいにより一族いちぞく 18にんとともに配流はいるされたが,のち赦免しゃめんされて下野げやじょう同国どうこく押領使となり,ろくじょせられた。てんけいらんおこると,常陸ひたちだいじょう平貞盛たいらのさだもりとともに,平将門たいらのまさかど下総しもふさこく幸島こうしま (さしま) にめ,てんけい3 (940) ねん2がつこれをちゅうした。同年どうねん3がつ軍功ぐんこうによりしたがえよんいで下野げやもりにんじられた。その子孫しそん東国とうごくひろがり,亘理わたり武藤むとう小山こやま結城ゆうき下河辺しもこうべなどの諸氏しょしは,いずれもしゅうきょうとする。また西行さいぎょう祖先そせんで,その事跡じせきは『将門まさかど』『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』『平家ひらか物語ものがたり』にるが,鎌倉かまくら室町むろまち時代じだいにはむかで退治たいじ英雄えいゆう伝説でんせつ主人公しゅじんこうとして,『太平たいへい』『たわら藤太とうた物語ものがたり』にえがかれている。

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ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん藤原ふじわらしげるきょう」の解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう

生年せいねんなま没年ぼつねんしょう
平安へいあん中期ちゅうき東国とうごく武将ぶしょう下野げやもりむらゆう鹿島かしまむすめ相模さがみこく田原たはら領有りょうゆうしたことからたわら藤太とうたばれる。代々だいだい下野げやこく(栃木とちぎけん)に勢力せいりょく扶植ふしょくし,延喜えんぎ16(916)ねんには一族いちぞくともつみながされたこともあるが,のちに下野げやこくの押領使にんじられた。平将門たいらのまさかどらんでは将門まさかどから助力じょりょくもとめられたが,その軽率けいそつ態度たいどをみておうじず,平貞盛たいらのさだもり味方みかたして,てんけい3(940)ねん将門まさかどった。そのこうしたがえよんあたえられ,下野げや武蔵むさしもりなどを歴任れきにんし,東国とうごく地盤じばんかためた。将門まさかどらんでの活躍かつやくは『将門まさかど』『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』などにみえるが,その勇猛ゆうもうぶりは室町むろまち時代じだいの『御伽草子おとぎぞうし』にげられ,『たわら藤太とうた物語ものがたり』としてむすぶ。大蛇おろちけた竜宮りゅうぐう女房にょうぼうたのまれて近江おうみこく(滋賀しがけん)の三上山みかみやまのムカデを退治たいじし,褒美ほうび竜宮りゅうぐうから三井寺みいでらめいかねをもらったという。佐野さの唐沢山からさわやま神社じんじゃまつられている。

(おぼろたに寿ひさし)

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デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus藤原ふじわらしげるきょう」の解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう ふじわらの-ひでさと

?-? 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき武人ぶじん
きた藤原ふじわらさかなめい子孫しそんで,下野げや(しもつけ)(栃木とちぎけん)の豪族ごうぞく平将門たいらのまさかど(まさかど)のらんさい下野げや押領使(おうりょうし)ににんじられ,てんけい(てんぎょう)3ねん(940)平貞盛たいらのさだもり(さだもり)とともに将門まさかど追討ついとうこうにより下野げや,武蔵むさし(むさし)の国守こくしゅとなり,東国とうごく勢力せいりょくをひろげた。奥州おうしゅう藤原ふじわら,小山こやま,結城ゆうき(ゆうき)らのとされる。武勇ぶゆうにすぐれ,だいムカデ退治たいじなどの説話せつわ有名ゆうめい通称つうしょうたわら藤太とうた(たわらの-とうた)。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん藤原ふじわらしげるきょう」の解説かいせつ

藤原ふじわらしげるきょう
ふじわらのひでさと

なま没年ぼつねんしょう平安へいあん中期ちゅうき武将ぶしょうさかな名流めいりゅう藤原ふじわらという。小山こやま藤原ふじわらせい足利あしかがなどのむらゆうはは下野げやじょう鹿島かしまおんなたわら(田原たはら)藤太とうたしょうする。すうだいまえから下野げやこく土着どちゃくし,しゅうきょう下野げやこく本拠ほんきょ勢力せいりょくひろげた。916ねん(延喜えんぎ16)一族いちぞくとともに下野しもの国司くにじうったえられ流罪るざい。929ねん(延長えんちょう7)にも同国どうこくから乱行らんぎょううったえられた。940ねん(てんけい3)には平貞盛たいらのさだもりとともに平将門たいらのまさかど(まさかど)のらん鎮圧ちんあつほろぼした。そのこうによりしたがえよん下野げやもりにんじられ,北関東きたかんとうだい勢力せいりょくきずいた。

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藤原ふじわらしげるきょう
ふじわらのひでさと

なま没年ぼつねんしょう
平安へいあん前期ぜんき関東かんとう武将ぶしょう
たわら藤太とうた (たわらとうた) とばれた。下野げや (しもつけ) 押領使。940ねん平貞盛たいらのさだもりとともに平将門たいらのまさかど (まさかど) のらん鎮定ちんていこうにより下野げやもりにんじられた。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち藤原ふじわらしげるきょう言及げんきゅう

平将門たいらのまさかどらん】より

…ともあれ東西とうざい兵乱へいらんという危機きき直面ちょくめんした政府せいふは,じゅんともしたがえじょしてその懐柔かいじゅうをはかるとともに,地方ちほう領主りょうしゅたちに恩賞おんしょう約束やくそくして追討ついとうへの参加さんかうったえるかんはっした(《本朝ほんちょうぶんいき所収しょしゅう)。またさだもり良兼りょうけんおおやけみやびおおやけれんなど将門まさかど対立たいりつしていたたいら一族いちぞくをはじめ,従来じゅうらいしばしば追討ついとう対象たいしょうとしてきた藤原ふじわらしげるきょうらのぐんとうてき領主りょうしゅたちを押領使(つい凶賊きょうぞく使)などとして登用とうようし,940ねん2がつ初旬しょじゅんには,藤原ふじわら忠文ただふみせい東大とうだい将軍しょうぐんに,藤原ふじわらただし舒,源経基みなもとのつねもとらをふく将軍しょうぐん任命にんめいして出征しゅっせいさせた。しかし将門まさかどは,せいひがしぐん関東かんとう到着とうちゃく以前いぜんの2がつ14にちに,下野げや藤原ふじわらしげるきょうさだもりためけんらのぐんめられ,下総しもうさ猿島さしまぐんたれた。…

※「藤原ふじわらしげるきょう」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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