新吉原遊郭で幕末の1849年、遊女16人が共謀して自らが働く店に火を付け、直後に「自首」した事件。前編では事件の裁判記録をもとに、遊女たちが置かれた過酷な環境など放火にまで追い込まれた事情に迫った。後編はまずリーダー格遊女・豊平の日記に焦点を当て、事件のきっかけとなったある出来事と、豊平の心の動きをひもときたい。そして16人に下された裁きとは――。 【牧野宏美/デジタル報道センター】
リーダー格遊女が感じた絶望
13歳で遊女になって以来、14年間奉公を続け、店で最上位の序列に上り詰めた豊平。1850年に年季が明けることになっていたが、佐吉はそれを阻止しようとたくらむ。事件の2年前の47年9月、玉芝という若い遊女が店から逃げようとしたのを捕らえた際、佐吉が玉芝にうその証言をするよう迫ったのだ。「豊平からお金をもらい、逃げるようそそのかされた」と。玉芝は当初戸惑ったが、佐吉に大きな鉄ついで頭を殴られ、苦痛のあまりうその証言をしてしまう。
翌日、佐吉は豊平に問題行為があったとして、見せしめのため、遊女全員の前で豊平に激しい暴力を加えた。
〈箱ニ懸(かけ)て其儘(そのまま)はらばいニして、弓の棒て四十五、六斗〆(ばかりしめ)それから又縄を結て、えり首や手のくびれる程箱に懸けて〆上ケて、暮方?(まで)飯も不喰、湯も茶も呑ませすニ〆つけられ、既に死ぬ所を、くやしい一心にて眼もまハさず…〉。
きつく縛りつけられはらばいにされた上、よくしなる弓の棒で40回以上殴られた。さらにえり首や手にあとがつくほど縄できつく締め上げられ、夕暮れまで湯も茶も許されなかった。このような死ぬほどの苦痛を与えられながら、くやしい一心でなんとか耐え意識を保っていた、という。結局豊平は年季を2年延長すると佐吉と約束したことで、ようやく縄を解かれる。その後、豊平は「誰にも言わないから」と玉芝に問いただし、玉芝は佐吉にうその証言を強要されたと白状する。
日記を分析した横山百合子・国立歴史民俗博物館名誉教授は豊平の心情をこう推測する。「日記からは、豊平が真相を知って絶望したことがうかがえます。身売りされた後、十数年も頑張って働き、店でトップに上り詰めた人です。おそらく劣悪な環境や、自分に問題があってせっかんされるのは仕方がないことだとある程度受け入れていたと思います。しかし、何の落ち度もないのに謀略によって不合理な仕打ちを受けることは、承服しがたい辱めだったでしょう。深く傷つくと同時に、自分の体が商品で、それにあらがうことはできないのだと改めて認識したのではないでしょうか」
別の日の日記からは、豊平の「純朴で、困った人を放っておけない人柄」も浮かび上がるという。例えば、料金が支払えず帰れない客に、自分の小遣いから食べ物を買って食べさせてあげたことが店にばれ、お仕置きを受けたというエピソードがある。横山さんは「こういう人間味のあるところが、遊女としても人気を得た原因だったのではないかと想像します。自分を裏切った玉芝に対しても、あなたが不利になるようなことはしないから、本当のことを言って、と真っすぐ迫っています。後輩の遊女たちにとっても、頼りになる存在だったと思います」。
そんな豊平だったからこそ、佐吉の仕打ちが余計に許せなかったのだろう。「もう耐えられない、という気持ちから火を付けるしかない、と心に決めたのでしょう」。16人の中には、豊平を裏切ったはずの玉芝も入っていた。
遊女たちが日記を書いた理由
遊女たちは営業用に客への手紙を書くことはあったというが、日々の生活をこれほど詳細に記録していることに驚く。なぜ遊女は日記を書いたのだろうか。
横山さんはまず、日記で使われた文字や文体に着目する。唯一直筆のものが残っている桜木の日記「おぼへ長」をみると、つたない文字でほぼひらがなで書かれており、「~し、それから~、それから~」という風に時系列に起きた出来事を単純につないだ文章になっている。「~なので」「しかし」など文と文を論理的に接続する語は少ない。そして近世の文書には珍しく、話し言葉が多用されていた。これらの特徴から言えることは何だろうか。
「貧しさなどから読み書きを学ぶ機会が少なかった遊女たちが日々のことを書き残したのは、それ以外の方法で自分たちが置かれた現実や感情を表現するすべを持たなかったからではないかと考えています。命の危険を感じるような暴力や金銭的な負担など、常に緊張を強いられる環境の中で、日記は思いを吐き出し、精神の安定を保つための切実な行為だったのではないでしょうか」。そしてこう続けた。「文章にすることで少し気持ちが楽になったり、それを後で読み返すと自分を客観視できたりしますよね。もしかしたら、現代人がSNSで思いをつぶやく行為と似ているのかもしれません」
前編で述べた通り、新吉原遊郭では暴力による支配を容認するルールが存在するほど遊女は厳しく管理されていたが、横山さんら…