南北戦争後の米国で習慣化したチップ。そこには、賃金を低く抑えたいという雇用者の意図もあった。反対する声もすぐに上がったが、チップはあらゆる反発を生き延びてきている。(PHOTOGRAPH BY THOMAS DASHUBER, VISUM CREATIVE/REDUX)
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ここ数年間で、米国のチップ事情は複雑になっている。タッチスクリーンが浸透したことで、コーヒー1杯からチョコレートバーまで、あらゆるものに18%、20%、22%といったチップを支払いやすくなったからだ。一方で、著名なレストランの店主たちが先頭に立って、チップを廃止しようとしているという報道もある。今、チップの習慣は大きな節目に差しかかっているようだ。
ただし、米国のチップの歴史には、これまでにも大きな節目のようなものがたくさんあり、チップはそのすべてを生き延びてきた。米国にチップを持ちこんだのは、南北戦争後に、世界を旅行した米国人たちだ。そしてチップは、最強の外来種のごとく広まり、根絶を目指すあらゆる努力をはね返している。
チップという自発的に追加でお金を渡す奇妙な習慣は、レストラン業界を中心として米国に広く根づいている。なぜこれほどしぶとく残るのかについて、学者の間では今も論争が続いているが、チップは今後も長く続くだろうという見方がほとんどだ。(参考記事:「培養肉について知っておきたいこと、レストランで提供開始、米国」)
チップはどのようにして生まれたのか
チップの起源は、中世後期に英国貴族が使用人に渡した「ベール」と呼ばれる少額の金銭(心付け)だ。当初、これは追加の労働に対する謝礼や、苦しいときの援助が目的だった。
18世紀になると、地方の邸宅や宿屋の使用人などが、この心付けを日常的に求めるようになった。それに対する不満は、そのころから聞かれたという。
しかし、チップと社会についての著書がある文化史家のケリー・シーグレーブ氏によると、米国でチップの習慣が広まったのは南北戦争後のことだ。この時期、ヨーロッパに旅行に行く米国人が大幅に増えたうえ、「金ぴか時代」と呼ばれる活況を受けて裕福になった米国人たちが、貴族の慣習を米国に持ちこむようになった。
チップを使って賃金を低く抑えようとする雇用者もいた。特に知られているのが、鉄道の車両製造や運行を手がけていたプルマン・パレス・カー・カンパニーだ。この会社は、チップをもらっているからという理由で、ポーター(荷物運搬人)には生活費を下回る賃金しか支払わないことを公言していた。
米国でチップの習慣が広まったことには、人種差別が関連しているという議論もある。プルマンのポーターはすべて黒人で、低賃金の一因に人種差別があったことは間違いない。
人種差別は当時の米国社会で横行していたが、チップを渡すことが人種差別に当たると考えられていたかどうかは、定かではない。そのため、人種差別とチップとの関連性も不透明だ。この時期、チップを受け取っていた白人労働者も多いうえ、シーグレーブ氏によると、米国南部の白人が黒人労働者にチップを渡すことを拒否した事件もあった。(参考記事:「国の礎を懸命に築いたのに 鉄路を築いた中国人:過去から続く米国の今」)
最初のチップ反対運動
米国にチップが広まりはじめると同時に、反対意見も広まりはじめた。19世紀後半から20世紀前半にかけてのジャーナリストには、チップは非米国的だとする意見が多かった。チップ自体が、社会的に階級が低い人に対して与えられるものであり、民主主義の価値観に反するという理由からだ。特に懸念されたのは、夏休みのアルバイトでチップを受け取る大学生で、それが「奴隷根性」とみなされた。
末端の労働者はチップで利益を得ていたにもかかわらず、労働者団体もチップの習慣に反対した。その結果、1915年にアイオワ、サウスカロライナ、テネシーの各州でチップが禁止されるなど、20世紀の初め頃には、チップ反対運動はある程度の成果を収めることになった。(参考記事:「そもそもなぜ1日8時間、週5日、週40時間労働が標準的なのか」)
次ページ:痛烈な批判にもかかわらずチップ先進国に
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