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「正」対「善」 2005年04月05日 | 大和総研 | 山中 真樹

ただしたいぜん

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2005ねん04がつ05にち

  • 山中やまなか 真樹まさき

1980年代ねんだいから90年代ねんだいにかけ、アメリカの政治せいじ思想しそう公共こうきょう哲学てつがく領域りょういきにおいて「リベラル-コミュニタリアン論争ろんそう」とばれる熾烈しれつ議論ぎろんがあったことをご存知ぞんじであろうか。英語えいごけば“liberal”と“communitarian”、和訳わやくすれば「自由じゆう主義しゅぎしゃ)」と「共同きょうどうたい主義しゅぎしゃ)」といったところであろう(ただどちらの言葉ことば日本語にほんごのニュアンスとはややことなるので以下いか片仮名かたかな表記ひょうきとする)。この両者りょうしゃ論争ろんそう論点ろんてん多岐たきにわたるのであるが、つきつめてえば「ただし」と「ぜん」とのどちらを優先ゆうせんすべきなのかをうたものである。

リベラル・サイドは、国家こっか社会しゃかいといった公的こうてき領域りょういきにおいては「ただし(right=権利けんり)」の充足じゅうそくさい優先ゆうせんとすべきであると主張しゅちょうする。そしてなにを「ぜん(good)」とするかは各人かくじん価値かちかん問題もんだいであって、国家こっか社会しゃかいがその選択せんたく介入かいにゅうすべきではないとする。つまり、「ただし」は「ぜん」の前提ぜんていであり、「ただし」を「ぜん」に優先ゆうせんさせるべきだとのかんがかたである。

一方いっぽう、コミュニタリアン・サイドは「ただし」を「ぜん」に優先ゆうせんさせるべきではない、すくなくとも「ただし」と「ぜん」をはなすことはできないと主張しゅちょうする。人間にんげんはリベラルがうような抽象ちゅうしょうてき存在そんざいではなく、国家こっか社会しゃかいなかきる存在そんざいであり、コミュニティや共通きょうつうぜん重視じゅうしすべきだととなえる。

具体ぐたいてき単純たんじゅんしていえば、前者ぜんしゃ国家こっか個人こじん権利けんり保障ほしょうすることが肝要かんようであって、あとは個人こじん金儲かねもうけなり慈善じぜん活動かつどうなりみずからが「ぜん」とかんがえることをすればよいというもの。後者こうしゃは、市民しみんてき美徳びとくといった共通きょうつうぜん実現じつげん目指めざ各人かくじんぞくするコミュニティを尊重そんちょうしていくというものである。

ところで、ここもと証券しょうけん市場いちばにおいて耳目じもくあつめたいくつかの出来事できごとめぐ各種かくしゅ言説げんせつも、抽象ちゅうしょうすれば上記じょうきただしたいぜん」の対立たいりつ帰着きちゃくするようにうけられる。その意味いみでは、現下げんか問題もんだいたんなる「会社かいしゃだれのもの?」といったじゅん経済けいざいてきなものだけではなく、政治せいじがくてき公共こうきょう哲学てつがくてき課題かだいでもあり、日本にっぽんというくにのありさまわれているのである。国民こくみんてき議論ぎろんふかまりを期待きたいしたい。

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