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商鞅 - 維基大典 とべいたり內容

しょう

ぶん維基大典たいてん
しょう鞅像

しょうくんものまもるこれしょ庶孽公子こうし也,めいせい公孫こうそん,其祖ほんひめせい也。やくなまはためぐみおおやけねん。鞅少このみけいめいまなべことたかしそうおおやけ叔座ためちゅう庶子しょしおおやけ叔座其賢,及進。かいびょうめぐみおうちかし往問びょう,曰:「おおやけ叔病ゆう不可ふかいみなはた社稷しゃしょくなに?」おおやけ叔曰:「ちゅう庶子しょし公孫こうそん鞅,ねん雖少,ゆう奇才きさいねがいおう舉國而聽。」おう嘿然。おう且去,へいじんげん曰:「おうそく聽用鞅,必殺ひっさつれいさかい。」おう許諾きょだく而去。おおやけ叔座召鞅しゃ曰:「いましゃおうとい以為相者そうしゃわがげんわかおうしょくもとわがほう先君せんくんしんいんいいおうそくどるよう鞅,とうころせこれおうもとなんじやまし矣,且見禽。」鞅曰:「かれおう不能ふのうようくんげんにんしんまたやすのうようくんげんころせしん乎?」そつめぐみおうすんで,而謂左右さゆう曰:「おおやけ叔病甚,悲乎,よくれい寡人以國聽公まご鞅也,あにもと哉!」

おおやけ叔既公孫こうそん鞅聞はたたかしおおやけれいこくちゅうもとめ賢者けんじゃはたおさむ繆公これぎょうひがしふくおかせ,乃遂西入にしいりしんいんこうこう寵臣ちょうしんけいかん以求こうこうこうこうすんでまもる鞅,ごと良久よしひさこうこう時時ときどきねむどる聽。やめ而孝こういかけいかん曰:「きゃく妄人みみやすあしようよこしま!」けいかん以讓まもる鞅。まもる鞅曰:「われせつおおやけ以帝どう,其志ひらけさとる矣。」にちふくもとめ鞅。鞅復こうこうえきいよいよしか而未ちゅうむねやめ而孝こうふくゆずるけいかんけいかんまたゆずる鞅。鞅曰:「われせつおおやけ以王どう而未にゅう也。請復鞅。」鞅復こうこうこうこう善之よしゆき而未よう也。やめ而去。こうこういいけいかん曰:「なんじきゃくぜん與語よご矣。」鞅曰:「われせつおおやけ以霸どう,其意ほっよう矣。まことふくわがわが知之ともゆき矣。」まもる鞅復こうこうおおやけ與語よご厀之ぜん於席也。語數ごすういやけいかん曰:「なん以中われくんわれくん懽甚也。」鞅曰:「われせつくん以帝おうみちさんだい,而君曰:『久遠くおんわれ不能ふのうまち。且賢くんしゃかく及其あらわめい天下でんかやすのう邑邑まちすうじゅうひゃくねん以成帝王ていおう乎?』われ以彊こくじゅつせつくんくんだいせつみみしかまたなん以比とく於殷しゅう矣。」

こうこうすんでようまもる鞅,鞅欲へんほうおそれ天下でんかおのれまもる鞅曰:「うたぐあるき無名むめいうたぐことこう。且夫有高ありだかじん行者ぎょうじゃかた於世;ゆうどく知之ともゆきおもんばかしゃ必見ひっけん敖於みん愚者ぐしゃやみ於成ごと知者ちしゃ於未もえみん不可ふかあずかおもんばかはじめ而可與樂ようらくなりろん至德しとくしゃ不和ふわ於俗,なり大功たいこうしゃはかりごと於眾。以聖じん茍可以彊こく不法ふほう其故;茍可以利みん循其れい。」こうこう曰:「ぜん。」あまりゅう曰:「しか聖人せいじん不易ふえきみん而教,知者ちしゃ不變ふへんほう而治。いんみん而教,不勞ふろう成功せいこうえんほう而治しゃ,吏習而民安之やすゆき。」まもる鞅曰:「りゅうこれしょげん世俗せぞくげん也。常人じょうじんやす於故ぞく學者がくしゃおぼれ於所聞。以此兩者りょうしゃきょかんもりほう可也かなり所與しょよろん於法そと也。三代不同禮而王,はく不同ふどうほう而霸。智者ちしゃ作法さほう愚者ぐしゃせい焉;賢者けんじゃさられい不肖ふしょうしゃかかわ焉。」もり摯曰:「ひゃく不變ふへんほうこうじゅう不易ふえきほうふる,循禮よこしま。」まもる鞅曰:「治世ちせい一道いちどう便びんこく不法ふほういにしえたけ循古而王,なついん不易ふえきれい而亡。反古ほごしゃ不可ふか,而循禮者れいしゃ不足ふそく。」こうこう曰:「ぜん。」以衛鞅為ひだり庶長,そつていへんほうれい

れいみんため什伍,而相まきつかさ連坐れんざつげかんしゃこしつげかんしゃあずかてきくびどうしょう,匿姦しゃあずかてきどうばっ民有みんゆう二男以上不分異者,ばい其賦。ゆう軍功ぐんこうしゃかく以率受上爵;ためわたししゃかく以輕おもけい大小だいしょう。戮力本業ほんぎょうたがやせ致粟帛多しゃふく其身。ことまつ及怠而貧しゃ,舉以ためおさむ孥。宗室そうしつゆう軍功ぐんこうろんとくためぞくせきあかり尊卑そんぴ爵秩等級とうきゅうかく以差名田なたたくしんわらわ衣服いふく以家有功ゆうこうしゃあらわさかえこうしゃ雖富しょ芬華。

れいすんでぬのおそれみん不信ふしんやめ乃立三丈之木於國都市南門,つの民有みんゆうのう徙置北門きたもんしゃじゅうきんみんかい,莫敢徙。ふく曰「のう徙者じゅうきん」。ゆういちにん徙之,輒予じゅうきん,以明欺。そつれい

れいくだり於民朞年,しんみんくにげんはつれい不便ふべんしゃ以千すう。於是太子たいしはんほうまもる鞅曰:「ほうくだりうえはん。」しょうほう太子たいし太子たいしきみ嗣也,不可ふかほどこせけいけい其傅公子こうしけん,黥其公孫こうそん賈。明日あしたしんじんみな趨令。くだりじゅうねんはたみんだいせつみち拾遺しゅういやま盜賊とうぞくいえきゅう人足ひとあしみんいさむ於公せんおびえ於私さと邑大しんみんはつげんれい不便ふべんしゃゆうらいげんれい便びんしゃまもる鞅曰「此皆らんみん也。」,つき遷之於邊じょう。其後みん莫敢れい

於是以鞅ため大良だいらづくり將兵しょうへいかこえやす邑,くだこれきょさんねん作為さくい筑冀闕宮にわ於咸はた雍徙。而令みん父子ふし兄弟きょうだい同室どうしつ內息しゃためきん。而集しょうさと邑聚ためけんおけれいすすむ,凡さんじゅういちけん為田ためだひらく阡陌ふう疆,而賦ぜいたいらひらおけ權衡けんこうたけじゃくくだりよんねん公子こうしけんふくはんやく,劓之。きょねんしんじんとみつよし天子てんし致胙於孝こう諸侯しょこう畢賀。

其明ねんひとしはいへい於馬りょうとりこ太子たいしさるころせ將軍しょうぐん龐涓。其明ねんまもる鞅說こうこう曰:「はたあずかたとえ若人わこうどゆう腹心ふくしんやまし并秦,はたそく并魏。何者なにものきょりょう阨之西にしやす邑,あずかしんかいかわ而獨擅山東之ひがしの利則としのり西にしおかせはたやまいそくあずまおさむこん以君けんきよしくによりゆき以盛。而魏往年おうねん大破たいは於齊おさい諸侯しょこうほとりいん此時ささえはた,必東徙。ひがし徙,はたよりどころ河山かわやまかた東鄉とうごう以制諸侯しょこう,此帝おうこれぎょう也。」こうこう以為しか使つかいまもる鞅將而伐使公子こうし卬將而擊ぐんすんでしょう距,まもる鞅遺しょう公子こうし卬書曰:「われはじめあずか公子こうし驩,こん俱為兩國りょうこくはたにんしょうおさむあずか公子こうし面相めんそうめいらくいん而罷へい,以安はたたかし。」公子こうし卬以ためしかかいめいやめいん,而衛鞅伏かぶと而襲とりこ公子こうし卬,よしおさむ其軍,つきやぶこれ以歸しんめぐみおうへいすうやぶ於齊おさいしんくに內空,にち以削,おそれ,乃使使わり河西かさいこれけんじ於秦以和。而魏とげやす邑,徙都だいはりりょうめぐみおう曰:「寡人恨不ようおおやけ叔座げん也。」まもる鞅既やぶかえはたふう於、しょうじゅう邑,ごうためしょうくん

しょうくんしょうしんじゅうねん宗室そうしつ戚多怨望しゃちょうりょうしょうくんしょうくん曰:「鞅之とく也,したがえはじめらん皋,こん鞅請とく交,乎?」ちょうりょう曰:「ぼくどる敢願也。あなおかゆうげん曰:『推賢而戴しゃすすむ,聚不肖ふしょう而王しゃ退すさ。』ぼく不肖ふしょう受命じゅめいぼく聞之曰:『其位而居曰貪其名而有曰貪めい。』ぼく聽君よしのりこわぼくむさぼくらいむさぼめい也。敢聞いのち。」しょうくん曰:「せつわれはたあずか?」ちょうりょう曰:「はん聽之いいさとし,內視いいあきら勝之かつゆきいいつよしおそれしゅんゆうげん曰:『卑也なお矣。』くんわかみちおそれしゅんこれどう無為むいとえぼく矣。」しょうくん曰:「はじめはたえびす狄之きょう父子ふしべつ同室どうしつ而居。いまわがさらせい其教,而為其男女だんじょべつだい筑冀闕,營如魯衛矣。かんわがはた也,孰與大夫たいふけん?」ちょうりょう曰:「せんひつじかわ如一きつねわきせんにん諾諾だくだく如一諤諤がくがくたけおう諤諤がくがく以昌,いん紂墨すみ以亡。くんわかおう乎,のりぼく請終せいげん而無誅,乎?」しょうくん曰:「かたりゆう矣,貌言はな也,至言しげんじつ也,苦言くげんやく也,甘言かんげんやまし也。夫子ふうしはて肯終せいげん,鞅之やく也。鞅將ごとまたなに焉!」ちょうりょう曰:「おっと大夫たいふ,荊之ひなじん也。聞秦繆公けん而願望見ぼうけんぎょう而無かゆ於秦きゃく褐食うしねん,繆公知之ともゆき,舉之うし口之くちの,而加百姓ひゃくしょううえしんこく莫敢もち焉。あいしんろくななねん,而東てい,三置晉國之君,いちすくい荊國わざわいはつきょうふう內,而巴じん致貢;ほどこせとく諸侯しょこう,而八えびすらいふくよし余聞よぶん,款關請見。五羖大夫之相秦也,ろう坐乘ざじょうあつちょうぶたぎょう於國ちゅうしたがえしゃじょうみさお干戈かんか功名こうみょうぞう於府德行とっこうほどこせ後世こうせい大夫たいふはた國男くにおおんな流涕りゅうてい童子どうじ歌謠かよううすしゃあいきね。此五羖大夫之德也。いまくんしんおう也,いん嬖人けいかん以為ぬし所以ゆえんためめい也。あいはた百姓ひゃくしょう為事しごと,而大筑冀闕,所以ゆえんためこう也。けい黥太師傅しふざんきずみん以峻けい積怨せきえん畜禍也。教之のりゆきみん也深於命,みんこうじょう也捷於令。いまくんまたひだりけんがいえき所以ゆえんためきょう也。きみまた南面なんめん而稱寡人,にちなわしん貴公子きこうし。《》曰:『あいねずみ有體ありていにん無禮ぶれいにん無禮ぶれいなに遄死。』以詩かん所以ゆえんためことぶき也。公子こうしけんもりもん不出ふしゅつやめはちねん矣,きみまたころせしゅく懽而黥公まご賈。《》曰:『とくじんしゃきょうしつじんしゃくずし。』此數ごとしゃ所以ゆえんとくじん也。くん也,しゃじゅうすうしたがえ車載しゃさいかぶとちから而駢おびえしゃため驂乘,もちほこ而操闟戟しゃつくりしゃ而趨。此一ぶつ不具ふぐきみかた不出ふしゅつ。《しょ》曰:『恃德しゃあきら,恃力しゃほろび。』くん危若朝露あさつゆなおはたよくのべねんえきことぶき乎?のりなん不歸ふきじゅう,灌園於鄙,すすむしんおうあらわ巖穴がんけつこれ養老ようろうそんけい父兄ふけいじょ有功ゆうこうみこと有德うとく以少やすきみなおはたむさぼしょう於之とみちょうはた國之くにゆききょう,畜百姓ひゃくしょう怨,しんおう一旦捐賓客而不立朝,はた國之くにゆき所以ゆえんおさむくんしゃあに其微哉?ほろび翹足而待。」しょうくんどるしたがえ

こうこうじゅうよんねんはたたかしおおやけそつ太子たいしりつ公子こうしけんつげしょうくんほしはんはつ吏捕しょうくんしょうくんほろびいたり關下せきしたよくしゃ客舍かくしゃ客人きゃくじん不知ふち其是しょうくん也,曰:「しょうくんほう舍人とねり驗者げんじゃすわこれ。」しょうくん喟然嘆曰:「嗟乎,ためほう斃一いたり此哉!」これじん怨其欺公子こうし卬而破どる受。しょうくんほっ他國たこくじん曰:「しょうくんはたぞくはたつよし而賊にゅうどる不可ふか。」とげ內秦。しょうくんすんでふくにゅうはたはししょう邑,あずか其徒ぞくはつ邑兵北出きたいでげきていしんはつへいおさむしょうくんころせ於鄭黽池。はためぐみおうしゃきれしょうくん以徇,曰:「莫如しょう鞅反しゃ!」とげめつしょうくんいえ

其他[]

また於《あずまあまね列國れっこくこころざし》,あずか正史せいしりゃくどう

引據[]

名言めいげんせいろく維基語錄ごろくしょう
美辭びじみょうへんろく維基文庫ぶんこしょう
聲音こわね動静どうせいろく維基どもとおるしょう