柔やわ然しか,蓋ぶた東ひがし胡えびす之の支ささえ屬ぞく也。南朝なんちょう謂いい之の芮芮,北朝ほくちょう謂いい之の蠕蠕。
柔やわ然しか之これ君きみ,姓せい郁いく久ひさ閭氏。初はつ屬ぞく拓ひらけ跋ばつ部ぶ,柔やわ然しか掠かすめ騎き有ゆう得とく一いち奴やつ,其主字じ曰木骨もっこつ閭,言げん首くび禿かぶろ也。木骨もっこつ閭與郁いく久ひさ閭聲相近すけちか,故こ後ご子孫しそん因いん以為氏し。木骨もっこつ閭既壯たけし,免めん奴やつ為ため騎き卒そつ,坐すわ罪つみ當とう斬き,亡ほろび匿漠北きた,收おさむ合ごう逋逃得とく百ひゃく餘人よにん,依よ純じゅん突鄰部ぶ。木骨もっこつ閭死,子し車くるま鹿しか會かい雄お健けん,始はじめ有ゆう部ぶ眾,自じ號ごう為ため柔やわ然しか。魏ぎ太ふとし武たけ帝みかど以其無知むち狀じょう類るい於蟲,故こ貶其號ごう為ため蠕蠕。車くるま鹿しか會かい五ご世せい孫まご社しゃ崘稱しょう豆まめ伐き可か汗あせ。與あずか北きた魏たかし相あい征伐せいばつ,而與南朝なんちょう通どおり和わ。後こう境さかい西之にしの高こう車くるま國こく分離ぶんり自立じりつ,其國內傾軋きし頻しき仍。於北きた齊ひとし文宣ふみのぶ帝みかど時とき,為ため突厥所ところ滅めつ。