(Translated by https://www.hiragana.jp/)
段祺瑞 - 維基大典 とべいたり內容

だん祺瑞

收錄完備,文辭可觀,堪稱卓異。
ぶん維基大典たいてん
だん祺瑞

だん祺瑞しばいずみめいけいはし安徽あんきごうこえひと也。佩,もとあずかりゅうめいでんぜん歷任れきにん淮軍めいだんねりすべりょう。祺瑞しょうずいつかまつ,以聰さと見知みし,頗異。及祖そつぎょうがつ輾轉てんてんとう於族叔從とくとめさくぐんまくせんてのひら司書ししょ

北洋ほくようじゅうしょう

弱冠じゃっかんこういれ天津てんしん武備ぶび學堂がくどう,習炮きょ學堂がくどうおさむ讀苦つとむ學業がくぎょうかんむりしょせい官費かんぴ咨送遊學ゆうがく於德意志いしひかりいとぐちじゅうろくねん歸國きこくにんぐん械局ずい教習きょうしゅうかんきのえうま海戰かいせんはじめぐんうみ袁世凱練兵れんぺいしょう站,擢陸ぐん炮隊すべたいたけまもるみぎぐんかく學堂がくどうそう辦。凡號れいぎょうしょごと值機,せい凱所倚重ゆかりあらわめいあずか馮國あきらおうつかまつめずらし並稱へいしょう北洋ほくようさんすぐる」。

せんすべさんねんはちがつからしくびよし革命かくめいとうぐんおけぐん政府せいふすんでたけあきらふくかんよりどころかんこうきよし惶。九月くがつ,乃起凱為みずうみこう總督そうとくとく辦剿なで節制せっせい長江ながえ水陸すいりくかくぐん。祺瑞またちょう遷之,みことのりれいしょ江北こうほく提督ていとく總統そうとうだいぐんきょうこくあきらせん於灄こう水陸すいりく夾擊きょうげきれんおちいかんこうかんゆび日下くさかたけあきらとしでん數日すうじつせい凱懷しん,遽令とまおさむ,藉此はい總理そうり內閣大臣だいじん,祺瑞だいみずうみこう總督そうとく

みんこくすんでりつあらため西曆せいれきもとつき,祺瑞そう曰:「側聞そくぶん共和きょうわ思想しそう近來きんらい將領しょうりょう頗有勃勃ぼつぼつ不可ふか遏之ぜい。」じゅうにち連署れんしょよんじゅうろくしょう,致內閣だいそうでん曰:「きよしあせだいごう,請明くだ諭旨ゆしせんしめせ中外ちゅうがいたてじょう共和きょうわ政體せいたい。」きよし廷震こわ隆裕たかひろふとしきさきかたなずらえみことのりむね不發ふはつ仍拖ふく急電きゅうでん曰:「共和きょうわ國體こくたいはら以致くんしゅん,拯民於水,仍因さん王公おうこうじょう阻撓,以至おんむね頒,萬民ばんみん受困。現在げんざい全局ぜんきょくおびえ四面楚歌しめんそか……こと於今,乃並皇太后こうたいごうすめらぎじょう欲求よっきゅう一安富尊榮之典,四萬萬人欲求一生活之路而不見許。祖宗そそうゆうのう恫乎。ぶた國體こくたいいちにちこじのり百姓之兵燹凍餒死於非命者日何啻數萬。みずとうにん宇內ゆう此敗るい也,あに敢坐じょう輿こし危而すくい。謹率全體ぜんたい將士しょうし入京にゅうきょうあずか王公おうこう剖陳利害りがい祖宗そそう神明しんめいしきかん。揮淚とうしゃ,昧死上達じょうたつ。」とげうつりじょうさくへい諫狀,はてけんがつじゅうみかどへりくだくらいみことのり袁世凱とう人定じんてい國體こくたい,祺瑞またざいめいれつ

かなえかわはつ,按循やくほうまごぶん臨時りんじだい總統そうとうせい凱代。以祺みず共和きょうわくびこうはい內閣陸軍りくぐん總長そうちょうれきななにん中華民國ちゅうかみんこくねんあいだけん國務こくむ總理そうりしょ湖北こほくとくけんりょう河南かなんとくけんかたぶけあさかく

さんねんせい凱削だつかくけん,以備みかどせい。祺瑞察之,すうしん厲言。はて,以抱やましひさし,請辭かくれせい凱怡しかつとむこれはつりょう宮居みやいぜんせいあつし親王しんのうよく誅世凱,おもんばかとくだっ。祺瑞聞之,乃陰はつ京畿けいき兵亂へいらんゆかりとくめん兵亂へいらんはかりごと,僚佐じょいつきところけんじ也。すんでにん陸軍りくぐん總長そうちょう,舉為次長じちょう凱以じゅ錚狂傲,おそれ後患こうかんまことそうした祺瑞聲色こわいろ甚堅,乃屈,而深銜之。

よんねん十二月じゅうにがつせい凱篡こく,舉國聳動しょうどう蔡鍔へいおこり雲南うんなん討之,旋為しょしょうひびきおう凱視眾皆叛離,げき恚,乃延請祺みずまもるすくえ,曰:「わがろう且病,悔不聽汝ごと,致有今日きょう糾紛。」曰:「とう竭吾りょくじょうすけ。」すんでかえ參謀さんぼうこうからしきゅうことおさむりょうおうとし袁代おわりにん推牆矣。

ねんさんがつやめみかどせい,僭朝はちじゅうさんにち而敗。祺瑞通電つうでん慰告所部ところぶやすなでしゅうしょうこと得平とくひら南方みなかた各省かくしょうみなようへい自立じりつ六月ろくがつせい凱卒於京,あるすすむおさむ其餘とう,以示きれぜっ,祺瑞婉拒。おやりつ閣員かくいん紼送そう,以國喪こくそうれい時人じじんおおため詬。

逐鹿ちくろくきょうはな

はじむもとひろしまましためだい總統そうとうじょ祺瑞國務こくむ總理そうりせい悉由,而大總統そうとうふか怨之。ろくねんがつたいとく宣戰せんせんだん曰可,國會こっかい曰否,かか未決みけつ。祺瑞かげさく皖系きゅう脅迫きょうはくげんひろしいかめん其職,しょういんそう」。

めんれいすんで,祺瑞いきどお離京りきょうでんつげ各省かくしょう,凡督ぐんようだんしゃみな揭竿獨立どくりつげんひろしだい窘,きゅう召安徽督ぐんちょういさお入京にゅうきょう調停ちょうていくんひさげへいさんせん北上ほくじょう所部ところぶいち斷髮だんぱつしゃうんべんそち」,入京にゅうきょう解散かいさん國會こっかい,叩謁宮門きゅうもんえきはたごうあらため官制かんせいげんひろし棄職,ほろびはし日本にっぽん使つかいかん

くんすんでようしんみかど復辟ふくへきぐんじょう譁然。祺瑞やめ退ずさきょ天津てんしん,旋整きゅうつてげき討逆,自任じにん討逆ぐんそう司令しれいなながつ,於うましょうおこり,以だんしばたか曹錕ぶんにんひがし西にしそう司令しれい佩孚ためぜんてきそう司令しれい誓言せいげんさいみやつこ共和きょうわ。於ろうぼうやぶくんじゅうにちおさむいれ北京ぺきん溥儀ふぎ退位たいいくん遁匿らん公使館こうしかんのこ孽遂復辟ふくへきれきじゅうにち而終。

りつかえきょうふくがらこくぬのせい甚勤,而國あきらきょだい總統そうとうはちがつむかいいさお宣戰せんせん九月くがつまごぶん暫立國會こっかい任海とうみろくぐん大元帥だいげんすいよくおこりへい護法ごほうはて

ななねんはちがつだて安福やすふく國會こっかい,舉じょあきらためだい總統そうとうあらため幣制へいせいはちねんよんことおこりしょばつけい怨祺みずひかえせん舉,ぐんおこりそしこれ,祺瑞思慮しりょへいえびす可決かけつ也,乃潛籌建嫡軍。はつじきたてまつごうめいどうはかりごとたおせ,佩孚衡陽率直そっちょくぐん北上ほくじょういたりじょう,囤師討段。猝立定國さだくにぐん調しらべじゅ錚部於京郊佈ぼう激戰げきせん數日すうじつたてまつぐんまたあつさかいゆかり定國さだくにぐん饋敗,乃罷しょく劾,避居天津てんしん租界そかい

じゅうさんねんちょくたてまつせんごと再起さいき玉祥ぎょくしょう臨陣たおせほこしゅうだい總統そうとう曹錕ちゅう南海なんかい玉祥ぎょくしょうぜいほろなんまけ眾望,十一月じゅういちがつあずかちょうさく及祺みずかいめいきょう推祺みず臨時りんじ執政しっせいでん邀文入京にゅうきょうどもしょう國是こくぜしかさく霖霸せきがいひさやめ玉祥ぎょくしょうよりどころ京畿けいきぶんねりしんぐん於粵,おもんみ祺瑞しょ憑藉,雖有執政しっせい,而行事ぎょうじしたがえこころ焉。

じゅうねんはるはちこくへいかんしゅうだい沽口よくさこ撤防ごときょうみんいきどおおこり奔走ほんそう遊行ゆぎょう人心じんしん浮動ふどうむべぼう惑,祺瑞れいぐん警驅これしかまもるたい遽行彈壓だんあつ濺京はな,凡亡しゃよんじゅうなな傷者しょうしゃひゃくあまりふるえおどろき海外かいがい

祺瑞知事ちじ竟如此,きゅうかばねぜん合掌がっしょうちょう跪,なみもとしょく終身しゅうしん,以示悔懺。三月さんがつ,引咎辭職じしょく此息かげもんごう正道せいどう居士こじただだん浮屠ふと不問ふもん時政ときまさ

晚年ばんねんもりぶし

じゅういちねんにちぐん寇華,だて冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ土肥どいはら賢二けんじおもむき勸進かんじんしたがえときおう揖唐やめとうやまと,屢造糾纏。おそれ不測ふそくきょあずかへび,患之こじ中正ちゅうせいおそれ其為これしょおびえひめひとむかえ祺瑞南下なんか

翌年よくねんいちがつ悄然しょうぜんはなれ。抵南京なんきん國府こくふ凡將銜者,みなえびすそう江迎えむかえわたりいたる下關しものせき中正ちゅうせいおやかいきょうむかえせいれい。其場ぜいひろしもりじつためみんこく罕見。しるし國民こくみん政府せいふ委員いいん就。

がつ,遷居上海しゃんはい深居ふかい簡出,不問ふもん世事せじ終日しゅうじつあおとうどくいんゆうやまし中正ちゅうせい以祺みず避暑ひしょいおりやまおうげいせいてきざいもんせい於祺みず,曰:「為政いせいみちえき哉。其在はち:『維持いじ人民じんみんつつみ倡商ぎょう』。かん今時いまどきごうだつ於民。雖商ぎょうもり,而平あいだ營業えいぎょうしゃやぶそんしゃ莫不賠累。如此以往いおうくにのう乎?」またしめせおく中正ちゅうせい曰:「らくあずか好惡こうおげんつきあずかみんどうさんしょう法定ほうていかんみんあしこくきゅうきょうくによう順守じゅんしゅせいみん竟全こうひさげ倡興ひゃくぎょう四海しかいようじんふう。」ふく曰:「こん中國ちゅうごくこうざいとうしゃまた,蔣公きょ其邊也,おもんみぐんいい一等いっとう。」また曰:「中國ちゅうごくこと,壞在我見がけんふか也。」

じゅうねんそつ於滬,ねんななじゅういち遺言ゆいごんはち勿,さるれい簡。そう於北ひら西にし郊,うつりいたりまんやすおおやけ

祺瑞もと清貧せいひん寡欲かよく營資さん平日へいじつ器用きようしつみなごく卑陋ひろう。雖屢鎮顯しか四方しほうまいないのこ,毫絲とめきょかくれさらしょいれつねかし於親識。時人じじんいい其「ろく總理そうり」,ろくしゃ抽不かつ嫖不むさぼ佔也。いたりびょうあつしすすむ食肉しょくにく以養,のり以當ねんたてちかい,曰:「可也かなり肉食にくしょく不可ふか。」

晚年ばんねんゆう嗜棋弈,こうじんしょがく。嘗有僚屬吳清源ごせいげんものあずかこれ弈。ときだんやめいよいよはなかぶとせいはじめ弱冠じゃっかんさく忘年ぼうねん交。しんげん受資ひがしわたりがく弈,ほまれ昭和しょうわ棋聖きせい

為政いせいみちまたやすまたなん。其身ただしれい而行,便びんえき;其身不正ふせい,雖令したがえ曰是なんみんこくはじめはつ共和きょうわかずこうれきひゃくなんせん巇,鑿鑿人心じんしん也。しか祺瑞どくゆうさんづくりこうおわりみかどせいひらきとうきん奮今,ぬのせいつとむほどこせれき四魁尤以顯位尊,こらえ至德しとく焉。

よりどころ

  • 清史きよし稿こうせんすべ皇帝こうてい本紀ほんぎ
  • 清史きよし稿こうちょういさおでん
  • 廷燮《ごうこえだんこう年譜ねんぷ
聲音こわね動靜どうせいろく維基どもとおるだん祺瑞

收錄しゅうろく完備かんび文辭ぶんじかんこらえしょうたくこと